アフィリエイト広告を利用しています
ファン
検索
<< 2019年08月 >>
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
最新記事
写真ギャラリー
最新コメント
タグクラウド
カテゴリーアーカイブ
プロフィール
ヨリちゃんさんの画像
ヨリちゃん
プロフィール

広告

この広告は30日以上更新がないブログに表示されております。
新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
posted by fanblog

2019年08月27日

日本は後進国である 認める勇気を持とう





      




 日本は後進国である 認める勇気を持とう


            〜ニューズウィーク日本版 8/27(火) 19:49配信〜



       8-28-2.jpg

              孫氏の発言は異例(写真は2018年11月)


 薄々、感じて居た厳しい現状

 <日本は「過つて豊かだった」のでは無く、元々貧しかったのだ。事実、日本の労働生産性の順位はこの50年間殆ど変わって居ない。昔から傑出した技術大国であったと云う自らの「勘違い」に向き合わねば、日本経済はトンネルを抜ける事は出来無い>

 「日本はAI後進国」「衰退産業にシガミ付いて居る」「戦略は先輩が作ったものの焼き直しばかり」ソフトバンクグループの孫正義社長による手厳しい発言が話題と為って居る。多くの人が薄々、感じて居る内容ではあるが、公の場では慎重に言葉を選んで来た孫氏の性格を考えると、一連の発言は異例であり、事態が深刻である事を伺わせる。
 実際、日本は多くの面で先進国から脱落して居り、ココから再度、上位を目指すのは可なり難しい状況にある。私達には、日本は最早後進国に為った事を認める勇気が必要かも知れ無い。


 




 数字で見ると今の日本は惨憺(さんたん)たる状況

 この処日本社会が急速に貧しく為って居る事は、多くの人が自覚して居る筈だが、一連の状況は全て数字に反映されて居る。

  日本の労働生産性は先進各国で最下位(日本生産性本部)と為って居り
  世界競争力ランキングは30位と1997年以降では最低と為って居る(IMD)
  平均賃金はOECD加盟35カ国中18位でしか無く
  相対的貧困率は38カ国中27位
  教育に対する公的支出のGDP比は43カ国中40位
  年金の所得代替率は50カ国中41位
  障害者への公的支出のGDP費は37カ国中32位
  失業に対する公的支出のGDP比は34カ国中31位(何れもOECD)等・・・

 これでもかと言う位ヒドイ有様だ。日本は過つて豊かな国だったが、近年は競争力の低下や人口減少によって経済力が低下して居ると云うのが一般的なイメージかも知れ無いが、現実は違う。
 先程、日本の労働生産性は先進各国で最下位であると述べたが、実はこの順位は50年間殆ど変わって居ない。日本経済がバブル化した1980年代には、各国との生産性の差が多少縮まったものの、基本的な状況に変化は無く、ズッと前から日本の生産性は低いママだ。
 1人辺りのGDP(国内総生産)が世界2位に為った事もあるが、それはホンの一瞬に過ぎ無い。日本が輸出大国であると云う話も、過大評価されて居る面がある。

 2017年における世界輸出に占める日本のシェアは3.8%しか無く、1位の中国(10.6%)2位の米国(10.2%)3位のドイツ(7.7%)と比較すると可なり小さい。中国は今や世界の工場なので、輸出シェアが大きいのは当然かも知れないが、実は米国も輸出大国である事が分かる。
 驚くべきなのはドイツで、GDPの大きさが日本より2割小さいにも関わらず、輸出の絶対量が日本の2倍以上もある。


 




 日本は「過つて豊かだった」のでは無い

 ドイツは過去40年間、輸出に於ける世界シェアをホボ同じ水準でキープして居るが、日本はそうでは無い。1960年代に於ける日本の輸出シェアは可なり低く、未だ「安かろう悪かろう」のイメージを引きずって居た。1970年代からシェアの上昇が始まり、1980年代には一時はドイツに肉薄したものの、その後は一貫してシェアを落とし続けて居る。生産性や輸出シェアの数字を検証すると、一つの特長が浮かび上がって来る。
 日本は1960年代迄は敗戦の影響を色濃く残して居り、社会は本当に貧しかった。しかしオイルショックを経て、70年代の後半から日本は徐々に豊かに為り、バブル期には一時は欧米各国に近付くかに見えたが、そこが日本のピークであった。
 
 日本は「昔、豊かだったが、今、貧しく為った」のでは無く、日本は元々貧しく、80年代に豊かに為り掛かったものの「再び貧しい時代に戻りつつある」と云うのが正しい認識と言って好いだろう。
 筆者は殊更に日本を貶めたい訳では無いが、状況の認識を誤ってしまうと、処方箋も間違ったものに為ってしまう。日本は昔から貧しかったと云う厳しい現実を直視し、正面から対峙する事こそが、本当に国を愛する心だと筆者は考えている。
 冒頭でも紹介した通り、孫氏は、近年の日本企業に付いて「戦略は先輩が作ったものの焼き直しばかり」であると指摘して居る訳だが、以前の日本企業は違ったのだろうか。これに付いてもそうとは言い切れ無い部分がある。

 日本企業の本当の強みは何か?

 パナソニックと云う会社は、過つて松下電器産業と云う社名だったが、昭和の時代には、好く「マネシタ(真似した)電器」と揶揄されて居た。トヨタも今でこそ、レクサスと言ったブランド商品を出せる様に為ったが、米ゼネラル・モーターズの自動車を参考に製品の開発を続けて来たのは有名な話である。
 パナソニックに限らず、日本企業の多くは、欧米企業がヒット商品を出すと、直ぐにそれを真似して(今の言葉で言えばパクって)より安い価格の製品を出すと云うのが定番商法だった。マネシタ電器とはこれを皮肉った言葉だが、単にモノマネがダメだと云うニュアンスで、この言葉が使われて居た訳では無い事に留意する必要がある。

 「日本人にはイノベーティブな製品を発明する能力は無いが、既存製品を改良する優れた技能があり、それが日本人のパワーだ」とポジティブに捉える日本人は少なく無かった。
 当時、安値販売に邁進する日本メーカーの影響で、多くの欧米企業が倒産に追い込まれたが、国内世論は「安くて良いモノを出す企業が勝つのは当然だ」と云う雰囲気であり、路頭に迷う外国企業の社員に付いて配慮すべきだと云う声や、顧客は好いモノに対して高いお金を払うべきだと言った議論はホボ皆無であった。
 詰まり、マネシタ電器と云う言葉は100%悪い意味では無く、賢くて商売上手であると云うニュアンスが含まれて居り、寧ろ、パクり商法で利益を上げる事こそが、弱小国家が生き残る道であるとポジティブに評価して居たのだ。

 だが、バブル期を経て、社会が多少豊かに為り、日本人は自らの技術力を過信し、昔から傑出した技術大国であったと云う錯覚を持つ様に為ってしまった。この基本認識の違いが、現状維持のバイアスを強く発揮する事に為り、結果として孫氏が指摘する様に「衰退産業ばかりにしがみ付く」結果をもたらして居る。
 最早投資会社に変貌して居るソフトバンクに対しては、自らは技術を開発し無いと云う点で、常に虚業であるとの批判が寄せられて来た。だが、モノマネに代表される様に、自身ではイノベーティブな開発はし無いものの、アイデアと狡賢さ、そして行動力で勝負するのが日本企業の強みである為らば、実はソフトバンクと云うのは、典型的な日本企業と見做す事も出来る。

 日本は後進国に転落したと云う事実を謙虚に受け止め、これを逆手に取って、もっと狡猾に立ち回る企業が増えて来れば、袋小路に入った日本経済にも光明が差して来るのでは無いだろうか。



            8-28-1.jpg

               加谷珪一氏(経済評論家)   

          以上


 




 【管理人のひとこと】

 〈世界に負け無い日本の素晴らしい技術・ワザ〉・・・と言った様な内容で「日本が如何に世界的に優れて居るか」を強調するTV番組が矢鱈と目に着く様に為って久しいのだが、何故この様に同じ内容のものが次々と作られ放映されるのか・・・これは、製作者の本音なのか、又は何処からかの入れ知恵で遣らされて居るのだろうか・・・と、管理人は忌々しい思いで眺めて居たのを思い出す。
 確かに、中には世界一と称しても好い物もあるのかも知れ無い、例えば料理用の包丁とか便利な調理器具・神社仏閣等の古来からの建築技術等・・・その様な事は他の国でも色々得意な物が有る筈で、殊更「日本が凄い」と自尊し自国民に「優位性」を植え付ける必要等は何処にも見当たら無い。

 何故か、先進国中最下位の報道機関が同じ方向目線で競作を演じて居る。これは、何処か可笑しな「嫌な」感覚がする。日本は貧しく最早先進国では無い・・・との歴然とした数字を隠し、表で話題に為りそうな特殊の分野を探し出し・・・日本は豊かな国で国民も豊かで幸せな生活をして居る・・・との、大本営発表の様な画一的報道で溢れて居るのだ。
 「れいわ新選組」の山本代表の演説に有る様に、確りと現実を分析し日本の立ち位置を確認し無ければ、この様なフェイク・ニュースに踊らされた多くの国民は「偽装された豊かさ」の中身も知らず気も着かず、何時の間にかそのママ貧困へと突き落とされてしまう事に為ろう。 

 全ての(では無いだろうが)マスコミが政治を忖度し「現実から逃避する報道」を続ける限り、この様な風潮が止む事は無い。この様な報道・・・真実を報道する事が必要なのは、敗戦を迎えて知った経験を持つ我が国民へ現実の姿を隠すだけで何の利にも為ら無い。
 毎日の様に、TV等で日本の貧しさを見せ付けられるのも億劫ではあるが、フェイク・ニュースが溢れ続け現実が隠されるのは尚大変に危険だろう。それとも、既に階級的な貧富の差が確立され、この様なフェイク・ニュースに満足して居る人達ばかりなのだろうか。



 



 









ヤクザと韓国 殺しの柳川や猛牛・町井らが日韓関係裏で暗躍




  



 
 ヤクザと韓国 殺しの柳川や猛牛の町井等が日韓関係裏で暗躍



            〜NEWS ポストセブン 8/27(火) 7:00配信〜


    8-27-17.jpg

           「猛牛(ファンソ)」こと町井久之氏(共同通信社)


 〜混迷を極める日韓関係だが、遡(さかのぼ)れば戦後の両国は、禍根を残しながらも複雑な国際情勢の中で関係修復に動いた。その背後で、カネと暴力の闇社会人脈を駆使してヤクザが暗躍して居た事は〈公然の秘密〉であった。近著『殺しの柳川』で、戦後日韓関係と裏社会の蜜月を描いたジャーナリスト・竹中明洋氏が、「ヤクザと韓国」の秘史をレポートする。(文中敬称略)〜




 日韓関係の悪化に歯止めが掛から無い。韓国側による慰安婦合意の反故や、海上自衛隊の哨戒機へのレーダー照射、徴用工判決が重なり、日本政府が半導体材料の輸出規制措置を取ると、韓国側は猛反発。日本製品の不買運動が行なわれ、軍事情報包括保護協定(GSOMIA)の破棄を決定。果ては東京五輪へのボイコットを求める声すら飛び出して居る。この事態に元公安調査庁調査第二部長で、朝鮮半島情勢の専門家の菅沼光弘が嘆息する。


             8-27-18.jpg

      「好くも悪くも、日韓を裏側で結び着けた人々が居なく為った」

 菅沼が云う「結び着けた人々」とは、政治家や外交官・財界人では無い。町井久之や柳川次郎、高山登久太郎を筆頭とするヤクザだ。過つては彼等が日韓で軋轢(あつれき)が生じる度に両国の間で暗躍した。その動きの一端を紹介する。


 先ずは〈猛牛(ファンソ)〉こと町井久之。1965年の日韓国交正常化で大きな役割を果たした一人である。町井は1923年に東京に生まれたが、両親は共に朝鮮半島出身。韓国名を鄭建永(チョン・ゴニョン)と云う。身長180センチ超、体重100キロの巨躯(きょく)の持ち主で、その腕力を武器に銀座を縄張りとして頭角を現し、1500人の構成員を従える東声会の会長として東京の裏社会に君臨した。1963年には山口組三代目の田岡一雄と兄弟盃を交わして居る。


           8-27-20.jpg

            ピストル朴 朴鍾圭氏(パク・ジョンギュ)


 その町井が韓国国内で人脈を広げて行くのは、1962年の事だった。韓国で開かれた国民体育大会に町井が在日同胞チームの団長として訪韓した際、ソウルで町井等が宿泊したホテルの警備を担当したのが、後に大統領警護室長と為り、朴正煕(パク・チョンヒ)政権のナンバー2と言われた朴鍾圭(パク・ジョンギュ)だった。豪胆な性格の2人は直ぐに意気投合したと云う。(城内康伸著『猛牛と呼ばれた男「東声会」町井久之の戦後史』参照)
 射撃の名手で、気に食わ無い相手には直ぐにピストルを抜く事から「ピストル朴」と怖れられた朴鍾圭は、京都生まれで日本語も堪能。

 「俺は韓国の坂本龍馬に為る」が口癖で「カッコ好くて銀座のママに兎に角モテた」とは、朴と幾度も東京で酒席を共にした事がある在日韓国人から聞いた話だ。朴鍾圭を介して韓国の政財界に食い込んだ町井は、兄弟分だった力道山の紹介で「政財界の黒幕」と呼ばれた右翼の児玉誉士夫とも親しく為り、その児玉の伝手で自民党大物政治家の大野伴睦や河野一郎等と知己を得る。
 当時、日韓の間では長年に渉り続いて居た国交正常化に向けた交渉が暗礁に乗り上げて居た。「韓国嫌いで知られた大野を初め、自民党内に早期の交渉妥結に反対する声が多かった」(元政治部記者)
 こうした中、町井は韓国の朴正煕政権の意向を受けて、韓国側の要人と大野等を度々引き合わせ、1965年の日韓国交正常化実現の環境整備に一役買った。その前年の1964年の東京五輪では、韓国選手の渡航費用や宿泊費・機材費等を支援。1966年には韓国オリンピック委員会の委員にも為って居る。


 




 大統領の警護を依頼


              8-27-19.jpg

                  柳川次郎氏
  

 町井と同じ1923年に生まれ、大阪を拠点とした事から「東の町井、西の柳川」と並び称されたのが、柳川次郎こと梁元錫(ヤン・ウォンソク)である。日本の植民地時代の釜山に生まれ、7歳の時に母に手を引かれ海峡を渡った。終戦直後の大阪を暴力で伸し上がり、1958年に柳川組を旗揚げ。翌年には山口組の傘下に入った。
 その凶暴さから「殺しの軍団」との異名を取った柳川組は、山口組の全国進出の尖兵として関西から北陸や山陰・東海そして北海道へと勢力を拡大し、1969年に解散する迄に1700人の構成員を数えた。柳川が、韓国の政財界に食い込む様に為った切っ掛けも、矢張り「ピストル朴」だった。朴正煕政権共関わりの深い韓国人老学者が経緯を明かす。

 「1972年に朴正煕大統領が国賓として日本を公式訪問する事に為り、朴鍾圭が警視庁と警備計画を協議したのですが、天皇の警備でも遣ら無い程の厳重さを要求したそうです。朴鍾圭にすれば、それが大統領への忠誠を示すものだったのでしょう。
 日程には大阪も含まれて居たので、大阪府警とも同じ様にヤッタのですが、それでも足り無いと思ったのか、朴鍾圭は警察以外の者にも警備への協力を求めた。それが町井であり柳川だったのです」


 結局、公式訪問は取り止めと為った為、町井や柳川の出番は無かったが、これ以降、柳川は朴正煕政権との関わりを深めて行く。1974年に朴正煕政権の招きで1944年振りに韓国を訪れると、翌年には大のプロレス好きで知られた大統領の直々の依頼を受け、アントニオ猪木等新日本プロレス一行を引き連れ韓国興行を打つ。
 猪木と韓国人レスラーの大木金太郎こと金一(キム・イル)の対決をメインとした興行は、韓国の5都市を回り、何れもテレビ中継され空前の人気と為った。ソウル興行後に猪木や金一を伴って青瓦台を表敬訪問した柳川は、大統領から感謝の抱擁をされたと云う。


              8-27-21.jpg

             全斗煥(チョン・ドファン)元大統領


 1979年に朴正煕大統領は側近のKCIA部長に暗殺される。混乱の中でクーデターにより政権を奪取したのが、韓国軍の情報機関・保安司令部(ポアンサ)の司令官だった全斗煥(チョン・ドファン)だ。それ迄のKCIAに代わって対日工作を担う事に為るが、日本国内で活動する手駒が居ない。目を着けたのが柳川だった。
 「会長を我々の機関で運用して問題無いか審査したのが私だった」 ソウルで私が会ったのは、柳川を「会長」と呼ぶポアンサの元幹部だ。

 「元々会長とはKCIAが深い関係を持って居たが、我々には詳しい情報が無い。そこで生い立ちから彼に付いて調べ直したのです。ヤクザだった事は問題無い。寧ろ(韓国への)愛国心を持って居るかどうか。そこに力点を置いた審査の結果、十分に愛国者であると判断したのです」

 お墨付きを得た柳川は日本でのポアンサの工作活動を担い、その様は公安調査庁OBの菅沼をして「事実上のポアンサ駐日代表」と言わしめる程だった。大統領に就任した全斗煥の周辺とも太いパイプを作り、1983年に当時の中曽根康弘首相が日本の首相としては初の公式訪韓をした際には、その地慣らしに柳川が暗躍したとも言われる。


 




 柳川の後任に指名.

 在日韓国人が多く、又在日ヤクザも多かった大阪では、柳川の他にも触れて置くべき人物が居る。山口組三代目の田岡一雄と盃を交わし、舎弟と為った田中禄春こと韓禄春(ハン・ロクチュン)である。田中は1921年に朝鮮半島の江原道に生まれ、14歳で単身大阪に渡ると、バーのボーイ等の下積み時代を経て戦後のミナミで巨大キャバレーを幾つも経営し巨万の富を築いた。田岡の舎弟と為ったのは、愚連隊やヤクザからのミカジメ料の請求に耐え兼ねての事だったとされる。

 1966年に堅気と為るが、それ迄に築いた莫大な財産を民団の活動に寄付して民団本部の常任顧問を務めた他、大阪の御堂筋に韓国総領事館が建設された際には、建設期成会の会長と為って挙額の私費を寄付した。田中は韓国最高級の勲章に当たる無窮花(ムグンファ)章を授与されて居る。
 そして、もう一人、韓国政府と深い関わりを持った在日ヤクザが居る。前出の菅沼はこの人物と初めて会った時の事をこう振り返る。

 「1991年末に柳川次郎が亡く為って間も無い頃の事。東京の韓国大使館の武官室から連絡があったのです」


              8-27-23.jpg
            
            京都の会津小鉄会の会長・高山登久太郎氏
 
        
 用件は、ポアンサのナンバー2の将軍が訪米の帰りに日本に寄るから会って欲しいと云うものだった。指定された場所は、熱海の高級旅館。

 「行ってみると、そこには私以外にもう一人客が居た。京都からベンツを連ねて熱海の旅館に着く為り、出迎えたスタッフに気前好くチップを弾み、タチドコロに手懐けて居ました」

 その夜、ポアンサの将軍は菅沼にその男を紹介し、こう伝えたと云う「柳川の次は彼に遣って貰う」ポアンサの〈駐日代表〉を引き継いだこの男は、京都の会津小鉄会の会長・高山登久太郎である。
 会津小鉄会と言えば、幕末に京都守護職と為った会津藩主の松平容保に従った、侠客の会津小鉄こと上坂仙吉を初代とする老舗ヤクザ。その四代目の高山は、1928年に大阪市東成区に生まれた在日で、韓国名を姜外秀(カン・ウエス)と云う。

 朝鮮戦争が勃発した際に、在日韓国人による義勇軍に応募した事もある。韓国への渡航の集合場所だった東京の民団本部に到着した処で休戦と為った為、実際に戦地に赴く事は無かったが、民団中央本部の中央委員を務め、1987年の韓国大統領選挙では、全斗煥の後継である盧泰愚を資金面で支援した。


 




 民主化でヤクザが不要に.

 韓国の政権と深い結び着きを築いた在日ヤクザ達だったが、高山を最後に目立った動きは無く為る。その理由を菅沼は「民主化が進んだからだ」と指摘する。
 朴正煕を初め軍人による独裁が続いた韓国の歴代政権は、日本における情報収集や工作活動の為に暴力と云う武器を持つヤクザ達を重宝した。だが、民主化の進展は、その様な不透明な関係を許さ無く為ったのだ。KCIAやポアンサと云った情報機関が改編や解体の憂き目に遭った事も影響して居る。

 稲川会会長の清田次郎(韓国名・辛炳圭〈シン・ピョンギュ〉)・六代目山口組で統括委員長を務める極真連合会会長の橋本弘文(同・姜弘文〈カン・ホンムン〉)・六代目から分裂した任侠山口組代表の織田絆誠(同・金禎紀〈キム・ジョンギ〉)を始め、今尚組織のトップに在日は多く、その下には更に多数の在日が居る。だが、日韓関係を水面下で動かす事は無く、またそれを許す社会でも無く為った。民主化に伴う時代の必然とは言え、在日ヤクザの退場で、両国は混迷の度合いを深める事に為った。


 たけなか・あきひろ ジャーナリスト 1973年山口県生まれ。北海道大学卒業。NHK記者、衆議院議員秘書、『週刊文春』記者等を経てフリーランスに。近著に『殺しの柳川』(小学館)等。 ※週刊ポスト2019年9月6日号
              

             以上


 



 あなたはどのタイプ?ライフスタイルに合わせて宅配コースを決めよう










【埼玉知事選】まさかの自民党候補の敗北と野党共闘




 




 【埼玉知事選】まさかの自民党候補の敗北と野党共闘



          〜安積明子 政治ジャーナリスト 8/27(火) 8:00〜


        8-27-14.png

            新埼玉県知事 大野元裕前参議院議員


              8-27-15.jpg

          青島氏には自民党の有力者が続々応援に駆け付けるも……


 





 当初はトリプルスコアで自民党がリードして居たが……

 8月25日に投開票された埼玉県知事選では、立憲民主党・国民民主党・社民党の各県連が支持する大野元裕前参議院議員が、自民党と公明党が推薦するスポーツライターの青島健太氏を下して勝利した。得票数は92万3482票対86万6021票で、その差は5万7461票。前日には自民党関係者が「3万位なら、投票率次第で何とかヒックリ返せる」と述べて居たから、予想以上にその差が開いたと言えるだろう。
 しかも投票率は32.31%で、辛うじて30%台を維持した状態だ。最も前回まで3回連続で20%台だった為、埼玉県が「無関心はださいたま!!」と投票を呼び掛けた事で、取り敢えず投票率の低下に歯止めを掛けた事に為る。

 サテ今回の埼玉県知事選には、様々な論点が見えて居る。当初はトリプルスコアでリードして居た青島氏が何故途中で失速して大野氏が勝利したのか、大野氏の勝利で果たして〈野党共闘〉は勢い付くのか等だ。先ずは何故青島氏が失速し、大野氏が躍進したのかを考えてみよう。

 何故大野候補は勝ったのか

 「曲がり為りにも大野は政治家なんだよ」

 これは現地を取材して居たベテラン記者の言葉だ。確かに選挙の態様を見て居ると、大野氏は〈政治家〉だった。大野氏が主にヤッタ選挙活動は、大宮駅や浦和駅等で午前8時から午後8時迄12時間立ち続け、自ら通行人にビラを配布し政策を訴えた事だった。それが軽快な様子で極めて自然に見えたのだ。大野氏は恰も選挙を楽しんで居る様でもあった。

 選挙活動を、県の南部に在る人口が多い都市に集中した事も、無駄にエネルギーを消費せず最後迄勢いを保てた秘訣だろう。
 大野氏は川口市の出身で、祖父・元美氏は川口市長を22年間も務め、市内の自民党組織を固めた大物。今もその影響は大きく、大野氏に最初に知事選出馬を要請したのは川口市商工会議所の児玉洋介会頭だ。又奥ノ木信夫川口市長は青島陣営の決起大会等にも顔を出したが、大野氏の街宣にも積極的に参加。8月12日には浦和駅前で応援演説をした上、2時間も滞在して居る。

 更に大野氏を支持する立憲民主党の枝野幸男代表は大宮(さいたま市)を地盤とするが、川口市の人口は60万人で、さいたま市は130万人。この2市だけで埼玉県の人口730万人の26%を占める。そして大野氏自身も全県的に知名度があり、2016年の参議院選では67万6828票を獲得した。
 大野氏が敢えて県北等に足を延ばさ無かった理由を、先日の参議院選で当選したばかりの熊谷正人参議院議員が語って呉れた。

 「自民党や公明党と異なり、我々にはソモソモ北部等で動いて呉れる地方組織がありません。それよりも人口が多い南部で訴える方が効率的だと判断しました」

 一方で青島氏は「4月以来、埼玉県を3周した」と云う程動き回った。県南部では大野氏に負けるものの、人口の少ない北部や出身地である東部を丁寧に回り票を固めようとした。
 〈We are SAITAMA〉をキャッチフレーズに、少子化対策や健康政策等を訴えた。しかし青島氏の主張はどうしても抽象的なものに為り勝ちで、上田県政を継承する大野氏の主張の方が具体的で判り易いものだった。


 




 〈9・6・3の法則〉とは

 「自公の支持率を併せると、野党の支持率の合計より多い。ナノにどうして自民党の推薦候補は参議院選挙で負けたのか。その理由が判りますか」

 投開票の翌日、国民民主党の玉木雄一郎代表は筆者にこの様に問い掛けた。時事通信が8月9日から12日迄に実施した8月の世論調査では、自民党支持率は28%で公明党支持率は4.1%。合計32.1%に為る。
 方や野党は立憲民主党が5.8%で国民民主党が0.6%、日本維新の会は2.2%で共産党は2.1%、社民党0.4%、れいわ新選組は1%、NHKから国民を守る党は0.4%で、合計は12.5%に過ぎ無い。ダブル以上の差が着けられて居るのだ。しかし玉木氏によれば、野党が勝つ秘訣があると云う。

 「それは9・6・3の法則です」

 即ち、リベラルの9割・無党派層の6割・保守層の3割を獲得すれば、野党の候補が勝つと云うものだと云う。

 「その為には候補がリベラル過ぎては無党派層や保守層から票を得られ無い。今回の埼玉県知事選は、保守派の大野さんをリベラルな野党が支持したからコソ、まさにそうした票を集める事が出来たと言えるんです」

 確かに投開票日のNHKの出口調査によれば、大野氏は立憲民主党支持層の80%台後半と共産党の80%台前半を獲得し、無党派から60%近い支持を得て居る。又自民党支持層の60%台後半が青島氏を支持した事から、大野氏が30%近い自民党支持層の支持を得た事も推測出来る。
 立憲民主党等と統一会派を結成することに為った国民民主党だが、玉木氏は構想する〈野党共闘〉に付いてこう述べた。

 「野党第一党がリベラル過ぎては、国民の多数の支持を得られません。我々は立憲民主党をもっと中道に引き戻さ無いといけ無いと思って居ます」

 今回の埼玉県知事選では〈野党共闘〉は成功したと言えるだろうが、果たしてその勝利は続くのか。10月には参議院選補選が行われるが、上田知事の出馬が噂される。秋の臨時国会では日米貿易交渉が審議され、ホルムズ海峡への有志連合参加の是非に付いて紛糾するだろう。
 野党に取って「見せ場」が続くが、これ等をどの様に求心力に昇華するのか。野党に取って埼玉県知事選の勝利の美酒に酔いしれて居る暇は無い。


             8-27-16.jpg     

 安積明子氏  政治ジャーナリスト 兵庫県出身。慶應義塾大学経済学部卒。国会議員政策担当秘書資格試験に合格後、政策担当秘書として勤務。その後に執筆活動に入り、政局情報や選挙情報に付いて寄稿すると共に、テレビ・ラジオに出演。
 趣味は宝塚観劇やミュージカル鑑賞。又月に1度はコンサートや美術展に足を運ぶ。座右の銘は、幼い時から母から聞かされた「実るほど、頭を垂れる稲穂かな」「野党共闘(泣)。」「“小池”にはまって、さあ大変!ー希望の党の凋落と突然の代表辞任」(ワニブックスPLUS新書)に続き、「「記者会見」の現場で見た永田町の懲りない人々」(青林堂)を4月11日に刊行



 




 【管理人のひとこと】


 先ずは大野氏の勝利を祝福します。それにしても投票率の低さに唖然とした思いです。争点の無い選挙程有権者に取って興味の無いものはありません。それに、地方特有の何等かの争点を見い出せずに居た候補者に取っても苦しい選挙戦だった事でしょう。
 我が宮城県仙台市の市会議員選挙も同日に在ったのですが、ここも散々な低得票率であったのは云うまでもありません。残念ですがそれでも、当選落選の悲喜劇は起こります。得票率が低くても勝てる選挙を考えなくては為ら無い。選挙とは、組織票に人脈・金脈・・・と言われたものですが、一体どの様な作戦が必要なのか思い知らされます。

 我が宮城県は、自民保守系の知事が4選に挑むかの問題があるのですが、もう彼の顔には飽きてしまいました。そうです〈こち亀の巡査部長〉に瓜二つの方ですが、政治意識の低さと彼の顔がそのままダブってしまうのです。此処も矢張り、野党系の元国会議員、それも参院議員の顔の売れた人が適役なのでしょうが、どうなのでしょうか。そんな政治意識の高い人は存在しないのでしょうか・・・待ってもダメならその様な人を作らねば為らぬのでしょうが。



 



 「偏りのある食卓のメニューを見直したい・・・」
「食品添加物は気になるけれど、安心できる食材を買い集めるのは骨が折れる」
「買い物袋が重くなるのが嫌で、いつも買う量は制限している・・・」
「エコにも気を遣いたいけど、正直自分のことで精一杯!」

−そんな方へ!

カラダにも、環境にもやさしい食材宅配サービスはいかがでしょうか?

らでぃっしゅぼーやでは、安全性と素材本来の美味しさを追及し、
未来も持続可能な生産過程でつくられた食材にこだわってお届けをしています。

特に、プロが厳選した食材をバランスよくセットにしたお届け内容は、
たくさんの方からご好評をいただいています!

ぜひ一度、その"違い"をおためしセットでお味見してみてください。

▼厳選食材おためしセット 1,980円(税込・送料無料)
https://px.a8.net/svt/ejp?a8mat=35DCS4+FXXVXU+1YGO+1ZGNQR






「戦争には勝者も敗者も無い」川に人骨・・・戦時の悲惨さ知る亀井静香の原体験



 「戦争には勝者も敗者も無い」 

  川に人骨・・・戦時の悲惨さ知る亀井静香の原体験
   

       〜特集トップ Yahoo!ニュース  Yahoo! JAPAN 8/14(水) 7:30 配信〜


            8-27-13.jpg

         「川で泳ぐと、沢山の人の骨が沈んで居るんです。悲惨ですよ」


 〜広島県で終戦を迎えた元衆議院議員の亀井静香氏(82)は少年時代の記憶を語る。終戦から74年。不戦の誓いを立てた日本では、戦争を知る人達が次々と鬼籍に入り戦争の記憶は風化しつつある。現職の国会議員も殆どが戦後世代。保守系政治家としてこの国の戦後政治を見て来た亀井氏に、自身の戦争体験に付いて聞いた。山口一臣 Yahoo!ニュース 特集編集部)〜


 




 ピカッと光った後に地響き

 亀井静香氏は1936(昭和11)年に広島県山内北村(やまのうちきたそん、現・庄原市)で生まれた。県庁の在る広島市から北東に80キロ程離れた山間の村。父は村の助役、4人兄妹の末っ子で、姉2人兄1人が居た。広島に原爆が投下されたのは1945年8月6日午前8時15分。当時8歳だった亀井氏は今も鮮明に覚えて居る。

 ・・・その瞬間は、何処で何をして居たのですか?

 国民学校3年の時だったかな。当時、小学校は校庭を全部イモ畑にして、児童は皆朝からイモ畑の手入れに駆り出されて居た。夏休みなのに。食料が無かったからね。それで朝8時過ぎ、私の通って居た川北小学校は少し高台にあるんですが、山並みの向こうからピカッと空に鮮烈な光が見えたんです。アレッと思ったらデーンと地響きがして来た。
 腹の底に響く様な、途轍も無い地響きだったよ。光った後にね。ヤガテ、皆さんも知って居るキノコ雲がサァーッと立ち上ってね。それは恐ろしいと云うよりも、一体何が起きたんだろうと云う気持ちでした。アンナ光景は初めて見た。


 ・・・当時、「原爆」と云う言葉は?

 知りませんでしたよ。一体何が起きたんだろう?どうしたんだろう?って。私が生まれた山内北村は未だ村なんだけど、西側に現在の三次市(みよしし)が在った。そこが空襲で遣られたのかナぁとか、皆で噂し合って居た。ヤガテ広島に落とされたのは新型爆弾らしいと云うのが口伝に伝わって来ました。
 それから数日後ですよ。アノ光に遭った人達が、我が村にも逃げて来たのは。服も着ずに肌が露(あら)わな人、全身焼けタダレタ人、髪の毛が荒れ果てたママの人、それはもう凄まじい光景でした。


 亀井静香氏は保守派として知られた政治家だ。1960年に東京大学経済学部を卒業後、2年程のサラリーマン生活を経て警察庁に入庁。1971年、極左事件に関する初代統括責任者と為る。1977年に退官、2年後の衆議院議員選挙に出馬、初当選した。
 自民党では、運輸大臣、建設大臣等閣僚も経験したが、2005年、郵政民営化に反対して自民党を離党。2017年の衆院選に出馬せず政界を引退した。

 亀井氏は、幼い頃の郷里での体験が忘れられ無いと云う。一番上の姉は、原爆投下後の広島市内に入った事で被爆した。入市被爆である。俳人で俳誌「茜」を主宰して居た出井知恵子(いずいちえこ)さんだ。1929年生まれで、1986年に白血病で亡く為って居る。

 ・・・ご家族も被爆されたとの事ですが。

 後で判ったんだが、姉も被爆して居たんです。一番上の姉が。当時、三次の高等女学校の寄宿舎に住んで居たのですが、直ぐに広島市内に救援活動に向かったと言います。多くの女学生と一緒にね。三次から爆心地へ通い続けた。それで二次被爆に遭ってしまったのです。

 ・・・詰まり、三次に留まって居れば・・・

 広島から70キロは離れて居るからね。行か無ければ被爆は無かったんです。でも、そんな事分からんから、当時は。それで、白血球の状態が段々悪く為って、苦しんで、最後は亡く為った。三次に居れば、助かったかも知れません。

 ・・・お姉さんは、俳句を詠む人だったそうですね。

 ええ、小さな雑誌を主宰して居りました。亡く為った時に当時の広島市長が、姉が生まれた私の実家の庭に句碑を立てて呉れてね。そこにはこんな句が刻まれて居ます。

 〈白血球 測る晩夏の渇きかな〉

 白血球が増えたり減ったりして居たから、そう云う恐怖感と云う様なものを姉は俳句にしたんだと思う。「渇きかな」と云うのは喉の渇きなんだろうね。姉のクラスメートの多くは同じ目に遭ってますよ。原爆訴訟(原爆被災者が、米国の原爆投下を国際法違反とし、戦争を起こした国を相手取り損害賠償請求を起こした訴訟)を起こした友人も居る。亡くなった人も少無くないですから・・・



 




 お国の為に死ぬのが当たり前

 亀井氏が生まれた1936年は、国内では二・二六事件が起き、世界ではナチス・ドイツが存在感を増して居た時期だ。物心着いた時は、既に戦争一色。亀井氏の家にも、通って居た学校にも天皇(昭和天皇)の写真が「御真影」として掲げられて居たと云う。
 又、アメリカ兵が遣って来た時に備えて、家には竹ヤリがあった。鬼ゴッコや隠れンボと同じ位〈戦争ゴッコ〉も日常だった。必然、幼かった亀井氏も愛国少年に為ったと云う。

 ・・・矢張り、亀井さんも「天皇陛下、バンザイ」とか「鬼畜米英」とか?

 そりゃそうよ。だって、それが時代の空気だから。朝、学校に行くと、一番に天皇陛下の御真影に挨拶をする。毎日だよ。それは、忠君愛国ですから。そうで無いと「非国民」にされる。当時の天皇陛下は生き神様です。

 ・・・小学生でも、ですか?

 勿論。今の人からすれば可笑しいと思うかも知れないけれど、疑問に思う人間は居なかったと思うね。極一部にね「戦争反対」とか「このママじゃ負ける」と思っとった人が居たかも知れ無いけれど、殆どの人はみ〜んな非常に素直に、兎に角鬼畜米英でしたよ。

 ・・・それは、親とか学校の先生とかに教わるものなんでしょうか。

 教育もそうなんだけど、空気みたいなモノだから。自然にね。時代の空気を吸って居ると自然とそう為った。天皇陛下の為、お国の為に死ぬのが当たり前だと。だから私の様な子供でも、戦争に負けた事が判った時には肥後守と云う折り畳みの小刀を持って、兄貴を「一緒に死のう」って追っ掛け回した位です。でも、兄貴には逃げられちゃいましたけどね。

 川に沈む人骨

 愛国少年だった亀井氏は地元小学校を卒業すると、県内トップレベルの私立修道中学校に進学。広島市内に寄宿した。そこで又、戦争の悲惨さを目の当たりにする。

 ・・・当時の広島市内はドンな様子でしたか。

 もう原爆から4年経って居たからね、焼け野原にバラック(粗末な小屋)が一杯立って居ました。人間の生命力は凄いと思った。でもね、今でも覚えて居るんだけど、川で泳ぐと沢山の人の骨が沈んで居るんですよ。
 
 ・・・人骨ですか?

 多くの人が熱くて川に逃げて死んだから。それはモウ、夥(おびただ)しい数だったよ。それから、街にはビルがあるでしょ。そのビルの壁には人の影が映ったママ残って居る。写真機と一緒で、原爆の光で焼き付けられた人影の跡が。そう云うのがアチコチに在った。悲惨ですよ。
 段々悲しく為って、ヤガテ憤りに為って来た。何で、こんな目に遭わ無けりゃイケンのだって。それなのに、日本人は「過ちは繰り返しません」と反省ばかり。遣ったのはアメリカだよ。勝てば何でも許されるのか。そうじゃ無いでしょう。



 




 兎に角戦争は遣っちゃイカン

 「戦争には勝者も敗者も無い」と云うのが亀井氏の持論である。そして、一国のリーダーたる者、何があっても絶対に戦争への舵を切っては行けないと力説する。

 ・・・そう云う経験から、戦争は反対だと・・・

 経験の有る無しは関係無い。兎に角戦争は遣っちゃイカンのだよ。戦争には勝者も敗者も無い。それは、勝った方も負けた方も悲惨だから。アメリカだって、物凄い数の犠牲者を出して居るでしょう。そリャア、大統領は戦死し無いかも知れ無いけれど。日本の兵隊だろうがアメリカの兵隊だろうが、死ぬ事の悲惨さと云う面においては同じ。だから、戦争はしちゃイカンのです。

 ・・・しかし、当時の日本は戦争への道を突き進みました。

 極端な話、飢え死にしたって戦争はし無い方がマシです。当時の日本も、ABCD包囲網(アメリカ・イギリス・中華民国・オランダによる貿易制限措置。1940年頃から進められ、対日石油禁輸等で、日本は追い込まれて行った)等で苦しんで居たとは言え、それでも別の道を選択すべきだった。一国のリーダーは、耐えて耐えて、国民に「我慢しろ」と言わ無いとアカン。戦争する訳にはいか無いんだとね。だけど、それは大変な事ですよ。

 ・・・何故、当時の指導者はそれが出来なかったのでしょうか。
 言うは易し。当時は、国民もマスコミも「ヤレ」「ヤレ」「ヤレ」でしたからね。そう云う中で、リーダーがそうじゃ無い道を模索して、それを実行すると云うのは、並大抵の事じゃ無い。それは分かる。しかしもう二度と、そう云う道を選んでは為らんのです。

 ・・・今は戦争を知ら無い世代が国会議員の大勢と為り、戦争への理解が乏しく為った発言も見受けられます。

 難しいけど「戦争を知ら無い世代」とレッテル貼る訳にもイカンだろう。書物や口伝えで、戦争に付いて理解して居る奴も居る。それを「お前達は戦後生まれだから知っちゃオラン」って、決め着けちゃイカンよ。そんな事言ったら歴史ナンか成り立た無いですよ。
 丸山穂高議員が叩かれてたでしょ、この間。(叩くのは)「知らねえ癖に、お前、戦争、戦争と言うな」と云う感覚があるんだよ、皆。ヤッパリそれは健全な感覚ってあるからね。一方で、国会議員が一般の人よりレベルが高いナンて考えも錯覚だよ。


 ・・・国会議員の質が下がったと云う事でしょうか。

 俺は、そんな事を言う程の立場じゃ無いよ。神様じゃネエから。嫌、俺なんか、神様から見れば、程度の悪い政治家だったなと思われてるよ。只、戦争は駄目だよ。人を殺し合う。戦争って云うのは、その最たるものだ。俺は、平和主義者だぞ。だから、戦争は嫌に決まってる。人を殺すのが好きな訳ネエじゃねえか。


 




 山口一臣(やまぐち・かずおみ)ジャーナリスト。公益社団法人日本ジャーナリスト協会運営委員。株式会社POWER NEWS、株式会社テックベンチャー総研の代表取締役。元週刊朝日編集長。1961年東京生まれ、早稲田大学第一文学部卒業。


 この記事へのご感想やご意見、又は「Yahoo!ニュース 特集」で今後取り上げて欲しいテーマをお寄せください。

                   以上



 【管理人のひとこと】


 戦争に付いての話は、機会有る毎に嫌でも耳にし目に焼き付けるべきだ。特に現在の世界には、常に局地的な紛争や殺傷が日常的に続いて居る。宗教の違い宗派の違い、民族の違いに民族内での内紛や利益の対立・・・韓国と北朝鮮の様に同じ民族でありながら敵対関係を辞められ無いものもある。
 人間は争うのが本質なのかと疑いたく為り、争いの無い関係は一時のスポットで有るかの様な有り様だ。だから、絶えず人間は戦争を過剰に意識して行動しなくては為ら無い。人間の本質は争うのが本能なのだから、意識的に「戦争の悲劇」を繰り返し記憶に残し続ける事のみがその本能への抑止力に為る。

 人間をそのママ放って置けば、一定の我慢を超えると争いが収まらず何れ喧嘩に発展し、それが集団から地域、地域から国へと拡大し、大きな紛争へと繋がってしまう。我々は自分達がバカなのだと自覚し、何度戦争をしてもその悲劇を繰り返す事しか出来無い無能な生き物だと分析すべきで、それを知った上で行動しなければ為ら無いのだろう。こんな事を考えてる間に、世界の何処かでは又や人間同士の命の遣り取りが起きて居る。



 




 信州・善光寺平の味噌醸造業者の通販【マルモ青木味噌醤油醸造場】


山本太郎も信奉する 新金融理論MMTの伝道者・ケルトン教授が説く  「ジョブ・ギャランティ・プログラム」とは?




  山本太郎も信奉する 新金融理論MMTの伝道者・ケルトン教授が説く
 
 「ジョブ・ギャランティ・プログラム」とは?

     
            〜週プレニュース 8/27(火) 6:40配信〜


 




       8-27-11.jpg

 〜7月16日、東京・永田町の衆議院会館で行なわれたケルトン教授の講演会にはマスコミ関係者のみ為らず、一般人も多数参加して居た〜



 「消費税廃止!」「奨学金をチャラに!」と言った、山本太郎の「れいわ新選組」が掲げる経済政策のベースには「MMT」と云う新金融理論がある。7月16日、このMMTを世界に広めて居る経済学者、ケルトン教授が来日!都内の講演会で彼女が日本経済の窮状を救う手として紹介したのが「ジョブ・ギャランティ・プログラム」と云うMMTを基にした雇用保証政策だ。どんな政策?マジで日本経済に効くの?ジックリ解説します!

 ケルトン教授の講演会に、突撃!

 戦後2番目の低投票率が象徴する様に、白けたムードで終わった夏の参議院選挙。そんな中唯一話題を集めたのが山本太郎率いる「れいわ新選組」(以下、れいわ)と、「NHKから国民を守る党」と云う二つの新政党が比例区で議席を獲得した事だろう。
 特に、山本太郎のれいわが掲げた公約の中には「消費税廃止」「全国一律で最低賃金1500円を政府が保証」「公務員を増やして景気と地方を活性化」「必要な公共事業で国土強靱(きょうじん)化」更には「国が一人、月3万円を給付してデフレ脱却」と云った大胆な経済政策がズラリと並んだ。

 こうした主張が一部の有権者の支持を集めた一方「消費税迄廃止とか言いながら、随分と景気の好いバラマキ政策並べてるけど、財源はどーすんだよっ!」と云う厳しいツッコミもある。
 だが、そんな「批判」に対して山本太郎が主張するのが「日本は独自の通貨を発行して居て、国債も自国通貨建てだから、インフレ率(物価上昇率)が2%程度の範囲内であれば、財政赤字が拡大しても国は破綻などしない」と云う考え方だ。
 寧ろ「必要なら赤字国債を発行してでも積極的な財政政策を行ない、日本経済と国民の生活を立て直すべき!」と云うのが、れいわの訴える経済・財政政策の基本である。

 実はこれ、最近、話題の新たな経済理論「MMT(現代貨幣理論)」に、そのマンマ乗っかった主張だと言って間違い無い。但し、与野党が「財政赤字の削減」や「プライマリーバランスの黒字化」の必要性を訴えて来た様なこれ迄の国会での議論とは180度異なるMMTの主張に対して、多くの著名な経済学者も異論や批判を展開して居り、その評価は賛否両論である。
 そんな中参院選の選挙期間中にMMTの提唱者の一人として注目されるニューヨーク州立大学のステファニー・ケルトン教授が来日。7月16日、MMTに関する講演を行なった。

 そこで『週刊プレイボーイ』も同日に東京で行なわれたケルトン教授の講演と記者会見に出席してみたのだ。講演後の会見では日本経済新聞や読売新聞、ロイターと云ったマジメなメディアを差し置いて、何故か本誌が3番目に質問を許されて周囲がザワつくと云う珍事(?)もあったが、一応、教授から「ベリー・グッド・クエスチョン」と言われたのでご容赦を(汗)。


 




 「完全雇用」を実現する政策

 では、ケルトン教授の講演で何が判ったのか?MMTの根幹である「そもそも貨幣(お金)とは何ぞや?」と云う難しい理屈は置いといて、先ずはこの日、ケルトン教授が語った重要なポイントをザックリまとめてみよう。

(1)MMTは「政府が財政赤字を無視して、幾らでもお金を使って好い」とは言って居ない。飽く迄も「適正なインフレの範囲内で」が条件で、インフレが適正範囲を超えた時には金融政策は勿論の事、支出の抑制や増税で抑える。
(2)「政府の赤字は民間部門の黒字の裏返し」だと考えれば「財政赤字≒悪」では無い。寧ろ、デフレ時には積極的な政府支出を活用する事が経済政策として効果的だ。
(3)MMTの限界である「適正なインフレの範囲」や「過剰なインフレをコントロールする具体的な方法」に付いては、国や状況に依って異なるので特定の答えは無い。(☜コレが本誌の質問への答え)
(4)MMTは「財政赤字≒悪」と云う従来の考え方から離れ、より積極的で柔軟な財政政策を可能にする「発想の転換」であって、政治的にはリベラル派・保守派のどちらの立場でも活用出来る。

 ......と、マァ、概(おおむ)ねこんな感じだろうか。その上で、今回、本誌が注目したのが、ケルトン教授が講演の中で紹介した「MMTを前提とした具体的な財政政策」の一つ「ジョブ・ギャランティ・プログラム Job Guarantee Program(雇用・所得保証制度。以下、JGP)」である。
 これは「完全雇用状態」を実現する為に「働く気があるのに、仕事が無い人」を政府が無条件で雇って仕事を与え、法律で定められた最低賃金を一律に保証すると云う、これ又大胆な政策だ。

 「これにより失業率はゼロに為って、政府はその人達を公共事業や介護・保育等、社会が必要とする分野の労働力として活用出来る」とケルトン教授は言う。
 又、その際に最低賃金での雇用を保証する事で、民間の賃金水準も自動的に〈最低賃金レベル〉迄底上げされ、景気が上向けばJGPの保証する最低賃金よりも高い賃金を求めて民間へと労働力が移動するので「景気変動に対応して働く『自動調整弁』としてもJGPは非常に有効です」(ケルトン氏)と云う。

 と為ると、参院選でれいわが訴えた「全国一律! 最低賃金1500円を政府が保証」や「公務員を増やして景気と地方を活性化!」と云った政策も、このJGPに近い発想だと考えても好さそうだ。


 




 失業率の低い日本にJGPは必要か?

 因みにケルトン教授は、2020年のアメリカ大統領選に立候補を表明しているバーニー・サンダース上院議員の経済政策アドバイザーを務めて居り、同氏の政策プランの中にも、このJGPが盛り込まれて居ると云う。確かに、失業しても政府が確実に雇って呉れるのなら、誰でも最低限の仕事と収入は保証されるし、将来の失業不安から解放されれば、その分、個人消費が伸びて経済にトッテモプラスかも知れ無い。

 でも、一寸待て!最新の完全失業率(2019年6月)が僅か2.3%で、失業問題よりも「人手不足」が深刻な問題と為って居る今の日本で、ソモソモ「完全雇用」を目的としたJGPナンて必要だろうか?それに、失業者は政府が無条件に雇用すると言っても、政府にそれだけの「仕事」があるとは限ら無い。又、現実として、そんなに都合好く政府の雇用を増やしたり減らしたり出来るモノだろうか?

 「ケルトン教授が話された様な、政府による直接雇用の形でJGPを日本に適用するのは、そのママでは難しいかも知れませんね」

 そう語るのは、国内のMMT論者の一人で、今回のケルトン教授の日本招聘(しょうへい)に尽力した京都大学の藤井聡教授だ。


          8-27-12.jpg

               京都大学の藤井聡教授


 「国や地方の公務員として直接雇用する事も出来るかも知れませんが、それよりも例えば介護や保育等、社会的なニーズが高い民間の雇用に対して、政府が賃金の一部を補填(ほてん)する形で最低賃金を保証すれば『本当に必要な仕事なのに賃金が安くて人が集まら無い』と云う問題を解決出来る様に為るでしょう。
 又、全国一律で最低賃金を定めて、賃金の安い地方の不足分を政府が補填すれば、広がり続ける深刻な地域間の格差問題を是正する事に繋がります。勿論、こうした政策は『雇用保証』と云うよりは『賃金保証』ですが、JGPはソモソモ完全雇用だけで無く賃金も保証するもの。
 そしてこうした積極財政で国民全体の賃金が底上げされれば、人々の将来不安を減らして経済が上向く効果もあります。それに、公共事業や社会保障分野・文化事業でも構いませんが『社会が必要とする分野』や『この国の将来に資す分野』に対して、政府が賃金保証制度を適用する事で、単純な採算性や市場原理に委ねるのでは無く、より公共性の高い〈本当に必要な分野〉を政策的に守る為の手段にも為るのではないでしょうか」


 とは言え、これ等の政策全ては、その財源の根拠と為る「MMTが正しければ」と云うのが大前提で、その真偽に付いては、正直、シロートじゃ判断出来無い。又、政府の直接雇用じゃ無く「一部の業種を対象とした賃金保証」を行なうと為れば、当然、その対象と為る「業界」と「政治」の関係が問題に為る訳で、この国の政治の透明性や信頼性に疑念があれば、折角の財政政策が単なる利権と化してしまい兼ね無い。
 そう考えると、この日本で財政政策としてのJGPやそれに類する「賃金保証」を実際に行なうのは、決して簡単では無さそうだ。

 只、同じ様に政府が「社会的なセーフティネット」詰まり、同じ最低生活保障としてお金をバラマク政策でも、働いて居ても働いて居なくても、そして貧富の差にも関係無く一律にお金が支給される「ベーシックインカム」の考えと比べると、誰もが必ず仕事を得られて、最低賃金レベルであっても仕事の対価として政府から賃金を得る仕組みのJGPの方が、より多くの国民の納得を得易いだろう。

 この先、MMTを前提としたれいわの経済政策はどう展開されるのか? そして次の衆院選での野党共闘に向けて彼等に大きな注目が集まる中、野党各党の動きも気に為る処だ。



 




 アメリカを中心に賛否両論の嵐を巻き起こして居る新金融理論「MMT」とは?「Modern Monetary Theory」(モダン・マネタリー・セオリー 現代貨幣理論)の略称。

 米ニューヨーク州立大学のステファニー・ケルトン教授等が主唱者の、今世界で注目を浴びて居る金融理論。その中身をザックリと言うと「独自の通貨を持つ国の政府は、通貨を限度無く発行させる事が出来るので、財政赤字が幾ら膨らんでも債務不履行(デフォルト)に陥る事は無い。だから、或る程度のインフレを実現する迄、公共投資や福祉政策の充実等に、政府はドンドンお金を使う(財政拡大)べき」と云う考え方


   取材・文 川喜田 研    以上


 




 3箇所の取水地から選べる 『日本の山水』




×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。