これまで出会ったことのないものに会った時、
人はどんな反応をするでしょうか。
浄土真宗の親鸞聖人は、救いとられた一念で、
「噫(ああ)、弘誓の強縁は多生にもあいがたく真実の浄信は億劫にもえがたし」
と言われています。
まず、「噫(ああ)」と言われた。
すぐに「弘誓の業縁は・・・」と出てくる気持ちではなくて、
一念は、言うこと絶えてこと絶えて、
「ああ」のほかに言葉は出てこない。
ただ、「ああ」と言う。
あとは何も言わずに合掌しているだけでは分からないので、
「私が救われた驚き、喜びを何とか伝えたい」
ということで言われたお言葉なんですね。
世の中のことでも、本当に驚いた時には
そんなふうに言います。
「あらからと、言うはあとなり唐辛子」
赤ピーマンと間違えて頬張って、ガブっと食べた時に
まず出る言葉は
「あー!」でしょ。
「あー、辛かった」
大変な驚きの時は、まず「あー」と言います。
そして「辛ーい」でしょ。
頬張って、「からい!あー!」と言う人は
あまりいません。
「あら」は、「あー」の昔の表現。
「あらからと、言うはあとなり唐辛子」
こういう歌があるそうです。
みんなそうですよね。
思ってもないことが起きた時、
「あー」と言ってしまいます。
たとえば、中学・高校の同級生で、大学で離れ離れになった人に、
たまたま街ですれ違った。
ただの友達じゃなくて、笑ったり喧嘩したり、一緒の思い出がたくさんある。
そういう人と出会ったら、どうでしょうか?
「えっ」でしょ?
「最近どう?」みたいな会話にはなりません。
「どうしたの?」
「実は・・・」
そういうことありますよね。
実は私、東京の同級生と、岐阜でばったり会いました。
高校時代、昼休みも一緒に遊んでた人で、今も長い付き合いですが。
そこから「どうした、何でここに」という言葉が出てくる。
まず「あー」と出るのが当然で、
聖人は今まで、あったことないことだから、
この驚きは亡者の開眼の一刹那、といわれます。
あるいは世々生々の初事。
生まれてこのかた目の見えなかった人が、目の開いた一刹那、
手術によって世の中を見た時、どんなに驚くか。
今までは空想でしかなかった、色んなもの。
お父さん、お母さん、声では知っているけれど、
生まれてこのかた見たことがなかった。
それをパッと見た時、一切の情報が入ってくる。
その時の驚き、これが私の母親なんだと、びっくりしませんか?
人は知らないもの、一切の情報が入ってきたの驚きは、
言葉にはならないと思います。
その亡者の開眼の一刹那の驚きよりも凄い。
まず光も知らない、今まで真っ暗闇にいた。
闇の中いる時は、闇も分からない
自分が闇にいるという自覚もない。
光を知って始めて闇を闇と知ることができる。
目の見えない人は闇の世界、
光の世界を知りません。
目の開いた瞬間に、全部知らされる。
これを仏教で世々生々の初事、
今まで生まれ変わり死に変わりしてきた私たちが
今まで会ったことのないような初事、
今まで私たちは生まれ変わり死に変わり
輪廻を繰り返してきました。
その中に色んな経験してきた、
色んな殺され方、殺し方、
ありとあらゆる経験をしてきた。
女性に生まれ、妊娠して、子供を生んだ経験もある。
していない経験はないほど、悠久の生命の流れで、あらゆる事をしてきた。
世々生々の初事とは、いまだかつて一度も経験したことのないこと。
いまだかつて魂が経験したことないこと、これが世々生々の初事。
だから大変な驚き、この間のあの経験に似ている、というものでない。
だから「ああ」と驚かずにおれない。
その驚きが、知らなかった、こんな世界とは知らなかった、
考えもしなかった世界に言葉も心も絶えた。
それが「ああ」に込められています。
阿弥陀仏に救われた時に知らなかった、ということが一気に知らされて、
言葉にできない驚きが、「ああ」という一文字にあります。
「ああ」という中に、万感言い尽くせぬ思いが、込められている。