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2018年06月03日
拓馬篇−6章3 ★
1
拓馬がめざめたのは夕飯時だった。家族はさきに夕食をとっており、寝過ごした拓馬も早々にくわわる。今夜ひかえたシズカとの通話に専念できるよう、夕飯を早めにすませた。ほかの雑事もおわらせるため、犬の散歩を支度したところに、シズカの連絡が入る。いま話せるか、との確認だった。いつも連絡がとれる時間帯より早い。
(しゃーない、シズカさんを優先しよう)
シズカを待たせても怒られはしないが、助けてもらう身でそんなことはできない。拓馬は犬の散歩を翌朝に延期し、自室へこもった。
電子機器を起動させる間、拓馬は内省した。夕寝する時間に犬の世話をしておけばよかった、と思う。しかし休養をとらないデメリットもある。集中力を欠いた状態で、シズカの話が耳を通りぬけていくのもまずい。両存はむずかしかったと考え、反省を切り上げた。
ヘッドホンを装着し、通信を開始する。さっそくシズカは『幻術はどうだった?』と聞いてくる。
『イメージ映像だけど、大男さんの顔は見れた?』
「はい、しっかりと」
『よし、それなら込み入った話ができるね』
「そのまえにひとつ、聞かせてください。どうしてこのタイミングで話すんです?」
老猫の話ぶりを考慮すると、シズカは大男の経歴について昨日今日知れたわけではない。もっと早くに、拓馬に教えようと思えばできたはず。そのことを暗に拓馬が指摘すると、シズカは『だまっててわるかった』とわびる。
『すこし迷ってたんだ。きみに教えていいかって』
「まようって、なにに?」
『理由をひとつあげると……異界にはちょっとした決まりがある。こちらとあちらは時間の流れが複雑だから、なにかの拍子に未来を知ってしまう人があらわれる。知るだけならまだいい。それで未来を変えようとしたらよくないんじゃないか、という考えのもと、二つの世界に関わる人同士の、不必要な情報交換はしないように推奨されている。その決まりごとに違反するんじゃないか、と思った』
拓馬はこの言葉に同調できなかった。規則をおもんじるせいで、異界の者による被害が食い止められなくては、納得がいかない。
「そんな決まりを守ってて、だれかがひどい目に遭ったらどうするんですか」
『その指摘はもっともだ。ヤマダさんが襲われたと聞いちゃ、きみに知らせないわけにいかなくなった。きみは猫から、大男さんがどういう人の指導を受けたか聞いたよね?』
「はい」
『じゃあその次にいこう。彼が学び舎《や》を去って、なにをしていたか──』
シズカは推測できる大男の来歴を語りはじめる。商家の一家消失事件に関わった犯人、政治家の親戚をねらった誘拐未遂──簡単にいってしまえば人攫いをしていたという。
『彼は人を捜しているみたいだ。どういう人を求めているのか、異界での活動だけじゃ、はっきりしないけどね』
「こっちの世界にきたのも、人捜し?」
『たぶん。あっちでハデに指名手配されたから、ほとぼりが冷めるまでここにいるとか』
シズカの主張はそれっぽく聞こえた。しかし拓馬はその見方に穴があると感じる。
「ほんとうに、そんな理由なんでしょうか?」
『どうしてそう思う?』
「大男はここへくる方法を学んでいたと、猫から聞きました。人攫いをやるまえから、こっちへきたいと思ってたんじゃないですか」
『なかなかするどいね。実をいうと、拓馬くんの言うとおりだと思う』
シズカはまたも真相を述べずにやりすごそうとしていたらしい。拓馬はあきれる。
「なんでテキトーなことを言うんです?」
『ウソを言ってるつもりはないよ。彼はスタールという通り名までつけられた犯罪者だ。あちらで活動しにくくなって、こっちへ拠点を移したのも、自然な流れだと思う。でもその動機は進退窮まって、ではなくて、計画を前倒しにしたんだとも思う』
「そいつの捜す人が、ここにいると?」
『そう。きっと、おれがそのひとりだ』
シズカはさらっととんでもない告白をした。彼が大男の標的。そうと自覚するシズカの落ち着きぶりが、拓馬には信じられない。
「あの、かるーく言ってますけど、かなり危ないんじゃ?」
『ああ、心配しないで。彼がおれを捕まえにくることはないと思うよ』
「そうなんですか?」
『わりに合わないからね。よっぽど彼の得意なフィールドでの戦いをしいられないかぎり、おれのほうが勝率は高い』
「『得意なフィールド』?」
実態のつかめない、ふわふわした言葉だ。それが物理的な場所を指すのか精神的な領域を意味するのか、発話者の意図によってだいぶ変わる。シズカも適切な表現がしづらいようで、うなる。
『えーっと、なんというか、特殊な空間をつくる術があるんだよ。そこに入ったら、とある条件を満たさないと出られなかったり、その空間にいると特定の生き物がすごく強くなったり、まあいろいろだ』
補足説明もあまり実感のわかない内容だ。拓馬は卑近な例としてサッカーが思いうかぶ。
「……ホームとアウェーみたいなもん?」
『イメージはそんな感じかな。自分が慣れた場所で戦うのと、知らない土地で戦うのとじゃ、戦いやすさがちがう……てところは』
これは核心を突いたたとえではなかったようだ。シズカ自身も、超常現象的な物事を拓馬にわからせるのはむずかしいのだろう。拓馬はもっと建設的な質問に変える。
「その空間をつくる術って、大男は使えるんですか?」
『使えるだろうね』
「え」
『向こうの住民がこっちの世界へこれるのは、空間をあやつる術の成果なんだ。彼はその系統の術が得意だというし、やれないことはない』
緊迫感のない口調だ。シズカの不利をまねく要素が大男にあるのに、なぜ鷹揚にかまえていられるのか、拓馬はやきもきする。
「だったら、ぜんぜん安心できないですよね」
『言っただろう、「わりに合わない」って。その術を仕掛けるにはものすごーく力を消耗するんだ。彼がおれに勝てたとしても、力の使いすぎで死んでしまう』
つまるところ、危険視すべき事態は実現不可能なようだ。拓馬が知ったところで取り越し苦労になるがゆえ、シズカはすべてを語ろうとしなかったのかもしれない。
「シズカさんは安全なことはわかりました』
『うん、だから心配しなくていいよ』
「シズカさんがねらわれてないなら、いったいだれが標的にされてるんです?」
『いまは言えないな』
シズカは躊躇なく答えた。拓馬はたずねても秘匿されると思っていたが、食い下がる。
「俺がどういうことをしたら、教えてもらえます?」
『拓馬くんはいつもどおりにしててくれ』
「いいんですか、そんなのんびりしてて」
『まだあわてる段階じゃない。大男さんのほうも、いまはちょっかいを出してみてるだけだろうから』
「ちょっかいって、ヤマダに?」
『いや、きっと間接的におれを挑発してるんだ。きみとおれが繋がってることはバレてるからね』
シズカに手を出せないからほかの者を利用し、出方をうかがう、という理屈はわかる。ただそれがシズカの知人の拓馬でなく、拓馬の友人をねらうとは、なんともまだるっこしい。
「なんでそんなまわりくどいまねを?」
『はっきりしたことはわからない。彼がなぜ、わざわざヤマダさんの目の前にあらわれたのか』
「『わざわざ』?」
まるでそうする必要がないと言いたげだ。あの大男は活動力の補給目的でヤマダに手を出したというのだが。
『ああ、知ってると思うけど異界の生き物は体のない状態でうごけるよね。おれはその姿を精神体とよぶ』
拓馬は自宅にきていたシズカの猫を思い出した。あの化け猫は玄関の戸をするっと通り抜けた。あの状態のことをシズカは言っている。
『あの姿だと並みの家は簡単に侵入できる。物音も気配もなく、ね』
「じゃあ……?」
『彼女が部屋で寝ているところを侵入されて、力を吸われてると思う』
拓馬は目を白黒させた。ヤマダは普段の素行が奇抜ではあっても、恋愛観が旧日本的な大和撫子である。その身が得体の知れない生き物にどうこうされていると知れば、きずつくにちがいない。
「そそそ、それって婦女暴行ってやつじゃ」
『あー、それはないよ』
シズカがあかるく否定する。そのトーンのおかげで拓馬は平常心が多少もどってきた。
『彼、そのへんはお堅い考えの持ち主なんだってさ。「一生添い遂げる」と思った人にしか、スケベなことはしないように教育されたんだとか』
「どっからそんな話を知ったんです?」
『きみに送った猫と、おれの知り合いが言ってたよ。ほかにも聞いた話……彼はお色気ムンムンな女性にほだされて、一晩同じベッドですごしたことがあったそうだけれど、なにも起きなかったってさ』
「異性には興味なし、と……」
『そういう感情自体がないのかもね。だいたい、彼は普通の人間じゃない』
「あ、それはわかります。クロスケの仲間じゃないかと、うちの父が──」
『クロスケってヤマダさんに憑いてる子?』
「はい、それです」
『うーん? そうなのかな……』
シズカは拓馬が出した仮説をもてあましたようで『それはおいとこう』と言う。
『おれの一存で大男さんを放置してたけれど……ヤマダさんが彼の夜間の侵入をいやがるなら、大男さんを追いかえす護衛を出すよ』
「あ、はい……あした、いや今晩のうちに聞いたほうがいいですかね」
『今日は彼がこないんじゃないかな。単独でこっちにきた異界の人が言うには、三日四日はなにもせずに生きていられるらしい。毎日補給しなくても平気なようだよ』
「じゃあ、あしたで……」
拓馬の直近目標が決まった。拓馬は通話を打ちきる。
(あいつに……どう言っていいもんかな)
ヤマダへの伝え方を思いなやんだ。口のうまくない拓馬ではソフトな言い方がしにくい。
(深刻にならないように言おう……)
声のトーンが変わるだけでも話の印象は変わるものだ。重すぎず、かつ不謹慎なほどの軽さもなく、普通でいこうと心に決めた。
拓馬はモニターにうつる現在時刻を見る。いまはまだヤマダが起きていそうな時間帯だ。本題をもう伝えておくか、それがしづらいならせめて明日話がしたいと連絡しておこうかと考える。だが風呂の順番がきたという催促を受けてしまい、それらの決定は中断した。
拓馬がめざめたのは夕飯時だった。家族はさきに夕食をとっており、寝過ごした拓馬も早々にくわわる。今夜ひかえたシズカとの通話に専念できるよう、夕飯を早めにすませた。ほかの雑事もおわらせるため、犬の散歩を支度したところに、シズカの連絡が入る。いま話せるか、との確認だった。いつも連絡がとれる時間帯より早い。
(しゃーない、シズカさんを優先しよう)
シズカを待たせても怒られはしないが、助けてもらう身でそんなことはできない。拓馬は犬の散歩を翌朝に延期し、自室へこもった。
電子機器を起動させる間、拓馬は内省した。夕寝する時間に犬の世話をしておけばよかった、と思う。しかし休養をとらないデメリットもある。集中力を欠いた状態で、シズカの話が耳を通りぬけていくのもまずい。両存はむずかしかったと考え、反省を切り上げた。
ヘッドホンを装着し、通信を開始する。さっそくシズカは『幻術はどうだった?』と聞いてくる。
『イメージ映像だけど、大男さんの顔は見れた?』
「はい、しっかりと」
『よし、それなら込み入った話ができるね』
「そのまえにひとつ、聞かせてください。どうしてこのタイミングで話すんです?」
老猫の話ぶりを考慮すると、シズカは大男の経歴について昨日今日知れたわけではない。もっと早くに、拓馬に教えようと思えばできたはず。そのことを暗に拓馬が指摘すると、シズカは『だまっててわるかった』とわびる。
『すこし迷ってたんだ。きみに教えていいかって』
「まようって、なにに?」
『理由をひとつあげると……異界にはちょっとした決まりがある。こちらとあちらは時間の流れが複雑だから、なにかの拍子に未来を知ってしまう人があらわれる。知るだけならまだいい。それで未来を変えようとしたらよくないんじゃないか、という考えのもと、二つの世界に関わる人同士の、不必要な情報交換はしないように推奨されている。その決まりごとに違反するんじゃないか、と思った』
拓馬はこの言葉に同調できなかった。規則をおもんじるせいで、異界の者による被害が食い止められなくては、納得がいかない。
「そんな決まりを守ってて、だれかがひどい目に遭ったらどうするんですか」
『その指摘はもっともだ。ヤマダさんが襲われたと聞いちゃ、きみに知らせないわけにいかなくなった。きみは猫から、大男さんがどういう人の指導を受けたか聞いたよね?』
「はい」
『じゃあその次にいこう。彼が学び舎《や》を去って、なにをしていたか──』
シズカは推測できる大男の来歴を語りはじめる。商家の一家消失事件に関わった犯人、政治家の親戚をねらった誘拐未遂──簡単にいってしまえば人攫いをしていたという。
『彼は人を捜しているみたいだ。どういう人を求めているのか、異界での活動だけじゃ、はっきりしないけどね』
「こっちの世界にきたのも、人捜し?」
『たぶん。あっちでハデに指名手配されたから、ほとぼりが冷めるまでここにいるとか』
シズカの主張はそれっぽく聞こえた。しかし拓馬はその見方に穴があると感じる。
「ほんとうに、そんな理由なんでしょうか?」
『どうしてそう思う?』
「大男はここへくる方法を学んでいたと、猫から聞きました。人攫いをやるまえから、こっちへきたいと思ってたんじゃないですか」
『なかなかするどいね。実をいうと、拓馬くんの言うとおりだと思う』
シズカはまたも真相を述べずにやりすごそうとしていたらしい。拓馬はあきれる。
「なんでテキトーなことを言うんです?」
『ウソを言ってるつもりはないよ。彼はスタールという通り名までつけられた犯罪者だ。あちらで活動しにくくなって、こっちへ拠点を移したのも、自然な流れだと思う。でもその動機は進退窮まって、ではなくて、計画を前倒しにしたんだとも思う』
「そいつの捜す人が、ここにいると?」
『そう。きっと、おれがそのひとりだ』
シズカはさらっととんでもない告白をした。彼が大男の標的。そうと自覚するシズカの落ち着きぶりが、拓馬には信じられない。
「あの、かるーく言ってますけど、かなり危ないんじゃ?」
『ああ、心配しないで。彼がおれを捕まえにくることはないと思うよ』
「そうなんですか?」
『わりに合わないからね。よっぽど彼の得意なフィールドでの戦いをしいられないかぎり、おれのほうが勝率は高い』
「『得意なフィールド』?」
実態のつかめない、ふわふわした言葉だ。それが物理的な場所を指すのか精神的な領域を意味するのか、発話者の意図によってだいぶ変わる。シズカも適切な表現がしづらいようで、うなる。
『えーっと、なんというか、特殊な空間をつくる術があるんだよ。そこに入ったら、とある条件を満たさないと出られなかったり、その空間にいると特定の生き物がすごく強くなったり、まあいろいろだ』
補足説明もあまり実感のわかない内容だ。拓馬は卑近な例としてサッカーが思いうかぶ。
「……ホームとアウェーみたいなもん?」
『イメージはそんな感じかな。自分が慣れた場所で戦うのと、知らない土地で戦うのとじゃ、戦いやすさがちがう……てところは』
これは核心を突いたたとえではなかったようだ。シズカ自身も、超常現象的な物事を拓馬にわからせるのはむずかしいのだろう。拓馬はもっと建設的な質問に変える。
「その空間をつくる術って、大男は使えるんですか?」
『使えるだろうね』
「え」
『向こうの住民がこっちの世界へこれるのは、空間をあやつる術の成果なんだ。彼はその系統の術が得意だというし、やれないことはない』
緊迫感のない口調だ。シズカの不利をまねく要素が大男にあるのに、なぜ鷹揚にかまえていられるのか、拓馬はやきもきする。
「だったら、ぜんぜん安心できないですよね」
『言っただろう、「わりに合わない」って。その術を仕掛けるにはものすごーく力を消耗するんだ。彼がおれに勝てたとしても、力の使いすぎで死んでしまう』
つまるところ、危険視すべき事態は実現不可能なようだ。拓馬が知ったところで取り越し苦労になるがゆえ、シズカはすべてを語ろうとしなかったのかもしれない。
「シズカさんは安全なことはわかりました』
『うん、だから心配しなくていいよ』
「シズカさんがねらわれてないなら、いったいだれが標的にされてるんです?」
『いまは言えないな』
シズカは躊躇なく答えた。拓馬はたずねても秘匿されると思っていたが、食い下がる。
「俺がどういうことをしたら、教えてもらえます?」
『拓馬くんはいつもどおりにしててくれ』
「いいんですか、そんなのんびりしてて」
『まだあわてる段階じゃない。大男さんのほうも、いまはちょっかいを出してみてるだけだろうから』
「ちょっかいって、ヤマダに?」
『いや、きっと間接的におれを挑発してるんだ。きみとおれが繋がってることはバレてるからね』
シズカに手を出せないからほかの者を利用し、出方をうかがう、という理屈はわかる。ただそれがシズカの知人の拓馬でなく、拓馬の友人をねらうとは、なんともまだるっこしい。
「なんでそんなまわりくどいまねを?」
『はっきりしたことはわからない。彼がなぜ、わざわざヤマダさんの目の前にあらわれたのか』
「『わざわざ』?」
まるでそうする必要がないと言いたげだ。あの大男は活動力の補給目的でヤマダに手を出したというのだが。
『ああ、知ってると思うけど異界の生き物は体のない状態でうごけるよね。おれはその姿を精神体とよぶ』
拓馬は自宅にきていたシズカの猫を思い出した。あの化け猫は玄関の戸をするっと通り抜けた。あの状態のことをシズカは言っている。
『あの姿だと並みの家は簡単に侵入できる。物音も気配もなく、ね』
「じゃあ……?」
『彼女が部屋で寝ているところを侵入されて、力を吸われてると思う』
拓馬は目を白黒させた。ヤマダは普段の素行が奇抜ではあっても、恋愛観が旧日本的な大和撫子である。その身が得体の知れない生き物にどうこうされていると知れば、きずつくにちがいない。
「そそそ、それって婦女暴行ってやつじゃ」
『あー、それはないよ』
シズカがあかるく否定する。そのトーンのおかげで拓馬は平常心が多少もどってきた。
『彼、そのへんはお堅い考えの持ち主なんだってさ。「一生添い遂げる」と思った人にしか、スケベなことはしないように教育されたんだとか』
「どっからそんな話を知ったんです?」
『きみに送った猫と、おれの知り合いが言ってたよ。ほかにも聞いた話……彼はお色気ムンムンな女性にほだされて、一晩同じベッドですごしたことがあったそうだけれど、なにも起きなかったってさ』
「異性には興味なし、と……」
『そういう感情自体がないのかもね。だいたい、彼は普通の人間じゃない』
「あ、それはわかります。クロスケの仲間じゃないかと、うちの父が──」
『クロスケってヤマダさんに憑いてる子?』
「はい、それです」
『うーん? そうなのかな……』
シズカは拓馬が出した仮説をもてあましたようで『それはおいとこう』と言う。
『おれの一存で大男さんを放置してたけれど……ヤマダさんが彼の夜間の侵入をいやがるなら、大男さんを追いかえす護衛を出すよ』
「あ、はい……あした、いや今晩のうちに聞いたほうがいいですかね」
『今日は彼がこないんじゃないかな。単独でこっちにきた異界の人が言うには、三日四日はなにもせずに生きていられるらしい。毎日補給しなくても平気なようだよ』
「じゃあ、あしたで……」
拓馬の直近目標が決まった。拓馬は通話を打ちきる。
(あいつに……どう言っていいもんかな)
ヤマダへの伝え方を思いなやんだ。口のうまくない拓馬ではソフトな言い方がしにくい。
(深刻にならないように言おう……)
声のトーンが変わるだけでも話の印象は変わるものだ。重すぎず、かつ不謹慎なほどの軽さもなく、普通でいこうと心に決めた。
拓馬はモニターにうつる現在時刻を見る。いまはまだヤマダが起きていそうな時間帯だ。本題をもう伝えておくか、それがしづらいならせめて明日話がしたいと連絡しておこうかと考える。だが風呂の順番がきたという催促を受けてしまい、それらの決定は中断した。
2018年06月05日
拓馬篇−6章4 ★
早朝、拓馬はアラーム音で覚醒した。部屋はまだすこし薄暗い。一瞬、どうしてこんなはやくに目覚ましの設定をしたのかわからなかった。寝返りをうっていると、昨日自分がすっぽかした家事があることを思い出す。
(トーマの散歩……二回分か)
飼い犬は多くの運動量を必要とする。朝夕一時間ずつは運動させてやりたい、と父も拓馬も考えている。散歩担当はとくにだれとは決めていないが、基本的に朝方は両親のどちらかが、夕方は拓馬がやる分担になっている。昨夜のうちに、両親には朝の散歩は翌朝自分がすると言っておいた。
拓馬はぐっといきおいをつけ、体を起こした。てきぱきと外出支度をする。普段の外出時のよそおいとは別に、肩掛け鞄を提げた。中には散歩のマナーを守るために必要なティッシュとナイロン袋の入っている。その姿でトーマに会うと、犬は尻尾をはげしく振った。
興奮したトーマを連れて、拓馬は玄関を出る。敷地内に設置した、犬の脱走防止用の門扉が閉まっていた。扉を開けようとして拓馬が足を止めると、トーマは三度吠える。散歩が待ちきれない、という意思表示なのだろう。近所めいわくな、と拓馬は苦笑いするも、そうさせた原因は自分あると思った。
扉を開けはなつ。トーマが引き綱をぴんと張らせた。犬の好奇心がおもむくままに、拓馬はついて行く。トーマはヤマダの家の前を通る。そのまま通過すると拓馬は思っていたが、先導者はくいっと進行方向を変えた。ヤマダの家は拓馬の家のような柵や扉はないので、簡単に敷地内に入れる。
(玄関のまわりくらいなら、いいか)
普通の訪問客が移動する範囲で、トーマの自由にさせることにした。すると庭先から白い帽子の被ったヤマダがやってくる。
「タッちゃん、おはよう! いま散歩中?」
「そうだけど……
ヤマダは普段からこんなに早く活動する人ではない。そのことを拓馬は不思議がる。
「タイミングよすぎないか?」
「今日は早起きしちゃってさ、せっかくのすずしい時間だし、庭の手入れをしてた。そしたらトーマの声が聞こえたから『うちにくるかも』と思って、ちょっとまってたよ」
ヤマダは軍手を脱ぎ、トーマの背をなでる。人間の友にかまわれる白黒の犬は尻尾をぶんぶん振った。
「それで、シズカさんとは話せたの?」
拓馬は一気に気まずくなる。彼女に言いにくい情報があるのだ。あー、んー、というあいまいな返事をしているとヤマダは「ここじゃ言いづらい?」と聞いてくる。
「……となりの空き家で話そうか?」
「そうだな、おまえんちの人にも聞かれたらまずいし……」
二人は両家のあいだに立地するお宅へお邪魔した。門扉のかんぬきをいじり、敷地内へ入る。この家の主は現在入院中である。その家族が別居中につき、家の管理は小山田家に託されている。そのため、庭先を短時間借りるくらいはおとがめを受けない。その確信が二人にはあった。
門扉をもとあったように閉める。拓馬たちは家の裏手にある勝手口の、石段にすわった。周りに人工の遮蔽物があり、人目をさけられる。だれかに盗み聞きされる心配がすくなく、心置きなく話し合える場だ。話す内容が言い出しづらいものでなければ、だが。
白黒の犬はそうそう立ち入らない庭に興味津々で、引き綱を限界まで引っ張る。見かねたヤマダが「リードはずす?」と問う。
「扉は閉めてきたし、脱走しないと思うよ」
「塀に穴開いてないよな?」
「わんこが通れる穴があったら、ふさぐよ」
そういう約束だから、と言うと彼女の表情がくもった。家主はこの家にもどってくる可能性が低い状態だ。ヤマダはそのことを案じて、気落ちしている。この話題は続けたくないと拓馬は思い、ストレートに本題に入る。
「シズカさんから、お前に聞いてくれって言われたことがあってさ──」
拓馬はしゃべりながらトーマに近づいた。トーマは散歩の再開だと思ってか、飼い主と距離をたもつ。このまま歩いては庭をぐるぐる回ってしまう。なので拓馬は引き綱をたぐりよせ、どうにか綱を首輪から外す。束縛するものがなくなった犬は、突風のように駆けていった。
「例の大男が夜な夜な、お前の部屋に入ってきてるらしい」
「わたしの部屋に? なんの用事で」
「その、元気を吸うために、だって」
拓馬は石段にすわりなおした。ヤマダは「ふーん」と他人事のように相槌をうつ。
「家にカンタンに入れるなら、なんで夜道でおそってきたんだろうね」
ヤマダは冷静な態度でいる。拓馬にはどうも信じがたい反応だ。
「えっと、いいのか? 無断で男に部屋に入られてて」
「半分幽霊みたいなもんでしょ、その人。気にしてたらキリないよ」
むかしからヤマダは遠出をするたび、霊を連れてきた。その霊の多くは、時間が経つとどこかへ去る。そんな移り気な霊と、確たる目的をもつ大男が、彼女の中で同等の位置にいる。
(そんな気楽に考えていいのかな……)
と、拓馬は認識のズレを感じた。彼女がのんきにかまえる原因は、大男の素性を知らないことにあるのか。そう考えた拓馬は、昨夜のシズカから教えられたことを伝えた。
それでもヤマダは「人攫いねえ」とマイペースな口調でいる。犯罪者の素行を重く受け止めていないらしい。
「わたしをねらってないのかな」
「さあ……何回もおまえの寝込みをねらえてたなら、そのときに連れていけるよな」
「わたしはただの給水地点か……」
どこか落胆するような口ぶりだ。拓馬はシズカの用件をまだ達成できていないので、ここで本題に入る。
「イヤならシズカさんに助けを──」
「それは遠慮しとく」
毅然とした拒否だ。なにか根拠があると拓馬は感じとり、「なんでだ?」と聞いた。
「たぶん、だけどね。わたしをわざと襲ってみせたの、シズカさんの力をムダ遣いさせる魂胆かもよ」
「おまえのお守りに、猫とかキツネをつけることが……大男の目的だと?」
「そう! シズカさんは猫ちゃんたちを頼りにしてるでしょ。力を使いすぎて、その子たちをよべなくなったら、ただの人になる」
「いちおう警官なんだけど……」
「ああ、ごめん。普通の人よりは強いよね」
「まあ、あの大男にとっちゃ一般人と変わらなさそうか」
拓馬が見た大男の瞬発力は尋常でなかった。生身の人間がひとりで組み伏せられる相手ではない。おまけにシズカ自身、格闘は不向きだと自己評価していた。あのような猛者相手だと、仲間のいないシズカは無害にひとしい。
「仲間をよべなくなったところを叩く! そしてシズカさんゲット、でメデタシメデタシする気なんだよ、あの大男さんは」
「一匹お前に派遣した程度で、そうなるか?」
「わたしだけじゃない。ほかにも事件を起こしていけば、シズカさんがもっと仲間をよぶことになるでしょ。大男さんは美弥ちゃんにもまとわりついてるしさ」
ヤマダの推測はそれなりに筋が通っている。須坂にも護衛を出せばシズカの疲弊は倍になる。おまけに拓馬も標的になりうる立場だ。万全をつくそうとして、複数の仲間を何ヶ月もよびつづけていたら、さすがにシズカも参ってくる。
「どうしたらいいか、わかんねえな……」
この膠着状態はいささか不愉快だ。相手の出方が読めない以上、受け身になるほかないという無力さが、なさけなくなる。
「こっちから仕掛けてみる?」
ヤマダが突拍子なく聞いてくる。拓馬は「へ?」とおどろいた。
「ひとりや二人で戦おうとするから、大男さんにかなわないんだよ。数をそろえたらなんとかなるかも」
大胆な提案だ。しかしそこには重大な欠陥がある。
「運よく捕まえられても……精神体のほうに変身されちゃ、にげられるぞ」
「シズカさんのお仲間を一体借りようよ。大男さんを運べるような子」
「あの人、オーケー出すかな……」
「だれかをわたしのお守りにしていいって言ってくれてるんでしょ。あんまり変わらないじゃない?」
「いや、俺らがムチャをすることがさ……」
普通に生活していればいい、とシズカは拓馬に言っていた。必要以上に事態をひっかきまわす行為を、シズカが嫌がるかもしれないのだ。しかしその了承しがたい要求が、シズカが確認したい護衛の要不要の返答でもある。
「ダメもとで伝えてみる。それがヤマダの返事ってことにして」
「いま連絡つく?」
拓馬はズボンのポケットに手を入れた。携帯用の電子機器の感触がある。
「ああ。でも朝早いからすぐに返事は──」
「いまは送るだけでいいよ。二、三日のうちに返事もらえるでしょ?」
「それは大丈夫だ。なにせシズカさんから『聞いてくれ』って言ってきたことだから」
「うん、じゃあおねがいね」
これで議決が成った。ヤマダは立ち上がる。
「トーマの様子を見てくる」
「あ、ついでにリードをつけてきてくれるか?」
ヤマダは拓馬がシズカにメッセージを送る時間を活用して、犬とたわむれようとしている。トーマと触れあう隙に引き綱を首輪にかけてくれれば、拓馬はたいへんありがたい。拓馬が単独でやろうとすると、全力の追いかけっこがしばしば起きるのだ。その意を汲んだヤマダは得意気にうなずく。
「いいよ、なんでも雑用はまかせて」
ヤマダは妙に気前のよいことを言っている。
「この作戦をやるときは、タッちゃんにもがんばってもらうからね」
ヤマダはいたずらっ子めいた笑顔で引き綱を取った。ろくでもないことをしでかすつもりなのだ。だが拓馬は嫌な気がしなかった。
(俺にも、やれることか……)
一介の傍観者や中継ぎ役にあまんじなくてよいのだ。自分に現状を変えられるすべがあると思うと、充足感がわいてきた。
(トーマの散歩……二回分か)
飼い犬は多くの運動量を必要とする。朝夕一時間ずつは運動させてやりたい、と父も拓馬も考えている。散歩担当はとくにだれとは決めていないが、基本的に朝方は両親のどちらかが、夕方は拓馬がやる分担になっている。昨夜のうちに、両親には朝の散歩は翌朝自分がすると言っておいた。
拓馬はぐっといきおいをつけ、体を起こした。てきぱきと外出支度をする。普段の外出時のよそおいとは別に、肩掛け鞄を提げた。中には散歩のマナーを守るために必要なティッシュとナイロン袋の入っている。その姿でトーマに会うと、犬は尻尾をはげしく振った。
興奮したトーマを連れて、拓馬は玄関を出る。敷地内に設置した、犬の脱走防止用の門扉が閉まっていた。扉を開けようとして拓馬が足を止めると、トーマは三度吠える。散歩が待ちきれない、という意思表示なのだろう。近所めいわくな、と拓馬は苦笑いするも、そうさせた原因は自分あると思った。
扉を開けはなつ。トーマが引き綱をぴんと張らせた。犬の好奇心がおもむくままに、拓馬はついて行く。トーマはヤマダの家の前を通る。そのまま通過すると拓馬は思っていたが、先導者はくいっと進行方向を変えた。ヤマダの家は拓馬の家のような柵や扉はないので、簡単に敷地内に入れる。
(玄関のまわりくらいなら、いいか)
普通の訪問客が移動する範囲で、トーマの自由にさせることにした。すると庭先から白い帽子の被ったヤマダがやってくる。
「タッちゃん、おはよう! いま散歩中?」
「そうだけど……
ヤマダは普段からこんなに早く活動する人ではない。そのことを拓馬は不思議がる。
「タイミングよすぎないか?」
「今日は早起きしちゃってさ、せっかくのすずしい時間だし、庭の手入れをしてた。そしたらトーマの声が聞こえたから『うちにくるかも』と思って、ちょっとまってたよ」
ヤマダは軍手を脱ぎ、トーマの背をなでる。人間の友にかまわれる白黒の犬は尻尾をぶんぶん振った。
「それで、シズカさんとは話せたの?」
拓馬は一気に気まずくなる。彼女に言いにくい情報があるのだ。あー、んー、というあいまいな返事をしているとヤマダは「ここじゃ言いづらい?」と聞いてくる。
「……となりの空き家で話そうか?」
「そうだな、おまえんちの人にも聞かれたらまずいし……」
二人は両家のあいだに立地するお宅へお邪魔した。門扉のかんぬきをいじり、敷地内へ入る。この家の主は現在入院中である。その家族が別居中につき、家の管理は小山田家に託されている。そのため、庭先を短時間借りるくらいはおとがめを受けない。その確信が二人にはあった。
門扉をもとあったように閉める。拓馬たちは家の裏手にある勝手口の、石段にすわった。周りに人工の遮蔽物があり、人目をさけられる。だれかに盗み聞きされる心配がすくなく、心置きなく話し合える場だ。話す内容が言い出しづらいものでなければ、だが。
白黒の犬はそうそう立ち入らない庭に興味津々で、引き綱を限界まで引っ張る。見かねたヤマダが「リードはずす?」と問う。
「扉は閉めてきたし、脱走しないと思うよ」
「塀に穴開いてないよな?」
「わんこが通れる穴があったら、ふさぐよ」
そういう約束だから、と言うと彼女の表情がくもった。家主はこの家にもどってくる可能性が低い状態だ。ヤマダはそのことを案じて、気落ちしている。この話題は続けたくないと拓馬は思い、ストレートに本題に入る。
「シズカさんから、お前に聞いてくれって言われたことがあってさ──」
拓馬はしゃべりながらトーマに近づいた。トーマは散歩の再開だと思ってか、飼い主と距離をたもつ。このまま歩いては庭をぐるぐる回ってしまう。なので拓馬は引き綱をたぐりよせ、どうにか綱を首輪から外す。束縛するものがなくなった犬は、突風のように駆けていった。
「例の大男が夜な夜な、お前の部屋に入ってきてるらしい」
「わたしの部屋に? なんの用事で」
「その、元気を吸うために、だって」
拓馬は石段にすわりなおした。ヤマダは「ふーん」と他人事のように相槌をうつ。
「家にカンタンに入れるなら、なんで夜道でおそってきたんだろうね」
ヤマダは冷静な態度でいる。拓馬にはどうも信じがたい反応だ。
「えっと、いいのか? 無断で男に部屋に入られてて」
「半分幽霊みたいなもんでしょ、その人。気にしてたらキリないよ」
むかしからヤマダは遠出をするたび、霊を連れてきた。その霊の多くは、時間が経つとどこかへ去る。そんな移り気な霊と、確たる目的をもつ大男が、彼女の中で同等の位置にいる。
(そんな気楽に考えていいのかな……)
と、拓馬は認識のズレを感じた。彼女がのんきにかまえる原因は、大男の素性を知らないことにあるのか。そう考えた拓馬は、昨夜のシズカから教えられたことを伝えた。
それでもヤマダは「人攫いねえ」とマイペースな口調でいる。犯罪者の素行を重く受け止めていないらしい。
「わたしをねらってないのかな」
「さあ……何回もおまえの寝込みをねらえてたなら、そのときに連れていけるよな」
「わたしはただの給水地点か……」
どこか落胆するような口ぶりだ。拓馬はシズカの用件をまだ達成できていないので、ここで本題に入る。
「イヤならシズカさんに助けを──」
「それは遠慮しとく」
毅然とした拒否だ。なにか根拠があると拓馬は感じとり、「なんでだ?」と聞いた。
「たぶん、だけどね。わたしをわざと襲ってみせたの、シズカさんの力をムダ遣いさせる魂胆かもよ」
「おまえのお守りに、猫とかキツネをつけることが……大男の目的だと?」
「そう! シズカさんは猫ちゃんたちを頼りにしてるでしょ。力を使いすぎて、その子たちをよべなくなったら、ただの人になる」
「いちおう警官なんだけど……」
「ああ、ごめん。普通の人よりは強いよね」
「まあ、あの大男にとっちゃ一般人と変わらなさそうか」
拓馬が見た大男の瞬発力は尋常でなかった。生身の人間がひとりで組み伏せられる相手ではない。おまけにシズカ自身、格闘は不向きだと自己評価していた。あのような猛者相手だと、仲間のいないシズカは無害にひとしい。
「仲間をよべなくなったところを叩く! そしてシズカさんゲット、でメデタシメデタシする気なんだよ、あの大男さんは」
「一匹お前に派遣した程度で、そうなるか?」
「わたしだけじゃない。ほかにも事件を起こしていけば、シズカさんがもっと仲間をよぶことになるでしょ。大男さんは美弥ちゃんにもまとわりついてるしさ」
ヤマダの推測はそれなりに筋が通っている。須坂にも護衛を出せばシズカの疲弊は倍になる。おまけに拓馬も標的になりうる立場だ。万全をつくそうとして、複数の仲間を何ヶ月もよびつづけていたら、さすがにシズカも参ってくる。
「どうしたらいいか、わかんねえな……」
この膠着状態はいささか不愉快だ。相手の出方が読めない以上、受け身になるほかないという無力さが、なさけなくなる。
「こっちから仕掛けてみる?」
ヤマダが突拍子なく聞いてくる。拓馬は「へ?」とおどろいた。
「ひとりや二人で戦おうとするから、大男さんにかなわないんだよ。数をそろえたらなんとかなるかも」
大胆な提案だ。しかしそこには重大な欠陥がある。
「運よく捕まえられても……精神体のほうに変身されちゃ、にげられるぞ」
「シズカさんのお仲間を一体借りようよ。大男さんを運べるような子」
「あの人、オーケー出すかな……」
「だれかをわたしのお守りにしていいって言ってくれてるんでしょ。あんまり変わらないじゃない?」
「いや、俺らがムチャをすることがさ……」
普通に生活していればいい、とシズカは拓馬に言っていた。必要以上に事態をひっかきまわす行為を、シズカが嫌がるかもしれないのだ。しかしその了承しがたい要求が、シズカが確認したい護衛の要不要の返答でもある。
「ダメもとで伝えてみる。それがヤマダの返事ってことにして」
「いま連絡つく?」
拓馬はズボンのポケットに手を入れた。携帯用の電子機器の感触がある。
「ああ。でも朝早いからすぐに返事は──」
「いまは送るだけでいいよ。二、三日のうちに返事もらえるでしょ?」
「それは大丈夫だ。なにせシズカさんから『聞いてくれ』って言ってきたことだから」
「うん、じゃあおねがいね」
これで議決が成った。ヤマダは立ち上がる。
「トーマの様子を見てくる」
「あ、ついでにリードをつけてきてくれるか?」
ヤマダは拓馬がシズカにメッセージを送る時間を活用して、犬とたわむれようとしている。トーマと触れあう隙に引き綱を首輪にかけてくれれば、拓馬はたいへんありがたい。拓馬が単独でやろうとすると、全力の追いかけっこがしばしば起きるのだ。その意を汲んだヤマダは得意気にうなずく。
「いいよ、なんでも雑用はまかせて」
ヤマダは妙に気前のよいことを言っている。
「この作戦をやるときは、タッちゃんにもがんばってもらうからね」
ヤマダはいたずらっ子めいた笑顔で引き綱を取った。ろくでもないことをしでかすつもりなのだ。だが拓馬は嫌な気がしなかった。
(俺にも、やれることか……)
一介の傍観者や中継ぎ役にあまんじなくてよいのだ。自分に現状を変えられるすべがあると思うと、充足感がわいてきた。
タグ:短縮版拓馬
2018年06月07日
拓馬篇−6章5 ★
シズカの返答は迅速だった。引き綱をつけたトーマがもどってきたとき、機器の受信反応があった。拓馬はただちに内容を確認する。
意外なことに、シズカはヤマダの無謀な計画に同意した。
『大男さんは紳士だから胸を借りてきなよ』
とのアドバイスには、やはり大男が強者であり、拓馬たちは完敗を喫するとの認識をにおわせる。その見立てに拓馬の異論はない。ただ、拓馬側の戦力では不足があると見ていながら、派遣する守護者を積極的に戦わせないと宣言する点が奇妙だ。
(止めてもムダだと思われてる……はないよな。まだ三郎は知らないことだ)
三郎の一途さをシズカは知っている。こういった計画への参加率が高いことも熟知する。中止をよびかけるならいまがチャンスだが、反対に後押しするようにさえ受け取れる。
(いっぺん徹底的にやられれば、おとなしくなるって思われてるのかな)
さいわい、計画に失敗しても損害の心配はないらしい。その見込みには、シズカの護衛が守ってくれるのも関係するのだろう。
返信にはさらにヤマダにたずねてほしいことが書いてあった。彼女への護衛を派遣するタイミングは拓馬たちが大男に接触をはかる当日か、今日からがいいのか。そこで拓馬はヤマダに電子文を見せて「どうする?」と聞いた。ヤマダは画面から目をはなす。
「んー、シズカさんに省エネしてもらう方向でいくと、作戦実施日がいいよね」
「だったらいつやるか決めないとな」
「予定は来週の金曜日のつもりだけど……」
ヤマダはもう算段を立てている。具体的な計画もあらかた構想が練れているのだろうが、人員がいなくては絵に描いた餅だ。
「人を集められなかったらできない、か?」
「うん、そういうこと」
「やれそうになかったらシズカさんに断りを入れる。いまはその予定で伝えておくか?」
「そうだね。はやめに準備するから、ダメだったときはタッちゃんに言うよ」
ヤマダがトーマの引き綱を拓馬に手渡した。これで会合は終れる。だが拓馬は気になることがいくつもあった。そのうちのひとつ、とくにシズカへの連絡にかかわる事柄を彼女にたずねる。
「なんで来週の金曜日にやるんだ?」
金曜日は助っ人になりうる人員のひとりが欠席しやすい。その難点をくつがえすほどの利点があるのかと、拓馬は不思議だった。
「理由はふたつ。大男さんって美弥ちゃんが外出した夜に、よくあらわれたでしょ。それが週末だった」
騒ぎは須坂が遠方からくる姉をむかえる道中におきた。その前例にならうとは──
「じゃあなんだ、須坂にも協力させると?」
「うん、いちばんむずかしそうだけどね」
拓馬も同意見だ。最近の須坂は当たりがやわらいできたとはいえ、お人好しレベルまでには変化していない。こんな危険なまねをすすんでやってくれるとは思えなかった。
ヤマダはいかにも難儀そうな顔をして「説得はわたしにまかせて」と言う。
「休みの日は美弥ちゃんがときどき店にくるんだよ。もちろん、わたしが手伝いにいってるとこね。そのときに会えたら話そうかな」
「店にこなかったらどうする?」
「美弥ちゃんの部屋を知ってる人に聞く」
住所を知らせていない相手が訪問してきては気味悪がられそうだ。拓馬は「それはどうかと思うぞ」と苦言を呈する。
「学校じゃダメなのか」
「もしサブちゃんにバレたら美弥ちゃんぬきでもやりたがりそう。だからなるべく学校の人には知られないうちに説得したい」
「須坂が不参加なら、作戦中止か?」
拓馬が言外の意図を察すると、ヤマダはにっこり笑う。
「そうするのがいいと思う。わたしが美弥ちゃんに変装してもいいんだけど……大男さんに別人だと見抜かれて、そのせいでうまくいかなかったら、骨折り損でしょ?」
「須坂がいたからって絶対にやつがくるわけでもないぞ」
「そのとおり。だから確率はあげておきたいんだよ。せっかくシズカさんも協力してくれるんだしね」
シズカの手助けを無駄にしないために、という主張は拓馬の胸にひびいた。万全の態勢をととのえた結果なら、不発でおわっても悔いはのこらない。そういった思考のもと、彼女は須坂の参加を必須事項にしている。腑に落ちた拓馬は「ふたつめの理由は?」と質問をつづけた。
「格闘に強い人がうちの親父と酒飲みにくる」
「俺の知ってる人か?」
「うん、ジュンさんだよ」
その人物はノブの元同僚だ。豪放なノブと馬が合う程度にはノリのよい人なので、ヤマダの希望を受けてくれそうだ。
「ジュンさんにも話してみるつもり」
「それなら勝てるかもな……」
彼は戦闘の技巧に秀でる人物だ。本人は自分を普通の会社員だと言ってゆずらないが、拓馬たちは方便だと思っている。その根拠は彼自身の強さにあるが、そのほか、私生活でも暗器を携行する趣味にある。彼の所持する暗器は一応、この国の銃刀法に違反しないものだ。
ヤマダはトーマの首元を両手でなでる。トーマの首回りは白くて後頭部と背中が黒いことから「マフラーまいてるみたい」とヤマダはよく言う。ヤマダがその毛並みをめでるのに満足すると、拓馬にむけて片手をあげる。
「じゃ、シズカさんのほうはよろしくー」
そう言ってヤマダは帰宅した。連絡を催促された拓馬は、その場でシズカへの伝達をすませる。この連絡への返信は待たなくてもよいと思い、機器をポケットにもどす。そしておすわりする飼い犬を見た。トーマはじっと拓馬の顔を見上げている。らんらんとした目と口角の上がった口は、いまからたのしいことが起きると期待しているよう。拓馬はその頭をなでる。
「わかってるよ、散歩はちゃんとやるって」
そのまえにトーマが遊んだ庭の様子を見ておくことにした。損壊がないか、汚物はおちていないかをひととおり確認する。なにも異常がないとわかると、散歩を再開した。
意外なことに、シズカはヤマダの無謀な計画に同意した。
『大男さんは紳士だから胸を借りてきなよ』
とのアドバイスには、やはり大男が強者であり、拓馬たちは完敗を喫するとの認識をにおわせる。その見立てに拓馬の異論はない。ただ、拓馬側の戦力では不足があると見ていながら、派遣する守護者を積極的に戦わせないと宣言する点が奇妙だ。
(止めてもムダだと思われてる……はないよな。まだ三郎は知らないことだ)
三郎の一途さをシズカは知っている。こういった計画への参加率が高いことも熟知する。中止をよびかけるならいまがチャンスだが、反対に後押しするようにさえ受け取れる。
(いっぺん徹底的にやられれば、おとなしくなるって思われてるのかな)
さいわい、計画に失敗しても損害の心配はないらしい。その見込みには、シズカの護衛が守ってくれるのも関係するのだろう。
返信にはさらにヤマダにたずねてほしいことが書いてあった。彼女への護衛を派遣するタイミングは拓馬たちが大男に接触をはかる当日か、今日からがいいのか。そこで拓馬はヤマダに電子文を見せて「どうする?」と聞いた。ヤマダは画面から目をはなす。
「んー、シズカさんに省エネしてもらう方向でいくと、作戦実施日がいいよね」
「だったらいつやるか決めないとな」
「予定は来週の金曜日のつもりだけど……」
ヤマダはもう算段を立てている。具体的な計画もあらかた構想が練れているのだろうが、人員がいなくては絵に描いた餅だ。
「人を集められなかったらできない、か?」
「うん、そういうこと」
「やれそうになかったらシズカさんに断りを入れる。いまはその予定で伝えておくか?」
「そうだね。はやめに準備するから、ダメだったときはタッちゃんに言うよ」
ヤマダがトーマの引き綱を拓馬に手渡した。これで会合は終れる。だが拓馬は気になることがいくつもあった。そのうちのひとつ、とくにシズカへの連絡にかかわる事柄を彼女にたずねる。
「なんで来週の金曜日にやるんだ?」
金曜日は助っ人になりうる人員のひとりが欠席しやすい。その難点をくつがえすほどの利点があるのかと、拓馬は不思議だった。
「理由はふたつ。大男さんって美弥ちゃんが外出した夜に、よくあらわれたでしょ。それが週末だった」
騒ぎは須坂が遠方からくる姉をむかえる道中におきた。その前例にならうとは──
「じゃあなんだ、須坂にも協力させると?」
「うん、いちばんむずかしそうだけどね」
拓馬も同意見だ。最近の須坂は当たりがやわらいできたとはいえ、お人好しレベルまでには変化していない。こんな危険なまねをすすんでやってくれるとは思えなかった。
ヤマダはいかにも難儀そうな顔をして「説得はわたしにまかせて」と言う。
「休みの日は美弥ちゃんがときどき店にくるんだよ。もちろん、わたしが手伝いにいってるとこね。そのときに会えたら話そうかな」
「店にこなかったらどうする?」
「美弥ちゃんの部屋を知ってる人に聞く」
住所を知らせていない相手が訪問してきては気味悪がられそうだ。拓馬は「それはどうかと思うぞ」と苦言を呈する。
「学校じゃダメなのか」
「もしサブちゃんにバレたら美弥ちゃんぬきでもやりたがりそう。だからなるべく学校の人には知られないうちに説得したい」
「須坂が不参加なら、作戦中止か?」
拓馬が言外の意図を察すると、ヤマダはにっこり笑う。
「そうするのがいいと思う。わたしが美弥ちゃんに変装してもいいんだけど……大男さんに別人だと見抜かれて、そのせいでうまくいかなかったら、骨折り損でしょ?」
「須坂がいたからって絶対にやつがくるわけでもないぞ」
「そのとおり。だから確率はあげておきたいんだよ。せっかくシズカさんも協力してくれるんだしね」
シズカの手助けを無駄にしないために、という主張は拓馬の胸にひびいた。万全の態勢をととのえた結果なら、不発でおわっても悔いはのこらない。そういった思考のもと、彼女は須坂の参加を必須事項にしている。腑に落ちた拓馬は「ふたつめの理由は?」と質問をつづけた。
「格闘に強い人がうちの親父と酒飲みにくる」
「俺の知ってる人か?」
「うん、ジュンさんだよ」
その人物はノブの元同僚だ。豪放なノブと馬が合う程度にはノリのよい人なので、ヤマダの希望を受けてくれそうだ。
「ジュンさんにも話してみるつもり」
「それなら勝てるかもな……」
彼は戦闘の技巧に秀でる人物だ。本人は自分を普通の会社員だと言ってゆずらないが、拓馬たちは方便だと思っている。その根拠は彼自身の強さにあるが、そのほか、私生活でも暗器を携行する趣味にある。彼の所持する暗器は一応、この国の銃刀法に違反しないものだ。
ヤマダはトーマの首元を両手でなでる。トーマの首回りは白くて後頭部と背中が黒いことから「マフラーまいてるみたい」とヤマダはよく言う。ヤマダがその毛並みをめでるのに満足すると、拓馬にむけて片手をあげる。
「じゃ、シズカさんのほうはよろしくー」
そう言ってヤマダは帰宅した。連絡を催促された拓馬は、その場でシズカへの伝達をすませる。この連絡への返信は待たなくてもよいと思い、機器をポケットにもどす。そしておすわりする飼い犬を見た。トーマはじっと拓馬の顔を見上げている。らんらんとした目と口角の上がった口は、いまからたのしいことが起きると期待しているよう。拓馬はその頭をなでる。
「わかってるよ、散歩はちゃんとやるって」
そのまえにトーマが遊んだ庭の様子を見ておくことにした。損壊がないか、汚物はおちていないかをひととおり確認する。なにも異常がないとわかると、散歩を再開した。
2018年06月14日
拓馬篇−6章◇
日曜日の朝九時すぎ、ヤマダは学校関係者が居住するアパートへ訪れた。手には自家製の焼き菓子の入った紙袋がある。これは美弥への贈りもの。依頼の報酬兼訪問に対する詫びのつもりだ。手土産を理由に門前払いを回避できる保証はないが、無いよりは礼にかなっていると考えた結果だった。
来訪のきっかけは前日の喫茶店勤務の際に美弥が来店しなかったこと。五月の連休後からヤマダの勤務時には彼女を見かけなくなったので、この事態は多少なりとも覚悟していた。美弥の足が店から遠のいた原因は三郎の臨時勤務のせいではないかとヤマダは考えている。ヤマダが三郎を従業員としてよんだ手前、そのことも詫びたほうがよいのかとひそかに思い続けていた。その話題は今日ヘタに触れてしまうと今週の計画に支障が出そうなので、秘匿することに決めた。
肝心の美弥の部屋について、ヤマダは知らない。美弥とは知人同士な店長にたずねたが、かんばしい返答はなかった。だが連絡はとれるというので、その場で話をこぎつけてもらった。
店長と美弥の話し合いのすえ、九時半から十時の間に美弥が自身の部屋のまえで待ってくれることになった。しかし確実に果たされる取り決めではない。応対した店長によれば、美弥の反応はよいともわるいとも言えないらしく、約束をすっぽかす可能性があるという。その時はあきらめて、と店長にさとされた。ヤマダは素直に同意したが、内心ではまだ手はあると考えた。
(たまたま外出する先生たちに聞ければ……)
そちらはむしろヤマダが最初から考案していた手段だ。店長による連絡の主効果は、美弥に来客がくる心積もりをしてもらうことにある。
ただし、美弥が店長との約束を放棄してまでヤマダに会いたくないのであれぱ、居場所をつかんだとしても意義はない。まともな会話は不成立におわるだろう。それゆえ別の手助けが必要だとも思った。美弥と接点があり、なおかつ彼女に一定の信頼を寄せられている、そんな教師の手助けが。
ヤマダはアパートの敷地内へ入る。アパートの各部屋の玄関がならぶ光景が目についた。玄関がつらなる通路には金属製の柵が設置してある。柵越しの一階通路に、なにやらうごくものが見える。黒シャツを着た男性の背中だ。その姿は休日もスーツ姿で過ごすという教師に酷似している。彼の髪は特徴的な銀色。ヤマダは幸先がよいという手応えを感じる。この教師こそが、いちばんヤマダの助力となるアパート住民だ。
「シド先生?」
教師がふりかえる。彼は雑巾で玄関のドアを拭いていたらしい。手には水色のゴム手袋が装着してあった。いつものサングラスの下にはおどろいたような顔がある。
「オヤマダさんがここにくるのは、はじめてですね」
「うん、今日は美弥ちゃんに用事があるの。先生は美弥ちゃんの部屋がどこか、知ってる?」
シドの表情がやわらぐ。答えてくれるものかとヤマダは期待したが、彼は首を横に振る。
「知ってはいますが、私が勝手に教えてよいものか判断にこまりますね」
表情に反して、シドはヤマダの婉曲的な要求に応じなかった。それが正直な彼の答えだ。その誠実さこそが美弥にも信頼される一因だとヤマダは思っているので、わるい気はしない。
「いまは教えてくれなくていいの。美弥ちゃんにはわたしが会いにいくことを伝えてあるから。しばらくしたら部屋のまえに美弥ちゃんが出てくることになってるんだけど、約束の時間をすぎても美弥ちゃんにきてもらえなかったら、そのときに教えて」
「約束の時間……いつごろですか?」
「十時まで」
「貴女は予定よりずいぶん早くきたようですが、なんの用でスザカさんと会うのです?」
ヤマダは紙袋を掲げる。
「手作りのお菓子を食べながらおしゃべり」
その説明にウソはない。だが目的とする会話内容は不明瞭だ。ヤマダは説明不足を指摘されないよう先手を打つ。
「ほんとは先生もさそいたいんだけどね、ちょっと話の中身がねー」
「女の子だけの話、ですか?」
的確な援護がきた。ヤマダはさっそくその推測に乗っかる。
「そう! もし先生の心が女の子になれたら、いっしょにきていいよ」
ありえないことを口走るヤマダに、シドは温和な笑みを見せる。
「無理でしょうね。私は物心ついたころより男性の価値観を植えつけられてきましたから、いまさら変更がききそうにありません」
ごく自然な男性の自己形成だ。解説しなくともわかる理由を順序立てて説明するところが彼らしい。ヤマダは「それが普通だと思う」と笑顔で肯定した。
ガチャっという金属音が鳴った。音の出所は上階。おそらくはドアの開閉音だと思い、ヤマダが視線をあげる。二階通路に女性が立っている。ゆったりしたロングスカートを穿いた美弥だ。待ちあわせの開始時刻から二十分ばかし前倒しになるが、彼女は約束を守ってくれたのだとヤマダはよろこぶ。
「美弥ちゃん、おはよう!」
ヤマダが笑顔であいさつする。だが美弥は困ったような顔でだまっている。彼女はヤマダのために部屋から出てきたのではなさそうだ。
「……言ってた時間より早いじゃない」
「あ、うん。アパートにくるまでにかかる時間がわかんなくてさ。美弥ちゃんはほかに用事があって、出かけるの?」
「さっきから物音がしてたのを、確かめたくて」
「物音? 話し声……じゃなくて?」
「話し声? だれと?」
美弥の疑問に答えるかのように、シドが柵を跳び越えてくる。片手で柵の手すりにつかまり、両足を薙ぐさまはアクション映画のワンシーンに似ていた。その無駄によい運動神経は、角度的にヤマダだけが観賞できた。
シドは自然体でヤマダのとなりにならび、「私です」と言う。
「さきほどスザカさんのお部屋のドアも掃除していました。貴女はその音を気にされたのですね。不快でしたらもうやめますが」
「べつにイヤじゃない。清掃の人がしばらくこれないってお知らせがあったから、変だと思っただけ」
清掃業者の代わりにシドが掃除をこなしているらしい。そのことをヤマダが察すると「先生はボランティアできれいにして回ってるの?」とたずねる。
「てっきり自分の部屋だけきれいにしてるのかと……」
「せっかくですから皆さんの分も掃除しておこうと思いまして。それはそうと、お二人はどこでお話しをするのですか?」
「え、どこでって──」
ヤマダは美弥を見つめる。しかし彼女は気乗りしなさそうでいる。
「……私の部屋、ちらかってるから」
客を入れたくないという遠回しな拒絶だ。空気をよめない人なら「掃除してあげようか」などと言い出すかもしれないが、ヤマダは美弥相手にそんな無謀なまねをしたくなかった。
ヤマダがどう会話をつづけようか手をこまねいていると、シドが「私の部屋を貸しましょうか」と提案する。
「今朝掃除したばかりですから、お二人が快適にすごせるかと思います」
他人の部屋のドアをも清掃する掃除好きが言うのだから、彼の部屋は整理整頓が行きとどいているという説得力はあった。
「お二人の話がすむまで、私は外にいます。部屋にある食器や飲み物は好きに使っていいですし、それならスザカさんも問題ないのではありませんか?」
「それは、そうだけど……」
美弥が口ごもる。申し出を飲むには抵抗があるのだ。その感覚はヤマダも共感できる。
「どうして、あなたはそこまで他人に尽くせるの?」
一見見返りを求めていない行為とて、本質は見返りを期待している。そこには詐欺師的な悪行もあれば、自己満足や後ろめたさの解消などの内的事情もある。理由のない善意などないのだ。警戒心の強い美弥はシドの目的がなんなのかわからず、こわさを感じているのだろう。
「先生はいい人なんだと思うけれど、いきすぎてて不安になる」
「私は貴女たちが好きです。貴女たちが親しくしていると私はほほえましくなります。それでは理由になりませんか?」
ヤマダは彼の主張を動物に置き換えるといたく納得した。犬でも猫でも、自分が好きな動物同士が仲良くじゃれたりくっついていたりする様子を見ると癒される。それに近い気持ちなのだと解釈した。
「じゃあ掃除は? このアパートにすむ全員が好きだとでも言うの」
「掃除は私の趣味です」
「そんなに好きならそういう仕事に就けばいいじゃない」
刺のある言い方だった。今日の美弥は不機嫌なようだ。相対するシドの態度は平時と変わらない。
「何時間も毎日やりたいとは思いません。どうにも私は……人とかかわるのが好きなようです」
美弥は黙った。会話の間断をぬってヤマダがシドへ質問をする。
「生徒を部屋にあがらせちゃって、だいじょうぶ? 次やるテストを見られたり──」
シドは「平気です」と笑顔で断言する。
「貴女がそんなことをしないと、私は信じています」
うまい言い方だ。そんなふうに持ち上げられて、なお不道徳な行為をするやからはなにを言っても悪さをする。そういった悪童ではないヤマダたちへの牽制には効果的だ。
「ポットのお湯をわかしてきますね」
教師はふたたび柵を越える。直後に手袋をぬぎ、柵の手すりにかける。シドは清掃でよごれていない手でドアノブをうごかし、自室へもどった。
ヤマダは上階を見上げる。美弥は柵の手すりにつかまっていた。
「ねえ美弥ちゃん、シド先生の部屋でお話ししてもいい?」
「そうね、なんだかそういう流れになったし……」
美弥は気まずそうな表情で通路を進む。彼女の行く方向へ、ヤマダも歩いた。ヤマダは美弥がシドの提案に気後れしているのではないかと思い、声をかける。
「先生の部屋に行きづらいなら美弥ちゃんの──」
「いーえ、行ってやるわ」
美弥の言葉に闘争心めいた感情がこもっている。だれへの闘志なのか、ヤマダは特定できない。
「美弥ちゃん? なにか、意気込んでる?」
「部屋のどこかに、あの教師の本性がわかるものがあるかもしれないでしょ」
「本性って……シド先生を信用してないの?」
もしやさきほどの攻撃的な物言いはシドの人柄を試していたのか、とヤマダは推測した。
「ああいういい人が絶対いない、とは言わない。うちのお姉ちゃんがそうだもの。でもめったにいないでしょ」
「そうかなぁ……」
ヤマダの周囲にはクセが強いが善良な人が多い。美弥とは共通の知人にあたる店長とその夫も、そういったたぐいの人物だ。だからといって世の中、いい人ばかりいるわけでないとヤマダは認識しているつもりだ。美弥の言い分がわからないでもない。ただ、特別シドが偽善者だとは感じられなかった。どこかしら無理をしている、と違和感をおぼえるフシがあるものの、それは新人教師ゆえの不慣れのせいだと思った。
「あなたに言ってもしかたないでしょうね」
美弥が立ち止まった。ヤマダを見下ろすその顔に、物憂げな感情があらわれる。
「あなたは、めぐまれてるから」
ヤマダは美弥との隔たりを感じた。しかしショックは受けない。人それぞれちがっていて当たり前なのだ。そのちがいに対する敵意を向けていないだけ、美弥は友好的である。
美弥が階段を下りていく。彼女と合流するように、ヤマダもアパートの裏手へ進んだ。
来訪のきっかけは前日の喫茶店勤務の際に美弥が来店しなかったこと。五月の連休後からヤマダの勤務時には彼女を見かけなくなったので、この事態は多少なりとも覚悟していた。美弥の足が店から遠のいた原因は三郎の臨時勤務のせいではないかとヤマダは考えている。ヤマダが三郎を従業員としてよんだ手前、そのことも詫びたほうがよいのかとひそかに思い続けていた。その話題は今日ヘタに触れてしまうと今週の計画に支障が出そうなので、秘匿することに決めた。
肝心の美弥の部屋について、ヤマダは知らない。美弥とは知人同士な店長にたずねたが、かんばしい返答はなかった。だが連絡はとれるというので、その場で話をこぎつけてもらった。
店長と美弥の話し合いのすえ、九時半から十時の間に美弥が自身の部屋のまえで待ってくれることになった。しかし確実に果たされる取り決めではない。応対した店長によれば、美弥の反応はよいともわるいとも言えないらしく、約束をすっぽかす可能性があるという。その時はあきらめて、と店長にさとされた。ヤマダは素直に同意したが、内心ではまだ手はあると考えた。
(たまたま外出する先生たちに聞ければ……)
そちらはむしろヤマダが最初から考案していた手段だ。店長による連絡の主効果は、美弥に来客がくる心積もりをしてもらうことにある。
ただし、美弥が店長との約束を放棄してまでヤマダに会いたくないのであれぱ、居場所をつかんだとしても意義はない。まともな会話は不成立におわるだろう。それゆえ別の手助けが必要だとも思った。美弥と接点があり、なおかつ彼女に一定の信頼を寄せられている、そんな教師の手助けが。
ヤマダはアパートの敷地内へ入る。アパートの各部屋の玄関がならぶ光景が目についた。玄関がつらなる通路には金属製の柵が設置してある。柵越しの一階通路に、なにやらうごくものが見える。黒シャツを着た男性の背中だ。その姿は休日もスーツ姿で過ごすという教師に酷似している。彼の髪は特徴的な銀色。ヤマダは幸先がよいという手応えを感じる。この教師こそが、いちばんヤマダの助力となるアパート住民だ。
「シド先生?」
教師がふりかえる。彼は雑巾で玄関のドアを拭いていたらしい。手には水色のゴム手袋が装着してあった。いつものサングラスの下にはおどろいたような顔がある。
「オヤマダさんがここにくるのは、はじめてですね」
「うん、今日は美弥ちゃんに用事があるの。先生は美弥ちゃんの部屋がどこか、知ってる?」
シドの表情がやわらぐ。答えてくれるものかとヤマダは期待したが、彼は首を横に振る。
「知ってはいますが、私が勝手に教えてよいものか判断にこまりますね」
表情に反して、シドはヤマダの婉曲的な要求に応じなかった。それが正直な彼の答えだ。その誠実さこそが美弥にも信頼される一因だとヤマダは思っているので、わるい気はしない。
「いまは教えてくれなくていいの。美弥ちゃんにはわたしが会いにいくことを伝えてあるから。しばらくしたら部屋のまえに美弥ちゃんが出てくることになってるんだけど、約束の時間をすぎても美弥ちゃんにきてもらえなかったら、そのときに教えて」
「約束の時間……いつごろですか?」
「十時まで」
「貴女は予定よりずいぶん早くきたようですが、なんの用でスザカさんと会うのです?」
ヤマダは紙袋を掲げる。
「手作りのお菓子を食べながらおしゃべり」
その説明にウソはない。だが目的とする会話内容は不明瞭だ。ヤマダは説明不足を指摘されないよう先手を打つ。
「ほんとは先生もさそいたいんだけどね、ちょっと話の中身がねー」
「女の子だけの話、ですか?」
的確な援護がきた。ヤマダはさっそくその推測に乗っかる。
「そう! もし先生の心が女の子になれたら、いっしょにきていいよ」
ありえないことを口走るヤマダに、シドは温和な笑みを見せる。
「無理でしょうね。私は物心ついたころより男性の価値観を植えつけられてきましたから、いまさら変更がききそうにありません」
ごく自然な男性の自己形成だ。解説しなくともわかる理由を順序立てて説明するところが彼らしい。ヤマダは「それが普通だと思う」と笑顔で肯定した。
ガチャっという金属音が鳴った。音の出所は上階。おそらくはドアの開閉音だと思い、ヤマダが視線をあげる。二階通路に女性が立っている。ゆったりしたロングスカートを穿いた美弥だ。待ちあわせの開始時刻から二十分ばかし前倒しになるが、彼女は約束を守ってくれたのだとヤマダはよろこぶ。
「美弥ちゃん、おはよう!」
ヤマダが笑顔であいさつする。だが美弥は困ったような顔でだまっている。彼女はヤマダのために部屋から出てきたのではなさそうだ。
「……言ってた時間より早いじゃない」
「あ、うん。アパートにくるまでにかかる時間がわかんなくてさ。美弥ちゃんはほかに用事があって、出かけるの?」
「さっきから物音がしてたのを、確かめたくて」
「物音? 話し声……じゃなくて?」
「話し声? だれと?」
美弥の疑問に答えるかのように、シドが柵を跳び越えてくる。片手で柵の手すりにつかまり、両足を薙ぐさまはアクション映画のワンシーンに似ていた。その無駄によい運動神経は、角度的にヤマダだけが観賞できた。
シドは自然体でヤマダのとなりにならび、「私です」と言う。
「さきほどスザカさんのお部屋のドアも掃除していました。貴女はその音を気にされたのですね。不快でしたらもうやめますが」
「べつにイヤじゃない。清掃の人がしばらくこれないってお知らせがあったから、変だと思っただけ」
清掃業者の代わりにシドが掃除をこなしているらしい。そのことをヤマダが察すると「先生はボランティアできれいにして回ってるの?」とたずねる。
「てっきり自分の部屋だけきれいにしてるのかと……」
「せっかくですから皆さんの分も掃除しておこうと思いまして。それはそうと、お二人はどこでお話しをするのですか?」
「え、どこでって──」
ヤマダは美弥を見つめる。しかし彼女は気乗りしなさそうでいる。
「……私の部屋、ちらかってるから」
客を入れたくないという遠回しな拒絶だ。空気をよめない人なら「掃除してあげようか」などと言い出すかもしれないが、ヤマダは美弥相手にそんな無謀なまねをしたくなかった。
ヤマダがどう会話をつづけようか手をこまねいていると、シドが「私の部屋を貸しましょうか」と提案する。
「今朝掃除したばかりですから、お二人が快適にすごせるかと思います」
他人の部屋のドアをも清掃する掃除好きが言うのだから、彼の部屋は整理整頓が行きとどいているという説得力はあった。
「お二人の話がすむまで、私は外にいます。部屋にある食器や飲み物は好きに使っていいですし、それならスザカさんも問題ないのではありませんか?」
「それは、そうだけど……」
美弥が口ごもる。申し出を飲むには抵抗があるのだ。その感覚はヤマダも共感できる。
「どうして、あなたはそこまで他人に尽くせるの?」
一見見返りを求めていない行為とて、本質は見返りを期待している。そこには詐欺師的な悪行もあれば、自己満足や後ろめたさの解消などの内的事情もある。理由のない善意などないのだ。警戒心の強い美弥はシドの目的がなんなのかわからず、こわさを感じているのだろう。
「先生はいい人なんだと思うけれど、いきすぎてて不安になる」
「私は貴女たちが好きです。貴女たちが親しくしていると私はほほえましくなります。それでは理由になりませんか?」
ヤマダは彼の主張を動物に置き換えるといたく納得した。犬でも猫でも、自分が好きな動物同士が仲良くじゃれたりくっついていたりする様子を見ると癒される。それに近い気持ちなのだと解釈した。
「じゃあ掃除は? このアパートにすむ全員が好きだとでも言うの」
「掃除は私の趣味です」
「そんなに好きならそういう仕事に就けばいいじゃない」
刺のある言い方だった。今日の美弥は不機嫌なようだ。相対するシドの態度は平時と変わらない。
「何時間も毎日やりたいとは思いません。どうにも私は……人とかかわるのが好きなようです」
美弥は黙った。会話の間断をぬってヤマダがシドへ質問をする。
「生徒を部屋にあがらせちゃって、だいじょうぶ? 次やるテストを見られたり──」
シドは「平気です」と笑顔で断言する。
「貴女がそんなことをしないと、私は信じています」
うまい言い方だ。そんなふうに持ち上げられて、なお不道徳な行為をするやからはなにを言っても悪さをする。そういった悪童ではないヤマダたちへの牽制には効果的だ。
「ポットのお湯をわかしてきますね」
教師はふたたび柵を越える。直後に手袋をぬぎ、柵の手すりにかける。シドは清掃でよごれていない手でドアノブをうごかし、自室へもどった。
ヤマダは上階を見上げる。美弥は柵の手すりにつかまっていた。
「ねえ美弥ちゃん、シド先生の部屋でお話ししてもいい?」
「そうね、なんだかそういう流れになったし……」
美弥は気まずそうな表情で通路を進む。彼女の行く方向へ、ヤマダも歩いた。ヤマダは美弥がシドの提案に気後れしているのではないかと思い、声をかける。
「先生の部屋に行きづらいなら美弥ちゃんの──」
「いーえ、行ってやるわ」
美弥の言葉に闘争心めいた感情がこもっている。だれへの闘志なのか、ヤマダは特定できない。
「美弥ちゃん? なにか、意気込んでる?」
「部屋のどこかに、あの教師の本性がわかるものがあるかもしれないでしょ」
「本性って……シド先生を信用してないの?」
もしやさきほどの攻撃的な物言いはシドの人柄を試していたのか、とヤマダは推測した。
「ああいういい人が絶対いない、とは言わない。うちのお姉ちゃんがそうだもの。でもめったにいないでしょ」
「そうかなぁ……」
ヤマダの周囲にはクセが強いが善良な人が多い。美弥とは共通の知人にあたる店長とその夫も、そういったたぐいの人物だ。だからといって世の中、いい人ばかりいるわけでないとヤマダは認識しているつもりだ。美弥の言い分がわからないでもない。ただ、特別シドが偽善者だとは感じられなかった。どこかしら無理をしている、と違和感をおぼえるフシがあるものの、それは新人教師ゆえの不慣れのせいだと思った。
「あなたに言ってもしかたないでしょうね」
美弥が立ち止まった。ヤマダを見下ろすその顔に、物憂げな感情があらわれる。
「あなたは、めぐまれてるから」
ヤマダは美弥との隔たりを感じた。しかしショックは受けない。人それぞれちがっていて当たり前なのだ。そのちがいに対する敵意を向けていないだけ、美弥は友好的である。
美弥が階段を下りていく。彼女と合流するように、ヤマダもアパートの裏手へ進んだ。
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2018年06月16日
拓馬篇−6章◆
美弥とヤマダは銀髪の教師の部屋へ訪れた。美弥はもともと彼の部屋番号を知っており、部屋主の案内がなくとも訪問できた。ヤマダとの話し合いの場はここでも自室でもかまわないのだが、せっかくの機会なのでお邪魔させてもらう。
美弥がヤマダに自室への招待を渋った理由は他愛もないことだった。ただ彼女を困らせたかった。そのきっかけは以前、美弥は知人の喫茶店におとずれた時に、従業員に暑苦しい男子と出会ったことにある。その手引きをしたのがヤマダだという。当時、美弥はその男子の熱気に困らされた。その仕返しをしてやったつもりだ。彼女を追いかえす意思はなく、あれこれしゃべったあとで、気が変わったふうに装う予定だった。
そうとは知らないヤマダは玄関で靴をぬいだ矢先、きょろきょろする。
「先生?」
ヤマダは物音のする部屋へ入った。そこは台所だ。電子ポットの湯をわかす音が聞こえる。部屋主の男性も台所で作業していた。彼は生徒たちにふりかえる。
「オヤマダさん、皿やフォークは必要ですか?」
「うーん、小皿はあったらたすかる。マフィンを持ってきたんだよ」
ヤマダは紙袋から透明なプラスチックの容器を出した。長方形の容器に円形の焼き菓子がぎっしり詰まっている。
「ではおしぼりも用意しますね」
シドは戸棚に向かった。その背中にヤマダが話しかける。
「あ、うん……なんかわるいね、先生は関係ないのに」
「気に病む必要はありません。私が好きでやっていることです」
彼は戸棚から直径十センチほどの平皿と、四角くたたんだ布を二枚ずつ出した。ヤマダは容器を紙袋に一時もどす。
「マフィンは先生のぶんも残しておくね。あとで食べて」
「なんでしたら容器も残していってください。後日、洗ってお返しします」
シドは皿をかるくスポンジで洗い、水切り置き場に置いた。そこにはぬれたマグカップも底を天井に向けた状態で置いてある。カップが二つあることから、それらは美弥たちが使うために洗浄したものだと知れた。皿と同じく戸棚にあった綺麗な状態だろうに、やることが徹底している。
(潔癖症……なのかしら?)
美弥にはこの教師が神経質な男性には見えなかった。彼はよく平然と野良猫をなでる。雑菌だらけの生き物を、むしろ愛おしんでいる人だ。一連の綺麗好き加減とは相反するような気がした。
シドはおしぼりとは別の、台拭きを用意する。それをヤマダが「わたしが拭くね」と受け取り、居間へ入った。美弥もなにか雑用をこなそうと思い、どうすべきか部屋主にたずねる。
「私はなにをしたらいい?」
「そうですね、これでぬれた食器を乾拭きしてもらえますか」
シドは水切り場の上に垂れ下がるタオルを取る。それを美弥に渡した。美弥は手を洗っていないのだが、彼は気にしないらしい。
(潔癖じゃないわ、これは……)
彼が過剰に環境の清浄に努める動機は、ただそのように躾けられた結果のように美弥は感じた。
美弥が食器の口をつける部分を手で触れずに拭く最中、ヤマダが台所にもどってくる。シドは「話がおわったらそのまま帰っていいですからね」と言い、また外へ行った。彼は本気で他人に部屋を間借りさせた。その無防備さに、美弥があきれはてる。
(お金を盗られるとか……心配にならないの?)
正真正銘のお人好しか、と美弥は教師への疑念にかげりをいだいた。だからといって彼の探りを入れずにはいられない。うさんくささを美弥が嗅ぎとった、その事実はどうあっても覆らないのだ。
台所の調理台にはシドが用意したおしぼり二本と、インスタント飲料のスティック粉末を立てて入れたケースがある。ヤマダは飲料を指差して「どれ飲む?」と美弥に聞いてくる。美弥は適当にえらんだ。
カップはヤマダが運ぶと言うので、美弥はおしぼりと皿を先に居間へ運んだ。居間にはロフトベッドやロフトへ続く階段兼棚がある。どれも美弥の部屋にあるものと同じだ。ちがうのはベッド下の勉強机にある文具類や、棚に置いた調度品の種類くらい。美弥は机の棚に収納されたノート類に心が惹かれる。そこに部屋主の素性がわかるなにかがあるのではないかと期待した。
美弥が調査にかかるまえに、ひとまず両手に持つものを座卓におろす。座卓にはヤマダが持参した焼き菓子が容器に入ったまま置いてある。容器の蓋を開けてみると、どれも色やトッピングが異なるこだわりぶりだ。美弥のためにここまで手のこんだもてなしを用意している。
(なにを言い出すつもりなんだか……)
事前の知人の電話では『キリちゃんがあなたにお願いしたいことがあるんですって』と聞かされた。「キリちゃん」とはヤマダのこと。おそらく彼女の下の名前の一部だ。学内ではその名でよばれないため、美弥の馴染みはなかった。
(この際、なんで名字のあだ名でよばれてるのか聞いてみようかな)
などと普通の雑談も視野に入れはじめたころ、ヤマダが熱い飲み物の入ったカップを持ってくる。ようやく美弥たちは座談会をはじめた。
二人はおしぼりで手を拭いた。ヤマダが「これオススメだよ」と生地にチョコチップがまじる薄ピンク色の焼き菓子を皿にうつす。美弥はその皿を受け取りつつも「話ってなに?」と本題にせまった。ヤマダは手を止める。
「美弥ちゃんに知らせたいことがあるの。例の大男さんのことなんだけど」
美弥は思いのほか自分の興味のある話題だと知り、前傾姿勢になる。
「なにかわかったの?」
「あんまり進展はないんだ。期待させちゃってごめん」
美弥が少々食い気味で聞いたせいか、ヤマダは消沈する。だが彼女はまっすぐ美弥を見る。
「でも真相をつかむために、美弥ちゃんに協力してもらいたくて、おねがいしにきたの」
「なにをするの?」
「次の金曜日の夜、お姉さんをむかえに行くふりをしてほしい」
「なんのために?」
「大男さんをおびきよせるために」
「そんなことであの男の人がくる?」
「あの人が出てくるときって、美弥ちゃんにちょっかいをかける人がいたときだったよね。そういう仕掛け人はこっちで用意する。うまくいくかはわからないけど……これが最後の挑戦になると思う」
「この機会をのがしたら、もうできないの?」
「うん。たまたま強力な助っ人と予定が合ってて、たのめるのは今回かぎりになりそう」
真実を知りたければヤマダの要請を受けるべき──と美弥は安直に思う。それがまことに安直であるか、自問自答する。
(どうする? ほかにやり方なんて……いや、それよりもリスクは?)
現段階ではヤマダの計画に加わるか否かの判断ができない。美弥は詳細をたずねる。
「あなたは実際にどうやろうと思っているの?」
「ざっくり言うと……まず美弥ちゃんが駅にむかうでしょ。その道中でうちのオヤジにぐうぜん会って、その時にオヤジが美弥ちゃんに絡んでくると。それを大男さんが止めにくる、って感じ」
あらましを聞くかぎりは可も不可もない段取りだ。美弥は肝心な部分を質問する。
「そこで男の人がやってきたとしたら、どうやって話を聞き出すの?」
「それは捕まえられたあとにじっくり聞こうかなーって」
「どうやって捕まえるのよ?」
「えっと、うちのオヤジの友だちがその日にくるんだよ。その人がかなり強いから、タッちゃんたちとも協力して大男さんを倒してもらって、そのあとは知り合いの警察官の人に身柄を拘束してもらおうかと」
「あなたに警察官の知り合いがいるの?」
「うーん、正確にはタッちゃんの知り合いね。わたしは会ったことないし、話をするのもタッちゃんまかせ」
「タッちゃん」は根岸のあだ名だ。彼は普段から拓馬ともよばれているので、それは美弥にも聞き覚えがある。根岸の知人に警察官がいて、その人物とヤマダが連携しているようだが、両者に直接のやり取りはないらしい。
「変なの、根岸くんがいちいち間に入って連絡してるの?」
「うん、いつもそう」
「あの子、自分からはそんな計画に関わらないでしょうに」
「たしかに、わたしが直接話せたら手間がはぶけるんだろうけど……警察官の人がやりたがらないんだよね」
「どうして?」
「こっちはいちおう女子高生でしょ? むこうは男性。そういう関わり合いは聞こえがわるいんじゃないかなぁ。インターネットで知り合った男女が〜っていう事件はぼちぼち起きるしさ」
そんな変なことをする人じゃないけど、とヤマダは見知らぬ男性を弁護した。このご時世、自衛をするにこしたことはない。品行方正を求められる公務員ならさもありなん、と美弥はヤマダの見解を聞いて合点がいった。
美弥はインスタントのコーヒーを一口ふくむ。いろいろ事情を聞いてみたところ、ヤマダの誘いを断る理由はない。美弥にも大男に聞きたいことはある。
「なんであの男の人が私を気にかけてるのか……わかるかもしれないのね」
「いっしょにやってくれる?」
「ええ、これが最後だものね」
「よかった! じゃ、わたしも食べるねー」
本日の責務を果たせたヤマダがこげ茶色のマフィンを取る。
「これココアが入ってるんだよ。美弥ちゃんに渡したのは、いちご牛乳入りね。いちばん甘いの。コーヒーに合うと思うよ」
「ほかのカラフルなやつは?」
「野菜ジュースで色づけしてる。着色料を使ったほうが見た目はあざやかになるんだけどね、せっかくなら栄養のある食材を使いたくって」
その心がけは食事が偏りがちな一人暮らしの人間にはありがたいものだ。体への気遣いがこもる焼き菓子を、美弥は食べはじめた。味はホットケーキにいちごの風味がまざった感じがする。味は美弥の好みである。店でもマフィンを出せばいいのに、とひそかに思った。
美弥がひとつたいらげると、室内の調査への気持ちが再燃する。
(そっちも、いましかできないことなのよね……)
美弥はおしぼりで手の油を拭きとる。ヤマダが「もうおなかいっぱい?」と聞いてきたので、美弥は首を横にふる。
「ほかに気になることがあって」
「シド先生のこと?」
「ええ、なにか隠していそうでしょ」
美弥はベッド下の机に近づいた。背後から「やめとこうよ」と制止の声がかかる。かまわずに卓上の本棚に手をかけた。教科書や専門書には目もくれず、薄いノートを取る。職員会議のメモなどの仕事に関係する内容はハズレと見做して、もとにもどした。その作業を繰り返すうち、表紙に数字のみが書いてあるノートを見つける。これは私用のメモかもしれないと思い、美弥は開こうとした。ところがノートはそれ自体が板きれであるかのごとく、まったく開かない。ページの一枚一枚がぴっちりくっついているのだ。
「なにこれ……糊付けしてあるの?」
背表紙のほうからノートをつかみ、ふってみる。結果は変わらない。美弥の手中にあるものは、ノートの体裁をつくろった板だ。記録物として用を成さないそれを、机上に置く。
「表にあるものはぜんぶダメね。ま、私たちがくるまえに片付けたんでしょうけど……」
「まだ探すの?」
「そうよ。ひとつ、絶対に持ってるのに見つかってないものがあるんだから」
「先生が『絶対に持ってるもの』……手帳?」
「そう、授業のときにもよく持ってきてる」
生徒にも持ち歩く者がいるほど普遍的な文具だ。美弥の記憶によれば、シドの手帳は無難な黒色。美弥は黒い表紙を捜索対象とし、机の引き出しを開けた。すると一発で目当ての手帳を発見する。
(ふん! やることが甘いわ)
美弥はよろこびいさんで手帳を開きにかかった。手帳の裏表紙から表表紙までをつなぐ帯をつかむ。帯をぐっと引っ張るが、びくともしない。帯の先端にある留め具が異様に固いのだ。力任せにこじ開けようとするが、接着剤で固められたかのように、てこでもうごかない。
「なんなの、さっきから……あの教師がいつも使ってるやつじゃないの?」
美弥の盗み見が阻害され続けている。小さな悪事を止められること自体は拒むべきではないとはいえ、この局地的な妨害は理解しがたい。
「まさか馬鹿力な人にしか開けられないってわけじゃないでしょうね……」
「そんなに固いの?」
手帳がヤマダの手に渡る。彼女が帯に指をひっかけると、いとも簡単に外れてしまった。その際に力をこめた様子はない。
「え?」
「んん? ふつーに開くけど……」
ヤマダが手帳のページをぱらぱらめくる。
「なんで開いたのかな……あたたまると開くタイプ?」
「そんな使い勝手のわるい手帳があるものかしら」
「んー、よくわかんないね」
ヤマダは八月のカレンダーのページを開いて「なにも書いてないね」とつぶやく。
「海外に行く予定って、べつの手帳に書いてあるのかな……」
あれほど美弥に盗み見を引き止めていたヤマダだが、やはりシドに対する興味はあるのだ。そのことを美弥はつつく。
「なぁんだ、やっぱりあなたも気になるんじゃないの」
「先生が退職したあとのことは、ね。」
「いままでにやってきたことはいいの?」
「うん。そんなの、意味もなく他人がほじくりかえすことじゃないから」
ヤマダは手帳を引き出しにもどした。彼女が手帳を開くことができた理由はわからない。だが物は試しだ。美弥は板であったノートも彼女に持たせる。
「それも開けてみて」
「だーめ。勝手に見ちゃいけないよ」
ヤマダはノートを棚に押しこんだ。美弥が「手帳は見たくせに」と毒づくと、ヤマダは美弥とは反対ににこやかになる。
「こっちはたぶん、日記でしょう? わたしが他人に日記を読まれたらイヤだもん。予定表はまだ他人に見せても平気だけどさ」
「自分の基準で、やっていい線引きを決めてるの?」
「まあだいたい。でも許可がないことは基本的にぜんぶダメだからね。これでおしまいにしようよ」
融通のきかない子だ、と美弥は内心舌打ちする。だが嫌悪感はわかない。倫理的にはヤマダのほうが正解に近いうえ、その実直さは信頼のおける人物だという証拠でもある。
「あなたがいたんじゃ、家(や)探しできそうにないわ」
美弥がお手上げ宣言をすると、ヤマダはにやりと笑う。
「やるときはもっと行儀のなってない子をつれてこなきゃね」
「そんな子、いっしょにきてくれるわけない。普段から私とケンカしちゃいそうだもの」
美弥はシドの身辺調査を放棄した。座卓にもどり、ヤマダとの会話を再開する。
美弥はヤマダが依頼してきた計画に加わる者に関する質問をかさねた。計画の説明中に出てきたヤマダの父親のことや、あの強靭な大男を屈服しうるヤマダの知人。その二人について、ヤマダは素直に答えた。しかし、根岸を介して意志疎通を図る警察官の話になると急に話しにくそうになる。その人物と接触しているのは根岸ゆえに、彼女にまで情報がいかないのかもしれない。そう考えた美弥はほどほどに会話を切り上げた。
二人は帰り支度をする。使った食器とおしぼりを台所に運んだ。ヤマダが「やっぱ洗っておこうか」と言い、食器を洗いはじめる。その時に部屋主が帰宅した。彼は美弥たちに「ほうっておいていいんですよ」と声をかけるが、ヤマダは手を止めない。
「いーのいーの。いつもやってることだから、やらないとむずがゆくなるよ」
ヤマダが慣れた手つきで皿洗いを終える。
「んじゃ、これでわたしは帰るね。先生、親切にしてくれてありがとう!」
美弥には「またあしたねー」と別れのあいさつを交わし、ヤマダは手ぶらで去った。美弥もそれに続く。帰り際にシドにふりむく。
「あの子のマフィン、まだテーブルに残ってるから」
「はい。ありがたくいただきます」
バカ丁寧な返事だ。こころなしか彼がうれしそうなので、美弥は冗談半分の助言をする。
「もっとほしかったら、あの子に言ったら? 用意してくれると思うけど」
「そんな厚かましいことは言えませんよ」
「そう? 先生はあの子に貸しがたくさんあるんじゃないの」
ヤマダたちが起こす騒動に対し、この教師は一方的な損害を受けているという認識が美弥にはある。貧乏くじを引かされているはずのシドは笑って「そんなことはありません」と答える。
「私はオヤマダさんからたくさんもらっていますよ」
「なにを?」
「表現がむずかしいですね」
「『愛』とか言うんじゃないでしょうね?」
「それに近いと思います」
シドが恥ずかしげもなく肯定した。美弥は自身の発言を否定されると思っていたので、きょとんとしてしまう。
「え……本当に?」
「勘違いはしないでください。異性としての愛情ではないですから」
「ま、まあそうよね。教師なんだし……」
美弥はそそくさと退室した。すぐにそれまでの応対について顧みる。あの教師はどうにも調子が狂う相手だ。根本的に美弥と感性が合わないのかもしれないとさえ思う。
(……イヤなことはしてこないんだから、どうだっていいのよね)
シドが内包するあやしさは解消されないものの、そのせいで美弥に不利益が出る気配はない。美弥は彼への疑念をまたも胸中に封じたまま、自室へもどった。
美弥がヤマダに自室への招待を渋った理由は他愛もないことだった。ただ彼女を困らせたかった。そのきっかけは以前、美弥は知人の喫茶店におとずれた時に、従業員に暑苦しい男子と出会ったことにある。その手引きをしたのがヤマダだという。当時、美弥はその男子の熱気に困らされた。その仕返しをしてやったつもりだ。彼女を追いかえす意思はなく、あれこれしゃべったあとで、気が変わったふうに装う予定だった。
そうとは知らないヤマダは玄関で靴をぬいだ矢先、きょろきょろする。
「先生?」
ヤマダは物音のする部屋へ入った。そこは台所だ。電子ポットの湯をわかす音が聞こえる。部屋主の男性も台所で作業していた。彼は生徒たちにふりかえる。
「オヤマダさん、皿やフォークは必要ですか?」
「うーん、小皿はあったらたすかる。マフィンを持ってきたんだよ」
ヤマダは紙袋から透明なプラスチックの容器を出した。長方形の容器に円形の焼き菓子がぎっしり詰まっている。
「ではおしぼりも用意しますね」
シドは戸棚に向かった。その背中にヤマダが話しかける。
「あ、うん……なんかわるいね、先生は関係ないのに」
「気に病む必要はありません。私が好きでやっていることです」
彼は戸棚から直径十センチほどの平皿と、四角くたたんだ布を二枚ずつ出した。ヤマダは容器を紙袋に一時もどす。
「マフィンは先生のぶんも残しておくね。あとで食べて」
「なんでしたら容器も残していってください。後日、洗ってお返しします」
シドは皿をかるくスポンジで洗い、水切り置き場に置いた。そこにはぬれたマグカップも底を天井に向けた状態で置いてある。カップが二つあることから、それらは美弥たちが使うために洗浄したものだと知れた。皿と同じく戸棚にあった綺麗な状態だろうに、やることが徹底している。
(潔癖症……なのかしら?)
美弥にはこの教師が神経質な男性には見えなかった。彼はよく平然と野良猫をなでる。雑菌だらけの生き物を、むしろ愛おしんでいる人だ。一連の綺麗好き加減とは相反するような気がした。
シドはおしぼりとは別の、台拭きを用意する。それをヤマダが「わたしが拭くね」と受け取り、居間へ入った。美弥もなにか雑用をこなそうと思い、どうすべきか部屋主にたずねる。
「私はなにをしたらいい?」
「そうですね、これでぬれた食器を乾拭きしてもらえますか」
シドは水切り場の上に垂れ下がるタオルを取る。それを美弥に渡した。美弥は手を洗っていないのだが、彼は気にしないらしい。
(潔癖じゃないわ、これは……)
彼が過剰に環境の清浄に努める動機は、ただそのように躾けられた結果のように美弥は感じた。
美弥が食器の口をつける部分を手で触れずに拭く最中、ヤマダが台所にもどってくる。シドは「話がおわったらそのまま帰っていいですからね」と言い、また外へ行った。彼は本気で他人に部屋を間借りさせた。その無防備さに、美弥があきれはてる。
(お金を盗られるとか……心配にならないの?)
正真正銘のお人好しか、と美弥は教師への疑念にかげりをいだいた。だからといって彼の探りを入れずにはいられない。うさんくささを美弥が嗅ぎとった、その事実はどうあっても覆らないのだ。
台所の調理台にはシドが用意したおしぼり二本と、インスタント飲料のスティック粉末を立てて入れたケースがある。ヤマダは飲料を指差して「どれ飲む?」と美弥に聞いてくる。美弥は適当にえらんだ。
カップはヤマダが運ぶと言うので、美弥はおしぼりと皿を先に居間へ運んだ。居間にはロフトベッドやロフトへ続く階段兼棚がある。どれも美弥の部屋にあるものと同じだ。ちがうのはベッド下の勉強机にある文具類や、棚に置いた調度品の種類くらい。美弥は机の棚に収納されたノート類に心が惹かれる。そこに部屋主の素性がわかるなにかがあるのではないかと期待した。
美弥が調査にかかるまえに、ひとまず両手に持つものを座卓におろす。座卓にはヤマダが持参した焼き菓子が容器に入ったまま置いてある。容器の蓋を開けてみると、どれも色やトッピングが異なるこだわりぶりだ。美弥のためにここまで手のこんだもてなしを用意している。
(なにを言い出すつもりなんだか……)
事前の知人の電話では『キリちゃんがあなたにお願いしたいことがあるんですって』と聞かされた。「キリちゃん」とはヤマダのこと。おそらく彼女の下の名前の一部だ。学内ではその名でよばれないため、美弥の馴染みはなかった。
(この際、なんで名字のあだ名でよばれてるのか聞いてみようかな)
などと普通の雑談も視野に入れはじめたころ、ヤマダが熱い飲み物の入ったカップを持ってくる。ようやく美弥たちは座談会をはじめた。
二人はおしぼりで手を拭いた。ヤマダが「これオススメだよ」と生地にチョコチップがまじる薄ピンク色の焼き菓子を皿にうつす。美弥はその皿を受け取りつつも「話ってなに?」と本題にせまった。ヤマダは手を止める。
「美弥ちゃんに知らせたいことがあるの。例の大男さんのことなんだけど」
美弥は思いのほか自分の興味のある話題だと知り、前傾姿勢になる。
「なにかわかったの?」
「あんまり進展はないんだ。期待させちゃってごめん」
美弥が少々食い気味で聞いたせいか、ヤマダは消沈する。だが彼女はまっすぐ美弥を見る。
「でも真相をつかむために、美弥ちゃんに協力してもらいたくて、おねがいしにきたの」
「なにをするの?」
「次の金曜日の夜、お姉さんをむかえに行くふりをしてほしい」
「なんのために?」
「大男さんをおびきよせるために」
「そんなことであの男の人がくる?」
「あの人が出てくるときって、美弥ちゃんにちょっかいをかける人がいたときだったよね。そういう仕掛け人はこっちで用意する。うまくいくかはわからないけど……これが最後の挑戦になると思う」
「この機会をのがしたら、もうできないの?」
「うん。たまたま強力な助っ人と予定が合ってて、たのめるのは今回かぎりになりそう」
真実を知りたければヤマダの要請を受けるべき──と美弥は安直に思う。それがまことに安直であるか、自問自答する。
(どうする? ほかにやり方なんて……いや、それよりもリスクは?)
現段階ではヤマダの計画に加わるか否かの判断ができない。美弥は詳細をたずねる。
「あなたは実際にどうやろうと思っているの?」
「ざっくり言うと……まず美弥ちゃんが駅にむかうでしょ。その道中でうちのオヤジにぐうぜん会って、その時にオヤジが美弥ちゃんに絡んでくると。それを大男さんが止めにくる、って感じ」
あらましを聞くかぎりは可も不可もない段取りだ。美弥は肝心な部分を質問する。
「そこで男の人がやってきたとしたら、どうやって話を聞き出すの?」
「それは捕まえられたあとにじっくり聞こうかなーって」
「どうやって捕まえるのよ?」
「えっと、うちのオヤジの友だちがその日にくるんだよ。その人がかなり強いから、タッちゃんたちとも協力して大男さんを倒してもらって、そのあとは知り合いの警察官の人に身柄を拘束してもらおうかと」
「あなたに警察官の知り合いがいるの?」
「うーん、正確にはタッちゃんの知り合いね。わたしは会ったことないし、話をするのもタッちゃんまかせ」
「タッちゃん」は根岸のあだ名だ。彼は普段から拓馬ともよばれているので、それは美弥にも聞き覚えがある。根岸の知人に警察官がいて、その人物とヤマダが連携しているようだが、両者に直接のやり取りはないらしい。
「変なの、根岸くんがいちいち間に入って連絡してるの?」
「うん、いつもそう」
「あの子、自分からはそんな計画に関わらないでしょうに」
「たしかに、わたしが直接話せたら手間がはぶけるんだろうけど……警察官の人がやりたがらないんだよね」
「どうして?」
「こっちはいちおう女子高生でしょ? むこうは男性。そういう関わり合いは聞こえがわるいんじゃないかなぁ。インターネットで知り合った男女が〜っていう事件はぼちぼち起きるしさ」
そんな変なことをする人じゃないけど、とヤマダは見知らぬ男性を弁護した。このご時世、自衛をするにこしたことはない。品行方正を求められる公務員ならさもありなん、と美弥はヤマダの見解を聞いて合点がいった。
美弥はインスタントのコーヒーを一口ふくむ。いろいろ事情を聞いてみたところ、ヤマダの誘いを断る理由はない。美弥にも大男に聞きたいことはある。
「なんであの男の人が私を気にかけてるのか……わかるかもしれないのね」
「いっしょにやってくれる?」
「ええ、これが最後だものね」
「よかった! じゃ、わたしも食べるねー」
本日の責務を果たせたヤマダがこげ茶色のマフィンを取る。
「これココアが入ってるんだよ。美弥ちゃんに渡したのは、いちご牛乳入りね。いちばん甘いの。コーヒーに合うと思うよ」
「ほかのカラフルなやつは?」
「野菜ジュースで色づけしてる。着色料を使ったほうが見た目はあざやかになるんだけどね、せっかくなら栄養のある食材を使いたくって」
その心がけは食事が偏りがちな一人暮らしの人間にはありがたいものだ。体への気遣いがこもる焼き菓子を、美弥は食べはじめた。味はホットケーキにいちごの風味がまざった感じがする。味は美弥の好みである。店でもマフィンを出せばいいのに、とひそかに思った。
美弥がひとつたいらげると、室内の調査への気持ちが再燃する。
(そっちも、いましかできないことなのよね……)
美弥はおしぼりで手の油を拭きとる。ヤマダが「もうおなかいっぱい?」と聞いてきたので、美弥は首を横にふる。
「ほかに気になることがあって」
「シド先生のこと?」
「ええ、なにか隠していそうでしょ」
美弥はベッド下の机に近づいた。背後から「やめとこうよ」と制止の声がかかる。かまわずに卓上の本棚に手をかけた。教科書や専門書には目もくれず、薄いノートを取る。職員会議のメモなどの仕事に関係する内容はハズレと見做して、もとにもどした。その作業を繰り返すうち、表紙に数字のみが書いてあるノートを見つける。これは私用のメモかもしれないと思い、美弥は開こうとした。ところがノートはそれ自体が板きれであるかのごとく、まったく開かない。ページの一枚一枚がぴっちりくっついているのだ。
「なにこれ……糊付けしてあるの?」
背表紙のほうからノートをつかみ、ふってみる。結果は変わらない。美弥の手中にあるものは、ノートの体裁をつくろった板だ。記録物として用を成さないそれを、机上に置く。
「表にあるものはぜんぶダメね。ま、私たちがくるまえに片付けたんでしょうけど……」
「まだ探すの?」
「そうよ。ひとつ、絶対に持ってるのに見つかってないものがあるんだから」
「先生が『絶対に持ってるもの』……手帳?」
「そう、授業のときにもよく持ってきてる」
生徒にも持ち歩く者がいるほど普遍的な文具だ。美弥の記憶によれば、シドの手帳は無難な黒色。美弥は黒い表紙を捜索対象とし、机の引き出しを開けた。すると一発で目当ての手帳を発見する。
(ふん! やることが甘いわ)
美弥はよろこびいさんで手帳を開きにかかった。手帳の裏表紙から表表紙までをつなぐ帯をつかむ。帯をぐっと引っ張るが、びくともしない。帯の先端にある留め具が異様に固いのだ。力任せにこじ開けようとするが、接着剤で固められたかのように、てこでもうごかない。
「なんなの、さっきから……あの教師がいつも使ってるやつじゃないの?」
美弥の盗み見が阻害され続けている。小さな悪事を止められること自体は拒むべきではないとはいえ、この局地的な妨害は理解しがたい。
「まさか馬鹿力な人にしか開けられないってわけじゃないでしょうね……」
「そんなに固いの?」
手帳がヤマダの手に渡る。彼女が帯に指をひっかけると、いとも簡単に外れてしまった。その際に力をこめた様子はない。
「え?」
「んん? ふつーに開くけど……」
ヤマダが手帳のページをぱらぱらめくる。
「なんで開いたのかな……あたたまると開くタイプ?」
「そんな使い勝手のわるい手帳があるものかしら」
「んー、よくわかんないね」
ヤマダは八月のカレンダーのページを開いて「なにも書いてないね」とつぶやく。
「海外に行く予定って、べつの手帳に書いてあるのかな……」
あれほど美弥に盗み見を引き止めていたヤマダだが、やはりシドに対する興味はあるのだ。そのことを美弥はつつく。
「なぁんだ、やっぱりあなたも気になるんじゃないの」
「先生が退職したあとのことは、ね。」
「いままでにやってきたことはいいの?」
「うん。そんなの、意味もなく他人がほじくりかえすことじゃないから」
ヤマダは手帳を引き出しにもどした。彼女が手帳を開くことができた理由はわからない。だが物は試しだ。美弥は板であったノートも彼女に持たせる。
「それも開けてみて」
「だーめ。勝手に見ちゃいけないよ」
ヤマダはノートを棚に押しこんだ。美弥が「手帳は見たくせに」と毒づくと、ヤマダは美弥とは反対ににこやかになる。
「こっちはたぶん、日記でしょう? わたしが他人に日記を読まれたらイヤだもん。予定表はまだ他人に見せても平気だけどさ」
「自分の基準で、やっていい線引きを決めてるの?」
「まあだいたい。でも許可がないことは基本的にぜんぶダメだからね。これでおしまいにしようよ」
融通のきかない子だ、と美弥は内心舌打ちする。だが嫌悪感はわかない。倫理的にはヤマダのほうが正解に近いうえ、その実直さは信頼のおける人物だという証拠でもある。
「あなたがいたんじゃ、家(や)探しできそうにないわ」
美弥がお手上げ宣言をすると、ヤマダはにやりと笑う。
「やるときはもっと行儀のなってない子をつれてこなきゃね」
「そんな子、いっしょにきてくれるわけない。普段から私とケンカしちゃいそうだもの」
美弥はシドの身辺調査を放棄した。座卓にもどり、ヤマダとの会話を再開する。
美弥はヤマダが依頼してきた計画に加わる者に関する質問をかさねた。計画の説明中に出てきたヤマダの父親のことや、あの強靭な大男を屈服しうるヤマダの知人。その二人について、ヤマダは素直に答えた。しかし、根岸を介して意志疎通を図る警察官の話になると急に話しにくそうになる。その人物と接触しているのは根岸ゆえに、彼女にまで情報がいかないのかもしれない。そう考えた美弥はほどほどに会話を切り上げた。
二人は帰り支度をする。使った食器とおしぼりを台所に運んだ。ヤマダが「やっぱ洗っておこうか」と言い、食器を洗いはじめる。その時に部屋主が帰宅した。彼は美弥たちに「ほうっておいていいんですよ」と声をかけるが、ヤマダは手を止めない。
「いーのいーの。いつもやってることだから、やらないとむずがゆくなるよ」
ヤマダが慣れた手つきで皿洗いを終える。
「んじゃ、これでわたしは帰るね。先生、親切にしてくれてありがとう!」
美弥には「またあしたねー」と別れのあいさつを交わし、ヤマダは手ぶらで去った。美弥もそれに続く。帰り際にシドにふりむく。
「あの子のマフィン、まだテーブルに残ってるから」
「はい。ありがたくいただきます」
バカ丁寧な返事だ。こころなしか彼がうれしそうなので、美弥は冗談半分の助言をする。
「もっとほしかったら、あの子に言ったら? 用意してくれると思うけど」
「そんな厚かましいことは言えませんよ」
「そう? 先生はあの子に貸しがたくさんあるんじゃないの」
ヤマダたちが起こす騒動に対し、この教師は一方的な損害を受けているという認識が美弥にはある。貧乏くじを引かされているはずのシドは笑って「そんなことはありません」と答える。
「私はオヤマダさんからたくさんもらっていますよ」
「なにを?」
「表現がむずかしいですね」
「『愛』とか言うんじゃないでしょうね?」
「それに近いと思います」
シドが恥ずかしげもなく肯定した。美弥は自身の発言を否定されると思っていたので、きょとんとしてしまう。
「え……本当に?」
「勘違いはしないでください。異性としての愛情ではないですから」
「ま、まあそうよね。教師なんだし……」
美弥はそそくさと退室した。すぐにそれまでの応対について顧みる。あの教師はどうにも調子が狂う相手だ。根本的に美弥と感性が合わないのかもしれないとさえ思う。
(……イヤなことはしてこないんだから、どうだっていいのよね)
シドが内包するあやしさは解消されないものの、そのせいで美弥に不利益が出る気配はない。美弥は彼への疑念をまたも胸中に封じたまま、自室へもどった。
2018年06月20日
拓馬篇−6章6 ☆
休み明けの放課後、拓馬は数人のクラスメイトとともに空き教室へ移動した。集合目的はヤマダの大男捕獲作戦を聴講すること。同席者にはヤマダが協力を打診した須坂もいる。意外にも、須坂はあっさり承諾したという。彼女は大男が自分を守る理由を気にしていたので、その思いをヤマダが汲みとれたようだ。
そのほかの聴講者は二人いる。こういった計画には確実に関わる三郎と、その日は参加できるか未確定なジモンも面白がってついてきた。性格的に参加しそうだった千智は今回欠席する。彼女は親に夜の外出を禁止されているという。そのせいで計画に加われないそうだ。
もうひとり、拓馬らとは別の目的でついてくる者がいた。拓馬とヤマダの古馴染みの、痩身長躯な男子。椙守は空き教室を目前にして立ち止まる。彼は教室側の廊下の壁に寄りかかり、参考書を開いた。
椙守はヤマダに「だれもこないように見張ってて」と言われていた。彼は勉強がてら依頼を遂行するつもりだ。だが廊下は生徒たちの話し声や生活音のせいで、勉学に没頭しづらい環境だ。この状況に身を置くことは彼にとって不利益である。こんなしょうもない頼みごとは断ってもよいだろうに、妙に付き合いのいいやつだ。
(ほれた弱み、か?)
と、表現するのが適切かどうか、拓馬にはわからない。椙守がヤマダに変わった感情を抱いている、とだけ拓馬は感じていた。純粋にヤマダを友人として見ている三郎やジモンとはどこかちがうのだ。
だがそれも時間の問題だ。椙守には彼の知性を好く女子生徒がいる。いまは彼がその女子の思いを知らずにいるものの、いずれそちらになびく時がいる──その拓馬の考えはヤマダも同調している。ヤマダはそうなるのがよいとも言っている。椙守は昔と変わらない、親しい友人。いまの関係がちょうどよいのだ。
椙守を廊下にのこし、拓馬たちは無人の教室に入る。ヤマダは教卓の上に作戦資料の入った紙袋を置いた。ほかの生徒はめいめいに自由席につく。
ヤマダは一枚の大きい紙を広げた。その紙は片面に絵や文字が印刷されている。もとはカレンダーのようだ。
ヤマダは裏紙を再利用した資料を黒板に当てた。紙の四隅を磁石で留める。紙には簡略化された地図が描かれている。地図上の四角い図形の中には、駅と公園とアパートの文字が書かれてあった。
「金曜日の夜に大男さんを捕まえる計画を発表します。順を追って説明するねー」
参謀が紙の上に磁石を追加していく。あらたに使う磁石には、表に字を書いた紙が貼ってあった。ヤマダは「父」と書いた磁石をつまみながらしゃべる。
「この日はうちのオヤジが駅前の飲み屋で酒を飲みます。いっしょに飲む人は昔の仕事仲間のジュンさんです。ジュンさんにお願いして、オヤジは酔っぱらった状態にさせます。そして公園のトイレ近くのベンチにオヤジを放置してもらう予定です」
父磁石が駅から公園へ移動する。次にアパートの上にある「美」と書かれた磁石も公園にうごく。
「美弥ちゃんにはお姉さんを迎えにいくふりをしつつ、公園のトイレにむかってもらいます。この時に身に着けてほしいのがこのバンダナ!」
ヤマダはちいさくたたんだ水色の布を美弥に手渡す。美弥は両手で布をためつすがめつ眺める。
「これを、どうするの?」
「頭巾にするよ、こうやって」
ヤマダは美弥に渡したものと同じ布をあらたに出した。布を大きく三角に折り、頭に覆う。布のはじをうなじのあたりでむすぶと、頭巾になった。
「オヤジにはまえもって『わたしが水色のバンダナを被っていく』と教えておきます。美弥ちゃんがこのバンダナを着けたら、酔ってるオヤジは美弥ちゃんをわたしだと勘違いします」
「ノブさんが須坂に絡んできたら、大男が助けにくるっていう寸法か?」
ヤマダは拓馬の予想にうなずく。
「それが一番いい『甲』の作戦ね。わたしたちは公園で待機してて、大男さんが現れたらファイト!」
次に武田信玄の絵が印刷された磁石が紙上にあらわれた。磁石のセンスが謎だ。
「信玄の磁石はどういう意味か、聞いていいか?」
「大男さんのぶんの磁石です。絵柄はわたしの趣味!」
「わかった、スルーする。んで、『一番いい作戦』ってことは、ほかにも案があるのか?」
ヤマダは頭巾をぬぎながら「案ってほどでもないんだけど」と答える。
「予定通りにうごいてくれないのがオヤジの困ったところでね。作戦実行中に、オヤジは公園で寝るかもしれない」
ノブが美弥と接触してこなければ計画は成り立たない。イレギュラーが発生した場合の対処法を、ヤマダが説明していく。
「そのときは美弥ちゃんが酔っぱらいを心配する通行人になりきって、オヤジを叩き起こしてください。起きたらきっと美弥ちゃんを自分の娘だと勘違いするから。これが『乙』の作戦」
「ノブさんが起きなかったり、公園で待っていなかったりしたらどーするんだよ?」
「そしたら美弥ちゃんはいっぺん駅にむかいます。その途中でわたしが美弥ちゃんに電話をかけます。会話内容は、お姉さんの都合が悪くなって今日は来れない、という感じです。適当にしゃべったら、アパートに帰りましょう。これが『丙』の作戦」
「作戦というか、失敗したときの事後処理だな」
「そうだね。ほかの失敗原因は……オヤジ以外の人が美弥ちゃんに絡むこと」
その事態がもっとも危険だ。ノブが美弥を自分の娘と見誤ることにさしたる不安要素はないが、計画にくみしない他人ではどううごくか、予測不能だ。
「それも厄介なタイミングは美弥ちゃんが公園に向かう道中か、『丙』作戦実行中。このときに大男が出ても出なくても、美弥ちゃんはわたしに連絡してください。知らせがきたらみんなで助けに行くので、それまで耐えてください」
「私にどう耐えろと言うの?」
「基本的に公園にむかうように逃げてね。だれかひとりは公園にいるようにするから」
ヤマダは教卓の上に数枚置いてあるメモの中から一枚を取る
「美弥ちゃんの任務をまとめておいたよ」
須坂はそのメモを受け取り、じっくり見た。ヤマダの講釈は続く。
「順調にオヤジが美弥ちゃんに絡んできても、大男さんが現れない可能性もある。これも作戦失敗。そうなったらあきらめて解散しましょう。説明は以上!」
ヤマダが話し終えた。口をつぐんでいた三郎が挙手する。
「その計画において、お前の父君が例の男に倒される危険がある。それでもいいのか?」
ヤマダは片手をぷらぷらふって「へーきへーき」と安請け合いする。
「うちのオヤジは殺したって死なないよ」
「あの男は他人を傷つける意思がないようだから、各自の負傷は心配していない。オレが言いたいのは、気絶した父君がちゃんと帰宅できるかどうかだ」
三郎の憂慮は作戦の成否に関わらずつきまとってくる事柄だ。ノブが大男に襲われなかったとしても、公園で熟睡するおそれがある。酒が入った状態では朝まで野宿もありうる。
「聞くところによると、お前の父はジモンと体つきが似ているそうじゃないか。意識のない大柄な男性を運ぶとなると、オレの手に余るおそれがある」
ジモンが「ノブさんはわしより重いかもなあ」と補足した。ヤマダはひらひら手をふる。
「いーのいーの。最悪、オヤジを野宿させていいんです。そのうち目がさめたら帰るよ」
ヤマダは身内をぞんざいに扱う前提でいる。三郎はヤマダの揺るがない不孝心を知り、あきらめたようにうなずく。
「お前がいいと言うのなら、オレから言うことはない。……その作戦に乗ろう!」
質問をおえた三郎が聴講人のジモンに顔を向ける。
「して、ジモンは当日、家の手伝いがあるんじゃないのか?」
「店にノブさんがおらんし、わしは出れんかもな」
「となると、オレと拓馬の二人で捕縛を試みるのか」
ヤマダが「いや四人だよ」と異をはさんだ。三郎は首をかしげる。
「四人? ひとりはお前だとして……ほかはだれだ?」
この疑問には拓馬が補足する。
「もうひとり協力してくれる人がいるんだ。ノブさんの友だちで、ジュンさんっていう」
「ヤマダの説明に出てきた、父君の飲み友達か?」
「ああ、その人だ。ジュンさんはかなり強いぞ。拳法とか暗器の使い手で──」
三郎の目が光る。
「なに? そんな知人がいたのか」
「あ、あぁ……いつも仕事で会えないんだけど、ときたまヤマダんちに遊びにくるんだ」
「ほう! 機会があれば手合せねがいたいな」
「この件が片付いたらな。それで、ジュンさんはどううごく予定なんだ?」
拓馬は省略された解説をヤマダに問う。ヤマダがメモを片手に「うーんとね」と言う。
「ジュンさんがオヤジを公園においてったあと、しばらく駅のほうに行くふりをして、その道中で待機。大男さんが出たらわたしがジュンさんに連絡して、公園にきてもらう」
「ジュンさんは公園にいない予定なんだな」
「うん。そのほうが大男さんの裏を突けるかなーと思って」
まるで公園で張り込む人員が大男に筒抜けであるかのような口ぶりだ。拓馬はヤマダの憂慮を確認する。
「それは、やつに俺らのうごきがモロバレしてる前提なのか?」
「うん……どこからどう監視してるのか、わかんないからね」
心もとない発言だ。事実、大男の能力は未知数。当然の警戒ではある。
「オヤジが役に立たなかったときは、ジュンさんが美弥ちゃんに絡む役をする、とも考えたんだけど……しょっぱなジュンさんが大男さんにノックアウトされたら、きびしいかな」
「こう言いたかないが、ジュンさんがいても勝てる確証はないぞ」
「たしかに……出たとこ勝負だね」
気弱な拓馬とヤマダは逆に、ジモンが妙案を得たかのように膝に手を打つ。
「そんなに相手が強いんならシド先生を呼ばんとな」
皆が呆気にとられる。言われてみると、身近なところに強者はいた。だが安易にその人物を頼るわけにはいかない。
「先生に言ったら計画がパーになるだろ?」
拓馬がそうさとすとジモンは「そういうもんかの」と納得しかねた。拓馬はなるべく平易に説明する。
「先生は俺らにこんなあぶないまねをしてほしくないんだ。それは、わかるか?」
「そこんとこはわかる。シド先生はわしらのお守り役なんじゃろ?」
「そうだ。だからこんな計画を立ててるとバレたら、止めにかかるだろ」
「手伝ってもらえんのか?」
「きっとな。それが先生ってもんだ」
「犯人をとっつかまえりゃ、わしらがムチャをしなくなるとは思われんのか」
その見方は建設的だ。このまま大男を野放しにしておくよりも、生徒の奇行に加担したほうが事態は収束にむかいやすくなる。だがシドは一度校長の叱責を受けている。ふたたび咎を食らっても平気でいられるだろうか。校長の顔を立てねばならぬ身分の彼に、そんな反骨精神は強要できない。
「そう思ったとしても、先生はやれないんだよ。立場ってもんがある」
「立場……?」
「そう。生徒がバカやれても、先生は同じことができない。校長とか保護者とかの目があるからな。そういう人たちにバレたら、苦情が先生にいくだろ?」
「ようわかった。話をこじらせてしもうて、すまん」
ジモンの疑問が解消された。作戦会議は終了──するまえに、須坂が「ねえ」とヤマダに話しかける。
「昨日あなたから聞いた話だと、もうひとり協力してくれる大人がいるんでしょ。警察官だっていう人。その人はなにをするの?」
「えっと、その人は現場にこないんだけど、仲間を送ってくれることになってる」
「仲間? どんな?」
「たぶん、犬とか……」
須坂は眉をひそめて「なんのために?」とたずねた。ヤマダがあたふたする。
「ちょっと、説明しにくいんだけど……わたしたちに危険がないように、守ってくれる」
ヤマダはあえて本旨と外れる理由をのべた。この世の者でない生き物の事情を知らぬ人相手だと、シズカの仲間のことを正直に言っても理解してもらえない。大男の本性についても同様だ。それゆえ、まだ話の通じやすい副効果を挙げた。それでもなお現実離れした理由にはちがいなく、須坂の追究はやまない。
「警察犬が警察官ぬきで、ちゃんと人を守れるの?」
須坂は現実的な解釈をしてくれた。事実とは異なるが、それにヤマダが乗っかる。
「うん、わたしもまえに守ってもらったことあるし……ねえ?」
ヤマダは拓馬に同意を求めた。シズカの友が拓馬たちを守ったことは多々あるため、拓馬は首を縦にふる。
「そのへんは安心していい。でもその警察犬……シズカさんの仲間は、大男を倒すことには手を出さないらしい」
「中途半端な協力の仕方ね……」
「これでも譲歩してくれたほうなんだ。シズカさんは、俺らにはおとなしくしてほしかったみたいだし……」
拓馬たちが我を通した成果なのだと知ると、須坂は「そっちも複雑なのね」と同情めいた笑みを見せた。
質疑応答がとだえた。ヤマダは「決行時刻は当日に知らせるね」と言い、片付けをはじめる。これで会議は完了したと拓馬は察し、空き教室をはなれた。
拓馬が廊下に出るや、呆然と立つ椙守が目についた。彼の手には紙袋がある。見張り番をする際には所持していなかったものだ。だれかからもらったらしい。
「椙守? その紙袋は──」
椙守がびくっと体をふるわせた。彼が振り返る。その顔はなぜか申し訳なさそうだ。
「ああ、これはシド先生からヤマダに返してほしいと言われたんだ」
「え、先生がきてたのか?」
拓馬は自分が質問したこととは別の情報に食いついた。この作戦会議が教師に関知されると、実施が不可能になりかねない。だが椙守はこころなしかあかるい表情をつくる。
「きたよ。でも安心していい。先生はきみたちがやることを見逃すつもりらしい」
「そうか……だまってくれるんなら、いいか」
二人のもとにヤマダがやってきた。彼女は資料物がはみ出た紙袋を持っている。
「あ、ミッキーのそれ……シド先生がきたの?」
「ああ、これを返しに先生がきてたんだ」
「うっかりわすれてたなぁ……」
ヤマダが自身のしくじりに気付き、不安を募らせる。それを椙守が「心配はいらない」となぐさめる。
「計画のことはすこしバレてしまったけど、不問にしてくれるって」
「よかった、話のわかる人で」
「じゃ、あとはきみらでがんばってくれよ」
椙守は紙袋をヤマダに返却する。役目をおえた彼は先に教室へもどった。その後ろ姿をヤマダが見つめる。
「先生がきちゃったときのミッキー、きっとヒヤヒヤしたんだろうね……」
「あいつが先生をうまいこと説得してくれたのかもな」
「それはわるいことしちゃったな。なんかお礼を考えとこう」
椙守への報い方はヤマダに一任し、拓馬も自分のクラスへむかった。あとは決行日までに自身の体調を万全にととのえることに専念する。ヤマダの話を聞いていくうちに勝算がどんどん低く感じてきてしまったが、失敗したとしてもシズカの援護がある。その安全策をあてにして、気負いせずに日常をすごすことにした。
そのほかの聴講者は二人いる。こういった計画には確実に関わる三郎と、その日は参加できるか未確定なジモンも面白がってついてきた。性格的に参加しそうだった千智は今回欠席する。彼女は親に夜の外出を禁止されているという。そのせいで計画に加われないそうだ。
もうひとり、拓馬らとは別の目的でついてくる者がいた。拓馬とヤマダの古馴染みの、痩身長躯な男子。椙守は空き教室を目前にして立ち止まる。彼は教室側の廊下の壁に寄りかかり、参考書を開いた。
椙守はヤマダに「だれもこないように見張ってて」と言われていた。彼は勉強がてら依頼を遂行するつもりだ。だが廊下は生徒たちの話し声や生活音のせいで、勉学に没頭しづらい環境だ。この状況に身を置くことは彼にとって不利益である。こんなしょうもない頼みごとは断ってもよいだろうに、妙に付き合いのいいやつだ。
(ほれた弱み、か?)
と、表現するのが適切かどうか、拓馬にはわからない。椙守がヤマダに変わった感情を抱いている、とだけ拓馬は感じていた。純粋にヤマダを友人として見ている三郎やジモンとはどこかちがうのだ。
だがそれも時間の問題だ。椙守には彼の知性を好く女子生徒がいる。いまは彼がその女子の思いを知らずにいるものの、いずれそちらになびく時がいる──その拓馬の考えはヤマダも同調している。ヤマダはそうなるのがよいとも言っている。椙守は昔と変わらない、親しい友人。いまの関係がちょうどよいのだ。
椙守を廊下にのこし、拓馬たちは無人の教室に入る。ヤマダは教卓の上に作戦資料の入った紙袋を置いた。ほかの生徒はめいめいに自由席につく。
ヤマダは一枚の大きい紙を広げた。その紙は片面に絵や文字が印刷されている。もとはカレンダーのようだ。
ヤマダは裏紙を再利用した資料を黒板に当てた。紙の四隅を磁石で留める。紙には簡略化された地図が描かれている。地図上の四角い図形の中には、駅と公園とアパートの文字が書かれてあった。
「金曜日の夜に大男さんを捕まえる計画を発表します。順を追って説明するねー」
参謀が紙の上に磁石を追加していく。あらたに使う磁石には、表に字を書いた紙が貼ってあった。ヤマダは「父」と書いた磁石をつまみながらしゃべる。
「この日はうちのオヤジが駅前の飲み屋で酒を飲みます。いっしょに飲む人は昔の仕事仲間のジュンさんです。ジュンさんにお願いして、オヤジは酔っぱらった状態にさせます。そして公園のトイレ近くのベンチにオヤジを放置してもらう予定です」
父磁石が駅から公園へ移動する。次にアパートの上にある「美」と書かれた磁石も公園にうごく。
「美弥ちゃんにはお姉さんを迎えにいくふりをしつつ、公園のトイレにむかってもらいます。この時に身に着けてほしいのがこのバンダナ!」
ヤマダはちいさくたたんだ水色の布を美弥に手渡す。美弥は両手で布をためつすがめつ眺める。
「これを、どうするの?」
「頭巾にするよ、こうやって」
ヤマダは美弥に渡したものと同じ布をあらたに出した。布を大きく三角に折り、頭に覆う。布のはじをうなじのあたりでむすぶと、頭巾になった。
「オヤジにはまえもって『わたしが水色のバンダナを被っていく』と教えておきます。美弥ちゃんがこのバンダナを着けたら、酔ってるオヤジは美弥ちゃんをわたしだと勘違いします」
「ノブさんが須坂に絡んできたら、大男が助けにくるっていう寸法か?」
ヤマダは拓馬の予想にうなずく。
「それが一番いい『甲』の作戦ね。わたしたちは公園で待機してて、大男さんが現れたらファイト!」
次に武田信玄の絵が印刷された磁石が紙上にあらわれた。磁石のセンスが謎だ。
「信玄の磁石はどういう意味か、聞いていいか?」
「大男さんのぶんの磁石です。絵柄はわたしの趣味!」
「わかった、スルーする。んで、『一番いい作戦』ってことは、ほかにも案があるのか?」
ヤマダは頭巾をぬぎながら「案ってほどでもないんだけど」と答える。
「予定通りにうごいてくれないのがオヤジの困ったところでね。作戦実行中に、オヤジは公園で寝るかもしれない」
ノブが美弥と接触してこなければ計画は成り立たない。イレギュラーが発生した場合の対処法を、ヤマダが説明していく。
「そのときは美弥ちゃんが酔っぱらいを心配する通行人になりきって、オヤジを叩き起こしてください。起きたらきっと美弥ちゃんを自分の娘だと勘違いするから。これが『乙』の作戦」
「ノブさんが起きなかったり、公園で待っていなかったりしたらどーするんだよ?」
「そしたら美弥ちゃんはいっぺん駅にむかいます。その途中でわたしが美弥ちゃんに電話をかけます。会話内容は、お姉さんの都合が悪くなって今日は来れない、という感じです。適当にしゃべったら、アパートに帰りましょう。これが『丙』の作戦」
「作戦というか、失敗したときの事後処理だな」
「そうだね。ほかの失敗原因は……オヤジ以外の人が美弥ちゃんに絡むこと」
その事態がもっとも危険だ。ノブが美弥を自分の娘と見誤ることにさしたる不安要素はないが、計画にくみしない他人ではどううごくか、予測不能だ。
「それも厄介なタイミングは美弥ちゃんが公園に向かう道中か、『丙』作戦実行中。このときに大男が出ても出なくても、美弥ちゃんはわたしに連絡してください。知らせがきたらみんなで助けに行くので、それまで耐えてください」
「私にどう耐えろと言うの?」
「基本的に公園にむかうように逃げてね。だれかひとりは公園にいるようにするから」
ヤマダは教卓の上に数枚置いてあるメモの中から一枚を取る
「美弥ちゃんの任務をまとめておいたよ」
須坂はそのメモを受け取り、じっくり見た。ヤマダの講釈は続く。
「順調にオヤジが美弥ちゃんに絡んできても、大男さんが現れない可能性もある。これも作戦失敗。そうなったらあきらめて解散しましょう。説明は以上!」
ヤマダが話し終えた。口をつぐんでいた三郎が挙手する。
「その計画において、お前の父君が例の男に倒される危険がある。それでもいいのか?」
ヤマダは片手をぷらぷらふって「へーきへーき」と安請け合いする。
「うちのオヤジは殺したって死なないよ」
「あの男は他人を傷つける意思がないようだから、各自の負傷は心配していない。オレが言いたいのは、気絶した父君がちゃんと帰宅できるかどうかだ」
三郎の憂慮は作戦の成否に関わらずつきまとってくる事柄だ。ノブが大男に襲われなかったとしても、公園で熟睡するおそれがある。酒が入った状態では朝まで野宿もありうる。
「聞くところによると、お前の父はジモンと体つきが似ているそうじゃないか。意識のない大柄な男性を運ぶとなると、オレの手に余るおそれがある」
ジモンが「ノブさんはわしより重いかもなあ」と補足した。ヤマダはひらひら手をふる。
「いーのいーの。最悪、オヤジを野宿させていいんです。そのうち目がさめたら帰るよ」
ヤマダは身内をぞんざいに扱う前提でいる。三郎はヤマダの揺るがない不孝心を知り、あきらめたようにうなずく。
「お前がいいと言うのなら、オレから言うことはない。……その作戦に乗ろう!」
質問をおえた三郎が聴講人のジモンに顔を向ける。
「して、ジモンは当日、家の手伝いがあるんじゃないのか?」
「店にノブさんがおらんし、わしは出れんかもな」
「となると、オレと拓馬の二人で捕縛を試みるのか」
ヤマダが「いや四人だよ」と異をはさんだ。三郎は首をかしげる。
「四人? ひとりはお前だとして……ほかはだれだ?」
この疑問には拓馬が補足する。
「もうひとり協力してくれる人がいるんだ。ノブさんの友だちで、ジュンさんっていう」
「ヤマダの説明に出てきた、父君の飲み友達か?」
「ああ、その人だ。ジュンさんはかなり強いぞ。拳法とか暗器の使い手で──」
三郎の目が光る。
「なに? そんな知人がいたのか」
「あ、あぁ……いつも仕事で会えないんだけど、ときたまヤマダんちに遊びにくるんだ」
「ほう! 機会があれば手合せねがいたいな」
「この件が片付いたらな。それで、ジュンさんはどううごく予定なんだ?」
拓馬は省略された解説をヤマダに問う。ヤマダがメモを片手に「うーんとね」と言う。
「ジュンさんがオヤジを公園においてったあと、しばらく駅のほうに行くふりをして、その道中で待機。大男さんが出たらわたしがジュンさんに連絡して、公園にきてもらう」
「ジュンさんは公園にいない予定なんだな」
「うん。そのほうが大男さんの裏を突けるかなーと思って」
まるで公園で張り込む人員が大男に筒抜けであるかのような口ぶりだ。拓馬はヤマダの憂慮を確認する。
「それは、やつに俺らのうごきがモロバレしてる前提なのか?」
「うん……どこからどう監視してるのか、わかんないからね」
心もとない発言だ。事実、大男の能力は未知数。当然の警戒ではある。
「オヤジが役に立たなかったときは、ジュンさんが美弥ちゃんに絡む役をする、とも考えたんだけど……しょっぱなジュンさんが大男さんにノックアウトされたら、きびしいかな」
「こう言いたかないが、ジュンさんがいても勝てる確証はないぞ」
「たしかに……出たとこ勝負だね」
気弱な拓馬とヤマダは逆に、ジモンが妙案を得たかのように膝に手を打つ。
「そんなに相手が強いんならシド先生を呼ばんとな」
皆が呆気にとられる。言われてみると、身近なところに強者はいた。だが安易にその人物を頼るわけにはいかない。
「先生に言ったら計画がパーになるだろ?」
拓馬がそうさとすとジモンは「そういうもんかの」と納得しかねた。拓馬はなるべく平易に説明する。
「先生は俺らにこんなあぶないまねをしてほしくないんだ。それは、わかるか?」
「そこんとこはわかる。シド先生はわしらのお守り役なんじゃろ?」
「そうだ。だからこんな計画を立ててるとバレたら、止めにかかるだろ」
「手伝ってもらえんのか?」
「きっとな。それが先生ってもんだ」
「犯人をとっつかまえりゃ、わしらがムチャをしなくなるとは思われんのか」
その見方は建設的だ。このまま大男を野放しにしておくよりも、生徒の奇行に加担したほうが事態は収束にむかいやすくなる。だがシドは一度校長の叱責を受けている。ふたたび咎を食らっても平気でいられるだろうか。校長の顔を立てねばならぬ身分の彼に、そんな反骨精神は強要できない。
「そう思ったとしても、先生はやれないんだよ。立場ってもんがある」
「立場……?」
「そう。生徒がバカやれても、先生は同じことができない。校長とか保護者とかの目があるからな。そういう人たちにバレたら、苦情が先生にいくだろ?」
「ようわかった。話をこじらせてしもうて、すまん」
ジモンの疑問が解消された。作戦会議は終了──するまえに、須坂が「ねえ」とヤマダに話しかける。
「昨日あなたから聞いた話だと、もうひとり協力してくれる大人がいるんでしょ。警察官だっていう人。その人はなにをするの?」
「えっと、その人は現場にこないんだけど、仲間を送ってくれることになってる」
「仲間? どんな?」
「たぶん、犬とか……」
須坂は眉をひそめて「なんのために?」とたずねた。ヤマダがあたふたする。
「ちょっと、説明しにくいんだけど……わたしたちに危険がないように、守ってくれる」
ヤマダはあえて本旨と外れる理由をのべた。この世の者でない生き物の事情を知らぬ人相手だと、シズカの仲間のことを正直に言っても理解してもらえない。大男の本性についても同様だ。それゆえ、まだ話の通じやすい副効果を挙げた。それでもなお現実離れした理由にはちがいなく、須坂の追究はやまない。
「警察犬が警察官ぬきで、ちゃんと人を守れるの?」
須坂は現実的な解釈をしてくれた。事実とは異なるが、それにヤマダが乗っかる。
「うん、わたしもまえに守ってもらったことあるし……ねえ?」
ヤマダは拓馬に同意を求めた。シズカの友が拓馬たちを守ったことは多々あるため、拓馬は首を縦にふる。
「そのへんは安心していい。でもその警察犬……シズカさんの仲間は、大男を倒すことには手を出さないらしい」
「中途半端な協力の仕方ね……」
「これでも譲歩してくれたほうなんだ。シズカさんは、俺らにはおとなしくしてほしかったみたいだし……」
拓馬たちが我を通した成果なのだと知ると、須坂は「そっちも複雑なのね」と同情めいた笑みを見せた。
質疑応答がとだえた。ヤマダは「決行時刻は当日に知らせるね」と言い、片付けをはじめる。これで会議は完了したと拓馬は察し、空き教室をはなれた。
拓馬が廊下に出るや、呆然と立つ椙守が目についた。彼の手には紙袋がある。見張り番をする際には所持していなかったものだ。だれかからもらったらしい。
「椙守? その紙袋は──」
椙守がびくっと体をふるわせた。彼が振り返る。その顔はなぜか申し訳なさそうだ。
「ああ、これはシド先生からヤマダに返してほしいと言われたんだ」
「え、先生がきてたのか?」
拓馬は自分が質問したこととは別の情報に食いついた。この作戦会議が教師に関知されると、実施が不可能になりかねない。だが椙守はこころなしかあかるい表情をつくる。
「きたよ。でも安心していい。先生はきみたちがやることを見逃すつもりらしい」
「そうか……だまってくれるんなら、いいか」
二人のもとにヤマダがやってきた。彼女は資料物がはみ出た紙袋を持っている。
「あ、ミッキーのそれ……シド先生がきたの?」
「ああ、これを返しに先生がきてたんだ」
「うっかりわすれてたなぁ……」
ヤマダが自身のしくじりに気付き、不安を募らせる。それを椙守が「心配はいらない」となぐさめる。
「計画のことはすこしバレてしまったけど、不問にしてくれるって」
「よかった、話のわかる人で」
「じゃ、あとはきみらでがんばってくれよ」
椙守は紙袋をヤマダに返却する。役目をおえた彼は先に教室へもどった。その後ろ姿をヤマダが見つめる。
「先生がきちゃったときのミッキー、きっとヒヤヒヤしたんだろうね……」
「あいつが先生をうまいこと説得してくれたのかもな」
「それはわるいことしちゃったな。なんかお礼を考えとこう」
椙守への報い方はヤマダに一任し、拓馬も自分のクラスへむかった。あとは決行日までに自身の体調を万全にととのえることに専念する。ヤマダの話を聞いていくうちに勝算がどんどん低く感じてきてしまったが、失敗したとしてもシズカの援護がある。その安全策をあてにして、気負いせずに日常をすごすことにした。
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2018年06月23日
拓馬篇−7章◇
廊下の喧騒が薄らいでいた。教室と廊下にいる生徒がへってきているのだ。多くの生徒は部活をしに行ったか、役員の務めを果たしているか、帰宅したか──そんな雑念が、廊下で勉学中の椙守の思考にのぼった。
椙守は集中がとぎれたついでに、すぐ横の空き教室を見る。そこにはヤマダと彼女の関係者がいる。彼女たちはある計画をくわだてる真っ最中だ。その計画は学校の教師たちに聞かれるとまずいらしい。それゆえ部外者をこの場に近づかせないよう、椙守が廊下で見張っている。
椙守は計画についてたずねなかった。だが集まったメンバーの顔触れを見ると、およその見当はつく。彼らは己が正義のために、また危険に身を晒すつもりなのだ。
(ケガをしなければいいけど……)
椙守はとくに自分と親しい幼馴染たちを心配した。根岸とヤマダの二人とは幼少時によく遊んだ仲だ。あの頃の遊戯は運動音痴な椙守でもどうにかついていけた。しかし、いまの彼らとは身体能力と度胸に差がついてしまっている。椙守が根岸たちに加担しない原因は、おもにその二点だ。
周囲の人間は椙守の心情をまったく知らない。彼らはおそらく、椙守が友人である根岸たちに非協力的なのを、信条のちがいのせいだと見做している。椙守は表向きはインテリで計算高い男子だ。根岸たちの行為を馬鹿げたこと、野蛮なことだと軽蔑して、関与しない──そんなふうに一人の女子に洞察された。
その女子は椙守の学業成績がよいのを根拠に、頻繁に勉強の話題をもちかけてくる。傍目には似た者同士だ。そのような向学心の高い女子生徒と椙守は波長が合いそうでいて、その実、椙守は彼女の言動に賛同しがたい部分を感じていた。だが椙守は彼女の発言をこばまない。同意できないなりに、彼女の言い分にはうなずける面も多かった。彼女の反応が学内関係者、とりわけ穏便をこのむ教師陣の代弁になっていそうなのだ。自分とは異なる意見の代表として、参考にしている。
(僕が……こんな体じゃなかったらな……)
もし根岸と同じ運動能力があったら。椙守は彼らの輪に加わっているところだ。そのくらい本心では彼らと同じ時間をすごしたいと思っている。その時間がどんなにおそろしいものであろうと、彼らが良心にかなう行動を心がけているかぎり、輝かしい思い出になりうる。
その考えに至ったきっかけは椙守の小学校生活にある。両親離婚後、故郷を離れた椙守にとって、根岸たちの記憶が心の支えになっていた。新天地での暮らしに慣れた中学時代では消えかかっていた情念だ。根岸たちと再会を果たしたばかりの時も、中学と同じだ。いまさら彼らとどう接してよいかわからず、みずから距離をちぢめることはしなかった。
だがいまはちがう。こうして幼馴染たちがなにかに情熱をそそぐ様子を見ていると、幼少時のように、自分も手伝いたいと思う。しかしそのすべが椙守には欠けている。
(でも、筋肉は……ついてきたかな)
椙守は手に持っていた参考書を左の小脇に抱えた。夏服を着ている自身の右腕に注目する。なんとなく、以前より腕が太くなった気がした。一ヶ月以上まえに自分の肉体を強くすると志して以来、トレーニングは継続している。現時点での腕力を測るため、ヤマダに腕相撲を挑戦してもいい頃合いかもしれない。
かつて筋トレのきの字もなかったころの椙守は、ヤマダとの力くらべで惨敗していた。いま思えばその時も自身の非力さをふがいなく感じたはずだが、自己鍛錬を実行するには至らなかった。悔しさをバネに苦手を克服する、という動機づけでは椙守に適合しなかったのだ。かえって、その能力は自分にはまったく関わりないことだと敬遠する方向にむかってしまった。
その意思を変えたきっかけは、元警備員という異色な経歴がある教師だ。彼が椙守を、将来強い武芸者になりうると告げた。
椙守自身「本当に?」と教師の鑑定結果を疑う気持ちがないわけではない。だがまた別の人物の存在が、教師を信じる補強になった。椙守が新人教師に言われたことをヤマダに話すと、彼女は「先生がそう言うならきっと合ってるよ」と同意を示した。同時に「ミッキーは背も肩幅もあるから、鍛えたら見違えると思う」とも肯定された。そんなふうに思っていたなら早く言ってくれればよかったのに、と椙守は多少の不満を感じた。だがよくよく考えると、彼女が椙守の不得意分野に対して意見を言えなかった原因はある。その雰囲気をつくっていたのは当人の椙守。なにより、教師の言葉がない状態で「強くなりそう」と言われても、彼女がからかっていると解釈する可能性は充分あった。
椙守は脆弱な肉体を克服しつつある。その体感をかみしめる最中、足音が廊下にひびいた。音は大きくなっていく。だれかが接近しているようだ。椙守は自分が廊下にいる動機を思い出し、警戒の姿勢に入る。
黒灰色のシャツを着た男性教師が歩いていた。彼は手に紙袋を提げている。その状態で椙守のクラスを観察した。そうして教室から注目を外すと、椙守と視線が合う。椙守は緊張した。この教師にヤマダたちのことを知られてはいけないのだ。
体格のよい教師は人の良さそうな笑顔をうかべながら、ゆっくり近づいてくる。
「スギモリさん、ひとつおたずねしたいのですが、よろしいですか?」
「えっ、はい……」
根岸らのいる教室に教師を接近させぬよう、椙守はみずからも移動した。教師に長居させるとボロが出そうなので、自分から相手の用件を聞き出す。
「シド先生はなにを聞きたいんですか?」
「オヤマダさんがどこにいるか、ご存知ですか」
「知っていますけど……あの子にどんな用があるんです?」
「この紙袋と、紙袋に入っている容器を返却したいと思いまして」
シドが紙袋を持ち上げた。紙袋を持つ彼の腕は太い。シドは先月からずっと、長袖シャツの袖をまくりあげた格好ですごしている。ひじから下は常に露出していて、腕の筋肉の隆起がはっきり見える。この筋肉は見た目以上に強靭だとヤマダが言っていた。その肌が浅黒いのもあいまって、たくましさが椙守とはくらべようがない。その差に椙守が敗北感を感じた。
「あの、どうかしました?」
シドは椙守がショックを受けるさまに気遣った。椙守は自身への気付けもかねて、目をしばたたく。
「いや、先生にはかなわないと思って……」
「なにがです?」
「その、腕の太さとか……」
肉体美を称賛された教師がやさしく笑う。
「私はもともとこういう体なのです。生まれつきの特徴を比較しても、貴方のためになりません」
教育者らしい意見だ。彼の指摘が正しいと椙守は思うが、その言葉に甘んじる気持ちにはならない。
「どうか私のことは気にせず、貴方自身が望んだ自分になれるように努力していってください」
「僕は先生みたいになれたらいいと思っているんです」
椙守は勢いで反論した。これは内に秘めていた思いだ。面とむかって本人に言えてしまう自分にびっくりする。だが後悔はしていない。シドのような膂力(りょりょく)があれば、根岸たちと共にいられる時間が長くなる。それは本心だ。
脈絡なく椙守の目標にされる教師は唖然とした。椙守はシドをおどろかせた非礼を詫びる。
「いきなり、こんなことを言ってすいません」
「いえ……貴方にそう思ってもらえて、光栄です」
敬う義理も理由もない生徒であっても、シドは敬意を払ってくれる。大人な対応を受けた椙守は、いまになって恥ずかしさがこみあげてきた。相手と顔をあわせられず、うつむく。すると視界にある紙袋の位置が下がった。
「貴方はなんのために、強くあろうと思ったのですか?」
「……根岸たちに置いていかれたくないんです」
「彼らのやっている悪者退治を、貴方もやろうと?」
「そうです。変なことを言ってるでしょうけど、それが僕のやりたいことです」
椙守はぐいっと顔を上げる。
「先生は、どうしてそんなに強くなったんです?」
椙守は先駆者から今後の参考になりそうなことをたずねた。これはむずかしい問いだったのか、シドの目元が若干けわしくなる。
「おぼえていません」
「理由をわすれるくらい、むかしから鍛えているんですか?」
「はい。物心がつくころから……ですね」
「そんなにちいさいときから……」
育った環境に差がありすぎる。椙守は生まれながらの強者との隔絶を感じた。椙守が落ち込む一方で、シドの表情がやわらぐ。
「貴方は強くあることがよいことだと思っているようですね」
彼の顔には憐憫らしき情もひそんでいた。その反応と彼の言葉の意味は、椙守には理解しがたい。強いことは当然良いことだ。そこになんの疑いの余地があるだろうか。
「先生は強くないほうがいいと思うんですか?」
「一長一短です。強ければやれることは増えるでしょう。たとえばセンタニさんたちです。彼らは強いから、弱者をしいたげる悪者に立ち向かえる……」
「そうですよ。弱かったら泣き寝入りするだけなんですから」
椙守が熱っぽくシドの例え話を肯定した。だが話者は生徒の一知半解ぶりをなげくように首を横にふる。
「ですが、まちがった力のふるい方をすると……一生、後悔し続ける」
裏を返せば、彼はその強さのせいで後悔していることがある──と椙守は直感で思った。しかし、あてずっぽうを口に出す勇気はなかった。
「つまらない話をしてしまいました」
シドは再度、紙袋を持ち上げる。彼は当初の用事をすませるつもりだ。椙守も話題の転換にそなえた。
「こちらのオヤマダさんの私物を、貴方にあずけてもよろしいでしょうか?」
「はい、僕から返しておきます」
椙守は紙袋を受け取った。袋の中にはプラスチック製の大きな容器がある。ヤマダは時折自作した料理を周囲に配布するので、その際に使ったものらしかった。
(先生に手料理を……?)
事の経緯をシドに質問してもよいのだろうが、これ以上この場に教師を留まらせる状況は忌避すべきだ。椙守はだまり、教師が去るのを待った。しかし教師はうごかない。
「ところで、スギモリさんはどうして廊下にいるんです?」
「え、ああ、気分転換に……」
「ウソはいけませんね」
椙守はどきりとした。ちらっと相手の顔をのぞいてみると、彼は笑顔のままだ。
「貴方はそこの空き教室にいるだれかを気にしているのでしょう?」
「どうして、そう思うんです?」
「反対の校舎から見ると、どの教室に人がいるのかわかります」
この学校には生徒のクラスがある校舎と対面する校舎がある。反対校舎は授業や部活などのために活用する建物。そちらの廊下からだと、中庭をはさんだ向かいの教室が丸見えになる。教室にはカーテンが設置してあるものの、カーテンを広げると逆にその教室だけ目立ってしまう。ヤマダは注目を集めないためにカーテンを使わなかったのか、それとも失念していたのかはさだかでない。
「じゃあ、ヤマダがここにいるのを知ってて、きたんですか?」
「はい。彼女が教壇でなにかやっているのを見ましたから」
「だったら僕に声をかけなくたって──」
「貴方が見張り番をしているようだったので、確認までに」
この教師は椙守もヤマダの関係者だと目している。その洞察は椙守の予想外だ。自分はヤマダたちが関わる騒動とは無関係な生徒だと周知されていたのに。
「か、『確認』って?」
「貴方の対応から推測するに……」
シドが椙守の顔をまじまじと見る。椙守は腹の内をさぐられまいと、目線をそらした。
「オヤマダさんは私に知られたくないことをしているようですね」
その指摘は正しいが核心を突いていない。シラを切ればごまかせる、と椙守は淡い期待を抱いた。
「同室者のかたがたはいつものメンツのようですし、また一暴れするつもりでしょうか」
どっこい、的確に読まれている。椙守はどうはぐらかしてよいものか、なやむ。
(おちつけ! まだ完全に知られたわけじゃない)
会話の切り口を考えるうち、シドは「責めるつもりはありませんよ」と温厚にささやく。
「貴方たちの計画の邪魔はしません。私から校長に告げ口することもないですし、安心してやってください」
「いいんですか、黙認して」
「はい。健闘を祈っています」
ほがらかな応援を受けてしまった。裏があるようにも思えず、椙守は真正直にシドを信じた。
椙守の不安が解消され、思考状態が安定した。そのせいか、ふと教師の行動の違和感を見つける。
「先生はなんの用事があって、むこうの校舎に行ったんです?」
「え?」
「ヤマダに借り物を返すなら、最初に彼女のクラスへ行くものだと思いますけど……」
椙守が常道(じょうどう)を説いた。教師は言いにくそうに「風聞を気にしまして」と答える。
「私が貴方がたのクラスへ行く回数が増えると、妙な評判を立てられるので……先に彼女のいる場所をわかっておこうと考えました」
「空振りをさけるために、わざわざ反対の校舎からヤマダを捜した、ということですか」
「ええ、そうです。納得していただけましたか?」
「はい、まあ……先生はモテますもんね」
椙守の知る範囲でも、シドとヤマダの接触の多さは話題になっている。彼は女子人気が高い。そういった偉丈夫との関係が目立つ女子はやっかまれがちだ。ヤマダたちの人柄を知る者からすれば的外れな攻撃である。シドもヤマダも、色恋はからっきし興味がない。そのようなひがみは無意味だが、他人を外見や偏見で決めつける連中には通じない道理だった。
好漢な教師が表情をくもらせる。
「オヤマダさんにはあらぬ風評被害が出てしまっているようで、申し訳ないことです」
「そんなことでへこたれる子じゃないですよ」
椙守が自信をもって答える。その根拠はヤマダと仙谷との人間関係にある。
「去年だって、仙谷を好きでいる女子とヤマダがぶつかってました。それでもあの子と仙谷は友だちのまんまでしょう?」
「……強い子ですね」
「あの子は個性的な人と友だちになるのが好きなんです」
「貴方も、そのうちのひとりですか?」
「はい、それに先生も」
シドが目を見開いた。ヤマダに友人認定されている可能性を自覚していなかったらしい。
「私も、彼女の友だち……ですか」
「そうですよ。教師と生徒なのに『友だち』は変かもしれないですけど……」
「いえ、対等な関係を築くことに違和感はありません。私は……オヤマダさんにそう思われることが、心苦しいのです」
「一学期で教師を辞めるから、ですか?」
シドの勤務当初から彼の早期退職は決まっていたのだと、椙守は聞いていた。その決定事項は、彼の授業を受ける生徒の多くが知っている。残された時間はあと一ヶ月程度だ。彼との別れを惜しむ生徒は多いだろう、とそのひとりである椙守は思っている。
「きっとヤマダはさびしがりますね」
「……仕方がないのです。私は、もどらなくてはいけない」
「はい。ムリに先生を引き止めようとは……僕もヤマダも、しません」
ただ、と椙守はつぶやく。
「また、ここにきてくれますか?」
「この学校に、ですか?」
「学校じゃなくてもいいんです。この町には僕らのだれかが、いつでもいると思います。ふらっと先生が遊びにきたと……それだけでも聞けたら、僕だってうれしいんです」
またも椙守は恥ずかしいことを平気で言ってのけた。以前の自分では考えられないくらい、本音をむき出しにしている。変容の主原因は目の前の好人物である。彼のような強さと聡明さを兼ね備えた男になりたいと思いはじめると、徐々にその素直な人柄に感化されたようだ。大きくちがう点は、シドは自分の要求を他者に押しつけないところだ。
ぶしつけな願いを聞かされた教師は黙している。椙守は彼を困らせてしまったと思う。
「すいません。先生にはゆずれない予定もあるのに、勝手なことを言って」
「いえ……貴方がそんなふうに思っていたと知って、安心しました」
「『安心』……?」
彼には似つかわしくない言葉だ。職務において瑕疵のない教師に、なんの不安があろうか。
シドは「あまり気にしないでください」と椙守の引っ掛かった部分を軽視した。言葉の綾を発したらしい教師がきびすを返す。彼は立ち去るようだ。会話の終着点が不明瞭なまま終わるのを椙守は不満に思ったが、シドが話したくないのならしょうがないとあきらめた。
「もしも、天のお導きがあったなら──」
別れゆく教師が足を止め、聖職者をにおわすフレーズを口に出す。
「私はふたたび、貴方のまえに現れるかもしれません」
彼は椙守を見返る。その横顔からは、普段黄色のサングラスのせいで見えない青い瞳がのぞいた。
「その時はまた、あの子が名付けた私の名を呼んでください」
ささやかな願いごとを告げると、シドは歩きだした。その際にかるく左手をあげた。人差し指には彼がいつも着けている指輪がある。指輪に付いた白い宝石が、椙守の印象にのこる。
(名前と、指輪……)
この二つがあればシドがどのような格好をしていようと見分けられる。そんな安心感が椙守を包んだ。
(『あの子が名付けた名前』の『あの子』は、ヤマダのことか)
学内ではシドの呼び名が本名のごとく定着しているが、本来はヤマダが発案したニックネームだ。学校ともヤマダとも縁が切れたとしても、彼はその名前をわすれずにいてくれるらしい。その義理堅さが、いずれ彼との再会を果たせる希望を椙守に与えてくれた。
シドは職員室のほうへ姿を消した。それでもなお椙守は感慨にひたる。うれしさとさびしさとが織り交ざる中、「椙守?」と背後から呼びかけられた──。
椙守は集中がとぎれたついでに、すぐ横の空き教室を見る。そこにはヤマダと彼女の関係者がいる。彼女たちはある計画をくわだてる真っ最中だ。その計画は学校の教師たちに聞かれるとまずいらしい。それゆえ部外者をこの場に近づかせないよう、椙守が廊下で見張っている。
椙守は計画についてたずねなかった。だが集まったメンバーの顔触れを見ると、およその見当はつく。彼らは己が正義のために、また危険に身を晒すつもりなのだ。
(ケガをしなければいいけど……)
椙守はとくに自分と親しい幼馴染たちを心配した。根岸とヤマダの二人とは幼少時によく遊んだ仲だ。あの頃の遊戯は運動音痴な椙守でもどうにかついていけた。しかし、いまの彼らとは身体能力と度胸に差がついてしまっている。椙守が根岸たちに加担しない原因は、おもにその二点だ。
周囲の人間は椙守の心情をまったく知らない。彼らはおそらく、椙守が友人である根岸たちに非協力的なのを、信条のちがいのせいだと見做している。椙守は表向きはインテリで計算高い男子だ。根岸たちの行為を馬鹿げたこと、野蛮なことだと軽蔑して、関与しない──そんなふうに一人の女子に洞察された。
その女子は椙守の学業成績がよいのを根拠に、頻繁に勉強の話題をもちかけてくる。傍目には似た者同士だ。そのような向学心の高い女子生徒と椙守は波長が合いそうでいて、その実、椙守は彼女の言動に賛同しがたい部分を感じていた。だが椙守は彼女の発言をこばまない。同意できないなりに、彼女の言い分にはうなずける面も多かった。彼女の反応が学内関係者、とりわけ穏便をこのむ教師陣の代弁になっていそうなのだ。自分とは異なる意見の代表として、参考にしている。
(僕が……こんな体じゃなかったらな……)
もし根岸と同じ運動能力があったら。椙守は彼らの輪に加わっているところだ。そのくらい本心では彼らと同じ時間をすごしたいと思っている。その時間がどんなにおそろしいものであろうと、彼らが良心にかなう行動を心がけているかぎり、輝かしい思い出になりうる。
その考えに至ったきっかけは椙守の小学校生活にある。両親離婚後、故郷を離れた椙守にとって、根岸たちの記憶が心の支えになっていた。新天地での暮らしに慣れた中学時代では消えかかっていた情念だ。根岸たちと再会を果たしたばかりの時も、中学と同じだ。いまさら彼らとどう接してよいかわからず、みずから距離をちぢめることはしなかった。
だがいまはちがう。こうして幼馴染たちがなにかに情熱をそそぐ様子を見ていると、幼少時のように、自分も手伝いたいと思う。しかしそのすべが椙守には欠けている。
(でも、筋肉は……ついてきたかな)
椙守は手に持っていた参考書を左の小脇に抱えた。夏服を着ている自身の右腕に注目する。なんとなく、以前より腕が太くなった気がした。一ヶ月以上まえに自分の肉体を強くすると志して以来、トレーニングは継続している。現時点での腕力を測るため、ヤマダに腕相撲を挑戦してもいい頃合いかもしれない。
かつて筋トレのきの字もなかったころの椙守は、ヤマダとの力くらべで惨敗していた。いま思えばその時も自身の非力さをふがいなく感じたはずだが、自己鍛錬を実行するには至らなかった。悔しさをバネに苦手を克服する、という動機づけでは椙守に適合しなかったのだ。かえって、その能力は自分にはまったく関わりないことだと敬遠する方向にむかってしまった。
その意思を変えたきっかけは、元警備員という異色な経歴がある教師だ。彼が椙守を、将来強い武芸者になりうると告げた。
椙守自身「本当に?」と教師の鑑定結果を疑う気持ちがないわけではない。だがまた別の人物の存在が、教師を信じる補強になった。椙守が新人教師に言われたことをヤマダに話すと、彼女は「先生がそう言うならきっと合ってるよ」と同意を示した。同時に「ミッキーは背も肩幅もあるから、鍛えたら見違えると思う」とも肯定された。そんなふうに思っていたなら早く言ってくれればよかったのに、と椙守は多少の不満を感じた。だがよくよく考えると、彼女が椙守の不得意分野に対して意見を言えなかった原因はある。その雰囲気をつくっていたのは当人の椙守。なにより、教師の言葉がない状態で「強くなりそう」と言われても、彼女がからかっていると解釈する可能性は充分あった。
椙守は脆弱な肉体を克服しつつある。その体感をかみしめる最中、足音が廊下にひびいた。音は大きくなっていく。だれかが接近しているようだ。椙守は自分が廊下にいる動機を思い出し、警戒の姿勢に入る。
黒灰色のシャツを着た男性教師が歩いていた。彼は手に紙袋を提げている。その状態で椙守のクラスを観察した。そうして教室から注目を外すと、椙守と視線が合う。椙守は緊張した。この教師にヤマダたちのことを知られてはいけないのだ。
体格のよい教師は人の良さそうな笑顔をうかべながら、ゆっくり近づいてくる。
「スギモリさん、ひとつおたずねしたいのですが、よろしいですか?」
「えっ、はい……」
根岸らのいる教室に教師を接近させぬよう、椙守はみずからも移動した。教師に長居させるとボロが出そうなので、自分から相手の用件を聞き出す。
「シド先生はなにを聞きたいんですか?」
「オヤマダさんがどこにいるか、ご存知ですか」
「知っていますけど……あの子にどんな用があるんです?」
「この紙袋と、紙袋に入っている容器を返却したいと思いまして」
シドが紙袋を持ち上げた。紙袋を持つ彼の腕は太い。シドは先月からずっと、長袖シャツの袖をまくりあげた格好ですごしている。ひじから下は常に露出していて、腕の筋肉の隆起がはっきり見える。この筋肉は見た目以上に強靭だとヤマダが言っていた。その肌が浅黒いのもあいまって、たくましさが椙守とはくらべようがない。その差に椙守が敗北感を感じた。
「あの、どうかしました?」
シドは椙守がショックを受けるさまに気遣った。椙守は自身への気付けもかねて、目をしばたたく。
「いや、先生にはかなわないと思って……」
「なにがです?」
「その、腕の太さとか……」
肉体美を称賛された教師がやさしく笑う。
「私はもともとこういう体なのです。生まれつきの特徴を比較しても、貴方のためになりません」
教育者らしい意見だ。彼の指摘が正しいと椙守は思うが、その言葉に甘んじる気持ちにはならない。
「どうか私のことは気にせず、貴方自身が望んだ自分になれるように努力していってください」
「僕は先生みたいになれたらいいと思っているんです」
椙守は勢いで反論した。これは内に秘めていた思いだ。面とむかって本人に言えてしまう自分にびっくりする。だが後悔はしていない。シドのような膂力(りょりょく)があれば、根岸たちと共にいられる時間が長くなる。それは本心だ。
脈絡なく椙守の目標にされる教師は唖然とした。椙守はシドをおどろかせた非礼を詫びる。
「いきなり、こんなことを言ってすいません」
「いえ……貴方にそう思ってもらえて、光栄です」
敬う義理も理由もない生徒であっても、シドは敬意を払ってくれる。大人な対応を受けた椙守は、いまになって恥ずかしさがこみあげてきた。相手と顔をあわせられず、うつむく。すると視界にある紙袋の位置が下がった。
「貴方はなんのために、強くあろうと思ったのですか?」
「……根岸たちに置いていかれたくないんです」
「彼らのやっている悪者退治を、貴方もやろうと?」
「そうです。変なことを言ってるでしょうけど、それが僕のやりたいことです」
椙守はぐいっと顔を上げる。
「先生は、どうしてそんなに強くなったんです?」
椙守は先駆者から今後の参考になりそうなことをたずねた。これはむずかしい問いだったのか、シドの目元が若干けわしくなる。
「おぼえていません」
「理由をわすれるくらい、むかしから鍛えているんですか?」
「はい。物心がつくころから……ですね」
「そんなにちいさいときから……」
育った環境に差がありすぎる。椙守は生まれながらの強者との隔絶を感じた。椙守が落ち込む一方で、シドの表情がやわらぐ。
「貴方は強くあることがよいことだと思っているようですね」
彼の顔には憐憫らしき情もひそんでいた。その反応と彼の言葉の意味は、椙守には理解しがたい。強いことは当然良いことだ。そこになんの疑いの余地があるだろうか。
「先生は強くないほうがいいと思うんですか?」
「一長一短です。強ければやれることは増えるでしょう。たとえばセンタニさんたちです。彼らは強いから、弱者をしいたげる悪者に立ち向かえる……」
「そうですよ。弱かったら泣き寝入りするだけなんですから」
椙守が熱っぽくシドの例え話を肯定した。だが話者は生徒の一知半解ぶりをなげくように首を横にふる。
「ですが、まちがった力のふるい方をすると……一生、後悔し続ける」
裏を返せば、彼はその強さのせいで後悔していることがある──と椙守は直感で思った。しかし、あてずっぽうを口に出す勇気はなかった。
「つまらない話をしてしまいました」
シドは再度、紙袋を持ち上げる。彼は当初の用事をすませるつもりだ。椙守も話題の転換にそなえた。
「こちらのオヤマダさんの私物を、貴方にあずけてもよろしいでしょうか?」
「はい、僕から返しておきます」
椙守は紙袋を受け取った。袋の中にはプラスチック製の大きな容器がある。ヤマダは時折自作した料理を周囲に配布するので、その際に使ったものらしかった。
(先生に手料理を……?)
事の経緯をシドに質問してもよいのだろうが、これ以上この場に教師を留まらせる状況は忌避すべきだ。椙守はだまり、教師が去るのを待った。しかし教師はうごかない。
「ところで、スギモリさんはどうして廊下にいるんです?」
「え、ああ、気分転換に……」
「ウソはいけませんね」
椙守はどきりとした。ちらっと相手の顔をのぞいてみると、彼は笑顔のままだ。
「貴方はそこの空き教室にいるだれかを気にしているのでしょう?」
「どうして、そう思うんです?」
「反対の校舎から見ると、どの教室に人がいるのかわかります」
この学校には生徒のクラスがある校舎と対面する校舎がある。反対校舎は授業や部活などのために活用する建物。そちらの廊下からだと、中庭をはさんだ向かいの教室が丸見えになる。教室にはカーテンが設置してあるものの、カーテンを広げると逆にその教室だけ目立ってしまう。ヤマダは注目を集めないためにカーテンを使わなかったのか、それとも失念していたのかはさだかでない。
「じゃあ、ヤマダがここにいるのを知ってて、きたんですか?」
「はい。彼女が教壇でなにかやっているのを見ましたから」
「だったら僕に声をかけなくたって──」
「貴方が見張り番をしているようだったので、確認までに」
この教師は椙守もヤマダの関係者だと目している。その洞察は椙守の予想外だ。自分はヤマダたちが関わる騒動とは無関係な生徒だと周知されていたのに。
「か、『確認』って?」
「貴方の対応から推測するに……」
シドが椙守の顔をまじまじと見る。椙守は腹の内をさぐられまいと、目線をそらした。
「オヤマダさんは私に知られたくないことをしているようですね」
その指摘は正しいが核心を突いていない。シラを切ればごまかせる、と椙守は淡い期待を抱いた。
「同室者のかたがたはいつものメンツのようですし、また一暴れするつもりでしょうか」
どっこい、的確に読まれている。椙守はどうはぐらかしてよいものか、なやむ。
(おちつけ! まだ完全に知られたわけじゃない)
会話の切り口を考えるうち、シドは「責めるつもりはありませんよ」と温厚にささやく。
「貴方たちの計画の邪魔はしません。私から校長に告げ口することもないですし、安心してやってください」
「いいんですか、黙認して」
「はい。健闘を祈っています」
ほがらかな応援を受けてしまった。裏があるようにも思えず、椙守は真正直にシドを信じた。
椙守の不安が解消され、思考状態が安定した。そのせいか、ふと教師の行動の違和感を見つける。
「先生はなんの用事があって、むこうの校舎に行ったんです?」
「え?」
「ヤマダに借り物を返すなら、最初に彼女のクラスへ行くものだと思いますけど……」
椙守が常道(じょうどう)を説いた。教師は言いにくそうに「風聞を気にしまして」と答える。
「私が貴方がたのクラスへ行く回数が増えると、妙な評判を立てられるので……先に彼女のいる場所をわかっておこうと考えました」
「空振りをさけるために、わざわざ反対の校舎からヤマダを捜した、ということですか」
「ええ、そうです。納得していただけましたか?」
「はい、まあ……先生はモテますもんね」
椙守の知る範囲でも、シドとヤマダの接触の多さは話題になっている。彼は女子人気が高い。そういった偉丈夫との関係が目立つ女子はやっかまれがちだ。ヤマダたちの人柄を知る者からすれば的外れな攻撃である。シドもヤマダも、色恋はからっきし興味がない。そのようなひがみは無意味だが、他人を外見や偏見で決めつける連中には通じない道理だった。
好漢な教師が表情をくもらせる。
「オヤマダさんにはあらぬ風評被害が出てしまっているようで、申し訳ないことです」
「そんなことでへこたれる子じゃないですよ」
椙守が自信をもって答える。その根拠はヤマダと仙谷との人間関係にある。
「去年だって、仙谷を好きでいる女子とヤマダがぶつかってました。それでもあの子と仙谷は友だちのまんまでしょう?」
「……強い子ですね」
「あの子は個性的な人と友だちになるのが好きなんです」
「貴方も、そのうちのひとりですか?」
「はい、それに先生も」
シドが目を見開いた。ヤマダに友人認定されている可能性を自覚していなかったらしい。
「私も、彼女の友だち……ですか」
「そうですよ。教師と生徒なのに『友だち』は変かもしれないですけど……」
「いえ、対等な関係を築くことに違和感はありません。私は……オヤマダさんにそう思われることが、心苦しいのです」
「一学期で教師を辞めるから、ですか?」
シドの勤務当初から彼の早期退職は決まっていたのだと、椙守は聞いていた。その決定事項は、彼の授業を受ける生徒の多くが知っている。残された時間はあと一ヶ月程度だ。彼との別れを惜しむ生徒は多いだろう、とそのひとりである椙守は思っている。
「きっとヤマダはさびしがりますね」
「……仕方がないのです。私は、もどらなくてはいけない」
「はい。ムリに先生を引き止めようとは……僕もヤマダも、しません」
ただ、と椙守はつぶやく。
「また、ここにきてくれますか?」
「この学校に、ですか?」
「学校じゃなくてもいいんです。この町には僕らのだれかが、いつでもいると思います。ふらっと先生が遊びにきたと……それだけでも聞けたら、僕だってうれしいんです」
またも椙守は恥ずかしいことを平気で言ってのけた。以前の自分では考えられないくらい、本音をむき出しにしている。変容の主原因は目の前の好人物である。彼のような強さと聡明さを兼ね備えた男になりたいと思いはじめると、徐々にその素直な人柄に感化されたようだ。大きくちがう点は、シドは自分の要求を他者に押しつけないところだ。
ぶしつけな願いを聞かされた教師は黙している。椙守は彼を困らせてしまったと思う。
「すいません。先生にはゆずれない予定もあるのに、勝手なことを言って」
「いえ……貴方がそんなふうに思っていたと知って、安心しました」
「『安心』……?」
彼には似つかわしくない言葉だ。職務において瑕疵のない教師に、なんの不安があろうか。
シドは「あまり気にしないでください」と椙守の引っ掛かった部分を軽視した。言葉の綾を発したらしい教師がきびすを返す。彼は立ち去るようだ。会話の終着点が不明瞭なまま終わるのを椙守は不満に思ったが、シドが話したくないのならしょうがないとあきらめた。
「もしも、天のお導きがあったなら──」
別れゆく教師が足を止め、聖職者をにおわすフレーズを口に出す。
「私はふたたび、貴方のまえに現れるかもしれません」
彼は椙守を見返る。その横顔からは、普段黄色のサングラスのせいで見えない青い瞳がのぞいた。
「その時はまた、あの子が名付けた私の名を呼んでください」
ささやかな願いごとを告げると、シドは歩きだした。その際にかるく左手をあげた。人差し指には彼がいつも着けている指輪がある。指輪に付いた白い宝石が、椙守の印象にのこる。
(名前と、指輪……)
この二つがあればシドがどのような格好をしていようと見分けられる。そんな安心感が椙守を包んだ。
(『あの子が名付けた名前』の『あの子』は、ヤマダのことか)
学内ではシドの呼び名が本名のごとく定着しているが、本来はヤマダが発案したニックネームだ。学校ともヤマダとも縁が切れたとしても、彼はその名前をわすれずにいてくれるらしい。その義理堅さが、いずれ彼との再会を果たせる希望を椙守に与えてくれた。
シドは職員室のほうへ姿を消した。それでもなお椙守は感慨にひたる。うれしさとさびしさとが織り交ざる中、「椙守?」と背後から呼びかけられた──。
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