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2017年06月20日

リハビリ病院での生活D

病院では再び同じような日々。リハビリ室にエアロバイクがあった。PTさんに言ってリハビリ時間外に使わせてもらった。部屋でスクワットなどもした。家に帰った時に持ってきた革靴を履いて、鞄を持って廊下を歩く練習もした。パジャマからスエットに毎日着替えていたものの、その姿で革靴を履いて鞄を持って何往復もしているオジサンは異様な風景だったことだろう。とにかく保護されている病院内で出来るだけの事をやってみた。
でも自分に自信がなかった。満員電車や満員のホームにいる自分が想像できなかった。

頻繁に外食許可を取ってT君たちと飲みに行ったり(もちろんゼロアルコールで)、昼間の外出許可を取って一人で目の前のドーナツ屋へ行ったりした。
許可なしに病院から出てはいけないのだが、病院の裏口出た先の自販機でコーヒーを買うのが日課になった。
タバコを吸わなかったら、缶コーヒーでさえ味が変わったように感じたものだ。
でも、毎日タバコが吸いたくてしかたなかった。

身体の状態はというと、相変わらず左肩の可動域は狭く握力も弱い。左腕は真っ直ぐ前へ上げても180度にはならなかった。右はなんとかふつうに動く。痺れは全くもって変わらなかった。
左脚は力が入れにくく、歩くと地面に足先が引っかかる。意識して足を上げないといけない。右足は痺れがあるが、筋力は回復しているように感じた。
夜に友達たちと外食に行って帰りに全く歩けなくなる(特に左脚が上がらない)ことが何度かあった。固まってしまうのだ。これをPTさんに言うのだが、原因とかは不明で対処はできなかった。
これが後で解るのだが、神経から来る症状。単に筋肉を鍛えれば良いのではなかった。

ある日、OTさんとのリハビリ中に病棟医のA医師が突然現れた。その時のOTさんは、担当ではなく代理の方で、すごく知識のある人だったので真剣にトレーニングをしていた。
A医師が突然言う「3月末で退院していいですよ!」
何それって感じ。
僕は自分の中で決めていた。4月10日に退院しようと。それは、自分の状態…身体的な事、精神的な事を含めて、この日までになんとか“ひとり立ち”するために努力しようという思いでもあった。

真剣なリハビリの最中に10分間以上、その医師は話続けた。
「もう随分回復しているし、これ以上のリハビリは必要ない」「PTにも聞いたが回復している」「カンファランスで決定した」「退院するなら、特別に通院リハビリを認めても良い(この病院は原則、入院者のみのリハビリ)」「個室にずっといるのもお金がかかるでしょう」

その日は色んなことを考えた。一体誰が自分の状態や状況をわかっているのだろう。
もちろん自分だ。
posted by shigenon at 08:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 入院

2017年06月19日

リハビリ病院での生活C

PTさんやOTさんは週休2日だった。休みの時は違う人がリハビリをしてくれるのだが、僕は人気があったようだ。というのも、脳疾患のお年寄りのリハビリよりも、若くて(お年寄りよりは)違う症状の人の臨床経験を積みたいようだった。
その中でも優れたPTさんやOTさんが一人ずついた。申し訳ないが名前は忘れてしまったのだが。
動きの悪い左手を手技で良くしてくれたOTさん。
「治りますかねぇ」という僕の弱音に、「ここがこう動いているから、間違いなく良くなります」と言ってくれたPTさん。このPTさんは専門学校の講師としてスカウトされ急に辞めてしまったが、それまで何度も診ていただいた。

右手がある程度動くようになってから、自身のケガ「頸髄損傷」についてはスマホで何度も調べていた。
調べる度に絶望しかなかった。「一度損傷した中枢神経は回復しません」というのが殆どの結果だった。
それでも僕は全くあきらめなかった。「元通りになって、毎日酒を飲んで、毎週ゴルフに行く」これを目標にした。
個室には入口にカーテンがある。そのカーテンにぶつけるように杖で何度もゴルフの素振りをした。でも。左腕の可動域が狭い。本気で左利きになろうかとも考えた。

病院での生活に慣れると、家での一人の生活が想像しにくくなる。
病院での生活は色んなことのペースが決まっている。受動的に。それは食事であったり、リハビリであったり、消灯であったり。
でもいつまでも病院に住み着くわけにはいかない。
仕事はすでに3か月休んでいた。一応、部門の長であり、色んな判断なりをどうするか部下が週2くらいで来ていた。退院して、仕事に復帰できるのか? いやその前に、自分ひとりの生活ができるのか?

3月の上旬であったと思う、外泊許可を取って家に帰ったのが。このことでイヤな思いをすることになるとは。

家は母親が寝泊まりしていたので片付いてはいたのだが、片付けて何でも押入れに入れているため、何がどこにあるのかわからない状態。
家に戻って、一体何をしたかは全く忘れてしまった。ここでもう一度ひとりで生活を始めることを想定しながら過ごしたのだが、不安しかなかった。まだ戻れないなというのが実感。
ただ、階段は手すりが付いていたので何とかなった。
寝室でこの原因となったベッドの背板をうらめしく見たのは覚えている。時間は戻らないのだ。
病院に戻ると、家で何がどう出来たというアンケートがあった。適当に全部出来たと答えたのがいけなかったのだろう。それはその後にわかった。

3月中旬からは外出許可が自由にとれるようになった。T君たちと近くの焼き鳥屋には何度か行った。ただ50過ぎのオッサンが、入院中に酒飲んでタバコ吸って病状が悪化したとなれば恥なのでタバコと酒は当然ガマン。ゼロのビールでも酔った気持にはなるが、せいぜい1時間程度。これまでの酒飲み人生で酒飲まずに付き合ってくれていた人達は凄かったんだな。
posted by shigenon at 14:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 入院

2017年06月16日

リハビリ病院での生活B

このリハビリ病院は脳疾患の入院患者さんがほとんど、それもご高齢者が多い中、回復レベルは早い方だったか。
そもそも脳疾患によるリハビリと中枢神経障害によるリハビリは、ある時期までは同じような内容でも、それ以降は変わるのでは?という思いを持つようになった。
それは、回復が遅いことに対する自分へのいら立ちだったかもしれないが。
“この病院ではたして回復できるのだろうか? 効果的なリハビリなのだろうか?”
一生懸命診て下さっている看護師さんやOTさんやPTさんには申し訳ないが、病院の体質そのものにも何か違和感を感じていた。

大企業ではよくある“大企業病”“セクショナリズム”“上司の顔色伺い”
僕自身がこれまで所属した企業で経験し、嫌いな部分を感じることが度々あった。
CSR・・顧客満足度を患者が病院に求めてはいけないのかとも思うが、けっこう放置されていると感じることが多かった。

リハビリ病棟での風呂は週2回と言われた。1階下の風呂場で30分の入浴、看護師さんの見守り付きで。
頭と身体を自分で洗うのは入院以来初。右手はまあまあ使えるのだが、左手は肩まで回らなかった。
頭を洗うにも、左手は役に立たなかった。
その後、交渉を繰り返して週3回にしてもらった。これは3月にはいってからだったっけ。

ドライヤーで髪を乾かすのだが、左手はもちろん持てない。右手は持てても、髪が乾くまでドライヤーが重くて持つことが維持できなかった。

初めて箸を使えるようになったのが2月中旬。OTさんに一から箸の使い方のトレーニングを受けた結果、今までの癖のある持ち方でなく箸の使い方の見本のようにたどたどしく出来た。
しかし、これも最初だけ。リハビリで動くことが多くなると腹が減るので、時間のかかる箸よりもスプーンでがっついてしまう。最初の病院よりもリハビリ病院の方が食事が美味しかったこともある。
そのうち、箸の持ち方は本来の自分の癖のある持ち方になった。これも回復の一歩。
左手は相変わらずうまく動かなかった。

完全に杖なしでも歩けるものの、平らな病院内の廊下だけだった。身体の痺れや動きの悪い箇所はあちこちにあり、特に手の痺れは回復の兆しがなかった。
身体が少し動くようになり、リハビリの合間には自主トレに励んだ。階段は手すりを持ちながらだが、3階から1階まで2往復。20mほどの廊下を4往復などこなした。筋肉を付けることが回復の一歩と信じていた。
この病棟では看護師さんの時間がある時にリハビリに付き合ってくれることになっていた。(今から思えば、ほんとの最初だけだったが)
3月から産休を取るという看護師さんが階段のリハビリに付き合ってくれた。最初は登り降りのスピードは彼女の範囲内だったが、そのうち「もう少しゆっくりお願いします」までのスピードになった。
妊婦さんに階段を付き合わすわけにはいかないので、その後はこっそり独りで階段トレーニングをした。

嬉しいことがあった。
いつものように階段でトレーニングをしていると、急性期に入院した病院の看護助手さんたちが階段から降りてきた。看護助手さんたちの会議があったようだ。
知っている方が2人いて、その内の1人が「○○さん(僕)が歩いている! 階段を上っている!」と大きな声で叫び、涙を流してくれた。瞬間、自分がクララになった。
急性期にほとんど寝たきりで、シモの世話をしてくれていた人達。手すりと杖でよたよた歩いていた僕しか知らないので、その回復ぶりは驚きだったようだ。僕も涙が出た。

最初の病院の担当看護師のAさんが来てくれたこともある。本当に嬉しかった。

母は2月21日まで東京にいてくれた。人工股関節の身で約3か月間毎日、僕の自宅から電車とバスを乗り継いで40分かけて通ってくれた。感謝。

身体は日々可動域が増え、少しずつだが良くなっているという実感はあった。
ただ同じような内容の繰り返しのリハビリにイラつくようにもなってきた。自分から「こう動くようなリハビリ」とか生意気を言うようにもなっていた。
そうすると担当のPTさんかキツイ一言があった「先生から治るといわれているんですか!」
このPTさんには色んな取り組みもしてもらった。恨むことなどなく、感謝しかないのだが、この一言は効いた。
そう、リハビリとは“現状機能の維持”であって、回復や治療ではないのだ。
この頃で、片足立ちは右で1分、左で30秒くらい。

OTさんから時間があるときにパソコンの入力の練習をしてみてはと言っていただいた。
リハビリ室のパソコンを借りて「天声人語」を打ち込んだ。
なんと30分もかかった。キーボードを押す力・指を移動させる力がなかった。
自分は果たして社会復帰できるのだろうか。
posted by shigenon at 15:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 入院

2017年06月09日

リハビリ病院への転院

あれだけ大食いだった僕も、さすがに食欲はなかった。子供のころから食べ物を残すということはなかったけど、入院当初は3分の1くらいしか食べられなかった。しかも病院食は美味しくなかった。
このころ一番のごちそうはアーモンドチョコレートとマカデミアンナッツチョコレート。
一日に5個程度と決めて食べていた。タバコを吸いたいどころの状態ではなかったけど、口が寂しかったのかと思う。

壁を伝ってトイレにいけるようになったが、大変な事態に陥ることになる。
久しぶりに立派な“大”が出始めた。しかし、自分の力でそれを産み出すことができないのだ。糞つまりの状態でナースコール。
指でほじくり出してもらった。それも、一番お気に入りの美人看護師さんに。これ以降、怖くて下剤の種類を色々試した。(その後ももう一回糞つまりをやってしまった)

転院は決まっているものの、空き部屋がないとのことでなかなか転院できなかった。いきなり前日に言われ2月12日にリハビリ病院に転院した。
リハビリ病院は一般病棟とリハビリ病棟があるらしい。事前には何も聞かされていなかった。
空いた部屋は一般病棟だった。病棟医は優しそうな内科医。
それで思い出したが、僕は30過ぎから尿酸値が高くて痛風の発作も何度か経験。
入院して、それまで飲んでいたコレステロールを下げる薬と尿酸値を下げる薬を飲んでいない。
手術後、左足くるぶしに痛風っぽい痛みがあったのでI医師に言うも「病院で酒も飲まず病院食だから大丈夫ですよ」で片づけられていた。
posted by shigenon at 12:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 入院

2017年06月08日

手術後の生活

入院してからもずっとベッドをフルフラットで過ごす日々だった。少しでも起こすと首と肩に痛みが走った。手術の影響というより、寝ている生活が長くなると筋肉が重力に耐えられなかったのかもしれない。ベッドを少しでも起こすことは重要だったと後で調べて知るのだが。
また、筋肉がどんどん落ちていくのがわかった。これまで鍛えてきた(適当なトレーニングだがしっかり付いていた)筋肉がなくなり、棒のような手と足になった。でかい顔も小さくなれば良かったのだが、首回りが細くなった程度。

手術後すぐリハビリは始まったのかな?しばらくはベッドから車いすに乗ってすぐ近くのリハビリ室へ。
右手はだいぶ動くようになってきた。足は平行棒の中での歩行訓練。左足も不自由ながら動かすことが出来るようになっていた。
このころから、何とか自分の手でスプーンを持って食べられるようになったと思う。

1月も末に近づいたころ、ベッドから一人で立ち上がることと杖をついて歩けるようになった。といっても病院内のフロアだけだが。立ち上がって歩くという目標はまずはクリア。
手は相変わらず使いづらく、歯磨きももどかしかった。
もうこの頃には入院馴れをしていたのだろう、人に何かしてもらうのが当たり前になっていた。
歯磨き後のうがいは身体を起こさないといけないので、面倒臭いので吸引をしてもらった。後で知ったが、吸引もしっかりチャージが付いていた。

これは後で調べて解ったことだが、歩けるなど回復の兆しがあったのは手術の効果でもなんでもなく頸髄損傷の急性期を脱したからだろう。急性期に起こるべき症状は全て経験した。呼吸も一時的に苦しい時があった。

1月末には仕事のこともあり、部屋で会議をする計画をしていた。これまでも東京の部下は週に何度か来て、仕事上のことなどは打ち合わせていたのだが、名古屋や大阪の部下を呼んで全体的な事柄を打ち合わせたかった。ところが、当日に熱が39度に。インフルエンザの可能性もあるので、人の出入りは禁じられた。
これは、尿の管から細菌が入ったことからだった。

尿管から管を抜く時がきた。たまたまその日に一回り上の友人Aさんが見舞いに来てくれ、入れた時に痛かった話をすると「抜く時が一番痛いんだよ」と脅かされた。その2年後、Aさんは大腸がんで癌研に入院するのだが、「癌研の管は特注で太いらしいよ」と脅かし返してやった。
尿管から抜くのはそれほどでもなかった。これでこれまでの姿・立って小用が足せると嬉しかった。
その後、Aさんは癌を克服して今でも仲良く遊んでいる。

その翌日、看護師さんが「さあ、入れましょうか」という。な、何のこと??
自分の排泄で膀胱に尿が残ることがあるからもう一度刺すという。手術の時に必要以上に刈り上げた看護師さんだ。「刺して抜くの?」さすがに凹んだ。この看護師さんの天然さにはその後も相当癒された。

2月になったらリハビリ専門の病院への転院を言われる。同じ医会の近くのリハビリ専門病院。
頸髄損傷は急性期を経て回復期になる。運ばれた病院は救急病院なので急性期専門ということらしい。この時に他の病院への転院も考えられたが、同じグループの方がいいかなと思った。
相変わらず「高級ホテル」の個室だったのだが、もう個室に慣れてしまったのでリハビリ病院でも個室を希望する。こちらの個室は少し安くて16000円くらい。

左手がピクリと動いたのが2月5日。指と手首が少し動かせた。見舞いに来てくれたTに見せようと無理をして指を痛めた。
かつて結婚していた時、入籍が12月24日・・・その10年後に受傷。結婚式が2月5日・・・その10年後に左手が動く。覚えやすい、というか忘れて良い日。

お風呂の話を書いていなかった。
病院内の「高級ホテル」にはシャワー室とトイレが備わっていたが、結局シャワーは1回、トイレも2週間くらいしか使わなかった。身体の清拭は毎日してもらったけど、お風呂には早く入りたかった。でも自分では無理。
結局、寝たままの入浴。病室のベッドを入浴室の近くまで移動して、入浴用のベッドに乗り換え。
素っ裸で洗ってもらうのは抵抗があったけど、病人はそんなこと言っていられない。
入浴用ベッドをスライドさせて湯の中に。週3回の入浴時間は楽しみだった。入浴介助してくれる看護師さんとは必要以上に良く喋った。なんせ素っ裸で恥ずかしいから。
posted by shigenon at 16:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 入院

2017年05月24日

入院1週間め〜年末まで〜

手術の予定が決まった。1月15日とのこと。椎弓形成術という狭い頸椎を人工骨で拡げる手術。
この時でも「頸髄を損傷する」ということが、どういうことなのかさえ解っていなかった。手術をすれば良くなるのだろうと思っていた。
すぐに手術はしてくれないのかと思ったけど、年末・年始だし仕方ないのかなぁと思った。





広島に住んでいたころからかな、一人で飲みに行くようになったのは。元々酒は弱くないし、食べるのは大好きだし。右手に箸、左手にグラスという感じ。
東京に来た2003年から、1年の内340日位飲みに行っていた居酒屋「S」の繋がりで初めての地・東京にも多くの飲み仲間・ゴルフ仲間ができた。その友達たちが入院中に見舞いに来てくれた。感謝。

入院当初の一番の不便さは、電話が使えないこと。個室なので使用はOKなのだが、手が思うよう動かず電話が持てない。
電話は会社支給のガラケーと自分のスマホ。左手は全く動かないし、右手は少し動くようになり始めたけど、掴むことができない。ボタンを押す力もなかった。
仕事の電話はどんどん架かってきていた。誰かに持ってもらって出た。身体が動かない以外は饒舌だった。
T君の後輩のN君が考えてくれた。車のダッシュボードにスマホを貼り付けられるシリコン板を、書類を挟むボードに貼り付け。これでベッドフレームに立てかけてスマホは使えるようになった。
T君は週に何回も来てくれ、ドンキホーテで鉄アレイやアームグリップ、握力ボールなんかを買って持ってきてくれた。早く回復を望んでくれている気持ちが嬉しかった。(結局入院中は使用できる筋力は戻らなかったけど)

食事は食べさせてもらっていた。「あーん」で。ずっといてくれた母親は、相当疲れさせたと思う。父親は年末に一度戻ってまた来てくれた。父親は指圧が得意で、ずっと動かない左腕をマッサージしてくれた。
とにかく親不孝で万年反抗期で偉そうな口を叩くバカ息子は、感謝だけを思えばいいのに、ここでも何度か母親に偉そうな口を叩いている。ごめんなさい。

このころの症状は、右手・少しは動かせる、左手・全く動かず、右足・曲げることが出来る、左足・ほぼ動かず。両手は痺れ、右半身全体は無感覚に近く、両足も痺れていた。

とにかく朝の連ドラ「マッサン」が楽しみなのと、その後は病室でのリハビリを待つだけ。この病院はリハビリの外来もあるので、予定時間に病室のリハビリには来てくれなかった。
この頃のリハビリの内容は覚えていない。筋トレをしていたわりに大きな筋肉名しか知らなかったし、自分の今の症状に何を施してもらえば良いのかは自分では全くわからず、おまかせだった。
とにかく“日にち薬”で少しは良くなるのだろうと思っていた。

テレビもカード消費を抑えるため、ずっと点けている訳もいかず、本当に暇だった。真剣に「スピードラーニング」を買おうとも思った。英語がペラペラになりたいと思っていたのだから、完全な元通りになると思っていたのだろう。
入院したことで何か不安になったりパニックになったりしたことはなかった。淡々と過ごしていたと思う。少しは身体の感覚は戻ったが、回復の見込みについては手術をすれば何とかなるのかなぁという程度。動きだした右腕は一日2000回程度屈伸をして鍛えた。

大晦日はダウンタウンの「笑ってはいけない〜」を終わりまで見たことを考えると、身体は動かないものの健全な精神で年を迎えられたのだろう。




posted by shigenon at 13:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 入院

2017年05月23日

入院生活の始まり

入院した部屋は個室。差額ベッド代は1日21600円だった。平日だったら美味しい料理の付く温泉宿並み。とにかく2014年クリスマスイブに、とんでもないプレゼントであった。

頸髄損傷ということが解らなかった。「頸椎損傷?」って医者に言ったら強い口調で「頸髄です」と言われた。それがどんな症状でどう回復するのか解らなかった。とにかく入院して、何らかの処置を受ければ治るのだと思っていた。時間とともに回復する骨折のように。

両親が来てくれたのは翌日25日。この年になっても、両親の顔を見ると心強く励みになる。
その翌日には姉も来てくれた。
この日から母親は約3か月間、東京の僕の部屋から毎日通ってくれることになる。感謝。

翌日から毎日何をしていたのだろう?あまり記憶がない。12月25日から30日までの。
年末には恒例の同級生ゴルフ、年明けには37年ぶりの中学の同窓会が予定されていた。同級生に電話して同窓会をキャンセルしてもらったり、年末年始の切符はネットでとっていたのはキャンセルしたっけ?
でも、今だから記憶が曖昧なだけで、四肢が動かない以外はすごく頭は回っていた。





僕はどちらかというと気は長い方ではないし、自分の意見をあまり曲げない。いわゆるガンコなジジイ。
この状況をその時の自分はどう受け入れたのか?左手は全く動かない・右腕は少し動く・感覚がないなど。ただ思ったのは、「起こってしまったことは仕方ない」だった。
それと、それまでの長い人生の中で色々なことを経験して「強く」なっていたと思うことがある。
こんな状況になっても、なぜか悲観的な思いはなかった。これは入院中も今も。
動かない足、これから今の住んでいる部屋までの階段がのぼれるかな?満員電車に乗れるかな?とか考えていた割には、現実と乖離した思いは「何とかなるし、元通りになる」というお気楽な気持ちを持っていた。

とにかく点滴をされたまま、毎日をベッドですることなく過ごした。昼間のテレビも面白くないし。
とにかくベッドに仰向け、首にはコルセット。夏でなくて良かったなど、呑気なことも思っていた。
T君が持ってきてくれたラジオで地域のFM局が、昔の洋曲を流してくれていたのが楽しみだった。
T君は「前もって来たラジオは小さかったから」といってもう一つ少し大きめのラジオも持ってきてくれた。とにかく身体が動かないので寝ているしかなかった。

リハビリが始まったのは年内だったと思う。多分、26日か27日。ベッドでのリハビリ。PTのIさんは色白の美人。OTの男性は名前忘れたなぁ。(すみません)
受傷から2、3日した時には少しは動くようになっていたと思う。ナースコールを右足から右手の手の届く場所に移動した。ただ、左腕と左手はピクリとも動かなかった。
この病院は(どこもそうなのか?)偉い先生に数人の医師と看護師長が毎日回診に来る。白い巨塔。申し訳ないけど、この回診でなんか有用な事は言われたことはなかった。
「調子はどう?」「変わりはないね?」の繰り返し。




posted by shigenon at 10:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 入院

2017年05月22日

救急車で病院へ

僕は週2のジム・・・これは毎日酒を飲む分のカロリーを少しでも消費することと、家ではシャワーだけなのでゆったり湯につかることが目的・・・、それと週一に近いゴルフ。年の割には筋肉質な体型。
それと関係はないのだろうけど、慢性の肩こり。特に首の付け根はカチカチ。リビングには30万円弱のマッサージ機が鎮座して、その他に週一の1時間マッサージ屋が何よりの楽しみ。
後から思えば、この肩こりとその前から症状があった“時々起る左手の痺れ”が受傷にも大きく関係があったようで。

とにかく手が動かないのに身体を動かそうともがいたので肩がパンパン。肩がつりそうに感じた。人はここまで厚かましくなれるのかとは思うが、救急車が来るまで大家さんにお願いして肩を揉んでもらう。
救急車は自分の感じではすぐには来なかったような。でも10分とか15分とかでは来たんだろうな。

救急士が病院の手配をしてくれている。いい年したオッサンが倒れたら、殆どが脳関係と思うのかな?
いろいろ症状を聞いてはくれたけど、救急対応できる病院の問題もあったのだろうか車で20分くらいの地域の脳神経専門の病院に搬送するとのこと。救急車が来てから搬送までも結構な時間に感じた。
肩もみを救急士はしてくれないだろうと思ったから、「肩がつりそうだ」とか大げさに言って肩をもんでもらったのは申し訳なかった。
病院に行くから準備が必要とのことで、財布や保険証などの場所を救急士に伝える。この時には、まさか109日も入院するなんて思ってもいなかった。

不謹慎な言葉だが、担架は快適だった。僕の部屋は3階で、結構狭い急な階段。そこを何の負担を感じさせることなく運んでいただいた。さすがだ。
倒れたのが6時、救急車に乗ったのが8時前だったと記憶している。
とにかく会社の人間に連絡しないと‥今日の渋谷の打ち合わせに行けないことを伝えないと。
頭はとってもしっかりしている。
救命士にお願いして、会社の部下に電話をかけてもらい携帯をあてがってもらう。
初の救急車はあまり記憶が定かでない。とにかく病院についてからかは忘れたけど、昨日一緒に遊んでいたT君に電話をかけてもらった。





僕とT君との付き合いはそんなに長くはない。その時で知り合って3年ちょっと。でもここ2年近く週3,4回は一緒に飲んでいた。この年53回のゴルフの内、45回は一緒に行っている。年は10歳ほど下だけど、親分肌で人を大事にするすばらしい友人。
僕自身、頼れる友人は近くに何人かいるけど、T君は会社勤めではないのでとりあえず時間が取ってもらえると思って倒れたことを連絡した。

病院についてとりあえず着ていたスウェットを切り刻んで病院着に。大昔に買った「チャンピオン」のスウェットよ、さようなら。アリスのチャンピオンのフレーズが浮かぶ。そしてMRIなどの検査を受ける。
病室に戻って何の説明もなく、看護師さんにいきなり尿道に管を突っ込まれた時には「何してんねん!」と言ってしまったのも今では思い出。
とにかく、ここから入院生活はスタートしてしまった。何か処置してすぐ動けるくらいに思っていたのだが。
T君がすぐに駆けつけてくれた。何をどう話したかは全く覚えていないし、その日の病院での時系列もおぼつかない。身の回りの必要な日用品を揃えてくれた。感謝。

何が原因かわからないが立ち上がって電気を点けた瞬間に倒れ、ベッドの背板が目の上に当たって首が沿って衝撃を受けて倒れたようだ。右目の上がぱっくり開いていた。
医者から目の上の処置をしましょうということで、どうするのかと思えばホッチキスで何か所か止められる。もう抵抗のしようもない。麻酔をしないのが不思議だった。頸髄損傷に比べたら、この程度は麻酔なしで処置する程度のことなのだろう。ただ、止めた以上どうやって外すのかが気になった。普通のホッチキスのようにこて原理で外すのでなければいいけどと思った。

頸髄の損傷っていうこともその日に聞いたかどうかも覚えていない。C3とC4の間が損傷したらしい。
簡単に動けるような状態にはならないようだ。
とにかく入院ということになり、それを受け入れる以外どうしようもなかった。
身内に連絡をしてくれということになった。

僕のことは・・・1963年3月生まれ、この時で51才。バツ1で一人暮らし。両親は関西で健在。
大阪の大学を卒業後、就職。大阪に2年勤務し、その後札幌に転勤して1年で退社。その会社で先に辞めた同郷の先輩に誘われ、先輩の実家の同業種の会社で一緒に仕事をする。この時に高校卒業以来、初めて実家で生活することになる。
でも、その仕事も1年半で辞めた。実家から通える会社に再就職するものの、実家生活は短くその会社も大きくなり広島や大阪への転勤を経て現在の東京暮らし。この時で東京暮らしは11年。

こんな頼りない僕でも親だけには迷惑をかけたくない気持ちは強いので、実家には連絡しないことを看護師さんに伝える。
24歳の時に札幌で急に息が苦しくなって病院に行ったら、喘息と診断されて即5日間入院したことがあった。その時も心配をかけるので家族への連絡を言われなかったし。
今回はそうはいかないようだった。それほど重篤な症状らしい。諦めて実家に電話。
後で聞いたら、姉が実家にケーキを買って来ていて食べるところだったとか。ということは姉が仕事を終えた後だから18時ころか。なんせ世間はクリスマスイブ。

とにかくこの時点で動くのは右脚が少しだけ、右手でナースコールが押せないのでベッドの右足が届くフレームにテープでつけてもらった。
18時くらいに彼女のKさんが来てくれた。Kさんは109日の入院生活の中、80日くらいは来てくれた。感謝。】A

入院した部屋は個室。差額ベッド代は1日21600円だった。平日だったら美味しい料理の付く温泉宿並み。とにかく2014年クリスマスイブに、とんでもないプレゼントであった。

頸髄損傷ということが解らなかった。「頸椎損傷?」って医者に言ったら強い口調で「頸髄です」と言われた。それがどんな症状でどう回復するのか解らなかった。とにかく入院して、何らかの処置を受ければ治るのだと思っていた。時間とともに回復する骨折のように。

両親が来てくれたのは翌日25日。この年になっても、両親の顔を見ると心強く励みになる。
その翌日には姉も来てくれた。
この日から母親は約3か月間、東京の僕の部屋から毎日通ってくれることになる。感謝。





翌日から毎日何をしていたのだろう?あまり記憶がない。12月25日から30日までの。
年末には恒例の同級生ゴルフ、年明けには37年ぶりの中学の同窓会が予定されていた。同級生に電話して同窓会をキャンセルしてもらったり、年末年始の切符はネットでとっていたのはキャンセルしたっけ?
でも、今だから記憶が曖昧なだけで、四肢が動かない以外はすごく頭は回っていた。

僕はどちらかというと気は長い方ではないし、自分の意見をあまり曲げない。いわゆるガンコなジジイ。
この状況をその時の自分はどう受け入れたのか?左手は全く動かない・右腕は少し動く・感覚がないなど。ただ思ったのは、「起こってしまったことは仕方ない」だった。
それと、それまでの長い人生の中で色々なことを経験して「強く」なっていたと思うことがある。
こんな状況になっても、なぜか悲観的な思いはなかった。これは入院中も今も。
動かない足、これから今の住んでいる部屋までの階段がのぼれるかな?満員電車に乗れるかな?とか考えていた割には、現実と乖離した思いは「何とかなるし、元通りになる」というお気楽な気持ちを持っていた。

とにかく点滴をされたまま、毎日をベッドですることなく過ごした。昼間のテレビも面白くないし。
とにかくベッドに仰向け、首にはコルセット。夏でなくて良かったなど、呑気なことも思っていた。
T君が持ってきてくれたラジオで地域のFM局が、昔の洋曲を流してくれていたのが楽しみだった。
T君は「前もって来たラジオは小さかったから」といってもう一つ少し大きめのラジオも持ってきてくれた。とにかく身体が動かないので寝ているしかなかった。

リハビリが始まったのは年内だったと思う。多分、26日か27日。ベッドでのリハビリ。PTのIさんは色白の美人。OTの男性は名前忘れたなぁ。(すみません)
受傷から2、3日した時には少しは動くようになっていたと思う。ナースコールを右足から右手の手の届く場所に移動した。ただ、左腕と左手はピクリとも動かなかった。
この病院は(どこもそうなのか?)偉い先生に数人の医師と看護師長が毎日回診に来る。白い巨塔。申し訳ないけど、この回診でなんか有用な事は言われたことはなかった。
「調子はどう?」「変わりはないね?」の繰り返し。
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shigenon
2014年クリスマスイブのプレゼントは最悪でした。 「頸髄損傷」というケガなのか病気なのか・・その症状との戦いの記録と現在の日々をアップします。 (2018年4月追加) 不全の頸髄損傷は「健常な人」に見えます。“ふつうに見える”様に努力をしています。が、反面、「もう良くなったんだ」と思われがち。 骨折とは違い、中枢神経の損傷は完全回復はしないという現実。 「健常に見える」「もっと良くなるよう努力する」「もう治っているんでしょ」の狭間で何とか毎日を過ごしています。
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