受傷から丸7年を迎えた。
2017年5月からこのブログを始めている。ということは受傷3年半後だったのだ。少しは症状に慣れた頃だったのだろうか。
過去の身体の状態や症状はあまり覚えていない。痺れと疼痛は今でもあるので、過去にどれくらいの強さだったかは解らなくなる。痺れや痛みが消えてしまえば、痛かった・痺れていたという感覚を持つのだろうが。記しておいて良かったと思う。
とはいっても、右下腿や足裏は最近でどんどん痺れが強くなったのだけは間違いない。前は正座で甲が地面に当たっても痺れていなかったし、青竹踏みをしてもそれほど無感覚ではなかった。
この7年は苦痛だったのかどうか。
全くそんなことを思わない。もちろんこんな身体になったこと自体は悔しさがあるが、起きたことは仕方ない。この7年をどう過ごせたかと考えれば、自分で自分を褒めてあげたいことしかない。それは主に仕事か。それは仕方ない、サラリーを貰って生活しているから生業だ。自己満足の域を出ないのかもしれないが、きちんとアウトプットされた多くの事がある
じゃあプライベートはどうか。元通りの身体を取り戻すことが中心ではあったが、それなりに元通りの生活パターンになったのでは。ただコロナ禍という環境の変化はあるが。
「身体がこうなったから」という言い訳をしない自分を目指したし、それを実現できたと思っていいか。
昨日、ふと思った。
受傷した状態は、朝トイレで目覚めて照明を点けようと立ち上がり、そのまま倒れてベッドの背板に目の上をぶつけて首が反れた。頭がベランダ近くにして倒れていた。
初めて思ったが不思議なのだ。ベッドの背板はベランダ側。照明は足首あたりの位置の上。引っ張って点けられる様ヒモを垂らしている。トイレは足の方向。
立ち上がって照明を点けてからの記憶がない。この時に立ち眩みだったのではないかと自分で推測。
しかし、足元に立ち上がってなぜ背板の方に倒れるのだろうか。ありえないのだ。
ベッドの高さが膝の裏くらい。立ち上がる時に膝の裏に当たって身体が回転したのだろうか。
どうでもいいことだ。これまで一度もこれについて思ったことはなかった。
そんなことを悔やむくらいならスクワットを10回やろうと思ってきた。
これは最近右足裏や右下腿が調子いいからこんなことを思ったのだろう。人間だれしも調子が良ければ調子に乗ってしまう。全ての事柄において。
慢心・過信。ここに隙が生まれる。
調子がいいからこそ、ここでもっと進まないといけない。
そう思って筋トレをすれば荷重も軽く感じる。最近は全て重く感じていた。これは悪い慣れだ。
とにかく次の7年後は65歳。この時にまわりの65歳のオッサンよりも体力・気力が大幅に上回る自分でいよう。
ただただ今日だけは自分を甘やかせたい。Happy Birthday to me. 7歳だ。