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2019年08月12日

何故、日本は韓国より「言論の自由度」が低いのか


 

 何故、日本は韓国より「言論の自由度」が低いのか

      
        〜プレジデントオンライン 8/12(月) 9:15配信〜



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           「表現の不自由展・その後」が中止 


 




 「言論と表現の自由」が脅かされて居るのでは無いか

 8月1日から開催された「あいちトリエンナーレ2019」の中の「表現の不自由展・その後」が、言論の自由度が低いこの国に〈ふさわしい〉終わり方をしてしまった。
 2017年にトリエンナーレの芸術監督に起用されたジャーナリストの津田大介が発案し、作家の男女比を同じにしたり、社会問題を扱った作品を多くする等の試みが話題に為って居た。中でも「表現の不自由展・その後」は、次の様な趣旨で展示すると云う事もあり注目されて居た。

 「『表現の不自由展』は、日本における『言論と表現の自由』が脅かされて居るのでは無いかと云う強い危機意識から、組織的検閲や忖度によって表現の機会を奪われてしまった作品を集め、2015年に開催された展覧会。『慰安婦』問題・天皇と戦争・植民地支配・憲法9条・政権批判等、近年公共の文化施設で『タブー』とされ勝ちなテーマの作品が、当時如何にして『排除』されたのか、実際に展示不許可に為った理由と共に展示した。
 今回は『表現の不自由展』で扱った作品の『その後』に加え、2015年以降、新たに公立美術館等で展示不許可に為った作品を、同様に不許可に為った理由と共に展示する」(
公式ウェブサイトより)



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 展示されて居るのは「平和の少女像」と為って居るが、ソウルの日本大使館前にある「慰安婦像」と同じ作家によるもの等である。


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             表現への規制は憲法違反 大村知事


 




 お上からヒモ付きのおカネが出て居る展覧会

 大浦信行の昭和天皇をモチーフにした「遠近を抱えて」作者不詳の「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」と云う俳句、横尾忠則のラッピング電車の第五号案「ターザン」等が陳列されて居る。
 私も時間とカネがあったら見てみたいと思って居た。日韓関係が最悪とされるこの時期に、慰安婦像を展示するのは、イササカ覚悟が要った事だろう。津田を初めとする実行委員達の苦労の跡を、この目で確かめたいと思った。ちなみにこのトリエンナーレは愛知県と名古屋市が補助金を出し、文化庁の助成事業である。詰まり、お上からヒモ付きのおカネが出て居ると云う事である。

 開催から僅か3日目に、津田と大村秀章・愛知県知事が会見を行い「表現の不自由展・その後」を中止すると発表したのだ。


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 キチンと作品を見て居ない河村たかし市長が口火

 口火は河村たかし・名古屋市長だった。2日に展示を視察した後、慰安婦像に付いて「どう考えても日本人の、国民の心を踏み躙(にじ)るもの。いかんと思う」として、作品の展示を即刻中止する様大村県知事に求めると言い出したのだ。
 だが『週刊新潮』(8/15・22号)で、美術評論家の藤田一人は、オープニング前日のレセプションで「河村さんは『燃えよドラゴンズ!』の替え歌を気持ち好さそうに歌って居ました。詰まり、プレビューに呼ばれても、キチンと作品を見て居無い。その程度の問題意識だった訳です」と話している。本人は気付かず、誰かに入れ知恵されたのであろう。
 
 菅官房長官も2日の会見で「補助金交付の決定に当たっては、事実関係を確認・精査して適切に対応したい」と口を出した。大村県知事は河村等に「憲法違反の疑いがある」と抗議して居る。


 




 「実行委員会や津田大介芸術監督は未熟過ぎます」

 中止に至った直接的な要因は、県庁に掛かって来た大量の抗議話やFAX、メールで、その中には「ガソリン携行缶を持ってお邪魔する」と云う、京都アニメーション放火事件を想起させる脅迫まであったからだと云う。
 津田は開会前「感情を揺さぶるのが芸術なのに『誰かの感情を害する』という理由で、自由な表現が制限されるケースが増えて居る。政治的な主張をする企画展では無い。実物を見て、夫々が判断する場を提供したい」と語って居たが、判断する場を自ら閉じてしまったのである。

 当然、津田に対する批判はネット上でも燃え上がった。批判の内容は、宮台真司・首都大学教授が朝日新聞(8月10日付)で言って居る、この言葉に集約されると思う。


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             津田大介芸術監督の中止報告


 「今回の中止は、脅迫による混乱が理由で言語道断です。毅然(きぜん)とした態度を貫か無いと、脅した者勝ちに為る。フランスのシャルリー・エブド紙襲撃事件では、マスコミも政治家も識者も『テロに屈するな』と叫んだ筈です。
 警察と連携、別会場でボディーチェック等対処法を編み出すべきなのに、それをせず3日間で中止したトリエンナーレ実行委員会や津田大介芸術監督は未熟過ぎます」



 




 この国の言論・表現の自由は「窒息寸前」

 中止が決まったのを聞いた時、私は、週刊朝日が掲載した佐野眞一の筆による橋下徹・大阪府知事(当時)批判騒動を思い出した。自分の出自迄暴く連載を開始した朝日に対して橋下は激怒し、親会社の朝日新聞に猛抗議した。
 私は一読して、ここ迄書く覚悟があるのだから、週刊朝日は当然、橋下の抗議も想定済みで、第2・第3の矢を繰り出して来るのだろうと思った。だが朝日と佐野は、為す術も無く橋下に謝罪し、朝日新聞出版の社長は辞め編集長も更迭されてしまった。

 私見だが、今のこの国の言論・表現の自由は狭まって居る、不自由と云う段階では無く「窒息寸前」だと思う。そんな事例は枚挙にいとまが無いが、最近ビックリして、椅子から転がり落ちそうに為った報道を一つだけ挙げて置く。

 「長崎県佐世保市で4日に開催された『原爆写真展』の後援依頼を市教育委員会が断って居た事が、関係者への取材で明らかに為った。同時に実施する『ヒバクシャ国際署名』活動が『政治的中立を侵す恐れがある』と判断した。主催団体は『核廃絶の署名活動の何処に政治的中立の問題があるのか』と反発して居る」(毎日新聞8月5日付)

 「報道の自由度ランキング」は日本67位・米国48位・韓国41位

 アメリカは9・11が起きて「愛国者法」を作りメディアを沈黙させたが、この国は、そんな法律を作らずとも、殆どのメディアは権力に逆らわずに沈黙するか、権力側の言い成りに為って恥じる事が無い。国境なき記者団が毎年発表している「報道の自由度ランキング」で、この国は今年67位である。アメリカは48位、韓国は41位だ。

 安倍政権に為ってからズルズルと下がって居るが、私は安倍の強権政治の為だとは思って居ない。我々一人一人に、言論・表現の自由を守ろうと云う強い気持ちが無いからである。これは日本国憲法と同じで、命を懸けて我々が勝ち取ったものでは無いからだ。

 日韓関係が最悪の今、慰安婦像を展示すればどう為るか位は、津田を初めとするこれを手掛けた連中にも判って居た筈だ。それを敢えてヤルからには、それ相応の覚悟があった筈だったと思いたい。無かったらバカの集まりである。

 「表現の自由」の危機を可視化出来る絶好のチャンスだった

 ガソリンを撒いて遣る、と云う脅迫があったから中止したと云う言い分も私には納得出来無い。こうした脅迫・恫喝・権力側の介入を含めて、この国には表現の自由、言論の自由が危険水域に迄達して居る事を〈可視化〉出来る絶好のチャンスだった筈である。

 パフォーマンスと云う言い方は嫌いだが、言論の自由度が韓国より遥かに低いこの国の「現実」を、何も考え無く為って居る日本人に突き着けてヤル画期的なイベントに出来た筈だった。それを、津田の涙で終わらせてしまってはいけ無い。
 そう云うお前に、そんな覚悟があるのか?そう問われれば「無い」と答える。齢70を超えても命は惜しい。そんな私だが、昔、表現の自由を守る為に、少しだけ闘った事があった。胸を張って言える事では無いかも知れ無いが「性表現の自由」を少しだけ前に推し進めたのは私だったと自負して居る。


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             今や一般的に為ったヘアヌード


 1993年に「ヘア・ヌード」と云う言葉が生まれた

 週刊現代編集長時代に「ヘア・ヌード」と云う言葉を創った。今は週刊誌に氾濫して居るヘア・ヌードだが、こう為ったのはそう遠い昔では無い。
 月刊誌『面白半分』の編集長だった作家の野坂昭如が、永井荷風の作とされる『四畳半襖の下張』を同誌1972年7月号に掲載した。これが刑法175条のワイセツ文書販売の罪に当たるとされ、野坂と同誌の社長が起訴され、最高裁で有罪が確定したのが1980年の11月である。それ迄も性表現の自由の扉をコジ開け様と努力し、果たせずに辞めて行った多くの先輩編集者達が居た。

 性表現の自由は遅々として前へ進ま無かった。ヘア・ヌードと云う言葉が生まれたのは1993年である。性表現の自由は急速に広がったが、同時に、朝日新聞を始めとする「良識派」からの攻撃、広告主への圧力、JALを始めとする機内誌からの排除、桜田門(警視庁)からの恫喝、自宅への嫌がらせ電話は激しさを増して来た。
 このママでは折角広がって来た性表現の自由が後戻りしてしまう。そう考えた私は、週刊現代誌上で「ヘア・ヌード断筆宣言」を発表する。以来、編集長を辞すまでこの言葉は使わ無かった。

 詰まら無い事を長々と書いたが、表現の自由の中の「性表現の自由」を多少でも前へ進め様としたバカが居た事を知って頂きたかったからである。


 




 8月9日に長崎市の田上富久市長が訴えたこと

 日本人の多くは、韓国よりこの国の方が言論・表現の自由はあると錯覚して居る。だが、日韓関係が悪化する中で「韓国人の痛みも判って遣れ」「輸入規制はするべきでは無い」と大声で叫べる日本人が何人居るだろうか。
 韓国では、伝えられる処によると、日本製品の不買運動と云った反日を煽る人達が居るのに対して、それに反対する動きも可なりあると云う。そうした中で起きた、今回の不自由展の中止〈事件〉は、権力に負けた、脅しに屈した等と云う低次元の論争で終わらせてはいけ無い。

 8月9日、長崎市の平和公園で平和祈念式典があり、田上富久市長はこう訴えた。


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                 田上富久長崎市長 


 「日本政府に訴えます。日本は今、核兵器禁止条約に背を向けて居ます。唯一の戦争被爆国の責任として、一刻も早く核兵器禁止条約に署名・批准して下さい。その為にも朝鮮半島非核化の動きを捉え『核の傘』では無く『非核の傘』と為る北東アジア非核兵器地帯の検討を始めて下さい。
 そして何よりも『戦争をしない』と云う決意を込めた日本国憲法の平和の理念の堅持と、それを世界に広げるリーダーシップを発揮する事を求めます」


 当たり前の事を当たり前に言える国にする。そんな事を言わ無くては行け無い程、この国の言論・表現の自由は傷んで居る。(文中敬称略)




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          元木 昌彦(もとき・まさひこ)氏 ジャーナリスト

 1945年生まれ。講談社で『フライデー』『週刊現代』『Web現代』の編集長を歴任する。上智大学、明治学院大学等でマスコミ論を講義。主な著書に『編集者の学校』(講談社編著)『編集者の教室』(徳間書店)『週刊誌は死なず』(朝日新聞出版)『「週刊現代」編集長戦記』(イーストプレス)などがある。

   文 ジャーナリスト 元木 昌彦    以上



 【関連報道】


 少女像の韓国人作者が反論「日本の報道では正しい意図が伝わら無い」 

 表現の不自由展で物議・・・街の声は?



          AbemaTIMES 8/12(月) 10:31配信


 「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」の中止から1週間が経過したが、未だに波紋が広がって居る。
 今回批判と抗議が殺到した展示の一つに、慰安婦をイメージして2011年に制作された「平和の少女像」がある。11日にAbemaTVで放送された『Abema的ニュースショー』では、その少女像の作者の一人であるキム・ソギョンさんに取材を申し入れたが「日本の報道では私達の正しい意図が伝わって居ない」等と取材に応じられ無い旨、そして、取材を受け無い事を詫びる気持ちが書かれた手紙が送られて来た。

 ソギョンさんが心境を綴った手紙 

 更にソギョンさんは「少女像は反日の象徴では無く、平和の象徴である事を知らせる為に展示会への参加を決意した。しかし、日本の報道では(少女像は)反日の象徴として映って居た。不快に思うと云う人が居るのも事実。しかしその不快さは、河村市長の言う〈国民全体の総意〉なのかは疑問です」と複雑な心境を明かし、今回の中止の決断に対して反論した。

 この件に付いて「少女像はアートなのか?」と街の人々に問い掛けると「アートでは無い。そのママそっとして置けば好いのでは」と云う声が上がったのに対して「アートだと思う。自由ですよね?アートの表現の仕方は」と云う声も。
 更に「皆が幸せに暮らせる事が前提だと思うので、そこを崩してしまったら何でもありに為ってしまう」「年々表現の自由が失われて行く中で、上の人達が気にして居たら結局、問題は変わら無いのでは?」と言った意見も聞かれた。
 
 表現の自由に付いて熱弁した井筒監督

 一連の問題に付いて意見を求められた映画監督の井筒和幸氏は

 「(自身が携わる)映画と云うのは表現の自由の最たるもの。憲法には公共の福祉と云う好く判ら無い文言がある。でも、憲法21条にある表現の自由と云うのは絶対の自由。人が見て目の前に晒されて、気持ちが悪い不快に思うと云う事も認めましょう。作ったものに尊厳を持たせましょうと云う事だ」 
 と持論を述べると「表現の自由は僕等が守るのでは無く、公権力が守るもの。公権力を縛って居るのは憲法だから、基本的には認めて挙げ無ければ為ら無い。名古屋市の河村市長は『日本人の心を踏みにじって居る』と言っていたが、日本人の心はバラバラ。日本人の心は必ずしも一つでは無い」 と熱弁。最後には脅迫があった事による「警備の問題」にも理解を示しつつ「晒すのが芸術だ」と表現者の立場から締め括って居た。





 【管理人のひとこと】


 報道や表現の自由とは・・・我が国では好きなことを好きなだけ言って居る様に錯覚するが、それは、独り言の部類のみだ。この様に自分達の意見を広く大衆に知らしめようとする企図に置いては、場所や時期やモロモロな制約が課せられるのが世の常である。
 今回の様に日韓関係が微妙な時期に、韓国の日本への批判の肩を持つ様なものは、公の援助で行われる催し物には不適だったと解釈された訳だ。大村知事の「公共機関がそれ(表現の自由)を守らずしてどうするのか・・・」との指摘はご立派である。が、危険だからと中止に合意したのは多くの人には納得され無いだろう。
 その信念を貫きたかったら、安全に管理する方法は幾らでも在った筈であり、混乱を回避して中止するのは、妨害する方達の思う壺であり、今後この様な妨害工作を続ける意思をそのまま認めた結果と為ろう。

 そして、この様な事が続き、次々と或る意図する人達の言論や表現に対する干渉が強く為り、それが日常に為る・・・まるで戦中の日本の様な、国家権力が個々人の精神活動まで規制し指導する「全体主義的国家」へと染まってしまう訳だ。
 一体その意図する人達とは誰なのだろう・・・表現の自由度とは、その器の中に居ては判断出来無いものなのだ。海外から、世界の目から見て判断する以外には無い。その基準が例えば、先進国中最下位の日本の現状である。私達は実感しないが実感しない様に動かしている人達が居る事だけは確かである。



 



 



 








黒田福美 反日に踏み潰されても諦め無い! 「朝鮮人特攻隊員の無念」を弔う理由


  

 黒田福美 反日に踏み潰されても諦め無い! 

 「朝鮮人特攻隊員の無念」を弔う理由




         〜週刊女性PRIME 8/11(日) 21:00配信〜


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            女優 エッセイスト 黒田福美さん


 韓国の首都ソウルから南へ40キロに位置する龍仁市、そこに法輪寺と云う美しい寺がある。この境内の一角に、太平洋戦争当時、朝鮮人でありながら日本兵或は日本軍属として戦死した人々を弔う『帰郷祈願碑』がある。石碑ならば普通建って居そうなものだが、或る事情から横たえられた姿で安置されて居る。

 
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       建てられた祈願碑と、執拗な抗議で半分埋められた祈願碑他



 韓国通で知韓派の女優
 
 2018年10月17日 寺では「重陽節法要」が行われて居た。「重陽節」とは、旧暦の9月9日に行う節句。韓国では「非業の死」を遂げた方をお祀りする意味があると云う。法輪寺本堂で日本人と韓国人の参加者達を前に一人の日本人女性が、流暢な韓国語そして日本語で挨拶をした。女優の黒田福美(63)である。

「皆さん、今日は『帰郷祈願碑』を法輪寺に安置してから10回目の法要を迎えました。そして又、新しいスタートが始まります」

 黒田と云えば、韓国通で知韓派の女優として知られる。彼女は或る事が切っ掛けで、この祈願碑の建立を思い立ち、数々の試練を乗り越えて現在に至って居る。

長年韓国と付き合い、好く知って居る積りだったから、皆が危惧する様な失敗はしないと思ってました。キッと上手く遣れるとね。処が、トンだ大間違いでした」

 韓国に詳しい黒田は、好く「在日」だと思われるらしい。

「ネットで私の名前を検索すると〈帰化〉とか〈在日〉と出るみたい。確かに〈福美〉と云う名前は韓国にもあるし。でも、父方の祖父は江戸指物師で、母は鉄道員の娘でした」


  




 子供の頃から歴史は好きだったのかと尋ねると「トンでも無い」と笑った。

「小学校の時から社会は3ですよ。小6からズッと演劇部でした。キッと、一人っ子だったから、皆とお遊戯みたいな事をするのが楽しかったんでしょうね」
 
 都立豊多摩高校に通う同級生だった白井裕子さん(62)が言う。

「クロ(黒田)は、ミニスカートで机に座っちゃう様な子でした。美人だと思うより先に、ハキハキ喋る元気で活発な人と云う印象でしたね。理不尽な事が許せ無い真っ直ぐな性格でした」

 韓国にノメリ込んで行った80年代

 短期大学演劇科に進むが、卒業後はOLに。1年後偶々受けたドラマのオーディションで5000人の中から最終選考の12人に残った。主役の座は逃したものの、プロデューサーに「ヤッテみる?」と言われて時代劇で女優デビューする。
 女優・黒田福美に取ってのターニングポイントは、1985年の伊丹十三監督の『タンポポ』への出演だった。役所広司を相手に「食」とエロスを感じさせる大胆な演技を披露した。

「足った4シーンだけの出演なんだけど、恐らく玄人受けするシーンだったからナンでしょうね。この出演から行き成り〈食っていける女優〉に為りました(笑)」


 




 黒田が韓国に目を向ける様に為ったのは1980年代。韓流もK-POPも無い、隣国なのに文化もグルメも一切入って来無かった時代だった。

「私達の頃は日教組が強くて、社会科の先生に〈日本は韓国に悪いことをした〉と習う訳です。凄く贖罪意識を持って居た。一方で政治犯が拷問を受ける等、剣呑なイメージもありました」
 
 そんな時、ロス五輪のアジア選手権でバレーボール韓国代表のカン・マンス選手に黒田は魅了される。

「ワア、こんな凄い人が居たんだ。隣の国って在ったんだと実感した。そこから私の人生は変わるんですね」
 
 韓国に関する本を読み漁り、NHKの『ハングル講座』で7、8か月ミッチリ勉強した。初めて韓国を訪れたのは1984年の事だ。

「反日感情から怖い目に遭うかと思って居ましたが、実際に行ってみたら全然違ってた。韓国人はユーモアに溢れ、温かくてお節介で。直ぐに抱き占めて呉れたりする。これがホントの韓国人なんだ〈皆もっと触れた方が好いよ〉と思った」
 
 1988年、その経験を綴った旅のノンフィクション『ソウルマイハート』が出版され、時代は黒田とシンクロし始める。

「1986年辺りから、1988年のソウル五輪に向けて、タブー視されて居た韓国報道が解禁ムードに為りました。それ迄韓国報道と云えば出て来るのは評論家や大学教授で男性ばかり。そんな中、女優でありながら韓国語を話しネタも持って居る私の存在は新鮮で便利だったのかも知れません」

 黒田は女優業を休んで韓国報道に専念する様に為る。

「事務所は呆れました。〈アア、黒田は終わった〉って(笑)俳優業に専念して欲しかったのだと思います。だけど、私はソウル五輪を機に思う存分、韓国報道に取り組みたかった」

 彼女は手書きの企画書を作り、コンビニでコピーしては各局のプロデューサーに自分でPRして回った。その甲斐あって、フジテレビが立ち上げた新番組で『黒田福美の韓国ロード』と銘打ってオリンピックに向けた「韓国の今」をレポートして行く事が決まった。黒田を好く知る産経新聞ソウル駐在客員論説委員の黒田勝弘さんはこう言う。

「日韓交流で日本女性が活躍すると、イメージの改善や日本理解に大きく影響します。福美さんは、韓国語が上手だし美形なので、韓国の人々に取っても説得力があり、親近感を持たれる存在なんです」


  




 究極のガイドブックを作りたい

 韓国報道に従事する以前、黒田はその派手な見た目から「悪目立ち」する使い辛い女優だったらしい。飲み屋の女、キャバレーの女、主人公の恋人を奪う敵役が多かった。処が、レポーターとして活躍を始めると、「社会派の人」と云う印象が強く為る。

「トレンディードラマ全盛で働く女性達が描かれた時代に〈お局役〉として丁度良かったんですね。要するに、一寸知性を感じて、主人公達よりは年配の〈キャリアの女性〉弁護士とか、編集者とかね。実際に私が遣って居た事とイメージがシンクロした訳ですね」

 そのとき黒田は、既に「次の一手」を考えて居た。

「書店で韓国のガイドブックを見ても、気の効いたものは何ひとつ無い。これジャア1回行ったら、又ソウルに行く人ナンて居ないよと思った。私の知るソウルは魅力的で面白い所が沢山あるのに全然書かれて無い。究極のガイドブックを作りたい、ドラマの番宣インタビューでそんな発言をしたんです」
 
 その記事を読んだ出版社が名乗りを上げ、ソウルでロケを敢行、1994年『ソウルの達人』が出版された。当時、編集を担当した和泉秀郎さん(61)が言う。

「黒田さんは、自分でアポイントを取り取材も熟し、撮影のディレクションをしながら、自らモデルと為って居ました。宿泊ホテルの彼女の部屋は、サナガラ編集部の様でしたよ」

 普通のタレント本為らば、本人が何度かインタビューに答えて、後はベテランのライターと編集者で作り上げる事が多い。だが、黒田の場合、彼女とコーディネーターとカメラマンが毎日ソウルの街を走り回り、取材を重ねた。デザインを手がけた勝俣正希さん(67)は、彼女の目的意識の高さをこう評価する。

「黒田さんは、本作りの事は好く知ら無くても、何を目指すかが明確でした。でも時々無理難題を言って来るので弱りましたね(笑)」

 夢で出会った青年
 
 1991年7月末、黒田は不思議な夢を見た。南の島と思しき渚。そこで一人の青年が近付いて来た。半袖の開襟シャツにズボン姿。見上げる様に背が高い。色黒の肌に白い歯を見せながら青年は黒田に話し掛けた。

「僕は此処で死んだんです、飛行機乗りでした、天皇陛下の御為に死んだ事に悔いは無いんですが、只一つ残念な事は、朝鮮人だったのに日本人として〈日本名〉で死んだ事なんです」
 
 屈託の無い笑顔でそう告げたのだと言う。

「青年の言葉が強烈に心に残ったんです。私は金縛りにすら遭った事も無く、霊感ナンて全く無い。だからこそ、あの夢は〈只事じゃ無い〉と思えた。あの世からの遺言だとしたら、とても捨て置く事は出来無かった」

 1910年(明治43年)に公布施行された「韓国併合に関する条約」に基づき、大日本帝国は大韓帝国を併合して支配下に置いた。日本による統治は、1945年9月9日迄35年間続いた。その為に戦時中には多くの朝鮮人が日本兵、又は軍属と為った。そして、2万2182人が戦争の犠牲者と為って居た。
 8月15日は、日本では終戦記念日だが、韓国では「光復節」と云う祝日である。「光復」とは「奪われた主権を取り戻す」と云う意味の込められた「朝鮮が日本の植民地統治から脱し自主独立を取り戻した事件」と定義される。


  




 夢に出て来た青年は実在したのかも知れ無い・・・黒田は、靖國神社を訪ね青年の為に冥福を祈った。

「日本人としてスマナイと思い乍ら、白いコスモスの花束をソッと置いて手を合わせました。もしかしたら、夢の青年が現れるんじゃないかと思いながら。勿論、何も起こりませんでしたけれど」  

 4年後、黒田は新聞の随筆に「青年のこと」を書いた。すると、靖國神社から「お会いしたい」と連絡が入る。


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               光山文博こと卓庚鉉氏


「神官の方が私を遊就館に案内して下さり、そこに掲げられた或る遺影を指して〈夢に現れたのはこの方ではありませんか?〉と聞いて来たんです。写真には飛行服姿の青年が居ました。そうだと思えばそう見えるし、そうで無い気もして……」

 写真の人物は、朝鮮人特攻兵として沖縄洋上に散った、光山文博こと卓庚鉉と云う人だった。黒田は特攻隊に付いて調べ始めた。すると、関連する本には度々「光山文博」の名が登場した。夢の青年は光山さんではないか、そう思える様に為って居た。

 あの青年は光山さんに間違い無い

 数年の時が流れ、黒田は旅先で見たテレビのドキュメンタリー番組を見て驚いた。それは、特攻隊の前線基地だった鹿児島の陸軍知覧飛行場近くで食堂を営んで居た『特攻の母』鳥濱トメさんを取り上げた番組だった。そこで、出撃前夜に朝鮮民謡『アリラン』を歌った光山文博さんの事が紹介されて居たのだ。

「番組後半、光山さんの従弟の卓貞愛さんが当時の思い出を語る場面が出て来ました。彼の親戚が居る事が判った。遺族が居るのなら〈最後の最後〉に彼が私に残した言葉を是非伝え無ければ為ら無い。出来る事なら彼の朝鮮名を刻んだ慰霊碑も作りたいと思う様に為ったのです。
 光山さんだけで無く、戦争で犠牲に為った朝鮮半島出身の人達の御霊はキッと故郷に帰りたい事だろうと。そして同胞達にこそ弔って貰いたいに違い無いと思ったのです」


 2000年2月上旬、黒田は釜山に向かい、卓貞愛さん等親族と対面、不思議な夢の話をし、郷里に慰霊碑を作って挙げたいと伝えた。帰国した黒田は、鳥濱トメさんの次女の赤羽礼子さんが、東京で薩摩料理の店を経営して居ると知り会いに行った。
 彼女は、子供時代に光山さんに会って居る。アノ青年が本当に光山さんなのか。黒田は夢で見た青年が、「とても背が高く、胸板のガッシリした体格で、顔の色が黒かった事。それも日に焼けて居るのでは無く、地黒だった事」を話した。すると、礼子さんは「アア、光山さんだわ」と小さく叫んだのだった。アノ青年は光山さんに間違い無い・・・こうして確信を持つ様に為ったと云う。

「皆〈夢のことでしょ?〉と言います。でも私に取ってはリアルそのものなんですね。この話をする時に『メビウスの輪』と云う表現をします。ズッと裏だったのに行き成り表に為るでしょう。同じ様に、夢から始まった事なのに何時の間にか現実に為って行く。
 特攻隊の人達、非業の死を遂げた人達を弔わなきゃ行けない、と云うのは自分のなかで実にリアルな問題に為って行ったんですよ」


 黒田は、仕事の合間を縫って、光山さんの日本での足取りを追跡して行った。京都の住まい周辺や卒業したとされる立命館中学校、京都薬学専門学校・・・更に、鹿児島県知覧で「光山文博」の名前を、沖縄の「平和の礎」で「卓庚鉉」の名前を発見する。

 2003年9月、卓家の本家筋がソウルに居ると知り卓家直系の子孫に会いに行った。処が、その男性は光山さんの故郷「泗川市西浦に友人の土地があるから買わないか」と法外な金額で持ち掛けて来た。その様な胡散臭い話に乗れ無いと判断した黒田は、今度は石碑建立の地所を求めて泗川市の役場を訪ね事情を説明した。
 役場の人にしてみれば初めて聞く話だ。それ処か、60年以上も前の併合時代の事等思いもせずに日々の暮らしを送って来たに違い無い。慰霊碑の実現は遥か遠くに思えて居た。

 しかし、或る時から「潮目」が変わって行く。2007年8月、黒田の活動を紹介する記事が日本の新聞に掲載されると、予想を超える寄付等の反響があった。又、韓国の新聞『東亜日報』でも黒田の活動を紹介する大きな記事が掲載された。好意的な論調の内容に黒田は胸を撫で下ろした。ここから話がドンドン大きく為って行く。


 




 「韓国人として感謝する」が一転

 泗川市が慰霊碑の建立地を提供して呉れる事に為り、高名な韓国の彫刻家が慰霊碑のデザインに名乗りを上げた。石碑の由来や碑文を紹介した日韓両国語併記の美しいパンフレットも出来上がった。これなら観光地としての泗川市のPRにも為る。除幕式は、2008年5月10日に行う事が決まった。
『東亜日報』の記事が出てからは、韓国人の誰もが口々に「本来、私達がすべき事を貴女がして下さって申し訳無い。韓国人として感謝する」と黒田に話したと云う。黒田は、この石碑建立を「日韓友好の架け橋」にと切実に思って居た。泗川市は、3000坪の広大な公園を提供して呉れた。

「全てが想像以上の成果を上げて行きました。ドンドン話は好い方向に進んで居る様に思えたのですが……」

 慰霊碑の除幕式迄2か月を切った2008年3月20日。泗川市役所で黒田は職員から飛んでも無い申し出を受ける。それは碑文に付いてだった。

「強制労働や慰安婦問題に付いて触れ無ければ為ら無いし、謝罪の文言が盛り込まれるべきだ。又、靖國に祀られて居る卓庚鉉を追悼するのも如何なものか」

「何を今更」と思い、黒田は反論した「これは政治的な事を排し、飽く迄人道的な立場で犠牲者を追悼するもの。その様な碑文は私が容認出来無い」
 
 すると、今度は記者発表等で配るパンフレットの文言が問題だと言い出した。文中の「日本の為に」と云う部分を「日本の所為で」と改めろと、言い掛かりの様な注文を着けて来た。市には4か月も前に最終稿を渡してあり、特に直しが無いと云う事で既に7000部の印刷を終えた処だった。

「これが無ければ、他に資料が無い。泗川市にトッテモ大切なPRのチャンスである筈なのに」そう食い下がっても、役人達は聞く耳を持た無かった。夢を見てから、既に17年の月日が流れて居た。青年の足跡を求め日本各地を訪ね、韓国に何度足を運んだ事だろう。黒田の中で「プツリ」と何かが切れた瞬間だった。

「異様に静かだった。コメカミの細い血管に小さな気泡が1個入った様な感じ。怒りと云うよりは絶望。どんなに誠意を尽くしても平気で手のひらを返し裏切って来る人達を、本当に酷い人達だと思いました」
 
 2008年5月8日、忸怩(じくじ)たる思いで釜山の金海空港に到着した黒田は、最悪の事態が巻き起こって居た事を知る。
 2日前に、この石碑建立に反対して居る左派系政治団体と抗日運動家の末裔で組織された極右組織『光復会』が記者会見を開き、石碑の撤去と除幕式の中止を市長に要求したと云うのだ。応じ無ければ市長に対してリコール運動を展開すると宣言。恐れを為した市長は、何と「除幕式の中止と石碑の撤去」を発表したのだ。
 そこで、黒田は「反対派」と対峙して話し合いを行った。議論は2時間近くに渉ったが、平行線を辿るばかりで結局「決裂」したのだった。

 本来為らば除幕式だった筈の当日朝、ツアーの参加者、報道陣等50名程の前で、黒田は除幕式が開催出来無く為った事を話した。そして、会を締め括ろうと思った時、泗川市の観光課課長が思わぬ言葉を発した。

 「警官隊が先導して、除幕式が出来る様に配慮するとの事です」 一行が会場に出向いてみると、そこは警官隊や光復会、韓国側の報道陣でゴッタ返して居た。

 韓国政府からは勲章を授与
 
 黒田の密着取材をして居た南日本放送の記者だった上村隆一郎さん(46)が言う。

「反対派の人達は約50人位。皆太極旗が染め抜かれた鉢巻きをして、抗議のシュプレヒコールを繰り返して居ました。警官隊が先導して呉れる様子等全くありませんでしたね」

 黒田と参加者の一行は、慰霊碑前に陣取る光復会を取り囲む警官隊の所迄辿り着いた。そこで一行は頭を垂れ、両手を合わせた。

「韓国では〈反日カード〉を掲げた団体が出て来ると、彼等の行動を戒めたり、批判したりする事が誰も出来無く為ると云うのは本当でした。1時間位後、会場に戻ると、誰一人居なく為って居ました。アノ争乱が嘘の様でしたね。そこで、私達だけで除幕式を行いました」
「嵌められたかも知れ無い」と思った事もあった。「日本からの訪問団と光復会の対立する場面を公にしたい、メディアに晒したいと云う何者かの意図があったのかも知れません」

 騒動の後、碑は撤去され、泗川市内の寺に一時的に保管。2009年10月 龍仁市の法輪寺境内に移された。2011年5月、黒田は韓国政府から勲章を授与された。

「長年の日韓友好の功績が認められたのですが、祈願碑を巡る騒動に対する韓国政府の責めてもの慰めに思えました。真実は判りませんけれど」

 2012年3月、韓国の国営放送局KBSで『朝鮮神風 卓庚鉉のアリラン』と云う番組が放送された。黒田達が巻き起こした慰霊碑に纏わる騒動がヒントに為った事は間違い無い。黒田にも出演依頼があった。言いたい事は山程あったが丁重に断ったと云う。
 番組の最後に、法輪寺に再建された帰郷祈願碑の姿が映し出された。それを光復会は見逃しては呉れ無かった。放送後、抗議文をテレビ局、法輪寺等に送り着けたのだ。黒田は再び光復会と足った一人で話し合いを行った。

「貴方達の親兄弟や親族にだって、日本名を名乗り、そして日本軍属に為って亡く為った方が居たかも知れ無い。そう云う人を慰霊して挙げたいと思いませんか」と言ってみても「アア、居たかも知れ無いが関係無い」と全く聞く耳を持た無かった。
「この時が一番悔しかった。折角法輪寺に再建出来たと云うのに。アンナに涙が止まら無かった事は無かった」


 




 「この石碑は寝て居ても意味がある」

 その年の冬、石碑は撤去解体された。基壇の上に八咫烏の彫像だけが直に置かれ、碑文の書かれた本体は半ば地中に埋めた形に為って居た。
 
 現在、日本と韓国の関係はこれ迄以上に冷え切って居る。徴用工問題、従軍慰安婦問題、そして最近では、日本の輸出規制に対する猛反発・・・韓国の異常な迄の「反日感情」しかし一方で、韓国のこうした対日強硬策が起きると大統領支持率は上昇する。前出の黒田勝弘さんはこう解説する。

「1945年の開放時の韓国社会で40代以下は日本統治下で教育を受けた人達でした。だから、開放時の韓国人は殆ど〈日本人〉でした。それが突然、急いで韓国人に戻ら無ければ為ら無く為った。そこで、国家、社会を挙げての日本否定キャンペーンが始まった。
 朝鮮人特攻隊は植民地時代に日本に協力した親日派と云う解釈。だから、慰霊碑の件はハラハラしながら見守り、福美さんの真摯な思いと行動力に感動して居ました」


 黒田は、この事件を通じて「歴史に一石を投じて居る」感覚は何時もあったと言う。

「日本人兵士として命を投げ打った青年達、その時代を生きた人達は、今日の韓国を築く礎でもあったのです。この事を現代の韓国人はどう解釈し向き合うのか、 問題提起する事に為るんです」

 或る韓国の歴史学者が黒田に言った。「この石碑は立って居ても意味があるけれども、寝て居ても意味がある」と。

「私は石碑を立たせる事にもう執着は無い。寧ろ、この寺に横に為居続ける事が韓国人の心に潜む矛盾に〈それでいいのか〉と問い続ける事に為る。石碑の問題と今起こって居る問題は、決して切り離されたものでは無い。だから、これはもう後世の人達のものなんです」  

 毎年、帰郷祈願碑の法要に参加し、黒田を手伝って居る藤川由美さん(57)は、

「私が福美さんの祈願碑活動に心寄せた理由は、取り憑かれた様に活動をして居る彼女に理屈抜きに引き寄せられたから。これからも日韓の融和に祈願碑が一役も二役も買う事を心から願います」

 私の次の仕事は〈語り部〉

 黒田は祈願碑建立の20数年に及ぶ苦難の道則を、著書『それでも、私はあきらめない』にまとめた。韓国語版も出版され反響が広がっている。

「〈忘れ無いで呉れ、俺達の事を!〉そんな気持ちが多くの方の心を揺さぶって居るのでしょうね」

 何故、そこ迄石碑に拘って来たのか。最後にそう尋ねると、清々しい笑顔を浮かべて、こう言った。

「私が遣ら無かったら誰も遣ら無いからかな。私だってこんな苦しい事を遣りたくは無かった。時間もお金も掛かるし。でも、キッとこれが私の使命なんですよね。韓国語で〈八字〉って言うんだけど、四柱推命で云う〈宿命〉もう絶対辞め様と思っても喉元過ぎると又始まってしまう。
 実はこの本を書き終わって〈アア、これで要約〉と思った。処が、今度は色んな処から〈話をしてください〉と要請が入る。私の次の仕事は〈語り部〉かと。ナカナカ終わらせて貰え無い感じですね」
 

 尼寺である法輪寺の住職、鉉庵さんが言う。

「黒田さんの慈悲深い姿はまるで〈功徳〉を積む菩薩の姿でした。この事業は、我々が先ずし無ければ為ら無かったのに、お座なりにして居たのだナアと悟りました。そして、国境も理念も越えた、永遠なる命の為に、この事業を必ず成し遂げると誓いました。毎年、重陽節に来て下さる皆さんにも感謝の気持ちで一杯です」

 今年もまた、8月15日が遣って来る。そして旧暦の9月9日(今年は10月7日)法輪寺で11回目の「帰郷祈願碑 重陽節法要」が行われる。



 取材・文/小泉カツミ(こいず・みかつみ)ノンフィクションライター。医療、芸能、心理学、林業、スマートコミュニティーなど幅広い分野を手がける。文化人、著名人のインタビューも多数。著書に『産めない母と産みの母〜代理母出産という選択』など。近著に『崑ちゃん』がある

撮影/新納翔(にいろ・しょう)写真家。消えゆく都市風景をテーマに活動。国内外での個展多数。写真集に『Another Side』『築地0景』『PEELING CITY』などがある。



 




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