織田信長は戦国大名の中では最も人気が高い一人だ。
勤王家、革命家、無慈悲な独裁者など様々な姿で描かれてきた。
家臣だった豊臣秀吉が全国統一し、徳川家康が江戸幕府を開く。
この流れから、信長が戦国の世を終わらせた重要な存在と言える。
信長像の変遷を多くの識者が分析している。
それによれば、江戸時代は儒教の立場から論じられた。
徳ある人物が治めれば世の中は平穏になると言う思想だ。
家臣に殺されたのは徳がなかったとなる。
家康より優れた人物とは言えない時代背景もあったに違いない。
上洛した信長が内裏を修理するなど天皇らを資金的にも支えたからだ。
明治に入ると直ぐに、木戸孝允らの建議で、信長を祭る建勲神社が創建された。
皇国史観の時代、「国体の本義」にも紹介されている。
戦前から、新しい戦法を生み出した軍事の天才、中世の権威に挑戦した革命家と言ったイメージも生まれていった。
現在、重層的な影響で作り上げられてきた「英雄的信長像」だ。
これに対し滋賀県立安土城考古博物館の高木叙子学芸課主幹は「昨今の研究動向では、自らが頂点に立つ事を目指す『信長英雄論』が修正されつつあります」と指摘している。
愛媛新聞 歴史を旅するから
歴史的に見れば秀吉は家臣、家康も家臣に等しい。
時代の要望に応えるかの様に変わる。