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2020年11月05日
習一篇−4章2
「そのときのおれは地面に倒れてて、オダさんがやられるとこを直接見れてなかったんスけど、ほかの二人は現場を見てました。だからあいつら、おれよりずっとビビってるみたいで」
うつむいていた田淵が上目づかいで習一の顔色を確かめ、また視線を下にやる。
「オダさんが『連中に仕返しをする』と言っても、みんな気が乗らなかった。イライラするオダさんは怖いけど、あの銀髪はもっと怖い。だからずるずる計画を延ばして……」
おびえる男子は自分がリーダーと認める少年をちらりと見て、その機嫌が変わらぬのを確認する。
「ある日の夜、部屋にいたら、急に変な男が現れたんス。『才穎高校の生徒に報復する気はあるのか』と聞いてきて……ない、と言ったらいなくなった。ほかの二人も、同じ夜に、同じ男が同じことを聞いてきたと言って、もう不気味で。だって、いつの間にか知らない男が部屋にいたんスよ。音もなく入ってくるやつなんて、オバケしかいないでしょ? そんなやつ、逆らっても勝ち目ないっスよ。そいつが現れたあとにオダさんが入院しちまったし、もうこれ潮時だなって」
現実離れした現象だ。幽霊のごとき侵入者も怪しいが、そいつが不良少年らの住居を知り尽くしていたのも妙だ。そして田淵が述べる経緯から推察するに、おそらくは田淵の部屋に侵入した者は習一にも同じ質問をした。そういった問答をした記憶はいまの習一にない。当時の血気にはやる自分がやりそうな行動を考えてみると、敵意を全面に出した返答をしたのだろう。その結果、習一は原因不明の昏睡状態に陥った、となるとつじつまが合ってくる。習一はそれらの経緯が事実だと信じきれないが、話者がウソを言っていないことは信じられる。
「マジメに生きなきゃ自分らも危なくなる……と思ったわけか」
「ハイ……情けないでしょうけど、それが本音です。おれたち、あんなおっかない目にあってまで不良はやりたくないっス……」
習一は田淵の話が終わったと見て、彼の説明になかった部分を質問する。
「そのオバケ男は銀髪の教師じゃないのか?」
才穎高校の生徒への復讐を果たされて困るのは銀髪の教師。現段階の話において、幽霊男は部外者のはずだ。
「え? ハイ、別人っス。ほかの二人もおれと同じこと言ってたし、まちがいないっスよ」
「どんなやつだ?」
「スゲーむきむきで、デケエ男でした。黒っぽい肌は銀髪と似てましたけど、あの体は別モンっス」
「髪の色はどうだった?」
「髪は……わかんないっス。みんなも『帽子を被ってた』と言ってました」
仮に幽霊じみた男の髪が銀色であれば、ある推測が成り立つ。習一の入院中、病院に押しかけてきた光葉が捜し求める、屈強な大男。その男が、田淵らに無断訪問した幽霊男だとしたら。光葉がどこからか得た、銀髪かつ色黒の大男がこの地域にいるというタレコミは正しい。おまけに、その大男は帽子を常用すると光葉は言った。
「あのう……オダさん、オバケ男の正体に心当たりがあるんスか?」
「ああ、ちょっとな。たしかじゃないが、あの銀髪に聞いてみるか」
かるく発した提案に、田淵は色めきたつ。
「暴力教師に? またやられちまうっス!」
「平気だ。もう病院で一回会ってる」
田淵が上体をのけぞり、驚愕した。習一が強敵と出会っていながら、無事でいる状況がよほど信じられないようだ。
「それだけじゃない、あいつはオレの復学を手伝うんだとよ。ご丁寧に補習の話をこぎつけて、面倒な課題をプレゼントしやがった」
習一は解答途中の数学のプリントを掲げた。田淵がちんぷんかんぷんであろう問題を凝視する間、習一は彼の隣席の少女に目をやる。彼女は二人の会話を耳にしていないかのように読書に没頭していた。少女はこの話題に参加するつもりがないようだ。彼女からの説明は期待できないと判断し、習一が田淵に補足する。
「いまはあの銀髪がオレの味方らしいぞ。もし町中で会ってもビビらなくていい」
「まじっスか? でも、あいつは真面目に生きればなにもしない、と言ってたしな……」
田淵は半信半疑で目を泳がせた。習一は教師にまつわる話題を切り上げにかかる。
「ところで、お前は飯を食いにきたのか?」
「あ、ハイ。テキトーに涼しいところで食おうかな、と……でもオダさんのジャマしちゃまずいっスね。オダさんも真面目にしよう、と思ったからガンバってるんでしょ?」
「どうだかな。ま、飯を食いたいならほかの席か店に移ってくれ。課題が進まねえ」
田淵が片手を後頭部にあてて「すんません」と目を細める。そうして店を出ていった。彼は最後まで銀髪の少女について言及せずじまいであった。習一はこの変事を少女に問う。
「さっきの野郎、お前にぜんぜん気づかなかったよな」
「うん。気配、なくしてるせい」
「そういう問題か? あいつの視界に入ってたと思うが」
「いいから、がんばって問題をといてね」
少女は課題の進行を急かす。習一はその対応に冷淡さを感じた。しかし課題をこなさねばあとで窮するのは習一自身である。仕方なく中断していた解答を再開した。
うつむいていた田淵が上目づかいで習一の顔色を確かめ、また視線を下にやる。
「オダさんが『連中に仕返しをする』と言っても、みんな気が乗らなかった。イライラするオダさんは怖いけど、あの銀髪はもっと怖い。だからずるずる計画を延ばして……」
おびえる男子は自分がリーダーと認める少年をちらりと見て、その機嫌が変わらぬのを確認する。
「ある日の夜、部屋にいたら、急に変な男が現れたんス。『才穎高校の生徒に報復する気はあるのか』と聞いてきて……ない、と言ったらいなくなった。ほかの二人も、同じ夜に、同じ男が同じことを聞いてきたと言って、もう不気味で。だって、いつの間にか知らない男が部屋にいたんスよ。音もなく入ってくるやつなんて、オバケしかいないでしょ? そんなやつ、逆らっても勝ち目ないっスよ。そいつが現れたあとにオダさんが入院しちまったし、もうこれ潮時だなって」
現実離れした現象だ。幽霊のごとき侵入者も怪しいが、そいつが不良少年らの住居を知り尽くしていたのも妙だ。そして田淵が述べる経緯から推察するに、おそらくは田淵の部屋に侵入した者は習一にも同じ質問をした。そういった問答をした記憶はいまの習一にない。当時の血気にはやる自分がやりそうな行動を考えてみると、敵意を全面に出した返答をしたのだろう。その結果、習一は原因不明の昏睡状態に陥った、となるとつじつまが合ってくる。習一はそれらの経緯が事実だと信じきれないが、話者がウソを言っていないことは信じられる。
「マジメに生きなきゃ自分らも危なくなる……と思ったわけか」
「ハイ……情けないでしょうけど、それが本音です。おれたち、あんなおっかない目にあってまで不良はやりたくないっス……」
習一は田淵の話が終わったと見て、彼の説明になかった部分を質問する。
「そのオバケ男は銀髪の教師じゃないのか?」
才穎高校の生徒への復讐を果たされて困るのは銀髪の教師。現段階の話において、幽霊男は部外者のはずだ。
「え? ハイ、別人っス。ほかの二人もおれと同じこと言ってたし、まちがいないっスよ」
「どんなやつだ?」
「スゲーむきむきで、デケエ男でした。黒っぽい肌は銀髪と似てましたけど、あの体は別モンっス」
「髪の色はどうだった?」
「髪は……わかんないっス。みんなも『帽子を被ってた』と言ってました」
仮に幽霊じみた男の髪が銀色であれば、ある推測が成り立つ。習一の入院中、病院に押しかけてきた光葉が捜し求める、屈強な大男。その男が、田淵らに無断訪問した幽霊男だとしたら。光葉がどこからか得た、銀髪かつ色黒の大男がこの地域にいるというタレコミは正しい。おまけに、その大男は帽子を常用すると光葉は言った。
「あのう……オダさん、オバケ男の正体に心当たりがあるんスか?」
「ああ、ちょっとな。たしかじゃないが、あの銀髪に聞いてみるか」
かるく発した提案に、田淵は色めきたつ。
「暴力教師に? またやられちまうっス!」
「平気だ。もう病院で一回会ってる」
田淵が上体をのけぞり、驚愕した。習一が強敵と出会っていながら、無事でいる状況がよほど信じられないようだ。
「それだけじゃない、あいつはオレの復学を手伝うんだとよ。ご丁寧に補習の話をこぎつけて、面倒な課題をプレゼントしやがった」
習一は解答途中の数学のプリントを掲げた。田淵がちんぷんかんぷんであろう問題を凝視する間、習一は彼の隣席の少女に目をやる。彼女は二人の会話を耳にしていないかのように読書に没頭していた。少女はこの話題に参加するつもりがないようだ。彼女からの説明は期待できないと判断し、習一が田淵に補足する。
「いまはあの銀髪がオレの味方らしいぞ。もし町中で会ってもビビらなくていい」
「まじっスか? でも、あいつは真面目に生きればなにもしない、と言ってたしな……」
田淵は半信半疑で目を泳がせた。習一は教師にまつわる話題を切り上げにかかる。
「ところで、お前は飯を食いにきたのか?」
「あ、ハイ。テキトーに涼しいところで食おうかな、と……でもオダさんのジャマしちゃまずいっスね。オダさんも真面目にしよう、と思ったからガンバってるんでしょ?」
「どうだかな。ま、飯を食いたいならほかの席か店に移ってくれ。課題が進まねえ」
田淵が片手を後頭部にあてて「すんません」と目を細める。そうして店を出ていった。彼は最後まで銀髪の少女について言及せずじまいであった。習一はこの変事を少女に問う。
「さっきの野郎、お前にぜんぜん気づかなかったよな」
「うん。気配、なくしてるせい」
「そういう問題か? あいつの視界に入ってたと思うが」
「いいから、がんばって問題をといてね」
少女は課題の進行を急かす。習一はその対応に冷淡さを感じた。しかし課題をこなさねばあとで窮するのは習一自身である。仕方なく中断していた解答を再開した。
タグ:習一
2020年11月17日
習一篇−4章3
習一は喫茶店に居続けた。時間を経るごとに店内を行き交う人が替わっていく。客の顔ぶれが変化するたび、自分が店の利益にならない存在であることを察した。
空席が目立つ時間帯は習一のような客はいてもいなくても同じだ。なおかつ表面上の客入りのとぼしさをごまかす役には立てる。ゆえに店側に多大な損失は与えないだろうと習一は見込んでいる。しかし明確な益をもたらすわけでもなく、店内が満席になればこの状況は一変する。利益を生み出すはずの席が無駄に占領されたままでは、一銭も金を落とさない習一が店の邪魔者になるのだ。
(……夕飯はここで早めに食うか)
夕食の理想のタイミングは店内の客席がすべて埋まるまえである。空席待ちの客が現れてからも食に関わらない私事を優先してはマナー違反だと思った。不良に徹した時期ならばそんな倫理観を無視してもそれが不良だと開き直れたのだが、現在の習一はその演技を一時取りやめている。おまけにいまはお利口そうな少女が同席している。彼女に無作法の巻き添えを食わせられなかった。
習一は上客が入れ替わる様子を視界の端でとらえていった。そのうちに、手持ちの課題がすべて解ける。習一は久方ぶりの達成感をその身に感じた。ついでに、空腹も感じた。
空腹を鎮めるため、そしてテーブル席を長く利用させてもらった場所代のため、料理を注文しにかかる。同席者にもメニューを見せたが、彼女は遠慮した。これには習一がぎょっとする。少女は昼に習一と出会って以降、なにも飲み食いしていない。
「それで平気なのか?」
「うん、気にしないで」
銀髪の少女は事もなげに答え、読書を継続した。習一はこの暑い時期に水分さえ摂取しないのは異常だと感じたものの、彼女がそうする理由を思いつく。
(断食するきまりの宗教があるとか……)
それは国外で主流だという宗教だ。この異国風の少女がそのような戒律を遵守する敬虔な宗教家であれば習一が口をはさむ道理はない。他人が守りたい決まりなぞ、周囲に損害が出ないかぎり好きに尊重したらよいことだ。
(それか、ダイエットか)
痩身を美徳とする国は多い。この日本もその傾向は強く、とりわけ女性には細い肉体を目指したがる者がいる。この少女はほどよい細身に見えるとはいえ、本人が理想とする体型は本人にしかわからない。少女が減量目的の絶食をしている可能性もある、と習一は考えつき、少女に向けていたメニューを自分に向けた。
習一は自分が食べる分の料理を注文した。店員は二人いる席で一人分の品しか発注されなかったことを不審がらず、料理を提供してくれた。少女は到着した料理に視線をやったものの、すぐに本へ意識をもどす。習一には彼女の食欲が本当にないように見受けられた。
(分けてやらなくてもいいんだな)
料理の半分くらいは食べさせてもいい、という思いはあった。しかし「すこし食べるか」と確認するのはくどいと感じ、習一は黙って夕食をすすめた。
水すら飲まない同席者の前で、料理をたいらげる。腹がふくれた習一はクッションのきいた背もたれに寄りかかり、天井を見る。いまこの身体に伝わる充足感は以前にも湧いたことがある。その経験は現在所属する高校への受験勉強にいそしんだ時期に積んだ。
当時、母は息子を塾へ通わせてはどうか、と父にすすめた。父は「中学程度の勉強に塾は必要ない」と一蹴した。実際、中学生の習一の成績はよかったため、その調子を保てば外部の助けは必要ない、と習一も思った。それゆえ習一は自力で学んだ。
しかし家の中では能天気な妹が騒がしかった。彼女が寝入る夜か目覚めるまえの朝でもなければ勉強がはかどらない。しかしその時間帯をねらって勉強していては睡眠時間が圧倒的に足りなくなる。そこで習一は家の外で勉学にはげんだ。学校は地域の子どもが雑多に集まる場所だったせいで学習施設が不十分。学習室があっても早々に人が埋まるほど席数がすくなかった。そのため習一は喫茶店や近隣の図書館をよく活用した。
図書館はとても静かで快適な場所だった。だが食事をとりに移動するたびに荷物を整理する手間が煩わしかった。また利用客が大勢いると使える机のスペースが手狭になる。それゆえテーブル席が割り当てられる喫茶店の利用が増えた。店内は人々の会話や生活音が発生して、静寂とは程遠い環境ではあるのだが、だれにも干渉されないスペースが一定して確保できることが習一にとっての利点だった。
(またこんなふうに勉強をやるとはな)
優等生であったころの自分と、落第を免れるために一仕事を終えた自分が重なる。習一はその対比を鼻で笑った。
「そろそろおうちにかえる?」
少女に聞かれ、習一は我に返った。その提案を受けて一気に胸が重くなる。日はとうに没した。しかしまだ人々が寝静まる頃合いではない。ゆえに家に帰るには早すぎる。なぜなら習一を害する大人が帰宅し、起きているはずで、その者からあらゆる攻撃を受けかねないのだ。
「あしたはシドが一日、シューイチにつきそうの。今晩のうちにゆっくり休もうね」
少女は明日の予定を話した。今日はこれで解散だと言わんばかりである。
「ああ……ところでおまえは明日、くるのか?」
その可能性が低いと思いながら習一はたずねた。少女はあくまで銀髪の教師の補佐役。教師の手が足りないときに習一を支援または見張る便利屋であろう。教師みずから習一に付き添う際に、彼女が同行するメリットはなさそうだった。
「ううん。でも、シドによばれたらくるよ」
少女は本をリュックサックの中へしまう。彼女は店を出る気満々だ。習一も気乗りしないながらも荷物をまとめた。習一が帰り支度をするかたわら、少女が「ごはんのお金、わたそうか」と言うのを、首を横にふってこばむ。すると少女は「さきに外にいってる」と言って、テーブルを離れた。
会計を終えた習一は店の軒先で少女を見つける。習一は学校正門での邂逅と同じく、少女を無視するように歩いた。
舗装された道路は日中の熱を溜めこみ、ほんのり熱を放出していた。多少蒸し暑いが、昼間とは段違いに涼しい。比較的、過ごしやすい状況だ。それでも習一の気分は晴れず、ゆるい歩調で家を目指した。
空席が目立つ時間帯は習一のような客はいてもいなくても同じだ。なおかつ表面上の客入りのとぼしさをごまかす役には立てる。ゆえに店側に多大な損失は与えないだろうと習一は見込んでいる。しかし明確な益をもたらすわけでもなく、店内が満席になればこの状況は一変する。利益を生み出すはずの席が無駄に占領されたままでは、一銭も金を落とさない習一が店の邪魔者になるのだ。
(……夕飯はここで早めに食うか)
夕食の理想のタイミングは店内の客席がすべて埋まるまえである。空席待ちの客が現れてからも食に関わらない私事を優先してはマナー違反だと思った。不良に徹した時期ならばそんな倫理観を無視してもそれが不良だと開き直れたのだが、現在の習一はその演技を一時取りやめている。おまけにいまはお利口そうな少女が同席している。彼女に無作法の巻き添えを食わせられなかった。
習一は上客が入れ替わる様子を視界の端でとらえていった。そのうちに、手持ちの課題がすべて解ける。習一は久方ぶりの達成感をその身に感じた。ついでに、空腹も感じた。
空腹を鎮めるため、そしてテーブル席を長く利用させてもらった場所代のため、料理を注文しにかかる。同席者にもメニューを見せたが、彼女は遠慮した。これには習一がぎょっとする。少女は昼に習一と出会って以降、なにも飲み食いしていない。
「それで平気なのか?」
「うん、気にしないで」
銀髪の少女は事もなげに答え、読書を継続した。習一はこの暑い時期に水分さえ摂取しないのは異常だと感じたものの、彼女がそうする理由を思いつく。
(断食するきまりの宗教があるとか……)
それは国外で主流だという宗教だ。この異国風の少女がそのような戒律を遵守する敬虔な宗教家であれば習一が口をはさむ道理はない。他人が守りたい決まりなぞ、周囲に損害が出ないかぎり好きに尊重したらよいことだ。
(それか、ダイエットか)
痩身を美徳とする国は多い。この日本もその傾向は強く、とりわけ女性には細い肉体を目指したがる者がいる。この少女はほどよい細身に見えるとはいえ、本人が理想とする体型は本人にしかわからない。少女が減量目的の絶食をしている可能性もある、と習一は考えつき、少女に向けていたメニューを自分に向けた。
習一は自分が食べる分の料理を注文した。店員は二人いる席で一人分の品しか発注されなかったことを不審がらず、料理を提供してくれた。少女は到着した料理に視線をやったものの、すぐに本へ意識をもどす。習一には彼女の食欲が本当にないように見受けられた。
(分けてやらなくてもいいんだな)
料理の半分くらいは食べさせてもいい、という思いはあった。しかし「すこし食べるか」と確認するのはくどいと感じ、習一は黙って夕食をすすめた。
水すら飲まない同席者の前で、料理をたいらげる。腹がふくれた習一はクッションのきいた背もたれに寄りかかり、天井を見る。いまこの身体に伝わる充足感は以前にも湧いたことがある。その経験は現在所属する高校への受験勉強にいそしんだ時期に積んだ。
当時、母は息子を塾へ通わせてはどうか、と父にすすめた。父は「中学程度の勉強に塾は必要ない」と一蹴した。実際、中学生の習一の成績はよかったため、その調子を保てば外部の助けは必要ない、と習一も思った。それゆえ習一は自力で学んだ。
しかし家の中では能天気な妹が騒がしかった。彼女が寝入る夜か目覚めるまえの朝でもなければ勉強がはかどらない。しかしその時間帯をねらって勉強していては睡眠時間が圧倒的に足りなくなる。そこで習一は家の外で勉学にはげんだ。学校は地域の子どもが雑多に集まる場所だったせいで学習施設が不十分。学習室があっても早々に人が埋まるほど席数がすくなかった。そのため習一は喫茶店や近隣の図書館をよく活用した。
図書館はとても静かで快適な場所だった。だが食事をとりに移動するたびに荷物を整理する手間が煩わしかった。また利用客が大勢いると使える机のスペースが手狭になる。それゆえテーブル席が割り当てられる喫茶店の利用が増えた。店内は人々の会話や生活音が発生して、静寂とは程遠い環境ではあるのだが、だれにも干渉されないスペースが一定して確保できることが習一にとっての利点だった。
(またこんなふうに勉強をやるとはな)
優等生であったころの自分と、落第を免れるために一仕事を終えた自分が重なる。習一はその対比を鼻で笑った。
「そろそろおうちにかえる?」
少女に聞かれ、習一は我に返った。その提案を受けて一気に胸が重くなる。日はとうに没した。しかしまだ人々が寝静まる頃合いではない。ゆえに家に帰るには早すぎる。なぜなら習一を害する大人が帰宅し、起きているはずで、その者からあらゆる攻撃を受けかねないのだ。
「あしたはシドが一日、シューイチにつきそうの。今晩のうちにゆっくり休もうね」
少女は明日の予定を話した。今日はこれで解散だと言わんばかりである。
「ああ……ところでおまえは明日、くるのか?」
その可能性が低いと思いながら習一はたずねた。少女はあくまで銀髪の教師の補佐役。教師の手が足りないときに習一を支援または見張る便利屋であろう。教師みずから習一に付き添う際に、彼女が同行するメリットはなさそうだった。
「ううん。でも、シドによばれたらくるよ」
少女は本をリュックサックの中へしまう。彼女は店を出る気満々だ。習一も気乗りしないながらも荷物をまとめた。習一が帰り支度をするかたわら、少女が「ごはんのお金、わたそうか」と言うのを、首を横にふってこばむ。すると少女は「さきに外にいってる」と言って、テーブルを離れた。
会計を終えた習一は店の軒先で少女を見つける。習一は学校正門での邂逅と同じく、少女を無視するように歩いた。
舗装された道路は日中の熱を溜めこみ、ほんのり熱を放出していた。多少蒸し暑いが、昼間とは段違いに涼しい。比較的、過ごしやすい状況だ。それでも習一の気分は晴れず、ゆるい歩調で家を目指した。
タグ:習一
2020年11月20日
習一篇−4章4
4夜に帰宅
習一は実家に到着した。まずは家門の外から家の様子をさぐる。居間には電灯が点いている。家主はもう帰宅した頃か、妹は学習塾に行っていて家にはいないのだろうか──と習一は家族の所在を考える。こんな想像は帰宅道中にも行なってきた。いま一度同じことを考えるのはただ、気後れしているせいだ。
(……オレがもたついてちゃ、こいつが帰れない)
銀髪の少女は習一の家までついてきた。きっと彼女は習一がきちんと帰宅するのを確認してから帰るつもりなのだろう。彼女の帰宅を遅らせるわけにはいかず、習一は決心して家門の鉄格子に触れた。無言でいた少女が「そうそう」と語りかける。
「サンドイッチをくるんでた布と水筒、ちょうだい」
言われて習一は借り物があることを思い出した。たたんだ布と、重量の減った水筒を少女に返す。水筒の茶がちゃぽん、と音を立てた。
少女は水筒と布をリュックサックに収納する。荷を背にかつぐと、ふたたび習一をじっと見てきた。
「なんだよ、おまえも早いとこ帰れ」
「おうちに入るところをみとどけるの」
「蚊が飛ぶ時期に野宿なんかしねえって」
そう吐き捨てた習一は帰宅へのためらいがうすれ、家の敷地内に入った。
玄関の戸を開ける。一歩中へ踏みこむと手に汗がにじんだ。この発汗は暑さのせいではない。緊張しているのだ。
(ここまできて、逃げられるか!)
習一は靴を乱雑に脱ぎすて、電灯に照らされた廊下を一直線に進む。フローリング張りの居間からテレビの音が鳴っており、だれかがいるようだったが、その存在を見ないようにした。この家に習一が会いたい家族などいない。だれがいようと会う気はなかった。
風呂場へ直行し、汗を洗いながすと、清潔な服に着替える。そうして文具類をしまった鞄を手に、階段へ向かう。このときはもうテレビの音は聞こえなかった。
「おい、待て」
階段に足を乗せたときに、男の声がした。習一は踏みとどまり、声の主にしたがう。
「散々迷惑をかけておいて挨拶もなしか?」
怒りと叱責が混合した、重圧を感じさせる物言いだ。高圧的な人物はこの家にひとりだけいる。その人物こそが、習一が帰宅を渋る元凶だ。
習一は不快感をこらえ、話者を視界に入れてみる。居間の入り口に、中年が立っていた。まだ仕事用のスーツ姿でいる。夏らしくネクタイとジャケットは着ていない。
「お前が夜遊びなんぞするから入院するはめになったんだ」
男は正論だがしょうもない説教をはじめる。
「入院費だって馬鹿にならんのだぞ……聞いているのか?」
習一は無益な話を無視し、階段をのぼりだした。とんとん、と駆け上がる。その足音が二重になった、と思うと習一の片足はうごかなくなる。男が足首をつかんできたのだ。
「いつまで醜態をさらし続ける気だ?」
男の憤怒が表出する。
「親に礼や謝罪の一つぐらい言えないのか!」
足首を握る手に圧がかかった。習一は拘束された足を上下左右にふってみるが、男の手は離れない。
「なんとか言ったらどうなんだ、この──」
「金食い虫の恥さらし。そう言いたいのか」
男は目をかっと見開いた。「なにか言え」と希望したその返答が、彼の図星を突いたらしい。あるいは本人が言おうとしたセリフ以上に習一が予想した言葉は容赦がなかったか。
ともあれ習一は男がぶつけてきた悪意に相当する仕返しをする。
「毎度毎度、金と体面が大事なんだな。いっそ金で優秀な息子を買ったらどうだ?」
男はわなわなと全身を震わせる。その顔は醜くゆがんだ。
「大好きな金で捕まえた息子ならきっと、あんたの薄っぺらい自尊心をくすぐってくれるだろうよ」
「親を馬鹿にする皮肉ばっかり口にして!」
習一を捕縛する手が乱暴にうごいた。習一は階段のへりをつかみ、とっさに転倒をふせぐ。当座の負傷は回避できたが、現状維持が精いっぱい。このままでは逆上した男に体勢を崩され、演劇でしばしば行なわれる階段落ちを演じるはめになる。あれは芝居でも相当痛いのだと、どこかで耳にしたことがあった。衝撃から身を守るぜい肉がほぼない習一では殊更痛いだろう。
どう打開すべきか。習一は下策だが男の怒りを鎮める手段がひとつ思いつけた。泣いて詫びるのだ。そうすればきっとこの小物のプライドは回復され、解放される。だがそんな無様な演技をする意欲は微塵も湧かなかった。習一もまた、プライドが高い性分だった。
突然、がたん、と重い物がなにかにぶつかる音がした。途端に足の呪縛が解かれる。習一が何事かと後方をふりむく。すると男が両手で頭を押さえ、苦痛に耐えていた。男の足元には油絵の絵画がある。この絵画は習一が物心ついたときからずっと階段の壁に飾ってあるものだ。ふだんは丈夫な金属製のワイヤーで吊るしてあり、そう簡単に切れる代物ではない。
(どうして落ちてきた?)
習一は狙いすましたかのように落下物が到来したことを不思議に思う一方、いまが逃走の好機だと判断した。悶絶する男を放置し、駆け足で二階の自室へ入る。自室の戸に鍵をかけると、深い息を吐いた。
(運が、よかったな……)
鞄を適当に放り投げ、自身の体も寝台へぽすんと投げた。
習一は実家に到着した。まずは家門の外から家の様子をさぐる。居間には電灯が点いている。家主はもう帰宅した頃か、妹は学習塾に行っていて家にはいないのだろうか──と習一は家族の所在を考える。こんな想像は帰宅道中にも行なってきた。いま一度同じことを考えるのはただ、気後れしているせいだ。
(……オレがもたついてちゃ、こいつが帰れない)
銀髪の少女は習一の家までついてきた。きっと彼女は習一がきちんと帰宅するのを確認してから帰るつもりなのだろう。彼女の帰宅を遅らせるわけにはいかず、習一は決心して家門の鉄格子に触れた。無言でいた少女が「そうそう」と語りかける。
「サンドイッチをくるんでた布と水筒、ちょうだい」
言われて習一は借り物があることを思い出した。たたんだ布と、重量の減った水筒を少女に返す。水筒の茶がちゃぽん、と音を立てた。
少女は水筒と布をリュックサックに収納する。荷を背にかつぐと、ふたたび習一をじっと見てきた。
「なんだよ、おまえも早いとこ帰れ」
「おうちに入るところをみとどけるの」
「蚊が飛ぶ時期に野宿なんかしねえって」
そう吐き捨てた習一は帰宅へのためらいがうすれ、家の敷地内に入った。
玄関の戸を開ける。一歩中へ踏みこむと手に汗がにじんだ。この発汗は暑さのせいではない。緊張しているのだ。
(ここまできて、逃げられるか!)
習一は靴を乱雑に脱ぎすて、電灯に照らされた廊下を一直線に進む。フローリング張りの居間からテレビの音が鳴っており、だれかがいるようだったが、その存在を見ないようにした。この家に習一が会いたい家族などいない。だれがいようと会う気はなかった。
風呂場へ直行し、汗を洗いながすと、清潔な服に着替える。そうして文具類をしまった鞄を手に、階段へ向かう。このときはもうテレビの音は聞こえなかった。
「おい、待て」
階段に足を乗せたときに、男の声がした。習一は踏みとどまり、声の主にしたがう。
「散々迷惑をかけておいて挨拶もなしか?」
怒りと叱責が混合した、重圧を感じさせる物言いだ。高圧的な人物はこの家にひとりだけいる。その人物こそが、習一が帰宅を渋る元凶だ。
習一は不快感をこらえ、話者を視界に入れてみる。居間の入り口に、中年が立っていた。まだ仕事用のスーツ姿でいる。夏らしくネクタイとジャケットは着ていない。
「お前が夜遊びなんぞするから入院するはめになったんだ」
男は正論だがしょうもない説教をはじめる。
「入院費だって馬鹿にならんのだぞ……聞いているのか?」
習一は無益な話を無視し、階段をのぼりだした。とんとん、と駆け上がる。その足音が二重になった、と思うと習一の片足はうごかなくなる。男が足首をつかんできたのだ。
「いつまで醜態をさらし続ける気だ?」
男の憤怒が表出する。
「親に礼や謝罪の一つぐらい言えないのか!」
足首を握る手に圧がかかった。習一は拘束された足を上下左右にふってみるが、男の手は離れない。
「なんとか言ったらどうなんだ、この──」
「金食い虫の恥さらし。そう言いたいのか」
男は目をかっと見開いた。「なにか言え」と希望したその返答が、彼の図星を突いたらしい。あるいは本人が言おうとしたセリフ以上に習一が予想した言葉は容赦がなかったか。
ともあれ習一は男がぶつけてきた悪意に相当する仕返しをする。
「毎度毎度、金と体面が大事なんだな。いっそ金で優秀な息子を買ったらどうだ?」
男はわなわなと全身を震わせる。その顔は醜くゆがんだ。
「大好きな金で捕まえた息子ならきっと、あんたの薄っぺらい自尊心をくすぐってくれるだろうよ」
「親を馬鹿にする皮肉ばっかり口にして!」
習一を捕縛する手が乱暴にうごいた。習一は階段のへりをつかみ、とっさに転倒をふせぐ。当座の負傷は回避できたが、現状維持が精いっぱい。このままでは逆上した男に体勢を崩され、演劇でしばしば行なわれる階段落ちを演じるはめになる。あれは芝居でも相当痛いのだと、どこかで耳にしたことがあった。衝撃から身を守るぜい肉がほぼない習一では殊更痛いだろう。
どう打開すべきか。習一は下策だが男の怒りを鎮める手段がひとつ思いつけた。泣いて詫びるのだ。そうすればきっとこの小物のプライドは回復され、解放される。だがそんな無様な演技をする意欲は微塵も湧かなかった。習一もまた、プライドが高い性分だった。
突然、がたん、と重い物がなにかにぶつかる音がした。途端に足の呪縛が解かれる。習一が何事かと後方をふりむく。すると男が両手で頭を押さえ、苦痛に耐えていた。男の足元には油絵の絵画がある。この絵画は習一が物心ついたときからずっと階段の壁に飾ってあるものだ。ふだんは丈夫な金属製のワイヤーで吊るしてあり、そう簡単に切れる代物ではない。
(どうして落ちてきた?)
習一は狙いすましたかのように落下物が到来したことを不思議に思う一方、いまが逃走の好機だと判断した。悶絶する男を放置し、駆け足で二階の自室へ入る。自室の戸に鍵をかけると、深い息を吐いた。
(運が、よかったな……)
鞄を適当に放り投げ、自身の体も寝台へぽすんと投げた。
タグ:習一
2020年11月21日
習一篇−4章5
習一が起きたとき、掛布団の上に寝そべっていた。室内はあかるく、日はすでに上がっている。いまは何時だろう、とうつろな目でベッド棚にある置き時計を見たところ、針は七時半を指していた。朝一の授業に間に合わせるには支度を急ぎたい時刻だが──
(学校は……休みか)
昨日が終業式だった。今日から長期の休暇期間に入る。不良に身をやつしてからはじめての夏休みだ。去年までの自分は涼しい家と夏季授業を実施する学校に長く滞在することで暑い夏をやりすごしていた。家族とも学校の者とも不仲になった今年では、同じ手段が取りにくいと予想できる。
(どう乗り切っていくか……)
思案のかたわら、窓の外をながめた。青い空に白い雲が浮かび、雲同士が折り重なっている。重なった雲の下部に太い灰色の筋ができていた。
(銀色……)
灰の帯が銀髪の教師と少女を連想させる。本日は男の方が終日同伴する、と伝言を受けてある。今日はどこへ行かされるやら、と取りとめもないことを考え、習一はまぶたを落とした。
二度寝は数分を経たずして阻害された。銀髪の少女が窓を叩いたのだ。習一は彼女の登頂ルートがもはや気にならなくなっていた。
少女は窓の施錠がかかっていないことに気づくと、習一の助けを借りずに窓を越えてくる。昨日もそうだったが靴は着用したままの入室だ。
「シューイチ、おはよう」
そうあいさつする背にはいつもの荷物がない。今回は習一に渡すものはないらしい。
「今日はシドがくるよ」
「たったそれだけ言うために、土足で部屋に押し入るのか?」
「ううん。ほかにも伝えることがあるの」
少女は土足で部屋に上がった部分を否定せずに、追加の伝言を告げる。
「今日こなすプリントのほかに、昨日といたプリントを持ってきてね」
「なんでだ?」
「シドが丸つけするの。そうしたらシューイチがちょっとラクできるでしょ」
正誤の確認を教師が肩代わりするらしい。たしかにそれは習一でなくてもやれることだ。作業がひとつでも減れば習一が教師らに拘束される時間も短くなりそうである。
「自分でやりたかったら、それでもいいって」
「いや……あいつに任せる。どうせほかにやることはないんだろ」
習一は昨日の少女が時間つぶしに読書をした様子を思いおこした。昨日の時点では少女にできる手助けがなかったとはいえ、あのようにヒマそうにされるなら作業を分担してもらうのが効率的だと考えた。
「あと、プリントの問題をとくときには教科書を見ていいんだって。家庭科や芸術の問題はやりにくいらしいから、教科書ももっていこう」
「教科書も? かさばるな、そりゃ……」
「教科書がいるプリントと、なくてもいいプリントをえらんだらどう? 昨日のシューイチ、なにも見なくてもかけてたよね」
「まあ……昔取った杵柄、ってやつな」
「んじゃ、したくしてね」
少女は窓を越えていった。常人ではケガをする行動が、彼女にとって造作もない移動方法なのだと習一は知っている。ゆえに彼女の無事を確かめることなく開いた窓を閉め、勉強机にある本棚を見た。
本がぎっしり詰まった棚には授業で使う教科書と、よく宿題に指定される問題集が区分けしてある。使用頻度の低い芸術等の教科書は棚の隅に追いやられていた。教材に対する扱いは優等生時分と変わらず、使いやすく整理してあった。
(昔からのクセか……)
育ちのよさが抜けない証拠は放置し、クリアファイルの中をあらためる。今日こなす科目を決め、時間が余った時用の予備も鞄に詰めて、解答に必要になりそうな教科書を同梱する。次に夏用の衣類をクローゼットから探った。私服に着替え、部屋を出る。階段そばの壁が視界に入り、妙に殺風景だと感じる。
(なんか足りないな?)
なにがこの壁に欠けているのだろう、と思うと昨夜のことを思い出した。自身の危機に瀕した際、壁に飾っていた絵画が絶好のタイミングで落下したのだ。
(あれ、なんで落ちてきたんだ?)
習一は絵画を繋ぎとめていたワイヤーを検分しようかとした。しかし昨夜の男──習一の父──と出くわす危険をかんがみて、とっとと玄関に向かうことにした。
昨日脱いだ靴はきれいにそろえてあった。習一は母がそろえたであろう靴を履いて外へ出る。家門の奥に、長身の男性の後ろ姿が見えた。
(あいつは……)
特徴的な銀髪と、腕まくりした黒シャツ。あれが他校の奇矯な教師である。ここ数日はこの教師と似た特徴を有する使いと接してきたせいか、変わった髪色への抵抗感はだいぶなくなってきた。
習一は家の敷地内と外を仕切る鉄格子に手をかけた。外へ出てきた習一に、銀髪の教師が黄色のサングラスを向ける。
「四日ほど会っていませんでしたね。私のことは覚えておいでですか?」
「アンタみたいな目立つ人間、わすれるもんか」
「それは安心しました。では朝食を食べに行きましょう」
教師は朝から外食をするつもりでいる。いまの時刻では開店前な店が多そうだと習一は思う。
「どこで食う気だ?」
「貴方の希望があればその店に。なければ私が店を選びます」
「アンタの好きなところでいい。オレは食べ物の好き嫌いはしないほうだ」
「よい返事です。さて、歩きますよ」
教師は習一に背を向け、移動をはじめた。習一はだまって銀髪の教師についていこうとする。しかし今朝会ったばかりの銀髪の少女がどこにもいないのを不審に思い、その件を黒灰色の背に質問した。
(学校は……休みか)
昨日が終業式だった。今日から長期の休暇期間に入る。不良に身をやつしてからはじめての夏休みだ。去年までの自分は涼しい家と夏季授業を実施する学校に長く滞在することで暑い夏をやりすごしていた。家族とも学校の者とも不仲になった今年では、同じ手段が取りにくいと予想できる。
(どう乗り切っていくか……)
思案のかたわら、窓の外をながめた。青い空に白い雲が浮かび、雲同士が折り重なっている。重なった雲の下部に太い灰色の筋ができていた。
(銀色……)
灰の帯が銀髪の教師と少女を連想させる。本日は男の方が終日同伴する、と伝言を受けてある。今日はどこへ行かされるやら、と取りとめもないことを考え、習一はまぶたを落とした。
二度寝は数分を経たずして阻害された。銀髪の少女が窓を叩いたのだ。習一は彼女の登頂ルートがもはや気にならなくなっていた。
少女は窓の施錠がかかっていないことに気づくと、習一の助けを借りずに窓を越えてくる。昨日もそうだったが靴は着用したままの入室だ。
「シューイチ、おはよう」
そうあいさつする背にはいつもの荷物がない。今回は習一に渡すものはないらしい。
「今日はシドがくるよ」
「たったそれだけ言うために、土足で部屋に押し入るのか?」
「ううん。ほかにも伝えることがあるの」
少女は土足で部屋に上がった部分を否定せずに、追加の伝言を告げる。
「今日こなすプリントのほかに、昨日といたプリントを持ってきてね」
「なんでだ?」
「シドが丸つけするの。そうしたらシューイチがちょっとラクできるでしょ」
正誤の確認を教師が肩代わりするらしい。たしかにそれは習一でなくてもやれることだ。作業がひとつでも減れば習一が教師らに拘束される時間も短くなりそうである。
「自分でやりたかったら、それでもいいって」
「いや……あいつに任せる。どうせほかにやることはないんだろ」
習一は昨日の少女が時間つぶしに読書をした様子を思いおこした。昨日の時点では少女にできる手助けがなかったとはいえ、あのようにヒマそうにされるなら作業を分担してもらうのが効率的だと考えた。
「あと、プリントの問題をとくときには教科書を見ていいんだって。家庭科や芸術の問題はやりにくいらしいから、教科書ももっていこう」
「教科書も? かさばるな、そりゃ……」
「教科書がいるプリントと、なくてもいいプリントをえらんだらどう? 昨日のシューイチ、なにも見なくてもかけてたよね」
「まあ……昔取った杵柄、ってやつな」
「んじゃ、したくしてね」
少女は窓を越えていった。常人ではケガをする行動が、彼女にとって造作もない移動方法なのだと習一は知っている。ゆえに彼女の無事を確かめることなく開いた窓を閉め、勉強机にある本棚を見た。
本がぎっしり詰まった棚には授業で使う教科書と、よく宿題に指定される問題集が区分けしてある。使用頻度の低い芸術等の教科書は棚の隅に追いやられていた。教材に対する扱いは優等生時分と変わらず、使いやすく整理してあった。
(昔からのクセか……)
育ちのよさが抜けない証拠は放置し、クリアファイルの中をあらためる。今日こなす科目を決め、時間が余った時用の予備も鞄に詰めて、解答に必要になりそうな教科書を同梱する。次に夏用の衣類をクローゼットから探った。私服に着替え、部屋を出る。階段そばの壁が視界に入り、妙に殺風景だと感じる。
(なんか足りないな?)
なにがこの壁に欠けているのだろう、と思うと昨夜のことを思い出した。自身の危機に瀕した際、壁に飾っていた絵画が絶好のタイミングで落下したのだ。
(あれ、なんで落ちてきたんだ?)
習一は絵画を繋ぎとめていたワイヤーを検分しようかとした。しかし昨夜の男──習一の父──と出くわす危険をかんがみて、とっとと玄関に向かうことにした。
昨日脱いだ靴はきれいにそろえてあった。習一は母がそろえたであろう靴を履いて外へ出る。家門の奥に、長身の男性の後ろ姿が見えた。
(あいつは……)
特徴的な銀髪と、腕まくりした黒シャツ。あれが他校の奇矯な教師である。ここ数日はこの教師と似た特徴を有する使いと接してきたせいか、変わった髪色への抵抗感はだいぶなくなってきた。
習一は家の敷地内と外を仕切る鉄格子に手をかけた。外へ出てきた習一に、銀髪の教師が黄色のサングラスを向ける。
「四日ほど会っていませんでしたね。私のことは覚えておいでですか?」
「アンタみたいな目立つ人間、わすれるもんか」
「それは安心しました。では朝食を食べに行きましょう」
教師は朝から外食をするつもりでいる。いまの時刻では開店前な店が多そうだと習一は思う。
「どこで食う気だ?」
「貴方の希望があればその店に。なければ私が店を選びます」
「アンタの好きなところでいい。オレは食べ物の好き嫌いはしないほうだ」
「よい返事です。さて、歩きますよ」
教師は習一に背を向け、移動をはじめた。習一はだまって銀髪の教師についていこうとする。しかし今朝会ったばかりの銀髪の少女がどこにもいないのを不審に思い、その件を黒灰色の背に質問した。
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