頸髄損傷ということが解らなかった。「頸椎損傷?」って医者に言ったら強い口調で「頸髄です」と言われた。それがどんな症状でどう回復するのか解らなかった。とにかく入院して、何らかの処置を受ければ治るのだと思っていた。時間とともに回復する骨折のように。
両親が来てくれたのは翌日25日。この年になっても、両親の顔を見ると心強く励みになる。
その翌日には姉も来てくれた。
この日から母親は約3か月間、東京の僕の部屋から毎日通ってくれることになる。感謝。
翌日から毎日何をしていたのだろう?あまり記憶がない。12月25日から30日までの。
年末には恒例の同級生ゴルフ、年明けには37年ぶりの中学の同窓会が予定されていた。同級生に電話して同窓会をキャンセルしてもらったり、年末年始の切符はネットでとっていたのはキャンセルしたっけ?
でも、今だから記憶が曖昧なだけで、四肢が動かない以外はすごく頭は回っていた。
僕はどちらかというと気は長い方ではないし、自分の意見をあまり曲げない。いわゆるガンコなジジイ。
この状況をその時の自分はどう受け入れたのか?左手は全く動かない・右腕は少し動く・感覚がないなど。ただ思ったのは、「起こってしまったことは仕方ない」だった。
それと、それまでの長い人生の中で色々なことを経験して「強く」なっていたと思うことがある。
こんな状況になっても、なぜか悲観的な思いはなかった。これは入院中も今も。
動かない足、これから今の住んでいる部屋までの階段がのぼれるかな?満員電車に乗れるかな?とか考えていた割には、現実と乖離した思いは「何とかなるし、元通りになる」というお気楽な気持ちを持っていた。
とにかく点滴をされたまま、毎日をベッドですることなく過ごした。昼間のテレビも面白くないし。
とにかくベッドに仰向け、首にはコルセット。夏でなくて良かったなど、呑気なことも思っていた。
T君が持ってきてくれたラジオで地域のFM局が、昔の洋曲を流してくれていたのが楽しみだった。
T君は「前もって来たラジオは小さかったから」といってもう一つ少し大きめのラジオも持ってきてくれた。とにかく身体が動かないので寝ているしかなかった。
リハビリが始まったのは年内だったと思う。多分、26日か27日。ベッドでのリハビリ。PTのIさんは色白の美人。OTの男性は名前忘れたなぁ。(すみません)
受傷から2、3日した時には少しは動くようになっていたと思う。ナースコールを右足から右手の手の届く場所に移動した。ただ、左腕と左手はピクリとも動かなかった。
この病院は(どこもそうなのか?)偉い先生に数人の医師と看護師長が毎日回診に来る。白い巨塔。申し訳ないけど、この回診でなんか有用な事は言われたことはなかった。
「調子はどう?」「変わりはないね?」の繰り返し。
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