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2019年12月18日

“日本のレオナルド・ダ・ヴィンチ” 平賀源内

博学多才な奇人

今日12月18日は江戸時代の奇人・平賀源内が亡くなった日です。(安永八年 1779年)※旧暦年
平賀源内.jpg
 享保十三年(1728年)〜 安永八年(1779年)

平賀源内は、30年前の平成元年(1989年)にTBSの連続ドラマ『翔んでる! 平賀源内』(主演:西田敏行)の主人公として当時ちょっと話題になりました。

皆さんは「平賀源内」と聞いて何を連想しますか?

エレキテル? 土用丑の日?

他にもいろいろあると思うのですが、それもそのはず源内はたくさんの肩書きを持つ人物なのです。

発明家・本草学者・蘭学者・医者・戯作者・浄瑠璃作者・西洋画家・俳人・鉱山の山師、果ては商品の宣伝文句を考案するコピーライターと、実に様々な分野で活躍し実績を残しています。

この博学多才ぶりから、源内は“日本のレオナルド・ダ・ヴィンチ”とも呼ばれています。

天才的なひらめきで異彩を放った源内ですが、その反面、移り気で飽きっぽく何をやっても長続きしなかったため、お金には縁がなくいつも貧乏暮らしをしていたといわれています。

余りある才能を持ちながら、その才能に見合うほどの評価をされなかった源内とはどんな人物だったのでしょうか?

というわけで、今回は平賀源内について語りたいと思います。

長崎留学で西洋文化に触れ目覚める

源内は、享保13年(1728)讃岐(香川県)で高松藩士・白石 茂左衛門の三男として生まれます。

白石氏は、戦国時代に武田氏の信濃(長野県)侵攻で滅ぼされた平賀源信の末裔といわれています。

源信の死後、平賀氏は奥州の白石に移住したので白石姓に改め、さらに四国へ移りました。

この平賀姓は、源内の代の時に白石姓から復姓しています。

源内は少年の頃から本草学(動植物や鉱物なども含めた薬草を主体とした薬物学)や儒学(儒教の教えによる学問)を学んでいて、25歳の頃に1年間長崎に行って本草学やオランダ語、医学などを学びます。

この長崎留学で様々な西洋文化に触れたことにより、源内の多岐にわたる才能が開花し始めました。

その後も大坂や京都を渡り歩いた後、江戸で本草学者に弟子入りして本格的に本草学を学びます。

本草学を学ぶ傍らで物産にも興味を抱いていた源内は、宝暦七年(1757年)江戸の湯島で日本初の物産展(名称は東都薬品会)を開催しました。

この物産展では、サツマイモから作った砂糖や国産初の朝鮮人参など、日本全国から取り寄せた珍しい新商品が多数紹介されています。

源内が考案した物産展は次第に評判となり、特に宝暦十二年(1762年)に開催された5回目の物産展が大盛況となったことで、各地の特産品売買を奨励していた幕府の老中・田沼意次にも注目され、これをきっかけに二人は懇意になったともいわれています。

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マルチな才能が生み出した数々

平賀源内の代名詞といえば、やはりエレキテル(摩擦式発電器)が有名ですね。

エレキテルとは、オランダ語のelektriciteit(電気、電流)がなまったものといわれています。

このエレキテルについては一部誤解されている方もいると思うのですが、エレキテルは源内が発明したものではありません

エレキテルは、源内が長崎滞在中にオランダ製の壊れていたエレキテルを古道具屋から入手、これを約7年かけて修理し、安永五年(1776年)にようやく復元したものなのです。

しかし、オランダ製の元のエレキテルとは多少構造の違いがあり、源内が独自の改良を加えたとも考えられるので、模造品とはいえ源内の発明と言えなくもないでしょう。


また、日本の夏の風物詩・土用丑の日も源内が考案したといわれています。

これは、源内の知り合いだった近所の鰻屋に、夏になると売り上げが悪くなるウナギについて相談を持ちかけられたことがきっかけでした。

源内は鰻屋の店頭に『本日は土用丑の日』と書いた張り紙をして、「夏にウナギを食べると精がついて元気になる」と触れ回りました。

すると、鰻屋はたちまち大繁盛したので、噂を聞きつけた他の鰻屋がこれを真似て、やがて全国に広まったといわれています。


その他にも源内は温度計万歩計など様々な発明品を生み出しました。

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獄中での寂しい最期

多才な才能を発揮して華やかに活躍した源内ですが、意外にもその最期は惨めなものになっています。

安永八年(1779年)11月、源内は大名屋敷の改築を請け負い、改築計画書を作成しました。

ところが、その改築計画書を紛失してしまい、この時酒に酔っていた源内は改築計画書を盗まれたと勘違いして、大工の棟梁2人を殺害してしまったのです。

この時の様子について、源内の友人であった蜀山人(大田南畝)は「源内は突然狂乱して平常心を失い、人を殺し投獄された」と記しています。

殺人の罪で投獄された源内は、劣悪な環境の牢獄で破傷風を発症してしまい、12月18日に死亡しました。(享年52歳)


一説によると、源内の才覚を惜しんだ老中の田沼意次がひそかに獄中から救出し、源内は地方に逃れて静かに余生を過ごしたともいわれています。



平賀源内まとめ

  • 多岐にわたる才能は長崎留学の際に西洋文化に触れたことで開花した

  • エレキテルの復元や土用丑の日の考案、数々の発明品など様々な分野でマルチな才能を発揮した

  • 華やかな活躍とは裏腹に最後は殺人を犯して獄中で死んだ


エレキテルと聞くと、お笑い好きの僕は二人組の女芸人「日本エレキテル連合」を連想してしまいます。(笑)
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カナケン
元高校教師。 以前に「日本史講座」のタイトルでツイッターをやってました。 ここでは(現代にも繫がる日本史)をテーマにエピソードを多数紹介し、肩肘張らず(ほー、なるほど)と思える話を語っていきたいと思います。
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