仏教というのは、仏の説かれた教えということ。
では、仏とは何か。
世間では、仏といえば、亡くなった人だと思われています。
誰かが亡くなると、「成仏した」といわれるように
死んだら仏になると思っている人が多くあります。
でも、これはとんでもない誤解。
仏が死んだ人のことであれば、仏教は死人の教えということになるので
かなり怖いですよね。
仏というのは、正しくは「さとり」のことです。
「人生悟った」と言っている人もありますが、
さとりというのは、そういうものではありません。
「さとり」とは智慧のこと。
一口にさとりといっても、全部で52あります。
大相撲でも、ピンからキリまです。
序の口から始まって、一番上は横綱。
そのように、さとりにも52の位があります。
その一番上が、仏覚。
妙なる覚りということで「妙覚」とも、
これ以上ないので「無上覚」ともいわれます。
天台宗を開いた天台の智という人は、臨終に弟子に
「私は五品弟子位までさとった」と言ったといいます。
龍樹菩薩という人は、41位までさとったといわれています。
仏といったら、耳がのびたり、頭が大きくなったり
という仏の三十二相というのがありますが、
このさとりさえ開けば、誰でも仏なんです。
これは智慧であって、知識ではない。
ちょうど山に登るようなもので、高く登れば、
それだけ遠くが見えるようなもの。
でも、どんなに高く登っても、反対側は見れない。
頂上に立って初めて、すべてが見えるわけです。
お釈迦様は
「一切の智者なり」
と言われましたが、大宇宙の真理を知るわけです。
真理といっても、ここでは
「私たちが本当の幸せになる真理」のことです。
これを「真如」ともいいます。
どうすれば、すべての人の苦しみを抜き取ることができるのか。
どうすれば、すべての人の望む幸せを与えることができるのか。
抜苦与楽の真理の内容を、山に登って頂上に立って
お釈迦様が発見された「真如」を、私たちに教えられたものが仏教なんです。
本来「真如」は絶対のものですから、言葉で表すことはできません。
仏典の言葉では、「離言真如」といいます。
言葉を離れた境地ということです。
言葉自体が相対なもので、人間の智慧も相対的なものでしかありません。
このことについて、有名なエピソードがあります。
お釈迦様のお弟子たちが、在家の信者・維摩居士から
「真如とはどういうものか」と聞かれた。
誰が答えても、維摩は納得できない。
そして、文殊菩薩という智慧のすぐれた菩薩が
「真如とは言葉にのらない世界です」と答えた。
その後、文殊菩薩が、逆にその維摩に尋ねた。
すると維摩は何も答えない。
言葉で表せない世界だから。
そのエピソードから
「維摩の一黙百雷の如し」といわれる。
これが『維摩経』というお経に説かれています。
阿弥陀仏の本願というのは、「真如」です。
なので、言葉にはのらない。
それだと、私たちは知ることできません。
お釈迦様も最初は、言っても分からない、
謗らせるだけだということで、あきらめようとされたほど。
それでも、百里の道も一歩からということで、説き始められたのです。
それが一切経になったんですね。
言葉によって真如を表す「依言真如」ということです。
一切経は七千余巻と沢山ありますが、お釈迦様が説かれたかったことは
阿弥陀仏の本願、これ一つです。
そして、私たちに分かりやすいようにして教えられました。
アインシュタインが相対性理論を発見した。
それを幼稚園児に教えたい。
見つけたものは素晴らしいけれど、そのまま言っても分からない。
たとえていうと、子供と将棋をしたい親がいる。
ところが、幼稚園児と将棋をさそうとしても、とてもできない。
いつまでたっても、桂馬の動かし方が覚えられない。
「それじゃ将棋にならんだろ!!」と子供の手を叩いてたら、
子供はグレてしまう。
そしたら、そのまま成長しても、将棋なんてさしてくれない。
だから、最初は将棋の駒を崩すので遊ぶ。
そうやって将棋をさせるように導く。
これを「対機説法」とか「応病与薬」といいます。
頭が痛いのに、病院に行ったら
いきなり足をもまれたとなったら、どうでしょうか。
「やめてください」となるし、不審がられてしまう。
なので、最初は頭をもんであげる。
そしてそのうちに、
「あなたの頭痛は、本当は足に原因があるんです」と言えば、
足をもまれることにも納得する。
夫婦喧嘩で苦しんでいる人に、
「苦悩の根元は心の闇です!!」と教えても、納得できない。
そういう人にあわせて話されたお経があります。
「夫婦のすすめ」みたいなものが。
これは大変な忍耐です。
機に応じて教えを説かれたんですね。
そうやって、すべての人を真如へ導こうとされたのが仏教なんです。