この時でも「頸髄を損傷する」ということが、どういうことなのかさえ解っていなかった。手術をすれば良くなるのだろうと思っていた。
すぐに手術はしてくれないのかと思ったけど、年末・年始だし仕方ないのかなぁと思った。
広島に住んでいたころからかな、一人で飲みに行くようになったのは。元々酒は弱くないし、食べるのは大好きだし。右手に箸、左手にグラスという感じ。
東京に来た2003年から、1年の内340日位飲みに行っていた居酒屋「S」の繋がりで初めての地・東京にも多くの飲み仲間・ゴルフ仲間ができた。その友達たちが入院中に見舞いに来てくれた。感謝。
入院当初の一番の不便さは、電話が使えないこと。個室なので使用はOKなのだが、手が思うよう動かず電話が持てない。
電話は会社支給のガラケーと自分のスマホ。左手は全く動かないし、右手は少し動くようになり始めたけど、掴むことができない。ボタンを押す力もなかった。
仕事の電話はどんどん架かってきていた。誰かに持ってもらって出た。身体が動かない以外は饒舌だった。
T君の後輩のN君が考えてくれた。車のダッシュボードにスマホを貼り付けられるシリコン板を、書類を挟むボードに貼り付け。これでベッドフレームに立てかけてスマホは使えるようになった。
T君は週に何回も来てくれ、ドンキホーテで鉄アレイやアームグリップ、握力ボールなんかを買って持ってきてくれた。早く回復を望んでくれている気持ちが嬉しかった。(結局入院中は使用できる筋力は戻らなかったけど)
食事は食べさせてもらっていた。「あーん」で。ずっといてくれた母親は、相当疲れさせたと思う。父親は年末に一度戻ってまた来てくれた。父親は指圧が得意で、ずっと動かない左腕をマッサージしてくれた。
とにかく親不孝で万年反抗期で偉そうな口を叩くバカ息子は、感謝だけを思えばいいのに、ここでも何度か母親に偉そうな口を叩いている。ごめんなさい。
このころの症状は、右手・少しは動かせる、左手・全く動かず、右足・曲げることが出来る、左足・ほぼ動かず。両手は痺れ、右半身全体は無感覚に近く、両足も痺れていた。
とにかく朝の連ドラ「マッサン」が楽しみなのと、その後は病室でのリハビリを待つだけ。この病院はリハビリの外来もあるので、予定時間に病室のリハビリには来てくれなかった。
この頃のリハビリの内容は覚えていない。筋トレをしていたわりに大きな筋肉名しか知らなかったし、自分の今の症状に何を施してもらえば良いのかは自分では全くわからず、おまかせだった。
とにかく“日にち薬”で少しは良くなるのだろうと思っていた。
テレビもカード消費を抑えるため、ずっと点けている訳もいかず、本当に暇だった。真剣に「スピードラーニング」を買おうとも思った。英語がペラペラになりたいと思っていたのだから、完全な元通りになると思っていたのだろう。
入院したことで何か不安になったりパニックになったりしたことはなかった。淡々と過ごしていたと思う。少しは身体の感覚は戻ったが、回復の見込みについては手術をすれば何とかなるのかなぁという程度。動きだした右腕は一日2000回程度屈伸をして鍛えた。
大晦日はダウンタウンの「笑ってはいけない〜」を終わりまで見たことを考えると、身体は動かないものの健全な精神で年を迎えられたのだろう。
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