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2021年05月08日

TABIZINE 気持ちだけでも旅行へ・・・




 TABIZINE 気持ちだけでも旅行へ・・・


  5-8-30.png  2021/05/08 07:30


 〜管理人 コロナ禍のゴールデンウィークも既に終わってしまった。何と無く閉塞された日々とは言え、少しは楽しい思いはされたのか・・・どうせ、未消化で欲求不満の毎日だった事だろう。そこで、気持ちだけでも何処かへ旅行しよう・・・との考えで妻の故郷・島根県松江市への旅立ちをご一緒頂けたら幸いである〜 


 【島根の難読地名】十六島・三瓶・温泉津・・・幾つ読めますか?


 日本各地には、ナカナカ読め無い難しい地名が多数存在します。地域の言葉や歴史に由来しているものなど様々ですが、中には県外の人は勿論、地元の人でも判らないと云うものも。
 今回は島根県の難読地名を紹介します。あなたは幾つ読めますか? それと、島根県の所在は知ってるでしょうネ? 鳥取・島根と並ぶ日本海に面した人口過疎の県で、松江市は島根県の県庁所在地なのですが・・・


 十六島


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     コピーライトマーク TABIZINE 提供 (C)公益社団法人 島根県観光連盟 5-8-12


 「うっぷるい」 と読みます

 出雲市に在る日本海に面する町の名です。海苔の生産が盛んで「十六島海苔(うっぷるいのり)」と云うブランド名で知られて居ます。天然の岩海苔を手で摘み取り、乾燥させて作る為、香り高くコシのある食感が特徴。出雲地方ではお餅に十六島海苔を乗せたお雑煮が食べられています。


 三瓶



         5-8-13.jpg

        コピーライトマーク TABIZINE 提供 (C)公益社団法人 島根県観光連盟 5-8-13


 「さんべ」 と読みます

 大田市の町名で、8世紀の「出雲国風土記」にも登場する三瓶山が聳(そび)えます。三瓶山は活火山で、その噴火により河川が堰き止められ「浮布池(うきぬのいけ)」が誕生しました。
 浮布池の名前は、大蛇に恋した邇幣姫 (にべひめ)が池に飛び込み、身に付けていた布が浮き上がったという伝承にちなみます。池の中には鳥居が建てられ、対岸には邇幣姫神社が祀られています。


 温泉津



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         コピーライトマーク TABIZINE 提供 (C)公益社団法人 島根県観光連盟 5-8-14

 「ゆのつ」 と読みます

 日本海に面する港町で、その名の通り豊富な温泉が湧き温泉街として発展しました。石見銀山の近くに在った事からそこで働く人々の癒やしの場と為り、現在も宿屋がズラリと立ち並びます。時の流れが止まった様なレトロな街並みは一見の価値あり。全国で唯一、温泉街として街並み保存地区に指定されています。


 宍道


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        コピーライトマーク TABIZINE 提供 島根県松江市宍道湖 (C) Shutterstock.com 5-8-15


 「しんじ」 と読みます

 しじみの産地で知られる宍道湖。その周辺には宍道町が広がります。 元々「宍道」は、猪が出る道を意味する「穴道(ししぢ)」を意味し、それが訛(なま)って「しんじ」と為り地名として根付いたのだとか。しじみ漁は早朝に行われ、早朝に幾つもの小船が宍道湖に浮かぶのが風物詩と為っています。



 名賀


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         コピーライトマーク TABIZINE 提供 (C)公益社団法人 島根県観光連盟 5-8-16


 「なよし」 と読みます

 「山陰の小京都」とも呼ばれる津和野町に在る地名です。山間にある穏やかな農村地帯で、JR山口線が敷かれ、時折、蒸気機関車「SLやまぐち号」が姿を見せます。
 その美しさから「貴婦人」の愛称も持つC571号機。モウモウと煙を上げながら緑の中を駆け走る様子は、マルで絵葉書のような美しさです。


 併せて知って頂きたい読んで欲しい・・・

 【日本の美味探訪】心に残る島根県のご当地グルメ3選
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 【地方の美味を自宅で】島根県のお取り寄せグルメ4選
  日本列島ユルユル古墳ハント(19)“埴輪界のアイドル”が居る島根県松江市大草町「岡田山古墳群」をピックアップします 



 〔埴輪界のアイドル〕が居る 島根県松江市大草町「岡田山古墳群」をご紹介


 5-8-30.png 2021/03/31 15:00 4-8-30


 〜「旅チャンネル」の企画で世界一周を2回経験した、古墳を愛するイラストレーター・マンガ家の水谷さるころが、これ迄訪れた日本各地の古墳の魅力を紹介します。今回は、島根県松江市大草町「岡田山古墳群」です〜


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     コピーライトマーク TABIZINE 提供 日本列島ゆるゆる古墳ハント19 島根県松江市大草町岡田山古墳群
          岡田山1号墳 石室の前 5-8-17



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  コピーライトマーク TABIZINE 提供 日本列島ゆるゆる古墳ハント19島根県松江市大草町岡田山古墳群 5-8-18

 岡田山古墳は島根県の松江に在る古墳群です。「八雲立つ風土記の丘」として公園整備されている敷地内には岡田山1号墳と岡田山2号墳があります。岡田山1号墳は全長約24mの前方後方墳です。
 出雲地方には、この「前方後方墳」という形の古墳が多く在ります。前方後方墳は全国的には古墳時代の中期〜後期には余り作られ無く為りますが、出雲地方では作られて居ました。
 この岡田山1号墳も6世紀後半に築造されており、古墳時代では後期に当たります。大正4年(1915年)に発見された岡田山1号墳は発掘調査が行われ、多くの副葬品が発見されています。


 
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    コピーライトマーク TABIZINE 提供 日本列島ゆるゆる古墳ハント19島根県松江市大草町岡田山古墳群
         岡田山1号墳 前方部からの墳丘 5-8-19


 大正4年に発見された円頭太刀(えんとうたち)は昭和58年(1983年)に為って保存処理を行う時に「各田卩臣」(額田部臣)の銘文が発見されました。昭和61年(1986年)にこの事実が発表されると全国的に話題に為ったそうです。
 国の重要文化財に指定されている銘文入太刀は展示学習館で見る事が出来ます。国の重要文化財に為った発掘品は東京国立博物館などに収蔵されることも多いのですが、本物が発掘された場所で見られるのは現地に行く醍醐味のひとつに為ります。


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    コピーライトマーク TABIZINE 提供 日本列島ゆるゆる古墳ハント19島根県松江市大草町岡田山古墳群
                銘文入太刀
 

 八雲立つ風土記の丘には、もう一つ岡田山2号墳が在ります。こちらは直径約44m、高さ約5.4mの円墳です。こちらは未発掘で詳細は明らかに為っていません。

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      コピーライトマーク TABIZINE 提供 日本列島ゆるゆる古墳ハント19島根県松江市大草町岡田山古墳群
                岡田山2号墳 5-8-21


 1号墳も2号墳も墳丘に登る事は出来ません。私は墳丘萌えの古墳好きなので、登れ無いのは残念ですが、見るだけでも十分可愛らしい素敵な古墳です。岡田山1号墳の石室の中には展示室で鍵を借りれば入れるそうです。
 しかし、我が家は墳丘派のわたしと発掘品派の息子なので、今回は石室は覗くだけにしました。古墳好きの中には「石室派」は多いのですが、入り口の狭い石室に積極的に入れ無い我々なのでした・・・

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           〔埴輪界のアイドル〕見返りの鹿埴輪

 展示学習館には、見応えタップリの出土品が沢山あります。一番はヤッパリ「見返りの鹿埴輪」です!此方の埴輪は古墳では無くて、松江市に在る平所遺跡埴輪窯跡(へいしょいせきはにわかまあと)から出土したものです。
 埴輪の中にもスター級の埴輪はありますが、此方の見返りの鹿は〔埴輪界のアイドル〕と言っても過言では無いと思います。勿論重要文化財です。ミュージアムショップで見返りの鹿埴輪ぬいぐるみを売っているので、これはマストバイ!だと思います。我が家の古墳コーナーに鎮座しています。


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     コピーライトマーク TABIZINE 提供 日本列島ゆるゆる古墳ハント19島根県松江市大草町岡田山古墳群
          見返りの鹿埴輪ぬいぐるみ(自宅)5-8-23


 次回も出雲の古墳を紹介したいと思います。※古墳の大きさは現地看板を参照
 岡田山古墳群 住所 島根県松江市大草町


 松江市は好いところです・・・コロナ感染が収まりましたら一度は遊びに来てください・・・















戦国最大のナゾ「豊臣秀吉」が朝鮮出兵した真相とは?




 戦国最大のナゾ「豊臣秀吉」が朝鮮出兵した真相とは?

 名誉の為なのか 土地が欲しかったのか??


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       本郷 和人 東京大学史料編纂所教授  2021/03/24 16:00


     
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         昔は太閤記・・・出世物語として人気だったが・・・


 NHK大河ドラマ「麒麟がくる」で、日本の戦国時代の歴史に改めて注目が集まっています。明智光秀の「本能寺の変」による信長の死後、天下を取ったのは豊臣秀吉です。秀吉は、国内のみならず朝鮮半島にも出兵しますが、一体何故出兵しようとしたのでしょうか。
 東京大学史料編纂所教授の本郷和人氏が上梓した『「失敗」の日本史』を一部を抜粋・再構成し、背景事情に迫ります。これは日本史上の難問題。

 秀吉は一体何を考えて朝鮮迄出兵したのでしょうか。昔から言われて来た説として先ず挙げられるのが名誉欲。日本の全てを手に入れてしまった秀吉は、言ってしまえば「思い上がっていた」権力を手にした秀吉がそれに酔ってしまい、日本を征服した自分の力をもってすれば中国でも支配出来ると考えた。そして実際に大陸を目指す。
 元々、朝鮮を自分のものにしようと考えて居た訳ではありません、本来の目的は中国大陸です。中国を手に入れて天皇を移す・・・とそこ迄考えて居たのですね。最早妄想に近い様な構想ですが、それ位思い上がって居たと云う解釈です。

 そしてもう1つ、これも昔から好く言われる説として「土地が足り無く為って居た」と云うもの。日本全国を攻め取ってしまった結果、家来たちに配分する土地が無く為った秀吉は、家来たちの期待に応える為に新しい土地の獲得を目指したと云う説。

 家康1人ですら苦労したのに・・・

 最初の「思い上がり説」ですが、果たして人間はそこ迄思い上がれるものでしょうか。本当に秀吉は「日本を全部平定した俺なら、中国大陸も取れる」と考えて居たのか。
 しかし新刊『「失敗」の日本史』で述べた様に、結局、秀吉は家康を潰せ無かった。そもそも潰す以前に家康を家来にする事だけでも相当に苦労して居るのです。豊臣秀吉陣営と織田信雄・徳川家康陣営がブツかった「小牧・長久手の戦い」の当時、もし総力を挙げて戦えば、秀吉は家康に勝つ事が出来ただろうと思います。しかし彼の立場も繊細なバランスの上に成り立って居た。

 秀吉にしてみれば「此処で1つ下手を打ったら、今は一応、俺に従っている連中まで牙を剥くに違い無い。為るべく早く家康と手打ちをしよう」と考えて居た筈。実際に早々と講和した秀吉が、家康を服従させる為に目を着けたのが天皇の権威でした。
 それ迄の秀吉は、元々天皇や官職に全く興味が無かった。しかし家康と講和する為に、これは使えると目を着けた訳です。すると秀吉は、朝廷の伝統を悉く破り、官職を物凄いスピードで獲得し始めます。本来、朝廷には朝廷なりの官職を与える手順がある。これは詰り日本の学校教育として、小学校の次に中学校があり、更にそこから高校・大学と云った段階が有る様なもの。

 そこで秀吉は、朝廷の記録を改ざんすると云う荒業に出ます。朝廷には、昔から「何年に誰々がどういう官職に就いた」と云う『公卿補任』と云う史料・・・詰り朝廷の職員録があります。それを秀吉は改ざんし、前歴を詐称して圧倒的な速度で太政大臣関白迄成り上がった。天皇の権威を利用して、漸く家康を屈服させる事が出来たのです。

 言い換えれば、家康足った1人を屈服させる為にそこ迄苦労した。その大変さを秀吉も好く判って居た。勿論家康以外、例えば長宗我部を倒した際も島津を討った際もそれ為りに苦労している。平定・征服と云うものが、それ程簡単では無いこと位、秀吉も判って居たと思います。
 その秀吉が、自らの名誉欲の為だけで中国に迄手を伸ばそうとするものでしょうか。アレ程慎重だった秀吉が。僕には、そこが判ら無い。豊臣秀吉の影武者が存在し、何処かで入れ替わって居たのなら未だしも納得出来るのですが。

 推測その1「世界を知らなかったのでは」

 例えばの話ですが、世界地図を未だ見て居なかったと云う事はあるでしょうか。中国を、それこそ日本の四国位に考えて居たのなら「好し、じゃあ行こうか」と云う話にも為る。しかし宣教師が持って来た地図位は見て居るでしょうし、いかに中国が広大かも幾ら何でも知って居た筈。
実際の処、秀吉は「中国は皇帝と官僚が治めている国・・・詰り基本的に貴族・長袖の連中しか居ない」と理解して居た様です。

 それも間違いでは無いのですが「詰り武力は弱い」と云う感覚で居たらしい。だとしても、中国の国土は飛んでも無く広い。征服するのは決して簡単では無いと、それは判って居たでしょう。
 だから名誉欲に駆られ、思い上がって、朝鮮・中国の迷惑も顧みずに兵を送ったと云う説明はどうだろうと思う訳です。

 推測もう1つ 家来に与える土地を獲得する為海外へ出兵したと云う説も好く耳にします。コチラは此方で、秀吉と云う人が、果たしてそこ迄家来思いだったとも思え無いのです。確かに、家来にキチンと恩賞を与え無いと、豊臣政権が安定し無いと云う事情は在ったのかも知れない。しかしそれを言うのであれば、繰り返しと為りますが、総力を挙げて家康を潰した方が、余程豊臣政権は安定したし一石二鳥ではなかったのか。
 しかも日本の武士に、言葉も通じない土地を征服して支配するノウハウはありません。海の向こうの土地を与えられても、実際にどう治めたら好いのか。甲子園初出場の高校は多くの場合、1回戦で負けてしまいますが、それは実力と言うより、常連校に比べて甲子園で戦うノウハウが蓄積されて居無い為ではないでしょうか。

 これが例えば中国の異民族、モンゴルや満州族の様な北方の異民族が中国を支配するのであれば、歴史の中で蓄積して来たノウハウを持って居ます。しかしノウハウ処か外国と戦った経験さえ無い自分達が、海の向こうの土地を征服して支配して行く。現実として秀吉がそれを構想して居たとは到底思え無いのです。

 推測その3「東シナ海貿易の権益を握ろうとしたのでは」

 結論。では秀吉は何故朝鮮出兵をしたのでしょうか? それは、東シナ海貿易の権益を握ろうとして居たのではないか。これは東北大学名誉教授の平川新先生が出された解釈なのですが、僕は此方が今の処、一番納得出来る説だと思います。
 当時は所謂大航海時代、ヨーロッパ諸国の船が東シナ海まで来て貿易を行って居た。その貿易の主導権を握りたい。そうした織田信長以来の思惑が秀吉にもあったのではないでしょうか。

 傍証的なことを言うと、秀吉は元々土地よりも経済を重視するタイプでした。例えば徳川に与えた領地は250万石、しかし豊臣は220万石しか持って居ない。その代わり秀吉は、日本全国の港や金山・銀山を持って居た。秀吉は金の重要性を判って居たのです。言ってみれば、過つて明との貿易を行った室町幕府的な感覚を持ち合わせていました。
 そう云う面から考えると、当時の南蛮貿易・ヨーロッパとの交易に秀吉は目を向けて居たのではないでしょうか。その貿易の主導権を取りたい。しかし入り口で外国との交渉を間違えてしまい、結果として出兵する事に為った。そう云う事だったのではないでしょうか。

 玄界灘を渡った日本軍は、不意を突いたので、マア当たり前と云えば当たり前かも知れませんが、半島の北迄快進撃を続けます。処がそこで明の援軍が遣って来た。マアでも、長袖の国の兵だし弱いだろう等と思っていたら、彼等は荒くれ者の異民族とのバトルを経験して来た軍隊。とても強かった。
 日本軍も簡単には勝て無く為り、勝ったり負けたりの膠着状態に陥る。加えて朝鮮の民衆達も立ち上がり、補給線が維持出来無く為って来た。そう為ると、これはもう泥沼の戦いに為る。知ら無い土地を征服するノウハウが全く無い状態で始めた戦いですから、そうした処で準備の無さが出てしまった。

 何のために戦うのか 目的がハッキリしなかった


     5-6-15.jpg 5-6-15

 九州や関東を平定するのとは訳が違う。そうした状況を考え無いまま開戦したのは秀吉の完全な失敗です。ソモソモ秀吉は「この戦争は何の為に戦うのか」と云う目的を、キチンと掲げる事が出来て居なかった。海を渡った諸将達も「一体何をすれば好いんだろう」と云う心境だった筈。
 昔の秀吉なら「これは上手く行かない、引くべきだ」と考えた時点で、早々に手を引くことが出来たと思います。しかし矢張り、秀吉も権力者として可成り思い上がって居たのか「ナンだ。俺に逆らうのか」と云った感じで引け無く為って居た。

 明と講和を結んだ時も「何か美味しい事が有るだろう」と思って居たら、明の方から言って来たのは「汝を日本国王に任命する」そんな事は当たり前だと激怒し再び出兵してしまう。最早昔の秀吉とマルで別人に為ってしまった。そう感じます。
 結局、朝鮮出兵に付いて、未だ定説は無い状況が続いて居ます。研究も行われて居るのですが、現代では繊細な政治問題も関わって來る。ナカナカ難しいのが現状です。

                     以上















なぜNHKが独走?「歴史番組」の知られざる歴史




 なぜNHKが独走?「歴史番組」の知られざる歴史

 東洋経済オンライン 5/6(木) 17:01配信



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         歴史番組について解説します(写真 Josiah PIXTA)5-6-13


 〜歴史を教養としてオトナのエンタメとして楽しむ「歴史番組」は、 NHKがその中心を担って来た事は間違い無い。1970年放送開始の「日本史探訪」から現在までの主な番組史を紐解いてみた〜


 NHK「日本史探訪」がレギュラー番組の最初  

 主に教養としての歴史を扱ったレギュラー番組の最初は、1970年4月放送開始のNHK「日本史探訪」とされる。(NHKアーカイブス「NHK放送史」より) 毎週22時台の30分番組で、日本史における著名な人物や出来事をテーマに、人気作家の海音寺潮五郎・司馬遼太郎・松本清張等をゲストに招き、毎回ゆかりの場所を訪ねる現地取材と共に歴史の深淵部に迫ると云うものであった。

 同番組は1976年に「新日本史探訪」と改題され、1978年2月まで放送された。取材映像と有識者の解説(スタジオトーク)を組み合わせた歴史番組の一つのひな形は、この番組から生まれたといえるだろう。  
 そして歴史学者の磯田道史氏「小学校時代に衝撃を受けた」という新たな歴史番組が1978年にスタートする。NHK「歴史への招待」である。司会の鈴木健二アナウンサーの名調子と取材映像、作り込んだスタジオセットなどにより、日本史のさまざまな出来事を詳細かつわかりやすく解説する本格歴史番組だ。

 同年4月6日の第1回放送のテーマは「安政大地震」その後「旗本八万騎」「実録鬼平犯科帳」「江戸城総攻め」と続く。そのテーマの切り口は、年表に太字で記載されて居る様な誰もが知る史実だけでは無く、言わば教科書に載ら無いサイドストーリーが数多く取り上げられており、歴史好きの人には新鮮かつ刺激的な番組に映ったことだろう。  

 1970年代は民放でも未だ時代劇が盛んに制作されて居たが、所謂チャンバラ活劇、勧善懲悪の娯楽ものがメインであり、一方でNHKは大河ドラマに代表される重厚な歴史劇も多く、その制作過程において蓄積されて行く合戦シーン等の映像アーカイブは、新しい作品や歴史番組に2次利用された。
 ・・・映画会社が予算の掛かる特撮シーン等を他の作品で流用したのと同様に、この、NHKならではの財産=アドバンテージは、現在に至るまで民放には真似出来ない領域とされている。

 1980〜1990年代は「歴史への招待」の後継番組として制作された「歴史ドキュメント」(1985年スタート)「歴史誕生」(1989年)「歴史発見」(1992年)「ライバル日本史」(1994年) そして内藤啓史アナウンサーの講談調の司会が好評だった「堂々日本史」(1996年) 「ニッポンときめき歴史館」(1999年)等、その都度新たなアイデアが加わりながら、NHKの独壇場が続いた。

 歴史番組の領域を大きく広げた「その時歴史が動いた」

 2000年代を代表する歴史番組と云えば、松平定知アナウンサーの格調高い司会振りが印象的だった「その時歴史が動いた」(2000年スタート) タイトルの如く、一つの歴史が大きく動いた決定的瞬間・ターニングポイントを具体的な日時として抽出し、そこに至る迄の主要人物の行動や心理、葛藤などを描いて行く。  
 同年3月29日の第1回放送は「日本海海戦」 第2回は「沢村栄治とベーブ・ルース世紀の対決」と取り上げるテーマは更に幅広かった。

 戦史や文化史・スポーツ史まで、歴史番組の領域を大きく広げた。それは同年にスタートした「プロジェクトX〜挑戦者たち〜」と呼応するかの様に、過去の歴史番組(そしてNHK)の殻を破る様な大胆なアプローチを以て「その時〜」は2009年3月まで続いた。
 記憶に新しいのは、2000年代後半辺りから到来した「歴女」ブーム。その切っ掛けは諸説あるが、2007年のNHK大河ドラマ「風林火山」で、人気ミュージシャンのGackt(現GACKT)が演じた上杉謙信が、若い女性層の熱い注目を集めた。
 それ迄は血生臭い合戦シーン等を敬遠し勝ちだった女性層も、実は個性的なキャラクターを持った戦国武将達の魅力を発見する等してブームに火が点いた。
 
 更にはアニメやゲームでも戦国武将を扱ったものが次々と登場し、それ等を切っ掛けに戦国時代、延いては歴史そのものに興味を持ち、メディアに登場する女性が増えて行った。堀口茉純・小日向えり・美甘子等“歴ドル”と呼ばれたタレントがその代表格である。
 女性が牽引する歴史ブームの中で、主役の天璋院篤姫(宮アあおい)、脚本の田渕久美子と、女性がメインの2008年大河ドラマ「篤姫」は、平均世帯視聴率24.5%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)をマークして大きな話題と為った。
 
 このブームに呼応して、2007年「タモリのヒストリーX」(フジテレビ) 2008年には「日本史サスペンス劇場」(日本テレビ) 「新説!? 日本ミステリー」(テレビ東京)等、民放らしい新感覚の「歴史バラエティ」がゴールデン・プライム帯に編成されるに至った。
 正攻法な歴史番組と言っても好い内容のものから「日本ミステリー」の様に珍説・奇説を扱うものまで百花繚乱だったが、翌2009年にはホボ全てが終了

 当時、筆者が番組関係者に取材した記憶では、民放にはNHK程の歴史関連の映像アーカイブが無く、再現VTRを一から撮影する予算の確保が難しく(これは時代劇制作においても同様のことが言える)、更に毎回採り上げるテーマや人物によって視聴率にバラツキが出てしまうこともネックに為り、その後も民放地上波の歴史関連番組は短命で終わる傾向にある。

 民放BSは現在でもレギュラーで制作  

 但し、2000年に開局した民放BSでは、歴史番組はシニア層を中心に好評で、現在も各局でレギュラー或いは単発で制作されている。中でも歴史番組の制作に積極的なのがBS-TBS。今回取り上げた「にっぽん! 歴史鑑定」はその代表番組だが、前身番組である「謎解き! 江戸のススメ」(2012〜2015年)は、当時NTTドコモの1社提供番組で、少なくとも「視聴率のバラツキ」に頭を悩ませる事のない制作環境の下で、江戸期のあらゆる事象を網羅した良番組だった。  

 又、BS日テレ「片岡愛之助の解明! 歴史捜査」(2015〜2018年)も、調査取材に力を入れた骨太の作りで印象に残る。
 2009年3月に終了した「その時歴史が動いた」の後継番組として、同年4月にスタートした「歴史秘話ヒストリア」は、9年続いた前番組での蓄積を受けて、歴史の裏側に在る知られざる物語=秘話にスポットを当てた。
 
 その背景には、これ迄の歴史番組がどちらかと云うと男性層、又歴史好きの人と云ったメインターゲットを大胆にシフトし、歴史に興味が無い人も含めた幅広い層を意識した。  
 その象徴が番組の案内役を女性アナウンサー(初代渡邊あゆみ・2代目井上あさひ・3代目渡邊佐和子)にした事だろう。CG合成によるオープニング、Kalafinaによるテーマ音楽など、又新たな歴史番組の誕生を実感させた。そして同番組は今年「歴史探偵」として生まれ変わった。

 更にBSプレミアム「英雄たちの選択」も画期的な番組だ。「その時歴史が動いた」とも共通する、歴史のターニングポイントで人が何をどう決断したのか、逆に別の方法を執ったとしたらその後の歴史はどう変わったかを、実際に複数の選択肢として提示すると云うアプローチが、毎回歴史好きの胸を熱くする。  
 歴史上の人物のパーソナリティを、単なる史実からだけで無く、その内面の心理にまで分析を加えて行くと云うのは、可成り踏み込んだ手法だが、準レギュラーの脳科学者の中野信子、そして経済学者の飯田泰之、作家の高橋源一郎など毎回多彩な知識人が各人の専門領域から様々な仮説を提示しつつ「私ならこの選択肢を選ぶ」と云う落とし処は番組開始以来不動のスタイルだ。

 もう1つ記して置きたいのは、2009年4〜5月に第1シリーズ計8回が放送され、後に映画化もされた「タイムスクープハンター」だ。大枠は「歴史SFドラマ」の体裁を取っては居るが、ドキュメンタリー的な手法を用いて、名も無き人による知られざる歴史の“真実”を描いたと云う点で、歴史番組の最も先鋭的なスタイルを提示したと言え様。

 テレビの歴史番組はあくまで入り口  

 歴史を知ることは、それ自体興味深く楽しい。しかし得た知識を「今」にどれだけ生かせるかがより肝心なのだ。判り易く言えば「温故知新」 過つて「その時歴史が動いた」のディレクター「歴史秘話ヒストリア」のチーフ・プロデューサーを務めた渡辺圭氏は『調査情報』(09年・490号)で筆者にこう語っていた。

 「アカデミックな意味での歴史の学習は、本を読んだり調べたりと云う形でするべきだと思って居るんです。テレビは時間が限られて居るメディアで、毎回提供出来る事は極僅かなんです。言い換えれば、テレビの歴史番組は飽く迄入口に過ぎ無い」  

 この言葉に尽きる気もする。飽く迄入り口に過ぎ無いかも知れないが、他のあらゆるメディアよりも、テレビはこれ迄蓄積されて来た手法によって、歴史への興味を強く掻き立てられるメディアである筈だ。特に近年、頻発する災害や疫病・デリケートな世界情勢を見るにつけ、近視眼的に陥る危うさから自らを守る為にも、歴史から学ぶ姿勢がより求められている、と言っておきたい。 (文中一部敬称略)

 鈴木 健司 メディア・ライター 「GALAC」編集長


 〜管理人のひとこと〜

 歴史ものの番組は管理人も大好きで好く観る。そして見方・切り口を変えることで色々な真実を推測し予想するのが面白い。それは推理小説に通じる人類共通の娯楽の一つだ。それにしても如何してNHKは同じ様な番組を次から次と題名を変えて続けるのだろう。
 恐らく切り口・立場を変えることで新たな解釈で物事を考えられるからだろう。例えば、同じ戦争でも登場人物を軍人にしたり逆に庶民へ・敵国の人・・・と立場を変えることで見方が大きく変わる。たてよこ斜めと色々な方角からもの見るのは好い事で、ものの真実を見るにはそれが必要だ。


                  以上












 





・・・迷宮入りか?「餃子の王将」社長射殺事件




  ・・・迷宮入りか? 25口径4発の弾丸が 胸や腹に命中


 「餃子の王将」社長射殺事件を迷宮入りさせた 京都府警の失態


  文春オンライン 5/7(金) 14:16配信



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         「王将フードサービス」本社前(著者提供)5-7-5


 2013年12月19日午前5時45分 株式会社王将フードサービス大東隆行社長(当時72歳)は、京都市山科区の本社駐車場に車を停めた。2000年に社長と為ってから、毎朝午前5時半から6時に出社するのが日課だった。
 ゴム長靴に履き替え廻りを掃き清める。その後、周囲の道路に水を撒く。京都・四条大宮の1号店からスタートした「餃子の王将」は、関西を中心に737店舗(2020年3月31日現在)を全国展開する巨大飲食チェーンである。
 大企業のトップが、冬場なら未だ暗いうちに出社し、率先して汚れ仕事を行う美談は格好のネタだ。実際、マスコミでも何度か取り上げられ、近隣住民にも社長の早起き・掃除は好く知られて居たと云う。

 「誰よりも早く一番乗りが大切。仕事は朝が勝負ちゃうのん? 意欲と勢いと活気で遣るもんや」 『週刊ポスト』2013年12月13日号より引用   
 
 急所に命中していた4発の銃弾
 
 この朝も、何時ものマメマメしい姿が見られる筈だった。が、車から降り立った直後、至近距離から25口径の小型拳銃が発射され4発の弾丸が急所の胸や腹に命中した。脅しとは考え難い、殺す積りとしか思えない。
午前7時、社員が昏倒する社長を発見したが、病院に運ばれ死亡が確認された。遺留品は4個の薬莢だけで、鞄や財布などは一切荒らされていなかった。車内に百数十万円以上有った現金も手付かずのままだ。  

 凶行の現場と為った山科区は、観光客でゴッタ返す京都市中心部とは違い、ひとつ山を越えた極普通の住宅街である。とは云え、JR京都駅から東海道本線に乗車すると僅か5分で山科駅に到着する程近い。激坂の為自転車での行き来はシンドイが、原付バイクが有れば、市内中心部から容易に移動出来る。
 通りに人が居ない早朝、アクセスが簡単な現場、決まった時間に出社して來る社長・・・計画そのものは簡単だし逃走もし易い。  

 新聞報道によれば、京都府警はこれ迄延べ22万人を超える捜査員を投入し、現在も50人以上で捜査態勢を敷いて居ると云う。しかし、実行犯に繋がる決め手は残念ながら見付かっていない。殺人事件は発生直後の捜査が明暗を分ける。最早新情報は殆ど無いだろう。迷宮入りに為っても可笑しくは無い。

 風化しない「王将社長殺害事件」
 
 それでも王将社長射殺事件は未だ増しだ。クリスマス前に為ると、決まって地域住民の話題に為るからである。JR山科駅を出ると、直ぐ左側に「餃子の王将・山科駅前店」が在る。事件が発生した12月に為ると、遺族や王将フードサービス社員・捜査関係者らが店舗周辺に立ち、通行人に情報提供を求めるチラシやティッシュ等を配るのだ。こうした光景はクリスマス直前の風物詩の様に市民に記憶されて居る。

 「コマイ事件は在っても、この辺りで殺人事件何て殆ど無いからね。冬に為ると日野小学校の小学生が殺された事件(通称・てるくはのる殺人事件 容疑者は自殺 捜査本部は山科署)と一緒に、この辺りの人間の話題に為るんですわ。
 殺された(大東)社長は、物凄く評判好かった。只あそこ迄会社を大きくしましたから、何の商売でも何処かで誰かの恨みを買うやろう・・・これは絶対に何か有るデって話には為りますね。単なる噂でも、風化するよりエエでしょう」(山科駅前の商店主)
 

 事件現場と為った王将フードサービス本社でも、12月には毎年献花が行われて居た。事件から7年経った昨年末は、コロナ禍の為中止された。

 暴力団関係者の関与は濃厚 現場近くに工藤會組員のDNA
 
 捜査では北九州市に本部を置く工藤會の名前が挙がって居る。現場から約1キロの場所で発見された煙草の吸い殻から採取されたDNAが、工藤會組員のそれと一致した為だ。鮮やかな犯行の手口からみても、暴力団関係者の関与は濃厚だった。
 現実には映画の様な殺し屋など存在しない。それでも暴力団員は、サラリーマンよりずっと暴力に慣れ親しんでいる。京都府警も可成りの暴力団関係者に接触している。

 「警察・・・府内のヤヤコシイ奴の殆どに『何か情報知らんか?』と訊いとるね。或る程度の概要は教えて呉れるから、ヤクザは皆それ為りの情報を持っとるよ。ソリャア刑事が取引材料にして來る情報など、大した価値のあるものじゃ無い。
 それでも府警の様子観てたら遮二無二為っとるのは分かるわ。何しろ死体が上がってる事件で被害者は有名人・・・マスコミは今も興味を持ってる。このママでは引き下がれ無い・・・んやろうけど、威信に賭けて捜査して居る割には、ビッグニュースを聞かへんな」(京都の指定暴力団幹部)


 手袋にヘルメット姿でも 不審に思われ無いバイクは常套手段
 
 事件当日の防犯カメラには、不審な男がバイクに乗って立ち去る映像が残されていた。現場はカメラの死角の為、殺害の瞬間は映っていなかったが、直後、現場を離れる車の姿もあった。
 物証や目撃証言が乏しい中、事件の翌年4月には現場から約2キロのアパート駐車場に放置されている小型バイクが発見され、拳銃を発射した際に付着する硝煙反応も確認出来ている。近くには凶行の2ヶ月前に盗難された原付バイクも在って、ナンバーは別のものと替えられて居た。  

 一向に捜査が進展し無い為、外国人による犯行と云う見方も出たが、暴力団員らは「外国マフィアの犯行は先走り過ぎ」と懐疑的である。京都市内に拠点を持つ山口組系幹部も、外国人ヒットマン説は考え難いと話す。

 「外国人を使って殺すなんて怖くて出来ない。それに金で雇った半端者は、所詮その程度の繋がりしか無いから、逮捕されれば全てを謳う(※白状する)そんな危ない橋を渡るとは思え無い。襲撃にバイクを使うのは襲撃の基礎中の基礎。
 手袋をして顔の見え無いヘルメットを被って、ウロウロしてても誰も不審に思わ無い。恐らく現場近くに拠点が在って、そこを根城にしていたんじゃないか。当日は動かず一晩テレビを観て過ごし、ユックリ寝てそれから逃走した筈」


 自らが関与した抗争事件の経験から、そう推測して居ると云う。相応の説得力はある。

 福岡県警と京都府警の不仲
 
 2016年春 京都府警は、中古車ディーラーに並んでいた軽自動車が、バイクの盗難に使用された車両だと突き止めている。
 事件当時の持ち主は容疑の掛かった組員と同世代であり出身も又同じだった。その上この軽自動車が九州を走って居た事実も判明している。状況証拠はそれ為りに揃っている。京都府警は此処から実行犯に辿り着こうと必死の捜査をしている。
 では、なぜ犯人が逮捕され無いのか? 京都在住の暴力団幹部は、京都府警が失態を犯し捜査停滞の理由に為っていると話す。

 「捜査一課の人間が証拠を紛失したらしいですワ、左遷されたと聞いてます。それ為りの立場の人間です。それを聞いた福岡県警が『コンナにも適当な京都府警とは、一緒に捜査など出来ない』と激怒し連携が出来ないらしい。
 工藤會のI組のTが実行犯ちゃうか・・・と云う名前まで俺等の処に伝わって来てるんやけど、福岡県警の協力が無い限りドナイも為らんでしょ。無くした証拠・・・暫くしてから出て来たんやと。でもヒビ割れた信頼関係は修復出来ん。
 『京都府警はタルイ、ヤクザの取り締まりもダラシナイ。強硬な取り締まりで有名な大阪府警に一遍研修行ったらエエ』何てイヤミも聞こえて來る。そんだけ警察は縄張り意識が強いんですわ。ヤクザ顔負けのメンツが邪魔し仲良う出来んのやろうね」
   

 何処まで信じて好いのか分から無いが、当の幹部は「これ迄何度も情報交換して来た。間違い無い」と自信タップリだった。

 不透明な取引のうち170億が未回収
 
 2016年3月29日 暴力団との関係を聞き込み調査した第三者委員会は93ページの調査報告書を発表した。反社会的勢力との関係は無かったとされたがマスコミは沸いた。九州出身の「A氏」と王将の間に、合計260億円もの不透明な取引があり、そのうち170億が未回収と記されて居たからだ。  
 A氏は被害者の義兄である創業者と昵懇で、その次男とも数々の取引をして居た。マスコミが書き立てた事もあって、A氏は週刊誌の取材に実名で答え、暴力団相手のトラブルが起きた際、仲裁に入ったとも語られている。

 が、以降、捜査は進展していない。事件から5年後の2018年12月、発生当時の様子を調べようと考え、私も殺害現場を訪問した。
 社長が射殺された駐車場にフェンスやゲートは新設されて居らず、只立ち入り禁止の看板だけがあった。本社の目の前に在る住宅を皮切りに、手当たり次第呼び鈴を押した。京都の風土なのか、マスコミに辟易して居るのか分からぬが、誰もが冷淡で取材拒否だった。

 「とにかく犯人が捕まって欲しい」
 
 1時間後、とある家の女性が漸く口を開いて呉れた。

 「大騒ぎやったですよ。小学校は私達が付き添って集団下校、警察のパトカーやマスコミがウロウロしてて、皆ビクビクしてました。兎に角犯人が捕まって欲しいです。どうなんですか? 犯人は見付かりそうなんですか?」  

 その際、連絡先を教えて貰ったので、今回、記事を書くに当たり、再度、電話取材を行った。頻繁(ひんぱん)にでは無いにせよ、矢張り年末に為ると話題に為ると云う。通常、見ず知らずの人間が殺されても、世間は直ぐ忘れてしまう。
 これだけ関心を持たれる殺人事件は余り無い。それだけ「餃子の王将」が、市民に親しまれて居るのだろう。解決の糸口はキッと見付かる。遺族の無念を晴らして欲しい。

 鈴木 智彦


 〜管理人のひとこと〜

 最近この事件のことがマスコミには出てこない様だ。実際に捜査は継続されているのだろうが、京都府警と福岡県警は本当にご苦労さん。実に3年が経過しているのだが、派手な事件の割には結果が余りにも少ない様だ。余程のプロの仕業の様である。
 被害者と全く無関係な第三者が犯行を請け負い、そして全く無関係な者が実際に犯行を実行・・・そして又無関係な第三者が逃走を援助する。全く無関係な者達が有効的に配置され、互いに全く所在も顔も認識せずに一つの犯行の流れを作り出す・・・全てが無関係な第三者なので、何処から漏れるか分からない危険性も高いが、調べる側からは何処から手を着けるかが困難だ。
 この様な新しい犯罪シンジケートを一回限り作り出し、成功するとすぐに解散する・・・警察の捜査が始まる頃には関与する全ての人間は一般に溶け込んでいて闇の中に潜んでしまっている。被害者が死亡して一体誰が利益を得たのか・・・それとも損得とは無関係な何かの義憤? 恨み? 宗教?・・・犯行の動機は意外に深く何か、社会的な正義からかも知れない・・・矢張り地道に調べるしか無いのだろう。


               以上



















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