2024年11月19日
綺麗な風景、見過ごしてしまいそうな風景に気付かせてくれるのは私にとってこの上なく嬉しい事です。
読んで頂きありがとうございます
ただ、毎回お伝えしているように、学問としての抽象芸術を学びたいと思ってここを訪れたのであれば残念な結果になります。このブログは学問として書かれたものではありません。そうでは無いにしても私自身が高学歴のインテリでためになるような文を書いて何らか教えを提供しているわけでもありません。タイトルで騙されたと感じたのであれば失望させた事になります。このブログでは、純粋に私個人的な癒しの為に書いています。日々感じた事、吐き出したい事、だけど、それが自身の創作の刺激になるのでただただ書き留めておくところとして、ここは位置付けています。そうした前提をご了解の上でこのブログを読んで頂けると見方のズレは無くなると思います。
カッコ良さげに付けたタイトル「私の抽象芸術入門」は、これ自身、私にとっての刺激となるのです。芸術は私にとって癒しなのです。観ること、創作する事、その行為全て私を癒します。このブログで書いていることは、私が半世紀以上生きてきた中で体験や経験の中で思った事を吐き出しながら書き留めています。
つぶやきを言葉にするよりも写真をつぶやきの代わりに載せられるインスタはいいですね。最近、インスタをやり始めて幾つか気付いたことがあります。私が思っている以上に抽象芸術に関わっている人が多いことでした。私と同じ感覚、同じような手法で制作している人も多かったことに驚かされました。しかし、だからといって私の作品と全く類似した作品ではないことにホッとしています。それと同時に自分の作品や作風、それに考え方は流される必要も孤立する必要も無くあるがままの独自の路線を貫き通していいんだ、そんな安心感と勇気、希望が持てました。フォローしてくれたり、私の作品に「いいね」してくれるのは世界の中で誰かがイイと感じてくれている人がいることの証明でもあります。もちろんカタチだけのフォローもあるでしょうが純粋に良いと感じている人も中にはいることでしょう。それだけでも自分が孤立していないとおもえるのです。私の制作目的が自分の癒しであってもそれが観る相手にとっても癒しになるのならそれは嬉しいことです。これはインスタを始めなかったら気付かなかった事です。
自分自身の為なら他人の関心など必要無いでしょう、と言う声が聞こえてきます。それはその通りです。しかし、なんか自分と同じようにもがいている人がいて、気持ちが楽になります。
さて、私はこのブログで「私の抽象芸術入門」を行っています。以前も申し上げたようにこれは私自身の為の内容です。自分にとっての抽象とは何か、抽象ってそもそも何か、なぜそれが私にとって必要で私は何故それにこだわっているのか。体験や経験、一般的な意見から個人的見解も踏まえて全く自己流のある意味偏っているけど自分にっての本当のものに近づけるためにもがいている記録でもあります。ただただ忘れないように書き留めているだけのものです。しかし、私の作品を気に入ってくれた人が、作品を深く感じたり理解するのにこの文章は少し役に立つかも知れません。役に立って頂けたら嬉しいです。
観て感じる行為
切り取る、という行為そのものは、既にアートの行為になります。そもそも現実の時間の流れで世界をある瞬間で切り取るのは撮る行為、つまり写真です。現実でありながら実際上決して体験のできない切り取り行為を結果として写真を媒体として体験するわけです。抽象芸術にしてもこの世に存在しない素材でなく身の回りの見慣れたモノ、見慣れた過ぎて気付かないモノに視点を向けることで生じます。
言葉で切り取ったり決めつける事は、そもそも好きではありません。
作家さんのように気の利いた言葉も出てきません。ただただ想う事を吐き出している感じでしょうか。後から見返して自分がどれだけもがいていたか確認できます。もがいている事、通り過ぎて気付かない事に目を向ける事、無意識にわきだす気持ちを描く事に自身のアートを見出しているのでしょう。アートの視点がそこに向くのは、自分自身が見過ごされる存在と思っているからでしょう。だから、私は見過ごしたりそないよ、って、呼びかけている、そんな感じで対象を見ています。その対象を擁護する事が自分を擁護する事でもあります。
綺麗な風景、見過ごしてしまいそうな風景に気付かせてくれるのは私にとってこの上なく嬉しい事です。自分だけいいところ見つけちゃった、という感じが心地いいですね。それを皆さんにもソッと分けてあげたい、そんな気持ち。
2024年11月07日
「わぁ〜、いいね、これ」なんて言ったりして、散歩する様に人生の中で私の芸術を位置付けたいです。
来年、還暦を迎えます。
はじめに言っておきますが、私は書くことがあまり得意ではありません。
なので一般的な言い回しで用いる言葉を時々独自の解釈で用いる場合が多々あります。
まあ、その時は解釈を示しますが。。。
これを読む人は、偉そうに何が入門か、何も書いて無いじゃないか、と思われる事でしょう。
これも前からも言ってますが、自分にとっての思考や想いの覚え書きなのです。
それなら、その様にタイトルをつければいいじゃないかと思われる事でしょう。
でもこれは、この覚え書きを読み返したりして自分の思考を整理することで自分の創作のヒントになればと思っているのです。動機付けと言う意味合い、正に入門と捉えています。
いい歳してまだ入門かよ、そう思うでしょう。還暦は、赤ちゃんに戻ってもう一度生まれ変わって出直すと言う意味合いもあるそうです(ネット調べ)。
私にとって芸術は、癒しなのです。それによって自分を治すこと。
この癒し治すことが芸術の目的だと思います。
これは、私の好きなピアニストのグレン・グールドもそんなようなことを言っていたとネットの記事で読みました。そうなのです。芸術の目的は癒し治すことだと思うのです。
私は物心ついた頃から図画工作が好きでした。
この創作の視点は還暦にいたるこの50数年(産まれて数年は記憶に無いから除外)続けています。勿論生活上仕事上では創作と全く異なるものでしたが心の中では目に写る全ての物が作品創作の上での対象物でもありました。これは独自の視点と私は捉えています。しかし、これは独学とは違います。いくら学校にいってアーティストの勉強をした事ないと言っても、見るもの聞くもの嫌が上でも影響は受けたわけです。障害を持つ持たないに関わらず、教育を受ける受けないに関わらず、刺激影響はあるわけです。それが無意識下で蓄積され表現されているに過ぎません。だからそもそも区別する必要も無いはずなのです。
芸術の教育を受けていないと言うとあたかも自ら湧き出したスゴイ様に聞こえますが、そもそも何も情報が入っていない状態では何も出ません。無学であっても親や周りの大人、情報メディアから無意識下で情報をインプットしているはずです。それに気が付いていないだけです。だから、知識量や技術の習得の有無で出来る作品は異なります。個々に違うのは持って産まれた性格の違いでしょう。才能と言うより〇〇さんはこう言う性格、△△君はこんなこだわりを持っている子、といった具合で、決して特別な能力では無いと気が付きました。手先が器用、大雑把、変な癖があると言ったこだわり、そんな変態達なのです。有名になるのも、職業に出来るのも、自分の力では無く相手に引き上げてもらって可能になることです。相手に評価してもらわなければ有名になれないし、相手が買ってくれなければお金が入らないし、ニーズが無ければ職業にも出来ないのです。おおよそそれぐらいの違いしかありません。
では、何の為に作品を制作しているのか。始めに申し上げた通り、自己の癒し治す行為なのです。自分がこの世界に生きて、ああ生きているって言う実感、埋もれてしまう中で自分と相手を感じる感覚、ゆっくりと向き合い、ここにいる事に感謝出来る気持ち、癒しの作用は私がこの場所で生きていく上で大切です。
多くの人が、芸術について語っています。それはスゴイと思います、自分にはそこまで出来ません。いろんな人がいるから面白いと思うのです。私にこのぐだぐだな文章は、何の役にも立ちません。唯一私に癒しになるだけです。ただ、これを誰かが読んで、万が一、共感してもらえたら、嬉しいですね。世の中には自分と同じぐだぐだが好きな人がいる事を知ることが出来るわけですから。
還暦に向かい、想うことはそう多くはありません。ただただ、パートナーとゆっくり前に進めたらそれ以上望むことはありません。「わぁ〜、いいね、これ」なんて言ったりして、散歩する様に人生の中で私の芸術を位置付けたいです。ただそれだけ。いつかは消える。だから今この瞬間を味わって生きたい。
2024年10月17日
素通りせずに立ち止まるという非日常の時間空間に身を置く事になります。抽象の扉を開ける行為です
言葉じりをいちいち論って
この言い方は正しく無い
この言い方はテキスト的で無い
この言い方は曖昧だ、
などと重箱の角を突き回すのがあるけど、
細かい事にこだわる方は、逆に読まない方がいいし、
無理に首を突っ込んでかき回してほしくないです。
別に巷の評論家や研究者に喧嘩売っているわけでも無いし、
否定しているつもりも無いし、
ただただ自分なりに『抽象』ってことについて想いを巡らせているだけです。
自慰行為だと思って素通りして欲しいですね、本音で言うと。
『私の』としているのはそのためです。
自分にとっての抽象芸術って何、何が自分にとって心地よいのかな、そんな立場で語っています。
目くじら立てて何が抽象か、偉そうに、何て言われるのは逆に心外です。
あなたに向けて語っているわけでもないし、これは自分の為の覚え書きの様な位置付けです。
私にとってあなたにどう思われるか関係無いわけです。
しかし、ここに書いた以上は他の誰かにも読まれるわけです。
気になってこの記事に立ち止まって読んでみた、という方もいるでしょう。
何か違うと読んでいる中で感じたらそこでやめて他行ってください。
なるほど、面白いと感じてくれたなら嬉しいですね。何かの刺激になれば幸いです。
さて、
インスタであげた写真↓
これ、どう感じましたか?
面白い、不思議、。。。
一体何を撮った写真でしょうか?不思議。。。
日常である意味、よく見かけるものです。あまりにも目の前にあり過ぎて逆に気が付かない気にも留めない、見ていてもまるで見ていないかのように通り過ぎてしまう場面です。
私はコーヒーを1日に2〜3杯飲みます。
飲んだ後、カップの底に多少飲み残しが残りますね。それが乾いて写真の様な模様が出来ます。それをジッと見つめたわけです。
ジッと見ると、そこには特別な空間が生まれます。そこで観るという行為に移行します。そうなると気になってしょうがなくなります。素通りせずに立ち止まるという非日常の時間空間に身を置く事になります。抽象の扉を開ける行為です。抽象の意味の一般的な使い方はあるでしょう。しかし、私にとっての抽象は、こんな行為から生まれるものです。
漠然としていますが、これが「私の抽象」の定義の様なものです。ちょっとまだボヤけていますか。自分にとっての整理にもなります。これは大切な事です。
もう少し言葉が出てきましたら、また書きます。
この言い方は正しく無い
この言い方はテキスト的で無い
この言い方は曖昧だ、
などと重箱の角を突き回すのがあるけど、
細かい事にこだわる方は、逆に読まない方がいいし、
無理に首を突っ込んでかき回してほしくないです。
別に巷の評論家や研究者に喧嘩売っているわけでも無いし、
否定しているつもりも無いし、
ただただ自分なりに『抽象』ってことについて想いを巡らせているだけです。
自慰行為だと思って素通りして欲しいですね、本音で言うと。
『私の』としているのはそのためです。
自分にとっての抽象芸術って何、何が自分にとって心地よいのかな、そんな立場で語っています。
目くじら立てて何が抽象か、偉そうに、何て言われるのは逆に心外です。
あなたに向けて語っているわけでもないし、これは自分の為の覚え書きの様な位置付けです。
私にとってあなたにどう思われるか関係無いわけです。
しかし、ここに書いた以上は他の誰かにも読まれるわけです。
気になってこの記事に立ち止まって読んでみた、という方もいるでしょう。
何か違うと読んでいる中で感じたらそこでやめて他行ってください。
なるほど、面白いと感じてくれたなら嬉しいですね。何かの刺激になれば幸いです。
さて、
インスタであげた写真↓
これ、どう感じましたか?
面白い、不思議、。。。
一体何を撮った写真でしょうか?不思議。。。
日常である意味、よく見かけるものです。あまりにも目の前にあり過ぎて逆に気が付かない気にも留めない、見ていてもまるで見ていないかのように通り過ぎてしまう場面です。
私はコーヒーを1日に2〜3杯飲みます。
飲んだ後、カップの底に多少飲み残しが残りますね。それが乾いて写真の様な模様が出来ます。それをジッと見つめたわけです。
ジッと見ると、そこには特別な空間が生まれます。そこで観るという行為に移行します。そうなると気になってしょうがなくなります。素通りせずに立ち止まるという非日常の時間空間に身を置く事になります。抽象の扉を開ける行為です。抽象の意味の一般的な使い方はあるでしょう。しかし、私にとっての抽象は、こんな行為から生まれるものです。
漠然としていますが、これが「私の抽象」の定義の様なものです。ちょっとまだボヤけていますか。自分にとっての整理にもなります。これは大切な事です。
もう少し言葉が出てきましたら、また書きます。
2024年10月12日
私が私自身のために私が書いて私に伝える入門なのです
再改めまして「私の抽象芸術入門」について。。。
以前にも書きましたが、私の「抽象」の鑑賞ポイントは『感じる』です。
自分がどう感じたか、そこが重要なのです。
さて、
抽象芸術とサブタイトルで書いておきながら作品は写真ばっか載せてるなぁと舌打ち発言が聞こえてますね、きっと。
抽象度を伝えるのに言葉を使いますが、単語そのものは伝わる分かる必要がありそれ自体具体的な言葉です。それを抽象的に捉えたり、認識理解よりも感じることで抽象的に作品を感じ得るのかなと個人的に思っています。作品を見て何かメッセージ性を感じたりつまり報道写真のように何を撮りたかったのか多方認知可能なもの、美であったりエロスであったり受け取る側でも対象や目的が一般的に認識可能なもの、技術的にも評価の対象となるもの、商業写真のような、であれば、抽象度は低く鑑賞可能な一般的作品と言えて安心して観ることはできますが、私の撮って写真は、確かに何を撮ったかは分かりますが何故それを撮ったのかが不可解に思えることでしょう。それは抽象絵画を観て理解しようとする時に起きる混乱と似ています。なので私の写真は実は抽象的な写真とも言えるわけです。これはあくまで私個人的な解釈で研究者や先生の発言ではありません。
タイトルに入門とありますが、私が私自身のために私が書いて私に伝える入門なのです。自身の考えを書き残しそれを読み返し自ら再発見したり学んだり気付きが得られるためのものです。この書込みの内容に興味のある方のみお読みください。
まぁ、興味無い人はそもそも読まないから、気にしなくていいかぁ。
話を戻します。
私の写真は作品として、観て感じる要素が大きいため、抽象度は高いと思っています。
つまり、自分でこれを引っくるめて抽象芸術と呼んでいます。だから私の写真も抽象的何です(意味的にね)
書くことは得意ではありません。ただ自分の考え想いを記録、整理の為に、振り返って自身の理解のために書いているに過ぎません。読み辛いところは御了承下さい。
2024年10月07日
いつか消えてしまう。誰かに知られる前に消えていく。初めから無かったかのように。でも確かにそこに存在した。私もそこにいた。その記憶も私とともに消えていく。私の撮っている風景はそんな風景。
2024年07月22日
形容し難い行為、これを【私の抽象】って名付ける事にしようと思います。 だから、「私の抽象芸術入門」は、「【私の抽象】芸術入門」って事になります
偶然に、このブログに辿り着き、そして、この記事をご覧になっている事に、感謝致します。拙い文章ですが、真剣に書いていますので、どうかスルーせずに最後まで読んで頂けたら幸いです。
私は写真を撮ったり絵を描いています。しかし、それで生計を立てているわけではありません。かと言って、単なる趣味や道楽でしているわけでもありません。生きていく上で必要であるからしている、と言う言い方が今は一番しっくりきます。
私は先生でも評論家でもありません。語っている文言は経験や考えが基になっています。学歴や権威を気にしたり、それが無いヤツの言動など価値無しを思っているのであれば以下の記事は無価値に思うことでしょう。時間の無駄ですので早々に他に行かれる事をお勧めします。
「絵も人間と同じ 肩書きで判断してはいけない〜by赤瀬川原平」
肩書きで判断しない方であれば、是非、最後まで読んで頂けたら嬉しいです。ただ、無理にとは申しておりません。興味がある程度で構いません。
そう言っても、この場は、自分自身の思考の整理の為に書いている場であります。他の人が読んで何を感じるか全く考慮してません。ですので違和感があって当然だと思います。しかし、その違和感を含め思考を覗き見することに興味がある方であれば楽しめるのかなとも思います。
前置きが長くなりましたが、始めていきます。以前の記事もいろいろありますのでそちらもお時間ありましたら是非読んで頂けたら嬉しいです。
さて、私はこのブログで「私の抽象芸術入門」を行っています。以前も申し上げたようにこれは私自身の為の内容です。自分にとっての抽象とは何か、抽象ってそもそも何か、なぜそれが私にとって必要で私は何故それにこだわっているのか。体験や経験、一般的な意見から個人的見解も踏まえて全く自己流のある意味偏っているけど自分にっての本当のものに近づけるためにもがいている記録でもあります。ただただ忘れないように書き留めているだけのものです。しかし、私の作品を気に入ってくれた人が、作品を深く感じたり理解するのにこの文章は少し役に立つかも知れません。役に立って頂けたら嬉しいです。
『抽象』は、単なる言葉。
得体の知れないものが私の身体の中にうごめいています。何だか説明し難いです。それをとりあえず吐き出す行為、それによって視覚的に見えるようになったものをひっくるめて抽象って言ったりアートって言ったりしてます。抽象芸術は先人が定義したひとつの様式表現でしょう。だから、それとごちゃ混ぜにすると理解不能になるかも知れません。誤解を避けるため、よりよく私の作品や作品を制作するに至った想いや考えを知って欲しくて書いている。これも目的の一つです。
ひょっとして、同じように想い、活動している方がいるかも知れません。
観て感じる行為。
私の中の基本原則、なんて言うと大袈裟ですが、撮ったり描いたり観たり、この行為は、感じることが第一にあります。技巧的とか感動的とかではなく、言葉になる前のココロの動き、変化、揺らぎなどを大切にしていると言う意味です。何かを感じると立ち止まります。何だこのザワザワした感じは?何か気になる。立ち止まり全身で受け止める。
形容し難い行為、これを【私の抽象】って名付ける事にしようと思います。
だから、「私の抽象芸術入門」は、「【私の抽象】芸術入門」って事になります。
何か少しスッキリした感じがします。
写真を撮る、これも【私の抽象】的な行為なのかなぁ。
切り取る、という行為そのものは、既にアートの行為になります。そもそも現実の時間の流れで世界をある瞬間で切り取るのは撮る行為、つまり写真です。現実でありながら実際上決して体験のできない切り取り行為を結果として写真を媒体として体験するわけです。抽象芸術にしてもこの世に存在しない素材でなく身の回りの見慣れたモノ、見慣れた過ぎて気付かないモノに視点を向けることで生じると言ってもいいのかも、と私は考えています。
電柱に架かる電線は、もちろん目的があって架かっているわけです。一方の電柱からもう一方の電柱に。これは具体的な映像であり、抽象でも何でもないものです。でも、自分の視界のある部分で切り取ると本来の電柱電線という関係では無い得体の知れないオブジェに見えたりします。この現象は一体なんでしょう。私の頭が変になったのでしょうか。そもそも電柱を観てそれを純粋に電柱と見えない自分に自分自身違和感を感じたことはあります。何だこの感覚は。何が自分の中で起こっているのだろうか。そうなると、全ての対象についてオブジェ化する視点が芽生えます。あるものを見て、〇〇にみえるとか似ているとかそんな感覚の延長線上にこの変な感覚があるのでしょう。そう観たり感じる事で安心するのでしょうか。得体の知れない何かにこれは〇〇だと思い込むように、面白いカタチにみえる感覚を楽しんでいるのでしょう。癒しはこの安心感が必要なのだと思うのです。電柱の魔法のような不思議なチカラでしょう。
そもそも電柱は抽象か?それは撮る人、観る人の感性です。私は抽象的に観てしまう時があります。だから、そんな時は、違和感があり写真を撮るのだと思うのです。もちろん違う解釈もあり全く対立する意見もあるでしょう。否定しません。
最近は、専ら写真撮影に専念しています。そんなことで写真について知らず知らずに語っていますね。
本当に自分が「ハッと」したり、「これは、、」と感じて、思考的にまとまった判断も無く直感的にシャッターを押す場合、これがおそらく撮りたかった写真に最も近い写真ではないかと思っています。もちろん、じっと眺めているうちに妙に気になった場面もやはり撮りたい写真だと思っています。
私は写真を撮ったり絵を描いています。しかし、それで生計を立てているわけではありません。かと言って、単なる趣味や道楽でしているわけでもありません。生きていく上で必要であるからしている、と言う言い方が今は一番しっくりきます。
私は先生でも評論家でもありません。語っている文言は経験や考えが基になっています。学歴や権威を気にしたり、それが無いヤツの言動など価値無しを思っているのであれば以下の記事は無価値に思うことでしょう。時間の無駄ですので早々に他に行かれる事をお勧めします。
「絵も人間と同じ 肩書きで判断してはいけない〜by赤瀬川原平」
肩書きで判断しない方であれば、是非、最後まで読んで頂けたら嬉しいです。ただ、無理にとは申しておりません。興味がある程度で構いません。
そう言っても、この場は、自分自身の思考の整理の為に書いている場であります。他の人が読んで何を感じるか全く考慮してません。ですので違和感があって当然だと思います。しかし、その違和感を含め思考を覗き見することに興味がある方であれば楽しめるのかなとも思います。
前置きが長くなりましたが、始めていきます。以前の記事もいろいろありますのでそちらもお時間ありましたら是非読んで頂けたら嬉しいです。
さて、私はこのブログで「私の抽象芸術入門」を行っています。以前も申し上げたようにこれは私自身の為の内容です。自分にとっての抽象とは何か、抽象ってそもそも何か、なぜそれが私にとって必要で私は何故それにこだわっているのか。体験や経験、一般的な意見から個人的見解も踏まえて全く自己流のある意味偏っているけど自分にっての本当のものに近づけるためにもがいている記録でもあります。ただただ忘れないように書き留めているだけのものです。しかし、私の作品を気に入ってくれた人が、作品を深く感じたり理解するのにこの文章は少し役に立つかも知れません。役に立って頂けたら嬉しいです。
『抽象』は、単なる言葉。
得体の知れないものが私の身体の中にうごめいています。何だか説明し難いです。それをとりあえず吐き出す行為、それによって視覚的に見えるようになったものをひっくるめて抽象って言ったりアートって言ったりしてます。抽象芸術は先人が定義したひとつの様式表現でしょう。だから、それとごちゃ混ぜにすると理解不能になるかも知れません。誤解を避けるため、よりよく私の作品や作品を制作するに至った想いや考えを知って欲しくて書いている。これも目的の一つです。
ひょっとして、同じように想い、活動している方がいるかも知れません。
観て感じる行為。
私の中の基本原則、なんて言うと大袈裟ですが、撮ったり描いたり観たり、この行為は、感じることが第一にあります。技巧的とか感動的とかではなく、言葉になる前のココロの動き、変化、揺らぎなどを大切にしていると言う意味です。何かを感じると立ち止まります。何だこのザワザワした感じは?何か気になる。立ち止まり全身で受け止める。
形容し難い行為、これを【私の抽象】って名付ける事にしようと思います。
だから、「私の抽象芸術入門」は、「【私の抽象】芸術入門」って事になります。
何か少しスッキリした感じがします。
写真を撮る、これも【私の抽象】的な行為なのかなぁ。
切り取る、という行為そのものは、既にアートの行為になります。そもそも現実の時間の流れで世界をある瞬間で切り取るのは撮る行為、つまり写真です。現実でありながら実際上決して体験のできない切り取り行為を結果として写真を媒体として体験するわけです。抽象芸術にしてもこの世に存在しない素材でなく身の回りの見慣れたモノ、見慣れた過ぎて気付かないモノに視点を向けることで生じると言ってもいいのかも、と私は考えています。
電柱に架かる電線は、もちろん目的があって架かっているわけです。一方の電柱からもう一方の電柱に。これは具体的な映像であり、抽象でも何でもないものです。でも、自分の視界のある部分で切り取ると本来の電柱電線という関係では無い得体の知れないオブジェに見えたりします。この現象は一体なんでしょう。私の頭が変になったのでしょうか。そもそも電柱を観てそれを純粋に電柱と見えない自分に自分自身違和感を感じたことはあります。何だこの感覚は。何が自分の中で起こっているのだろうか。そうなると、全ての対象についてオブジェ化する視点が芽生えます。あるものを見て、〇〇にみえるとか似ているとかそんな感覚の延長線上にこの変な感覚があるのでしょう。そう観たり感じる事で安心するのでしょうか。得体の知れない何かにこれは〇〇だと思い込むように、面白いカタチにみえる感覚を楽しんでいるのでしょう。癒しはこの安心感が必要なのだと思うのです。電柱の魔法のような不思議なチカラでしょう。
そもそも電柱は抽象か?それは撮る人、観る人の感性です。私は抽象的に観てしまう時があります。だから、そんな時は、違和感があり写真を撮るのだと思うのです。もちろん違う解釈もあり全く対立する意見もあるでしょう。否定しません。
最近は、専ら写真撮影に専念しています。そんなことで写真について知らず知らずに語っていますね。
本当に自分が「ハッと」したり、「これは、、」と感じて、思考的にまとまった判断も無く直感的にシャッターを押す場合、これがおそらく撮りたかった写真に最も近い写真ではないかと思っています。もちろん、じっと眺めているうちに妙に気になった場面もやはり撮りたい写真だと思っています。
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2024年05月23日
ただそれで生きて死んでいく。そしてその中で、私の作品を何らかのキッカケで出会う人との関わり、そして、彼らもそれを観て何かを感じ何かを社会に対して起こすかもしれません。この相互の化学反応が私の今世の役割の一つかも知れません。その行為に有名も無名も関係無いと信じています。
「私の抽象芸術入門」って何なのか、何の為に書いているのか、何故このタイトルなのか、何を書いているのか。
ここのサイトに訪れて読む中で、まず感じることでしょう。改めて整理しておきたいと思います。(自分の為にも)
何を書いているのか?
私は研究者でも先生でもありません。作り手として日々想い考えもがいている事の記録として、このブログを書いています。後々自分が振り返ってあの時想っていた事感じたことを感じ取る為の記録なのです。
入門としているのは、この振り返りの記録を基に自分の作品を再度見つめ直したり新たな出発点とするために自分にとって改めて門をくぐるという意味で入門としたのです。以上でおおよその?の回答はしたかと思います。
読み手に優しい書き方はしてません。内容も定まっていない場合も多いです。自分の為に記録として書き留めているだけなので、こんな書き方なのです。それでも、気にかけて最後まで読んで頂けた方は、貴方の考える芸術感を是非聞かせてください。これも何かのご縁ですから。
さて、今回も自分の為に書き留めておきます。
当たり前としてそこにあるもの、目にしているものは、当たり前すぎて愛おしくも何ともなくなるのですね。それが目の前から消えて初めて気付くわけです。残像をみたり、面影を追ったり、当たり前として流していた時間の貴重さに後から気がつくのです。そうなってからそれを再現しようとしてもなす術がないわけです。その経験の積み重ねが、ものに対し抱く愛おしさになると思っています。当たり前過ぎている二人の時間もそれがどれだけ貴重で大切だったか、今はそれを知っているから、ただ二人でボーッと空を眺める時間、ぶらぶらと散歩する時間を大切にしています。写真に撮る何気ない一面もその想いが根底にあります
私はアートについてそして写真について勉強もしたし多くの著名な書籍も接しました。私の考えにはそれらの知識は当然影響はしています。考えを適切な言葉として発言する際に彼らの言葉を参考にさせてもらったこともあります。しかし、本音で言えば、そんな言葉を借りず自らの生み出した言葉で言い表したいですね。それでもがいているのかなあ。私以上に知的才能に富みセンスの良い言葉を借りた方が的を得た気の利いた言い回しになり読み手も安心して読めるし容易に私の思考に触れた気になれるかもしれないです。しかし、そんな気になるだけでモヤモヤは残るはずです。著名人をあげて得た知識を披露したりそれで分かった気になって語ることはしたくないですね。時に知っているが故に語ってしまいたい気持ちも分かります。しかし、それは所詮自分ではないのです。
自分が生で体験して、本当に自分にとっての写真とは、芸術とは、それを問い続けて死んでいく自分を俯瞰して、時にはもがき、自分が自分にとって自分が観てもワァーいいなと感じる瞬間を切り撮る事に全力をかけているわけです。
ただそれで生きて死んでいく。そしてその中で、私の作品を何らかのキッカケで出会う人との関わり、そして、彼らもそれを観て何かを感じ何かを社会に対して起こすかもしれません。この相互の化学反応が私の今世の役割の一つかも知れません。その行為に有名も無名も関係無いと信じています。
今回は、このブログを書く目的をお伝えしました。
2024年03月09日
何気なさに不思議さを感じます
私の抽象芸術入門は、
毎度提言しておりますが、
「私の」ための「抽象芸術入門」であり、
それ以上でもそれ以下でもありません。
純粋に私の記憶の覚書として書いています。しかし、
たまたま通りかかって読む人がいて、
その人が何らかの刺激や発想を得られたのなら嬉しい限りです。
見るもの全て私にとっては教材です。
抽象芸術の対象はまさに見るもの聞くもの触るもの嗅ぐ味う等で、
制作行為は感覚の全てを導引して直感に従い感覚的に吐き出すことです。
何気ない動作や事物の現象は、
忙しい皆様には単なる背景に過ぎない事でしょうが
妙なところに触手が伸びる私にとって
何気なさに不思議さを感じます。
一度見据えると気になって、
凝視すると何か面白いものに見えてそれが発想の源になります。
今日は輪ゴムを取り上げます。
輪ゴムは、特に
絡まった輪ゴムは、
いつもイライラの元ですが、
じっくり見据えて見ると
この絡まり方が何とも言えずアート的で
飽きずに楽しむことができます。
身近であまりにも何気なく
気にも留めていない輪ゴムだからこそなせる面白さです。
2024年02月03日
大したことないけど、作品は皆良いんだよなぁ。何か良い味出しています。大したことないけど、皆さんスゴイと感じます。
夕日を観て「ああ綺麗だな」と思えるのは、私だけで無く皆も思うのであれば共通の感覚として受け入れられるし、それを絵にしたり写真にしたりすれば、それは皆も感動する作品になりうるわけです。自分がそれを自分の作品とするには自分なりの工夫が必要ではありますが、例えそれが自分が感動し皆も感動するからといって、それを自分が本当に描きたかったのか否かは別の話なのです。しかし、描きたい絵が、そして、撮りたい写真が、皆が好んで観る作品になりうるかと言われるとそうでは無い、と思うのです。綺麗な夕日も撮りますが、道端に捨ててある空き缶も撮ります。個人的に絵は、写実画は描きません。それは、写実的に描けないということもあります。私は、観たものを忠実に描くよりも感じたことを感じたままに描くことに誠実でありたいと思うからです。これは、他からみれば写実的に描けない言い訳と聞こえそうですが、その意見もまた事実でしょう。自分が心地良く描けるものを描くのが一番だと思うのです。
大したことないけど、作品は皆良いんだよなぁ。何か良い味出しています。大したことないけど、皆さんスゴイと感じます。インスタにAIに選択操作され似た感性の作品ばかりアップされてきて余計に刺激される私がいます。似た感性が世界にこんなにもいるんだと思うとウンザリしますが、孤立して無いなという感覚にもなりホッとする瞬間でもあります。
2024年01月01日
何処にいても何を観てもブレずに自分の感性を大切に維持して行こうと思っています。
2023年11月17日
結局のところ分かっている人は少ない。おそらく、理解できないか理解しようとしないか、そもそもそれ以前の問題か。
ひと月の間に思ったり感じたりした事をその都度メモの代わりに書き留めて記事に仕上げています。ここは、まさに私にとっての覚書をする場なのです。なぜなら、その時に湧き上がった言葉を書き留めて置かないとそれを考えていたことも忘れてしまうからです。後で読み返して再認識する事で正に自分自身の気付きにもなります。そこには他の読者はほぼ介在してません。読みたければ読めばいいし恐らくこんなに長たらしく無意味に思える記事を時間の無駄だとそもそも読まないと思っているからこそあえて私は書きたい事を書いているのです。しかし、それでも物好きな人もこの世にいる事も確かですから、この記事を読んでいる人もいるかも知れないし、読んで何か刺激を受けるかも知れないしバカな奴だと優越感に浸る人もいるかもしれないし、それでも何かを感じて頂けたらそれはそれで個人的には嬉しい気もします。
ここ数年、諸事情で週に一度、実家に帰る事になっているので母親と話す時間は多く取れるようになりました。そのおかげで今まで知らなかった母の幼少期や学生時代の事も断片的ではありますが聞く機会に恵まれています。生まれてきて半世紀以上経ちましたが、それまでほとんど母親とじっくりと話す機会はありませんでした。親の生きてきた記憶よりも他に魅力的な事があると勝手に思い込んで見向きもしていなかったのです。しかし、人生いろいろ経験していく中で思う事もいろいろ出てきました。私自身、家計は苦しいですが生活は案外楽しいです。ある意味で幸せな時でもある感じがします。お金は大切ですし出来れば欲しいです。しかし、幸せはそれとは別のところにもありそうです。
さて、芸術の話です。
どんなに大変な時でも、ハッとする場面に出くわすと感動したり、カメラを持っていたらシャッターを押してしまう、その感覚はアーティストなんだと思います。私は「孤高最高」のアーティストなのでしょう。
結局のところ、
もっとも、これはもし誤解がなければですが、
最近のアートは、多方、大したこと無いと私は感じているのです。
どうせ誰も読んでいないので個人の覚書として書いています。初期の人類と呼ばれる段階まで遡って、砂地や木の幹に落書きのような模様をらしきものを誰かが描いたところから模倣が始まり、それをなぜかそれを見て面白いと感じた変わり種がそれを模倣し改善を加え、そしてその連鎖が体系化してある時は宗教に利用されたり戦いに利用されたり金儲けに利用されたりして進化を遂げてきたのでしょう。その中で純粋なアートはとっくの昔に隅に追いやられてしまったのです。純粋なアートととは、自分だけのアートです。心の支えになり自ら対話できる大切な存在なわけです。純粋なアートを純粋なまま向き合えば自らが悩んだ時でも死なずに支えてくれる大切な存在となるはずなのです。多くがそれに失敗してます。多くが死に至り、多くが身を持ち崩してます。自己を見失うのです。巷にある評価されている作品を見てもやはり誰かの影響をもろ受けている作品に溢れています。それはそれで別に構わないです。勝手にやれば、という話です。私も当然、影響を受けています。でも、それは仕方のないことです。生まれて自我が目覚めるまでの間に何らかの情報が既に目に触れインプットされていますから。そこから独自の路線に行くのは結構厳しいものがあります。独自路線を行っているなと感じる指標は何だと思いますか。せっかくここまで読んだ方にはこっそり教えましょう。それは、誰からも見向きもされない作品のことです。誰も評価すらしない作品。そこに本来の独自性があるのです。大抵、誰かが共感します。そこからどう抜け出すか。今後の力量が問われるところです。そう思うと今後の制作がワクワクしてきます。
私は、「孤高」という言葉が好きです。多くは、意固地とか独りよがりなどと別の見方をしてる人もいるようですが、自分の感覚を大切にしている人と私は捉えています。たまに、共通する感覚に出会す場面があります。共感にホッとすることも確かにあります。どこかに安心感を持ちたいからでしょうか。本音を言えば孤独で制作する時は寂しい時もあります。賑やかで華やいでいる向こうの居場所のが本当は良いかもと思う時があることも事実です。人間ですから気持ちは揺れ動きます。でも、誰からも評価されない見向きもされない事があってもそれでいいです。自分の感覚にウソをついてまでして迎合したくない気持ちがやはり強いですね。これは作品制作に限っての事です。日々の生活は助け合って仲良くみんなと過ごしたいです。これも自分にとって居心地の良いという事ですが。自分にとって居心地の良いところはきっと相手にとっても居心地の良いところだと思います。そのように考えると自分にとって心地よい作品も、その中には相手にとっても心地よい作品の要素はきっとあるんだなぁと思う時もあります。もしそうなら「いいね」も悪くないです。矛盾している様にみえますが人間とは本来そんな存在だと思っています。私の中のアーティストは孤高な変人ですが、本質は人が好きなんだと思うのです。相手の作品は確かに大したものでは無いにしてもその人の技量や熱意は評価に値するものばかりです。観てもハッとするものも確かにあります。しかし、所詮大したこと無いです。人や人が生み出したAIにしてもそこからの創造力はたかが知れてます。自分も結局そうです。ただ、皆、自分だけ特別と思っているだけです。一歩引いて見ると面白いです。この面白いという感覚が実は本質的でスゴイと感じるのです。裸の王様のごとく高評価に祭り上げられてバカ天狗になった作品は多いです。そんなものなど観るか、って感じです。評価するのは当人ではなく第三者でしょ。もちろんその人は純粋に共感したかも知れません。おそらく相手が好きなら恋愛の延長線上にその作品があるのでしょね。しかし、多方それだけではありません。作家を利用して一山当てたいと考えている人もいることでしょう。作家もそれで生きていくわけだし、お互い利益があるわけです。つまり、ある意味で職人が作った商品ということなのですね。私とは無縁と感じます。賛否はありますが別にほとんど読まれていない私のこの記事なら害はないでしょう。本来アートは、金にもならん事を熱心にやる時、面白さが見えてくるのでしょうね。私はそう感じているのです。
私の抽象芸術入門はこの様な方向(私の独自路線)で私の求めるアートの本質に近付いていきます。作品を前にして技法を説明したりするより悩み考えている時間の方がはるかに長いのです。一般の教室では意外と素通りされ普段教えられていない事をここでは追及していきます。
2023年10月14日
私の創作行為は、誰も知りたくも無いでしょう。そもそも私の作品自体に関心すら無いでしょうね。今の私にはそんなことはどうでもよいと思っています。自分にとって気に入る存在、そこを大切にしています
変化が無い事に、その様な状況下で何かを感じ取るのは至難の業ですが、そこから何かを見出すことができた時は、自分の中で「スゲェ」と思ってしまうものです。しかし、変わらないといっても同じでは無いのです。変わっていないと錯覚しているだけなのです。
映画に非日常性を求めるのは現実の社会で何かを見出せなかったからでしょうか。
今回も自分の為に書いています。
このブログにたまたま辿り着いて来た方には、この長い文章を読む気力も興味も時間も無いのでおそらく最後まで読まないと思います。その事を想定して今自分が思っている本心を正直に書いていきます。興味ある方はそのままお読みください。
IQの高低は、確かに評価基準の一つですが、一側面に過ぎないことも確かでしょう。身体能力の高低もあるし、サバイバル本能の高低もあるし、一つの機能だけを殊更騒ぎ立てるのは仕方のない事かもしれませんね。写真のような精密な描写が出来る人だけが絵画的才能が高いと評価されるとしたら絵画の世界は狭い視野しか持たないつまらない世界になります。私はこの世界に生まれた人には何らかのそこに存在する理由があると思っている人です。どんな些細な事でもその人にしかできない何かを持って来ていると思うのです。自分を基準に相手を見ると高低差しか見えない人とそれぞれいるなぁと思える人とで人生の楽しみ方が変わってくるんだろうなと感じています。差しか見えない場合、同時にそこには損得勘定が働いているようにも感じます。人間ですから自分も含めそう感じると相手を非難したりするようになります。そういった感情に浸ると逆に相手も自分をそんなふうに思っているんだろうと思うようになってしまいます。そうなると生き辛くなります。そう感じていた時期がかなりありました。親戚の死や親の高齢や自分も還暦が近くなって「死」について考える機会が増え「一期一会」の意味を自分なりに自分の言葉として考えるようになりました。一期一会を感じると怒りも悲しみも大幅に軽減されとても気持ち良く生きられます。身近な人との別れ、それは関係が無くなり会わなくなることや旅立っていくことなどありますが、そういった事も含めて人生なのだと捉えると気持ちが楽になります。それを無理してそう思い込むのではなく自然と受け入れるようになって来たと最近感じるようになりました。一生懸命練習してもなかなか上手くいかない。それは今はそのタイミングでは無い、時期を待てという事なのかと捉えると諦めずに続けていこうと思えるようになります。ずるい事を先回りしても自分にその能力が備わっていなければ結果失敗します。今、上手くいってなくても続けていく事でその時期が来れば上昇の風に乗ることが出来るでしょう。それを信じています。
知識の積み重ねや論理的思考を鍛え上げた上で更に柔軟な発想力と創造力に長けた人、いわゆる天才的な人は確かにいます。学問や科学技術的な分野の人です。同じ様に芸術の世界にも並外れた能力や技を持つ人がいます。天才的といわれる人ですが、この人は前者とは趣きが異なっているように私には思えます。あくまでも個人的な意見です。前者と後者は明らかに路線が異なっていると私は感じます。学者でも評論家でも無い私には言葉足らずで上手く伝えられません。あくまでも今まで生きてきて感じてきた感想です。柔軟な発想で楽しくこの世を生きている人にとって目に映るこの世の景色は私とは異なる事でしょう。同じものを見ていてもきっと違って捉えているのでしょう。どちらが良いとか幸せとかそれは決めることはできないと私は思います。いろいろあってそれで良い、と私は思うのですが、必ずしも相手はそう思っていないことがほとんどです。自身にしても今日と明日では異なると感じます。私自身上手く伝えられないと言いながらこうして記事を書いているのはどういう事なのか、自分なりに思いますが、やはり、自分自身の為の記録なんだろうと再認識しました。自分が今想い考えたことを自分自身が忘れないように書き留めておこうと思ったのです。あと何日、この世の景色を見ていられるのでしょうか。大好きなパートナーもその時が訪れば旅立つことになるのです。今は自分に触れる全てのものが愛おしく感じています。ここで生きているその事自体に特別な想いがあります。
誰かに見せる、そして誰かが見た瞬間にその対象が作品として成り立つことになるのでしょう。
誰かに見せる、という行為は、それがアートを含めどんな行為であっても人に見せる行為の動機には承認欲求が必ず含まれているんでしょうね。そうでなければ人に見せたいとは思わないはずなんです。見せたいから見せる。見せたくないから隠す。アーティストでもその使い分けはしていることでしょう。見せたくないものは、そのアーティストにとっては大切な何かなんでしょう。大切なものかその人にとっての恥部か、どちらにしても人には見せたくないのです。その人にとってのそれは未だ作品と位置付けてはいない存在だと思うのです。だから作品とは人に見せるものなんです。作品は、そのアーティストが見せたいものですが、公開しても知られなければ、そこにあっても存在していないのと同じようです。社会ではアーティストの意向に関わらず社会にとってのニーズが無ければ一般的に一部の変わった人にしか目に留まりません。多くのアーティストの作品はそうです。私もその一部です。
分断がおきています。少なからずそう叫ぶ人がいるのでさほど驚く事でも無いでしょう。考えるべき事は、その事に翻弄されているか否かなのでしょう。影響力がある人がメディアで叫ぶとそちらに私達は視線が向いてしまいます。分断良く無い、何とかしないといけないですね。とか、分断は避けられない、少数側を擁護しなくてはいけないですね。とか、そちらに視線が向いてしまいます。優位に立っている人が分断についてことさら強調しています。分断を差別といったり格差といったり言葉を変えそこにあたかも境界線がある様な言い方をしています。「現実にあるんだからしょうがないだろう」と言ってしまえばそれまでですが、その事自体に洗脳や誘導があったりします。裸の王様みたいにそこにある、と言い張れば存在していなくてもあたかもそこにあるかのような思い込みをしてしまうのでしょう。格差にしても差は、力を持ったものがつくりあげているのでしょう。少数派や弱者にその差を植え付けます。多数派や強者に歯向かわないようにするためです。戦意を喪失させ無気力化させるのが狙いです。そうしておいて弱者支援って違和感があります。分断することで誰が得をしているのか、俯瞰して見る視線は必要かと私は思っています。人は個々に違います。それをどの様に意識することが大切です。違いを違いとして意識することです。無理に同調したり、平等感をもたせたり、皆んな仲良くとか、そう言った偽善的な上辺だけの取り繕いではなく、もっと本質な事、自分のことをしっかり考え、それと同じくらい相手のことも考える姿勢といったコアな本質に目を向ける行為が求められているのかなと感じるのです。とても言葉足らずです。想い感じていることを上手く伝えられません。
わざわざ分断させておいて、それをことさら問題視して差別や区別を助長して争わせたり偽善的に擁護したり、何処か本来性から外れた方向に社会が進んでいるように仕向けているように感じます。
今、ここで書いていること、これは、別に誰かに頼まれて書いているわけではありません。今この瞬間、書きたい書いておきたい。書いておかなくては忘れてしまうから書いているんだと思うのです。今、自分が考えたこと、少なくとも自分の気の済むまでの間は、これを書き残しておきたい。結局、それは自分が今ここに居て考え書き残した事を誰かに覚えていて欲しい承認欲求でもあるのでしょう。それでもいいんです。人はそれぞれ何かを残そうとします。母親は、編み物が好きです。得意でもあり彼女のライフワークでもあります。昔はいろいろなものを制作していましたが、高齢になり今は一日に巾着を一つつくるのが精一杯です。ハンドメイドはプレゼントとしては最高だと思っています。その人の存在を感じるからです。料理が好き人は知人に料理を振舞うでしょう。私なら絵と写真かな。歌が好きな人は歌を歌い相手に感動をあたえます。ハンドメイドのプレゼントが苦手な人もいます。重荷に感じるそうです。
高価なモノを購入してプレゼントする事に慣れきってしまうとハンドメイドは陳腐に感じるでしょう。人それぞれ想いは異なります。私は、
自分の時間を使ってこうして書いています。書きたいから書いておきたいから書かずにはおられないから書くのです。
その根底にはやはり自分が今この場所に存在している想いを残したいという承認欲求なのでしょう。そんなもの何れ無くなるわけですがそれでも書いている自分がいます。不思議です。
結局、目の前の事しか関心無いでしょう。一歩先の事とか脇道に咲く花を見る余裕が無いのでしょう。自分もそうです。必要があったり、行動を促す関心のある事でしか、そもそも見ない。
雨上がりの夜空を見上げる。そのまま星空に溶け込んでしまいたい。
映画「あん」で、徳江と言う名の女性が言った言葉が記憶に残っています。
「私達はこの世を見る為に、聞くために、生まれてきた。この世は、ただそれだけを望んでいた。 …だとすれば、何かになれなくても、私たちには生きる意味があるのよ。」
自分が自分の存在っていったい何だと分からなくなった時、疲れ果てて夜空を眺めます。雨上がりの澄み切った星空に自身が吸い込まれそうになります。自分は一部でもあり全体でもある。溶け込んでいて分けることはできない何かなのだろうなと感じるのです。
そんな時にこの映画に出会いました。徳江さんの言葉に頷きました。自分で解釈して何かを発するとどうしても綺麗事の様に聞こえたり、何か上か目線的に語っている様に見えたり、言葉の表現に乏しい私には誤解を招いてしまうので、言及はしません。興味あれば一度ご覧下さい。
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自分の為に書いているブログですが、誰かが見ているという前提で書いています。
私は、
「関係」というテーマで絵を描いています。
私は、研究者でも評論家でもありません。純粋に自作を探求しているだけです。あえて言葉にして他者に伝えるなら「関係」が思い浮かびました。
私の創作行為は、誰も知りたくも無いでしょう。そもそも私の作品自体に関心すら無いでしょうね。今の私にはそんなことはどうでもよいと思っています。自分にとって気に入る存在、そこを大切にしています。
2023年09月19日
いろいろあって、それでいい。いろんな中の一つとして自分がある、そんな感じです。
絵を描いたりオブジェを制作したりし続ける人の多くは、環境が影響していると私個人は思います。周りの人が理解を示し褒めたり応援してくれたり支援してくれるから続けていけると思います。幼児の話しです。大人の真似事の様なアートをやるには子供でも金がかかります。それを快く出資出来る環境が必要ですがそうなるとその段階で格差が見えるのは当然ですね。金があってもそれをさせてくれない環境もあり、これはもう運以外には考えられないですね。私は100人いたら100人のアーティストがいると考える人です。しかし、現実的には100人のアーティストはいないわけです。アーティストになる最大の要件は「続ける」ことです。その人に続ける気力が必要になります。有名無名に関わらず続けなければアーティストでは無い。有名無名の要件は「運」だと思っています。運はどうしようもないところがあります。でも、続けないと運に巡り合う可能性は減ります。この明確な要件が出せる根拠は、アートに絶対的な基準が存在しないからです。教科書で基準が明記されているんじゃないか。誰もが認める作品があるじゃないか。でもそれは、マジョリティが勝手に押し付けた考えであってそれは絶対的ではないのです。金と権力がありカリスマ性のある極少数の集団が広めた規格にすぎません。歴史を見れば明らかですよね。価値観が多様化してもそれらをコントロールしている勢力は依然として引き継がれているので根本は変わってはいないのです。それを無くす事は彼らの食い扶持を無くす事でもあるわけで絶対に無くすはずがありません。ですので今でも狭い美観の範囲内で騒いでいるわけです。需要と供給の中でアーティストは上手に利用されているのです。
あくまでも個人の思っていることです。
アーティストの中には野心的で社会をこの世界を変えてやろうと思って活動している人がいます。何かになる事が重要だと思っているわけです。歴史に名を残す。富や権力もアートの世界であっても力強い存在です。それを目指して皆努力しているのです。しかし、多くはこの路線すら乗れずに周辺を彷徨っています。私は、そのどちらでも無く、全く別の路線に乗っている感じがします。最近、そう感じることが強くなっています。
私は、自分が良くて他が良く無いと言っているわけでは無いのです。同じ立ち位置で全てを見ています。いろいろあって、それでいい。いろんな中の一つとして自分がある、そんな感じです。冒頭の100人アーティストです。皆、アーティストなんです。だからまず、心を解放して手を動かしてみましょう。自分の世界が広がるはずです。私のしているアートはそこにあります。
『私の抽象芸術入門』では、淡々と私の探求をしています。
2023年09月02日
「理解出来ない」は、理解できない。
アートメーター
アートは理解するものでしょうか。
分かる、理解することはあるのでしょうか。
多くはそう思い込んで自己満足しているだけに過ぎないと私には思えるのです。
それなりに何らかの組織、協会、団体に関わったり、受賞等を経て認められ、それを後ろ盾にする事で世に知られる存在になりえているわけです。成功しているアーティストの話です。後ろ盾があるからこそ多くの人に知られてようやくその人の作品を観てみようと思うわけです。マスコミや専門家、評論家が褒め称える事で観る前から高い評価を受けている人だ、価値ある作品だ、だから下手な発言をすると自分が無知だと思われるから気を付けよう、と言ったバイアスがかかり、正常に作品に向き合えない事も確かにあります。私は、評論家のコメントは強制力だと思っています。純粋にその人の作品に向き合えないです。ただ、私は、評論家は必要無いと言っているわけではありません。彼等はアーティストを歴史の文脈で研究分析する上で研究者同様必要とされているからです。
例えば、出版されている写真集は評価された写真家が撮ったものです。しかし、この写真集が出来上がるまでに何人かのプロの専門家が何らかのカタチで写真集に関わっているはずです。写真はボタンを押せば誰にでも撮れる時代です。何を撮るか、構図や色合いなど、大して差は無いのです。だからこそ安心出来る後ろ盾が必要なのです。写真家は後ろ盾のおかげで何が社会的に評価されるのかを身につけていきます。後ろ盾に気に入られるとその様な撮り方で撮影するように自然と無意識的になっていきます。後ろ盾の意図を素直に受け入れ従順に振舞えば更に評価は上がります。そうでなければ社会的に消されます。この様にして後ろ盾の好んだカタチになっていきます。大物のお墨付きが付けば世間の目に触れる機会も増え、名の知れた存在になります。中には酔倒するようなファンもできるでしょう。アーティストは、後ろ盾自身にとっても生き延びるために必要な存在かもしれません。
社会の在り方を方向付けるのにアーティストは上手に利用されています。じゃあまともなアーティストは社会に無関心なのか、と問われそうですが、そうでは無く、作家自身に真摯に向き合っているのか、と言う問いかけなのです。アーティストは今を生きているわけです。社会の関わりを無視できないでしょう。関わりの中で自身の生きる意味を探す、その行為としての制作活動があると思っています。しかし、社会的に何の評価も受けていないアーティストは多いです。彼等は多方評価も受ける事なく消えていく存在です。彼等は関わりを持ちたいと思っていても社会側はあまり関心無い様です。私も社会的に何の評価も受けていないアーティストに過ぎません。それでも続けているのは、誰のためでも無く自分自身の為なのです。個人的には本当のアートはそこが原点だとおもっています。アートとかアーティストという言葉はそこには存在しないかもしれません。
アートは理解するものでしょうか。
分かる、理解することはあるのでしょうか。
多くはそう思い込んで自己満足しているだけに過ぎないと私には思えるのです。
私は、自分と向き合う為に描いています。作品を大切に思えるのは生み出した自分しかいないからです。少なくとも私だけはこの作品の擁護者であるべきだと思っています。作品は私に何かを伝えている様に最近感じ始めています。それが何なのか知りたい、ってことが今の関心のある事です。
ブログの記事では、その時その時で感じ方が微妙になったり脱線したりします。それは試行錯誤の現れで、それを感じる事が出来るのは正にこうして過程の記録をしてきた成果です。読み返して当時の心理状態、思考が分かります。自身にとっての良い探求資料です。自作の絵や写真の存在が何を意味するのか、何を私に伝えたいのか自分自身の探求なのです。その時その時の内からでる言葉、手が描く曲線、配色、それに、自分が切り取る風景の欠片の中に私は何を見つけるのか、ワクワクすることでもあります。
私は心に引っかかる何かを吐いて出したものがまさに私のアートなのかな、と思うのです。しかし、それは排泄物ではなく、私を私として確認できる何かとても大切な何か。何か自分に対するメッセージでもあると感じます。生まれてくる作品は私に何かを伝えているのです。大切な何かを伝えてくれているのですね。不思議さがあり、それを楽しんで制作しています。
「今まで、それを誰かに観て欲しい願望はあったのでしょう。今は、無いですね。何故なら、自分にとってのメッセージだとわかったからです。ブログに載せているのは、自分にとっての記録に過ぎません。時折読み返す事で、自身の成長過程が自身で確認できるからです。それ以上の目的は今はもうありません。たまたまこのブログに辿り着き何か興味を持って観ているのなら嬉しいですね。」。。。話を戻します。
事あるごとに頭の片隅にある引っかかりを思い出しジワっと染み込む不思議さを楽しんでいます。
私は、自分の作品が好きです。自分で観て自分でジーンと感じています。「これ、いいなぁ」と、自分で観てニヤニヤしています。そこには、自分自身に語りかける何かがあるのです。他人から何らかの評価を受ける対象ではありません。純粋に自分自身の感動用としての位置付けが高いです。だから、自分自身で鑑賞してお腹いっぱいになります。だから私は、他人の作品を観て感動することは減りました。ただ、自分が気付かない切り口を持っている人の作品は興味があります。それは、刺激になります。巧みさにはスゴイと感じます。しかし、多くは感動しません。ただ、全ての人の生み出した作品は敬意を持って観ています。それぞれ皆、大切な想いで生み出されたものだからです。それぞれはそれぞれの道を進んで欲しいと思います。何処かで接点があればそれは奇跡で嬉しい事です。だから、接点と言う言葉は好きです。
アートは理解するものでしょうか。
私にとっては、そこにあって感じるもの。
2023年08月02日
制作は孤独です。しかし、自己との対話でもあり、そこから新たな創作の糸口も見えたりします。およそ理解はされないことは分かっています。他人から見たら無駄な落書きでしか無い様に見えるものであっても、私にとって生きる上で必要な行為なのです。まさに自分自身の為に行なっていることなのです。その行為の結果として目に見えるものとして何か存在しているとしたらそれが作品と私が言っているものだと思うのです。
才能って、聞かれた時、何を思うでしょうか。
辞書的な意味をここで話しているわけではありません。
自分の成長過程で個人の内にある捉え方も想いも異なることでしょう。
人は皆同じではありません。それぞれ違うわけです。
その具体的な違いが別の言葉で才能と言うのだと私は思うのです。
社会がその時その人を必要とした時、その差異が一般的に言う才能になるのでしょう。
「あっ、作品なんですね。これは失礼しました。」
(てっきり落書きかお遊びのお絵描きかと思いました)と言った意味合いあを込めた、はっきりと言わないだけ見下した含みのある一言。私に向けられる「あるある」の発言。
私がどんな想いで描いたのか言った人は知ろうともしないし、考えもしないはず。
そんな空気の中で生きている私がいます。
制作は孤独です。
しかし、自己との対話でもあり、そこから新たな創作の糸口も見えたりします。
およそ理解はされないことは分かっています。
しかし、ブログで公開する理由は、それでも誰かがこれを観て何かを感じてくれたら嬉しい。
ただ、それだけ。
他人から見たら無駄な落書きでしか無い様に見えるものであっても、私にとって生きる上で必要な行為なのです。まさに自分自身の為に行なっていることなのです。その行為の結果として目に見えるものとして何か存在しているとしたらそれが作品と私が言っているものだと思うのです。
有名になる人は他人が放っておかないそうです。
周りが何としてでも多くの人に知ってもらいたいと行動するそうです。
もちろん彼らの利益目的も含まれますが共通して言えるのは有名になる人は他人が動くということです。
私には、それが全くありません。それに社会は私の作品を望んでいるわけでは無いでしょう。それはもっともな話で、興味が無ければそもそも観ないのです。なので有名になる心配は無いわけです。その分、余計な事に煩わされるストレスも無いわけです。自由奔放に思いを巡らせ自己語りを続けられます。これだけ関心が無いと逆に批判にさらされる事もなく気持ちが楽ですね。完全に自分の中に世界がある感じです。
『私の抽象芸術入門』は自分で語り、それを自分で鑑賞し、自分がその時何を考え何を思い何を自分に伝えたかったか思い出させる効果がある行為なのです。対話によりしてきた行為を整理し記憶を定着させてくれる効果があります。
対話、それは通常相手がいますが、ここでは私独りでしています。自己との対話ですね。自分にしか分からない表現もあるので他人が読んでもつまらないものでしか見えないと思います。でも、構いません。これは自分の記録でもあるわけです。過去の自分に会い再認識する事が出来ます。そんな自分のためのブログ記事です。それでも偶然、ここに訪れて記事をご覧になり、そして、何か貴方の中で変化が起きたならスゴイ事です。繋がりを感じる瞬間です。
別に期待はしてませんが、そうなったら嬉しく思います。
さて、前置きが長くなりました。今日も始めます(自分に向けて)。
何だろう、この模様は。就寝時、明かりを消した後に浮かび上がるそれは、何だろう。カーテンの隙間から見える街灯の灯り。それが壁に映って模様を成す。それがどの様に目に映り何を感じるか人それぞれだけど。それぞれ、と言ってしまえば簡単ですが、気になる模様や現象が何か気になる時があるのです。そのツボは私とあなたで同じである時もあるし違う場合もあります。
洗濯物を干す際にベランダに置いてある室外機に視線を向ける。室外機にできた錆の模様は、じっくり見ると何か気になります。
殆どの場合、私は、じっと見るとそこに違和感を感じます。
場面であったり、視覚で切り取った現象をマジマジとみてしまいます。
その事で普通なら気にならなかった些細な事が特別なものに感じてくるのです。そして、そこを切り取ることで私が私の作品として取り込んだことになるのです。
私だけが気付いた私だけのもの。だから、それを作品として決めつけても良いと私は感じます。
偶然にも私の作品が他人に知られる事があって、その中で気になると感じた方が現れたら奇跡ですね。何かの繋がりを感じます。
辞書的な意味をここで話しているわけではありません。
自分の成長過程で個人の内にある捉え方も想いも異なることでしょう。
人は皆同じではありません。それぞれ違うわけです。
その具体的な違いが別の言葉で才能と言うのだと私は思うのです。
社会がその時その人を必要とした時、その差異が一般的に言う才能になるのでしょう。
「あっ、作品なんですね。これは失礼しました。」
(てっきり落書きかお遊びのお絵描きかと思いました)と言った意味合いあを込めた、はっきりと言わないだけ見下した含みのある一言。私に向けられる「あるある」の発言。
私がどんな想いで描いたのか言った人は知ろうともしないし、考えもしないはず。
そんな空気の中で生きている私がいます。
制作は孤独です。
しかし、自己との対話でもあり、そこから新たな創作の糸口も見えたりします。
およそ理解はされないことは分かっています。
しかし、ブログで公開する理由は、それでも誰かがこれを観て何かを感じてくれたら嬉しい。
ただ、それだけ。
他人から見たら無駄な落書きでしか無い様に見えるものであっても、私にとって生きる上で必要な行為なのです。まさに自分自身の為に行なっていることなのです。その行為の結果として目に見えるものとして何か存在しているとしたらそれが作品と私が言っているものだと思うのです。
有名になる人は他人が放っておかないそうです。
周りが何としてでも多くの人に知ってもらいたいと行動するそうです。
もちろん彼らの利益目的も含まれますが共通して言えるのは有名になる人は他人が動くということです。
私には、それが全くありません。それに社会は私の作品を望んでいるわけでは無いでしょう。それはもっともな話で、興味が無ければそもそも観ないのです。なので有名になる心配は無いわけです。その分、余計な事に煩わされるストレスも無いわけです。自由奔放に思いを巡らせ自己語りを続けられます。これだけ関心が無いと逆に批判にさらされる事もなく気持ちが楽ですね。完全に自分の中に世界がある感じです。
『私の抽象芸術入門』は自分で語り、それを自分で鑑賞し、自分がその時何を考え何を思い何を自分に伝えたかったか思い出させる効果がある行為なのです。対話によりしてきた行為を整理し記憶を定着させてくれる効果があります。
対話、それは通常相手がいますが、ここでは私独りでしています。自己との対話ですね。自分にしか分からない表現もあるので他人が読んでもつまらないものでしか見えないと思います。でも、構いません。これは自分の記録でもあるわけです。過去の自分に会い再認識する事が出来ます。そんな自分のためのブログ記事です。それでも偶然、ここに訪れて記事をご覧になり、そして、何か貴方の中で変化が起きたならスゴイ事です。繋がりを感じる瞬間です。
別に期待はしてませんが、そうなったら嬉しく思います。
さて、前置きが長くなりました。今日も始めます(自分に向けて)。
何だろう、この模様は。就寝時、明かりを消した後に浮かび上がるそれは、何だろう。カーテンの隙間から見える街灯の灯り。それが壁に映って模様を成す。それがどの様に目に映り何を感じるか人それぞれだけど。それぞれ、と言ってしまえば簡単ですが、気になる模様や現象が何か気になる時があるのです。そのツボは私とあなたで同じである時もあるし違う場合もあります。
洗濯物を干す際にベランダに置いてある室外機に視線を向ける。室外機にできた錆の模様は、じっくり見ると何か気になります。
殆どの場合、私は、じっと見るとそこに違和感を感じます。
場面であったり、視覚で切り取った現象をマジマジとみてしまいます。
その事で普通なら気にならなかった些細な事が特別なものに感じてくるのです。そして、そこを切り取ることで私が私の作品として取り込んだことになるのです。
私だけが気付いた私だけのもの。だから、それを作品として決めつけても良いと私は感じます。
偶然にも私の作品が他人に知られる事があって、その中で気になると感じた方が現れたら奇跡ですね。何かの繋がりを感じます。
2023年07月02日
自分にしか分からない世界でも知ってもらえることが私にとって嬉しいことかもしれない。
権力に縛られている。
支援者、それを取り巻く一般人。当事者の家族、そして当の本人である当事者自身までも権力に縛られている。
目に見えない分断。そんな事を思いました。
仲間意識がある反面、排除も曖昧な中で線引きされているようにも思えます。この線引きは他人がする場合もあれば自分でする場合もあり、良いも悪いも接点を持たずに生きている人が多いと思います。いろいろな集まりに顔を出すと多くはその集まりの中で話題は完結して他の話題についてはまるで存在しないかのような感じを受けます。良かれと思って相手に伝えようとしても善意の押し売りと捉える人もいます。
多様ではあるが、個々はかたい殻で外から中が見えない。だから相互に不信感が生じるのでしょう。
自身はそうならないようにしたいと思っています。
誰からも相手にされないとそれは逆に自分固有の行為なのです。自分にしか分からない世界。それをあえて公開することはそれでも誰かとつながりたいからだと最近思うようになりました。好きか嫌いか関心があるか無いかと言うよりも知ってもらいたい気持ちはあります。観てそこで何かを感じる心の化学反応。観た瞬間は何も感じないかもしれない。しかし、観た画像の記憶はあなたの片隅に残れば私のミッションは成功した事になります。何かのキッカケで思い出していただければそれが私の心の報酬になるでしょう。私もその様にして他の人から知らず知らず影響を受け生きてきたのだと思います。その循環の一部になれたらと思います。
居心地の良い社会を願います。
2023年06月02日
結局のところ、あなたの絵は何というか、あれだ、 ほら、ええっと、塗り絵だ、そうそう塗絵。 ぐちゃぐちゃと落書きしたところに色鉛筆で擦り付けただけでしょ。 そんなものは絵でも何でも無いよ。単なる落書きですよ。
私は、誰かを気にしているのだろうか?
誰だろう。
何か明確な対象がいるわけでも無いだろうし。
多分、居ない。そんなもん。
承認欲求は大なり小なり個々に存在するはずで、そんなモノ無いと言い張る人ほどその欲求は強いと思います。せっかくこの世に生まれた以上、せめて何か自分がここにいた証が欲しいと思うでしょう。
しかし、それが全てでない、と思いました。最後は何も残さず消え去るのです。
私にとっての絵や写真は自分自身を見つめ直す素材の一つですね。
自身もいろいろ考えをブログにまとめたりする事で記憶の整理をしているんだと思うのです。なので、この行為に他人があれこれ言ったとしても何も気になりません。
この行為は私の一部なのです。
ところで
あなたは、何の為に描いているのですか?
別に知りたいわけではありませんが、自身で一度考えて下さい。
その時その時、自分が想い考えていることを残しておくことは自分にとって大切なことです。自分が変わったと思えるのは過去の自分を見返す時ですが、何も無いとそれが具体的に見えないですよね。ブログはそんな時、見つめ直すきっかけを与えてくれます。
他の人の作品が気になる事はあります。しかし、よくよく考えてみると、気になるモノは結局自分のに似ているから気になっているんだという事なんですね。だから、私の作品が気になる人は何処かで私と似たところがあるんでしょうね。考え方とか、世界の見方とか。
たまに、全く違うものに出会うことがあります。違和感が有る反面、新鮮に感じ事もあります。そこで発見があります。生きるって、正にこの連続なんですね。似ているものに共感して異なるものに新たな発見を見る。
塗り絵と思われようが自分にとっては自己探求の一つです。淡々と続けていきます。
言っておきますが、これは塗り絵ではありません。
私の一部であり、私の作品です。
2023年05月02日
結局、自身で自身を掘り下げていくしかないようです
好きだから学ぶのか、学んだから好きになったのか。その違いは何だと思いますか。最初の段階で興味の有無が関係してますが。前者は、見様見真似で始めています。私の場合、何かを作ったり描いたりするのが楽しいことでしかもそれは1人でも出来る事なのでしたのだと思います。テレビでアーティストの作品を観たり身近にいる大人たちが褒めてくれたりすると嬉しくて学びたい衝動はそこから生じたのだと思いました。小学校では美術の授業では無く図画工作という名の授業でした。中学校では美術の授業はありましたが高校はありませんでした。その後10数年経って大学で少し学びました。考え方や技術的なことは教えて頂きました。そこで学んだ成果は結局のところ自分で何をしたいかを絞り込む事にあったと最近感じるようになりました。ブレずにすすんで行くこと。それを意識できる場であったと今は感じています。巷では様々な技能を持つ方が多様な活動をしています。目移りしそうです。しかし、アートが自分にとって何なのか何をしていくのか自身で受け入れていれば迷うことはありません。今は淡々とその行為をしているだけです。
自分で想いを巡らし自作について考えている時、それは自己との対話でもあります。それと同時にこうしてブログに書き込んでいく事も自己との対話であると思っています。
今の作風にこだわっている理由を思い返してみますが今となっては定かで無いこととなってしまいました。描いている行為、それを眺めている行為そのものに心地良さを感じていることもたしかです。無意識で曲線を描く行為は何かの啓示を受けているような感覚になりそれも心地良さになっているのでしょうね。
抽象を語る場合、点と線といった要素の話題は必ず登場します。始点、点、その点の連続である線、そして面。それぞれの項目に関しては、実は作家個々で考え方、捉え方は、異なります。最初はそれが分からず、必死で書籍を読みましたが、無理に自己視点を合わせようと試みましたがやめました。
先人のモノを参考にしようとも思いましたがやめました。考えや作風が似ていてもそれは決して同じモノでは無く結果的に何も参考にはならないと感じたからです。確かに読んだり作品を観たりする事で気付きはあります。でも、その程度です。結局、自身で自身を掘り下げていくしかないようです。
一本の線が多様な曲線を描き接点をつくります。最終的にそれを見て「何を想い感じるか」そこに大切な目的が含まれています。その目的の一つが「癒し」です。
癒しを求める要因は多様です。ですが、作品を観たからといって何か問題が解決できるわけではありません。ただ、そこで観ている間は、感覚や思考はそちらにシフトするので、そこで気持ちの整理ができるってこともあります。できない場合ももちろんあります。そこで何も感じ無い事もあるでしょう。その時に感じていなくても改めて観た時に何か感じることもあったりします。その時の心の状態でみえ方が違います。
2023年04月30日
書く事、描く事、自分の気持ちの整理でもあるし、自己対話でもあり、じっくりと考える一時でもあります。
じっくりと私の作品を考えていきたいとおもいます。
私の作品制作の目的は、それこそ前々からこのブログでも語っている事ですが自己の癒しなのです。
ですから、他人にどのように見られているか、そんな事は微塵も考慮してません。
かつてはとても意識していた時期がありました。先人の作家の著作や評論家の文章を読みあさりました。どの様に彼らは社会に受け入れられたのか、評論家はどの様に彼らを受け入れたのか、自分もその波に乗りたいと真剣に考えた事もありました。しかし、目的がそちらに向くとたとえ世に知られたとしても逆に自分を見失っていく恐怖もありました。
前世の自分は多分それで失敗をして死んでいったのだと最近確信めいた感じがしてなりません。だから、今世は無名のまま愛する人と平穏な人生をおくる選択をしたんだとおもうようになりました。そして、今の創作は前世でやり残した本当の意味での自己探究なのだと思っています。感覚の赴くままに描いています。不思議な感じがして面白いです。ここでこうして書いているブログ、添付している作品画像は制作記録を整理する意味合いが大きです。思考過程を自分なりに整理して再度読み返して自己の作品解釈に想いを馳せたいからです。
しかし、この行為は、ブログに記載する事で不特定多数に読まれるわけで、それはある意味で誰かにも読んでもらいたいと思われても否定出来ない行為でもあるわけです。そしてそれはつまり承認欲求とかにも思われている事でしょう。しかし、自身では意識して居なくても無意識下で確かに承認欲求はあったかもしれません。きっと多分あったのでしょう。誰かに「いいですね」と言って欲しいと内心思っている自分がいることも確かです。その気持ちは何処から来るのでしょう。
自分の行為が誰かと共有できることは、それは安心感に繋がるのでしょうか。自分の作品が理解できなくても、行為の純粋さに共感する人はいると思います。その為の解釈文はそれなりに意味のある事だと思ったりします。と、言ってもそれは勝手な思い込みに過ぎず、記事など誰も関心無いでしょう。それも自覚しています。こうした矛盾は常に自身の内で駆け巡ります。
創作は自分の中のあるものを抽出する事でできるもので、ある意味で自身でもあるわけです。だから、認めて欲しい評価して欲しいと願うのは当然といえば当然のことです。スゴいねとか、大変だったねとか、何らかの自分を構って欲しい欲求はそこには存在します。だから、作品というのは厄介です。出してしまったらしまったで、どうしたものかと途方にくれる場合も多々あります。真剣に思えば思うほどそうなります。
このブログを読んでいるという事は少なからず私の作品や文章が気になっているからでしょうか。それは嬉しいことです。そうであればなおのことアートに対する想いや考え方に再度目を向ける必要があると思います。
私は全ての人が創作する力が存在しているとおもっています。多くの人がそれに気が付いていません。その力は社会を良くする力になるのです。こんな簡単で大切な事であっても一部の特権階級が境界線を引き分断させて気付かなくさせてしまっています。
小さな抵抗ですが、このブログを書いている理由でもあります。
作品を通して「感じる」事を体感して欲しいと思いました。
2022年12月25日
なぜ、あなたは描くのか? 生活のためとか、褒めてもらいたいからとか、そんな陳腐な事を聞いているんじゃ無く、もっと本質的な事
「絵も人間と同じ。肩書きで判断してはいけない」
赤瀬川原平
確かに、ハッと驚く様な作品に出くわす時があります。
それは、おそらく、人としての生理的反応の様に感じます。
綺麗な夕焼け、気持ちの良い朝日、可愛い猫、など、
およそ人間の歴史としてDNAに刻み込まれた情報の様に
普通に感じる感情や感動などの心理的な効果を狙った作品は
あります。その共通項の多さが一般的評価につながり
そして、一般的価値判断となり、つぎの評価へとつながるのです。
そこに利得を目当てに色々な人が集まり権威を持たせて
それぞれ肩書きを付けて差別化をする。アート業界の
「界」など。
昨日から某大手百貨店で開催された芸人画家の展示会を観に行きました。
いとこからチケットをもらったので行ったわけです。
画家である彼の姿勢は、嫌いではないです。
ただ、彼を利用して金儲けしている周りの人達が気持ち悪く見えました。
百貨店で開催すること自体がそれを感じさせます。
彼に罪はありません。彼にしたって生活がありますから、
それは仕方がないことです。業界そのものがそうであるので
何も言えません。良いも悪いも上手に取り込んで美化させてます。
アートに癒やし治す力が有るのなら、何れ浄化されると思いますが。
対極にいる作家は、自らの救いを求めて今日も手を動かしている事でしょう。
私もその1人です。