2013年02月03日
人と違っていい、やりたいことを何でも始めよう
zeraniumのブログ より転載
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人と違っていい、やりたいことを何でも始めよう
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/index.html#entry-84003787
日本人とは「日本方言を話す人」のことである
日本人のルーツの少なくとも一つが、朝鮮半島にあることは否定できません。
特に天皇家のルーツは、間違いなく朝鮮半島にあるでしょう。
天皇家の古い墳墓がその学術的価値にもかかわらず、未だにほとんど公開されていないのは、公開すれば皇室のルーツが明らかになってしまうからだと言われています。
まあ、そこまで踏み込んだ議論をしなくても、日本古来の文化とされるものの多くが、大陸からの渡来人がもたらしたものに起源を発することは、歴史の授業でもふつうに教えられていることです。
ついでに言うと、人種的に「日本人」を定義するのは論外です。
いくら念入りに遺伝子を調べても、日本人はモンゴル人とまったく変らないし、もちろん韓国人や中国人ともそれほど変りはないでしょう。
人種に注目した瞬間に、日本人というカテゴリーは存在しないことになってしまいます。そこで注目すべきなのが、言語なのです。
第1章で述べたように、ちょっとした地理的障壁があるだけで方言は生まれます。
日本列島の中にも、数え切れないほどの方言が存在しています。
そして島国である日本は、海によって他国と隔てられていますが、そのことは、日本列島内にある山河や小さな海峡といった障害とは比べものにならないほど大きいものです。
したがって、日本列島で話されている方言=日本語こそが、日本人を定義づけるためのもっとも明確な指標となるのです。
日本人は、まず何よりも「日本方言を話す人と定義づけられるべきなのです。
日本人とは「日本で義務教育を受けた人」のことである
日本人を定義づけるもう一つの指標は、教育です。
私の知人のラスベガス生まれのアメリカ人は、両親はどちらもアメリカ人ですが、幼いころから日本で育ち、日本の義務教育を受けました。
その彼女のものの考え方は、「日本人の普通の女の子」そのものです。
英語はネイティブに話しますが、「アメリカ人っぽい」と感じさせられる要素は容姿を除けばあまりありません。
先に述べましたが、義務教育は愛国心の洗脳のために使われていると説明しました。
まだ小さい子どもの脳に与えられる義務教育は、愛国心だけでなく、共同体の価値感を非常に効率的に刷り込むことが可能です。
それだけでなく日本の義務教育を受けた子どもは、さらに日本のマスメディアにも幼少期から接しているはずです。
ですから義務教育とメディアという、「国民」意識を育てる二つのシステムに囲まれて育っているのです。
たとえ日本国民という概念が幻想だとしても、幼い頃から一定の刷り込みを受けて育った人々は、共通の精神構造を持つようになります。
つまり日本の義務教育を受けた人々は、一つのカテゴリーとしてほかとは区別してもいいでしょう。
日本人を意義づける第二の要素は、「日本で義務教育を受けた人」ということになります。
したがってもしも「日本人をつくっているのは誰か」と問うならば、答えは「学習指導要領など、義務教育のカリキュラムをつくっている人」となるでしょう。
つまりは文部科学省の役人です。
それと日本のマスメディアで、とくにテレビの番組編成を考えているテレビ局幹部も加わっています。
しかしながら彼らにはその意識はないでしょう。
そしてその背後には、彼らをコントロールしている大手広告代理店もいます。
本書の冒頭で述べたように、大震災でライフラインが寸断されても、暴動はおろかスーパーの棚からパンを取ってくることさえ出来ない日本人をつくっているのも、文科省が考案したカリキュラムというわけです。
そう考えると、近年、授業中に子どもたちが教師の言うことを聞かず、勝手な行動をとる傾向を、「授業崩壊」などといって大げさに問題にして騒ぎ立てているのもうなずけます。
つまり、自分だけの意思で勝手に動かない、上の人の指示には必ず従う、周囲に迷惑をかけない・・・といった、大人しい日本人の育成にこれまでずっと成功してきた実績からすると、勝手に動き回る子どもが多数派になってしまうのは、管理する側にとっては一大事のはずです。
それはおそらく、彼らが作り上げた義務教育の根幹を揺るがす事態なはずです。
それでも「日本」にこだわりますか?
つまり「日本人」とは、@日本方言を話す人、A日本で義務教育を受けた人、ということで、極限すればこの二つにすぎません。
これを読んでいるあなたは、高確率で「日本人」でしょう。
ではこの定義の上に立って、ほかの日本人に対してどれほど連帯感がわくでしょうか?
同じ方言を話し、同じ教育を受けているわけですから、要するに同郷の同窓の友人のようなものです。
たしかに親しみは湧くにしても、それだけのことではないでしょうか。
それをいまどき、出身地や出身校に大人になってまでこだわるのはナンセンスです。
以上を踏まえた上で、改めて考えてみてほしいのですが、それでもあなたは「日本」あるいは「日本人」という枠組みにこだわりますか?
海外で事故が起きると、日本のニュースでは必ず真っ先に「日本人の安否」を伝えます。
これは言外に「日本人意外の命はどうでもいい」と言っているも同然です。
私に言わせれば、差別以外の何ものでもありません。
2011年の8月にアメリカで、ハリケーン「アイリーン」が東海岸を襲い、甚大な被害をもたらしました。
ところが日本ではほとんど報道されなかった。
報道しても視聴率が取れないからでしょう。
つい数ヶ月前に大震災に見舞われた日本人であるのに、なぜ同じく自然災害に見舞われている他国の状況に目を向けなかったのでしょうか。
国民国家に成りたての明治時代なら、「日本」にこだわることに意味はあったでしょう。
それはナショナリズム的な意味においてです。
ですから列強国に金銀を持ち去られないように、日本国内に資本を蓄積するのは、日本人が豊かになるためには必要なことであったと思います。
また敗戦後の焼け跡から立ち上がるために、「日本人」として団結することにも意味はあったでしょう。
だからこそ吉田茂首相は、「日本は独立を取り戻した」と解釈できる「優しいウソ」をあえてついたのだとも考えられます。
しかしとうの昔に日本は、世界でももっとも豊かな国の一つになっています。
にもかかわらず、相変わらず、「日本」という枠の中で利害を考えているのは、あまりにも視野が狭すぎるのではないでしょうか。
ネット右翼の若者たちのように、無力感を埋め合わせるために、「愛国」という杖にすがる人々がいるのは仕方がないことでしょう。
人は誰しも、心が弱くなることがあるからです。
しかし大人になっても、こうした幼稚な遊びに夢中になっているのは、やはりまずいと思うのです。
とにかく「やりたいことをやる」覚悟
それより何よりも、「日本」あるいは「日本人」という枠組みは、日本人のためにならないのです。
つまり日本らしく、日本人らしくあることは、結局、これまでの儒教的なものの上に築かれた心理的支配構造を受け入れることであり、自分の可能性を狭めることであることは、本書において繰り返し見てきたとおりです。
では、日本人はどう変ればいいのでしょうか?
どうやって「日本」や「日本人」といった枠組みから飛び出せばいいのでしょうか?
具体的な方策については後に提案したいと思いますが、まずは、「とにかくやりたいことをやれ」のひと言に尽きます。
日本の社会はあまりにも強い儒教洗脳と、よくできたパノプティコン(全体監視システム)社会であり、それがこれまで徹底的に個人の行動を縛り付けてきたと同時に、ピラミッド型の社会構造は、個人の可能性を阻害してきました。
言ってみれば、日本人はずっと手足を縛られたまま生きてきたようなものなのです。
それでもなお、日本は世界有数の富裕国になったのですから、もしも日本人が自由に動けるようになれば、さらなる飛躍が可能になるはずなのです。
だからまずは、「とにかくやりたいことをやれ」、そう呼びかけたいのです。
「やりたいことをやれ」と言ったところで、元が大人しい日本人のこと、社会が無法状態になる心配はないでしょう。
これまで窮屈な社会秩序を維持してきた日本人は、その分、集団で統率の利いた行動をとることができた。
明治の殖産興業にしても、戦後の「傾斜生産方式」にしても、政府が音頭をとり、各業界が強調して動くことによって成功したのです。
しかしすでに、この方法は行き詰っています。
なぜなら日本人は経済力は健在でありながら、すっかり活力を失ってしまっているではありませんか。
豊かになった日本人は、もはや奴隷のまま喜んで働くことはできません。
個人の可能性を潰され続けることにも、もう耐えられなくなっています。
それならば私たちは、一人ひとりがやりたいことをやる社会に一歩を踏み出すしかないのです。
「日本」を捨てよ 苫米地英人著 PHP新書
抜粋
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@Petit_Soleil17 からのツイート
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人と違っていい、やりたいことを何でも始めよう
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/index.html#entry-84003787
日本人とは「日本方言を話す人」のことである
日本人のルーツの少なくとも一つが、朝鮮半島にあることは否定できません。
特に天皇家のルーツは、間違いなく朝鮮半島にあるでしょう。
天皇家の古い墳墓がその学術的価値にもかかわらず、未だにほとんど公開されていないのは、公開すれば皇室のルーツが明らかになってしまうからだと言われています。
まあ、そこまで踏み込んだ議論をしなくても、日本古来の文化とされるものの多くが、大陸からの渡来人がもたらしたものに起源を発することは、歴史の授業でもふつうに教えられていることです。
ついでに言うと、人種的に「日本人」を定義するのは論外です。
いくら念入りに遺伝子を調べても、日本人はモンゴル人とまったく変らないし、もちろん韓国人や中国人ともそれほど変りはないでしょう。
人種に注目した瞬間に、日本人というカテゴリーは存在しないことになってしまいます。そこで注目すべきなのが、言語なのです。
第1章で述べたように、ちょっとした地理的障壁があるだけで方言は生まれます。
日本列島の中にも、数え切れないほどの方言が存在しています。
そして島国である日本は、海によって他国と隔てられていますが、そのことは、日本列島内にある山河や小さな海峡といった障害とは比べものにならないほど大きいものです。
したがって、日本列島で話されている方言=日本語こそが、日本人を定義づけるためのもっとも明確な指標となるのです。
日本人は、まず何よりも「日本方言を話す人と定義づけられるべきなのです。
日本人とは「日本で義務教育を受けた人」のことである
日本人を定義づけるもう一つの指標は、教育です。
私の知人のラスベガス生まれのアメリカ人は、両親はどちらもアメリカ人ですが、幼いころから日本で育ち、日本の義務教育を受けました。
その彼女のものの考え方は、「日本人の普通の女の子」そのものです。
英語はネイティブに話しますが、「アメリカ人っぽい」と感じさせられる要素は容姿を除けばあまりありません。
先に述べましたが、義務教育は愛国心の洗脳のために使われていると説明しました。
まだ小さい子どもの脳に与えられる義務教育は、愛国心だけでなく、共同体の価値感を非常に効率的に刷り込むことが可能です。
それだけでなく日本の義務教育を受けた子どもは、さらに日本のマスメディアにも幼少期から接しているはずです。
ですから義務教育とメディアという、「国民」意識を育てる二つのシステムに囲まれて育っているのです。
たとえ日本国民という概念が幻想だとしても、幼い頃から一定の刷り込みを受けて育った人々は、共通の精神構造を持つようになります。
つまり日本の義務教育を受けた人々は、一つのカテゴリーとしてほかとは区別してもいいでしょう。
日本人を意義づける第二の要素は、「日本で義務教育を受けた人」ということになります。
したがってもしも「日本人をつくっているのは誰か」と問うならば、答えは「学習指導要領など、義務教育のカリキュラムをつくっている人」となるでしょう。
つまりは文部科学省の役人です。
それと日本のマスメディアで、とくにテレビの番組編成を考えているテレビ局幹部も加わっています。
しかしながら彼らにはその意識はないでしょう。
そしてその背後には、彼らをコントロールしている大手広告代理店もいます。
本書の冒頭で述べたように、大震災でライフラインが寸断されても、暴動はおろかスーパーの棚からパンを取ってくることさえ出来ない日本人をつくっているのも、文科省が考案したカリキュラムというわけです。
そう考えると、近年、授業中に子どもたちが教師の言うことを聞かず、勝手な行動をとる傾向を、「授業崩壊」などといって大げさに問題にして騒ぎ立てているのもうなずけます。
つまり、自分だけの意思で勝手に動かない、上の人の指示には必ず従う、周囲に迷惑をかけない・・・といった、大人しい日本人の育成にこれまでずっと成功してきた実績からすると、勝手に動き回る子どもが多数派になってしまうのは、管理する側にとっては一大事のはずです。
それはおそらく、彼らが作り上げた義務教育の根幹を揺るがす事態なはずです。
それでも「日本」にこだわりますか?
つまり「日本人」とは、@日本方言を話す人、A日本で義務教育を受けた人、ということで、極限すればこの二つにすぎません。
これを読んでいるあなたは、高確率で「日本人」でしょう。
ではこの定義の上に立って、ほかの日本人に対してどれほど連帯感がわくでしょうか?
同じ方言を話し、同じ教育を受けているわけですから、要するに同郷の同窓の友人のようなものです。
たしかに親しみは湧くにしても、それだけのことではないでしょうか。
それをいまどき、出身地や出身校に大人になってまでこだわるのはナンセンスです。
以上を踏まえた上で、改めて考えてみてほしいのですが、それでもあなたは「日本」あるいは「日本人」という枠組みにこだわりますか?
海外で事故が起きると、日本のニュースでは必ず真っ先に「日本人の安否」を伝えます。
これは言外に「日本人意外の命はどうでもいい」と言っているも同然です。
私に言わせれば、差別以外の何ものでもありません。
2011年の8月にアメリカで、ハリケーン「アイリーン」が東海岸を襲い、甚大な被害をもたらしました。
ところが日本ではほとんど報道されなかった。
報道しても視聴率が取れないからでしょう。
つい数ヶ月前に大震災に見舞われた日本人であるのに、なぜ同じく自然災害に見舞われている他国の状況に目を向けなかったのでしょうか。
国民国家に成りたての明治時代なら、「日本」にこだわることに意味はあったでしょう。
それはナショナリズム的な意味においてです。
ですから列強国に金銀を持ち去られないように、日本国内に資本を蓄積するのは、日本人が豊かになるためには必要なことであったと思います。
また敗戦後の焼け跡から立ち上がるために、「日本人」として団結することにも意味はあったでしょう。
だからこそ吉田茂首相は、「日本は独立を取り戻した」と解釈できる「優しいウソ」をあえてついたのだとも考えられます。
しかしとうの昔に日本は、世界でももっとも豊かな国の一つになっています。
にもかかわらず、相変わらず、「日本」という枠の中で利害を考えているのは、あまりにも視野が狭すぎるのではないでしょうか。
ネット右翼の若者たちのように、無力感を埋め合わせるために、「愛国」という杖にすがる人々がいるのは仕方がないことでしょう。
人は誰しも、心が弱くなることがあるからです。
しかし大人になっても、こうした幼稚な遊びに夢中になっているのは、やはりまずいと思うのです。
とにかく「やりたいことをやる」覚悟
それより何よりも、「日本」あるいは「日本人」という枠組みは、日本人のためにならないのです。
つまり日本らしく、日本人らしくあることは、結局、これまでの儒教的なものの上に築かれた心理的支配構造を受け入れることであり、自分の可能性を狭めることであることは、本書において繰り返し見てきたとおりです。
では、日本人はどう変ればいいのでしょうか?
どうやって「日本」や「日本人」といった枠組みから飛び出せばいいのでしょうか?
具体的な方策については後に提案したいと思いますが、まずは、「とにかくやりたいことをやれ」のひと言に尽きます。
日本の社会はあまりにも強い儒教洗脳と、よくできたパノプティコン(全体監視システム)社会であり、それがこれまで徹底的に個人の行動を縛り付けてきたと同時に、ピラミッド型の社会構造は、個人の可能性を阻害してきました。
言ってみれば、日本人はずっと手足を縛られたまま生きてきたようなものなのです。
それでもなお、日本は世界有数の富裕国になったのですから、もしも日本人が自由に動けるようになれば、さらなる飛躍が可能になるはずなのです。
だからまずは、「とにかくやりたいことをやれ」、そう呼びかけたいのです。
「やりたいことをやれ」と言ったところで、元が大人しい日本人のこと、社会が無法状態になる心配はないでしょう。
これまで窮屈な社会秩序を維持してきた日本人は、その分、集団で統率の利いた行動をとることができた。
明治の殖産興業にしても、戦後の「傾斜生産方式」にしても、政府が音頭をとり、各業界が強調して動くことによって成功したのです。
しかしすでに、この方法は行き詰っています。
なぜなら日本人は経済力は健在でありながら、すっかり活力を失ってしまっているではありませんか。
豊かになった日本人は、もはや奴隷のまま喜んで働くことはできません。
個人の可能性を潰され続けることにも、もう耐えられなくなっています。
それならば私たちは、一人ひとりがやりたいことをやる社会に一歩を踏み出すしかないのです。
「日本」を捨てよ 苫米地英人著 PHP新書
抜粋
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