吉川英治(1892~1962)
○略歴
吉川 英治(よしかわ えいじ)は、日本の小説家。本名、英次(ひでつぐ)。神奈川県久良岐郡中村根岸(現在の横浜市)に、旧小田原藩士の次男として生れた。山内尋常高等小学校を中退。いくつもの職業を転々としつつ、独学した。のちに作家活動に入り、1925年より創刊されたキング誌に連載し、初めて吉川英治の筆名を使った『剣難女難』で人気を得た。このとき本名の「吉川英次」で書くように求められたが、作品が掲載される際に出版社が名を「英治」と誤植してしまったのを本人が気に入り、以後これをペンネームとするようになった。毎日新聞からも要請を受けて書いた『鳴門秘帖』などで人気作家となる。1935年より連載が始まった『宮本武蔵』は広範囲な読者を獲得し、大衆小説の代表的な作品となった。戦後は『新・平家物語』、『私本太平記』などの大作を執筆。幅広い読者層を獲得し、「国民文学作家」と言われる。1960年、文化勲章。
●晩年考
『私本太平記』の連載終了間際に肺癌にかかり、翌年夏に癌が転移し悪化。1962年9月7日、築地国立がんセンターで死去。70歳。従三位勲一等に叙せられ、瑞宝章を贈られた。疎開先だった東京都青梅市に、吉川英治記念館がある。なお東京港区赤坂にあった旧吉川邸は講談社の所有となり、(同社での企画出版のための)泊まり込みでの執筆や、座談・打ち合わせに使用された。
吉川英治記念館(東京都青梅市)
★亡き父がよく読んでいた「吉川英治」。書棚にずらりと並べられた数々の著作。・・・当時小さかった私には、旧字体や漢字がところどころにあり、読める代物ではありませんでした。捨てちゃいましたけど、とっておけば良かったのかな?
2025年02月27日
ワーグナー
ワーグナー
ワーグナー(1813~1883)
○略歴
ヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナー(Wilhelm Richard Wagner、ヴァーグナー、ヴァグナーとも表記される。)は、歌劇の作で知られる19世紀のドイツの作曲家、指揮者である。ロマン派歌劇の頂点として「歌劇王」の別名で知られる。また理論家、文筆家としても知られ、音楽界だけでなく19世紀後半のヨーロッパに広く影響を及ぼした中心的文化人の一人でもある。1813年、ザクセン王国・ライプツィヒに生まれる。ワグナー一家は音楽好きで、家庭内で演奏会などをよく開くなど幼児から音楽に親しみ、リヒャルトの兄弟の多くも音楽で身を立てている。特に一家とも親交があった作曲家ウェーバーから強い影響を受ける。15歳のころベートーヴェンに感動し、音楽家を志した。1831年、18歳の時にライプツィヒ大学に入学。哲学や音楽を学び、翌年1832年、交響曲第1番ハ長調を完成させた。時を同じくして、最初の歌劇『婚礼』を作曲した。1833年にヴュルツブルク市立歌劇場の合唱指揮者となった。その後指揮者に飽き足らず歌劇作曲家を目指したが芽が出ず、貧困と借金に苦しんだ。1842年ドイツに帰り、ドレスデンで上記2歌劇を上演してようやく注目された。翌年ザクセン王国宮廷劇場指揮者に任命された。44年にはイギリスで客死したウェーバーの葬送行進曲とウェーバーを讃える合唱曲を作詞作曲し、多才を発揮した。1849年、ドレスデンで起こったドイツ三月革命の革命運動に参加。しかし運動は失敗したため全国で指名手配され、リストを頼りスイスへ逃れ、数年間を過ごす。超大作『ニーベルングの指環』を書き始め、また『トリスタンとイゾルデ』を1859年に完成した。追放令が取り消された後の1864年、ワーグナーに心酔していたバイエルン国王ルートヴィヒ2世から突然招待を受ける。しかしそれを非難した宮廷勢力や、すでに噂となっていたリストの娘で指揮者ハンス・フォン・ビューローの妻だったコジマ(Cosima, 1837年 - 1930年)との仲を王も快く思わなかったことから、翌年スイスへ退避し、ルツェルン郊外トリープシェンの邸宅に住んだ。ワーグナーの正妻ミンナが病死(1866年)したのち、コジマはビューローと離婚してワーグナーと再婚した(1870年)。
●晩年考
1872年、バイロイトへ移住し、ルートヴィヒ2世の援助を受けて、ワーグナーが長く夢見てきた彼自身の作品のためのバイロイト祝祭劇場の建築を始める。1874年に『ニーベルングの指環』を完成。劇場は1876年に完成し、『指輪』が華々しく上演された。が、自身が演出したこの初演にはワーグナーはひどく失望して、再度の上演を強く望んだが、おもに多額の負債のため、生前には果しえなかった。1882年、最後の作品となった舞台神聖祝典劇『パルジファル』を完成。彼の言行はいろいろの形で流布され、反ユダヤ主義者としても有名となった。1883年2月13日、ヴェネツィアへの旅行中、客死。作品でも私生活でも女性による救済を求め続けたワーグナーらしく、最後に書いていた論文は「人間における女性的なるものについて」であり、その執筆中に以前から患っていた心臓発作が起きての死であった。ワーグナーの死後、祝祭劇場はコジマ、ついで息子のジークフリートが中心となって運営した。
バイロイト祝祭劇場のコジマの胸像
バイロイト祝祭劇場
★ワーグナーの作品、『タンホイザー』、『ニーベルングの指環』、『トリスタンとイゾルデ』・・・。名前だけは知っています。・・・でも、どれ一つ最後まで聞いたor見たことがないんだよねぇ。何故?
2025年02月26日
アンデルセン
アンデルセン
アンデルセン(1805~1875)
○略歴
ハンス・クリスチャン・アンデルセン(Hans Christian Andersen)は、デンマークの代表的な童話作家・詩人である。デンマークでは、Andersen が非常にありふれた姓であることから、フルネームを略した H. C. Andersen(デンマーク語読みで "ホー・セー・アナスン")と呼ばれる。22歳の病気の靴屋の父と数歳年上の母親の家で産まれた。彼の家は貧しく一つの部屋で全員が眠った。両親の愛と母親の盲信によって育てられ、若い頃から想像力を発揮した。オペラ歌手になろうとし、1819年コペンハーゲンに行った。オペラ歌手に成ることには失敗し挫折する、その後も挫折を繰り返し、デンマーク王立バレエ団のバレエ学校にも在籍していた。その後デンマーク王や政治家のコリンの助力で教育を受けさせてもらえる事になり、大学にまで行くことが出来た。1835年に最初の小説『即興詩人』を出版、『童話集』を発表する。その後も死ぬまでの間に多くのおとぎ話を発表しつづけた。アンデルセンの童話作品はグリム兄弟の様な民俗説話からの影響は少なく、創作童話が多い。コペンハーゲンにある人魚姫の像は有名。
●晩年考
極度の心配性であったらしく、外出時は非常時に建物の窓からすぐに逃げ出せるように必ずロープを持ち歩いた。さらに、眠っている間に死んだと勘違いされて、埋葬されてしまった男の噂話を聞いて以来、眠るときは枕元に「死んでません」という書置きを残していた。70歳の時に肝臓癌で死去する。亡くなった時は、フレゼリク王太子や各国の大使、子供から年配者、浮浪者に至るまで葬式に並ぶ騒ぎになるくらい世界中の人々に愛されていた。
人魚姫の像(コペンハーゲン)
★彼の恋は常に失恋の連続だった。その要因として、容姿の醜さ、人付き合いが下手だったことなどが挙げられている。・・・そうしてみれば『みにくいアヒルの子』ってどういう物語だったっけ?・・・彼自身とは関係ないか!?
2025年02月25日
シーボルト
シーボルト
シーボルト(1796~1866)
○略歴
フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold)はドイツの医師・博物学者。標準ドイツ語読みで名前は「ジーボルト」。ドイツ(当時まだ神聖ローマ帝国)の司教領ヴュルツブルクに生まれる。シーボルト家はドイツ医学界の名門だった。1歳1ヶ月のとき、内科学、生理学教授だった父が死に、母方の叔父に育てられる。9歳から13歳でヴュルツブルクの高校に入学するまでハイディングフェルトで育った。1815年にヴュルツブルク大学に入学、解剖学の教授のデリンガー家に寄寓し、医学をはじめ、動物、植物、地理などを学ぶ。1820年に卒業し、国家試験を受け、ハイディングスフェルトで開業する。1822年にオランダのハーグへ赴き、国王ヴィレム1世の侍医から斡旋を受け、オランダ領東インド陸軍病院の外科少佐となる。同年、ロッテルダムから出航し、喜望峰を経由して1823年4月にはジャワ島へ至り、6月に来日、鎖国時代の日本の対外貿易窓であった長崎の出島のオランダ商館医となる。出島内において開業。1824年には出島外に鳴滝塾を開設し、西洋医学(蘭学)教育を行う。日本各地から集まってきた多くの医者や学者に講義した。そして、日本と文化を探索・研究した。1826年には将軍家斉に謁見。江戸においても、蝦夷や樺太など北方探査を行った最上徳内や高橋景保らと交友した。その間に日本女性の楠本滝との間に、娘楠本イネをもうける。1828年に帰国する際、収集品の中に幕府禁制の日本地図があったことから問題になり、国外追放処分となる(シーボルト事件)。
●晩年考
帰国後、日本研究をまとめ、集大成として全7巻の『日本』を随時刊行する。同書の中で間宮海峡を「マミヤ・ノ・セト」と表記し、その名を世界に知らしめた。日本学の祖として名声が高まり、故国ドイツのボン大学にヨーロッパ最初の日本学教授として招かれるが、固辞してライデンに留まった。一方で日本の開国を促すために運動した。48歳にあたる1845年には、ドイツ貴族出身の女性と結婚。3男2女をもうける。1854年に日本は開国し、1858年には日蘭通商条約が結ばれ、シーボルトに対する追放令も解除される。1859年、オランダ貿易会社顧問として再来日し、1861年には対外交渉のための幕府顧問となる。1862年に官職を辞して帰国。1866年10月18日、ミュンヘンで死去、70歳。
瀧(お滝)
シーボルト像(長崎鳴滝)
★楠本イネは、日本人女性で初めて西洋医学を学んだ産科医。・・・再来日した父シーボルトと長崎で再会し、西洋医学(蘭学)を教えてもらっているんですねぇ。・・・これって、メデタイ・拍手喝采なの?
2025年02月24日
コペルニクス
コペルニクス
コペルニクス(1473~1543)
○略歴
ニコラウス・コペルニクス(ラテン語名:Nicolaus Copernicus)は、ポーランド出身の天文学者。当時主流だった地球中心説(天動説)を覆す太陽中心説(地動説)を唱えた。これは天文学史上最も重要な再発見とされる。また、教会では律修司祭(カノン)であり、知事、長官、法学者、占星術師であり、医者でもあった。暫定的に領主司祭を務めたこともある。ポーランドのトルンで生まれた。10歳の時、銅を商う裕福な商売人だった父親が亡くなり、母親も既に亡くなっていた。母方の叔父に育てられた。1491年にコペルニクスはクラクフ大学に入学し、従来定説とされていた天動説に懐疑的な見解を持っていた著名な天文学者のアルベルト・ブルゼフスキ教授によってはじめて天文学に触れた。卒業後は教育に援助をしていた叔父は彼が司祭になることを望んでいたが、カノンとローマ法について学んでいる間に、彼の恩師であり著名な天文学者であるノヴァーラと出会い、その弟子となった。やがてノヴァーラの影響により本格的に地動説に傾倒し、天動説では周転円により説明されていた天体の逆行運動を、地球との公転速度の差による見かけ上の物であると説明するなどの理論的裏付けを行っていった。1526年にはクラクフ大学時代のブルゼフスキ教授の天文学の講座の同窓の親友で数学者のベルナルド・ヴァポフスキがポーランド王国とリトアニア大公国の版図全体の地図を作成した際、その事業を手伝った。一方で1535年、「地球の動き方」に関するコペルニクスの重要な論文の出版に向けてはヴァポフスキは力を貸し、出版を請け負っていたウィーンの関係者へ手紙を書いて出版の催促をするなどしている。
●晩年考
自己の地動説の発表による影響を恐れたコペルニクスは、主著『天体の回転について』の販売を1543年に死期を迎えるまで許さなかった(彼自身は完成した書物を見る事無く逝ったと言われている)。死後はポーランドのフロムボルクの大聖堂に埋葬されたとみられていたが、遺骨は確認されていなかった。シュチェチン大学などのチームが2004年から発掘を進め、大聖堂の深さ約2メートルの場所から2005年夏、遺骨を発見した。2008年、同大学とスウェーデンのウプサラ大学との共同のDNA鑑定でコペルニクスのものと最終的に認定された。
恩師のブルゼフスキ教授
主著『天球の回転について』(1543年初版)
コペルニクスの肖像『コペルニクス: 神との対話』(ヤン・マテイコ)
★1616年、ガリレオ・ガリレイに対する裁判が始まる直前に、コペルニクスの著書「天体の回転について」は、ローマ教皇庁から閲覧一時停止の措置がとられたという。・・・これは、地球が動いているという内容が、聖書に反するとされたためであったとか。ただし、禁書にはならず、純粋に数学的な仮定であるという注釈をつけ、数年後に再び閲覧が許可されるようになったんだって。
参考:Wikipedia
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2025年02月23日
兼好法師
兼好法師
兼好法師(1283?~1352以後)
○略歴
吉田 兼好(よしだ けんこう)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての官人・遁世者・歌人・随筆家。本名は卜部兼好(うらべ かねよし/うらべ の かねよし)。卜部氏は古代より卜占を司り神祇官を出す神職の家柄であり、父兼顕も吉田神社の神職であった。卜部氏の嫡流は後の時代に吉田家、平野家などに分かれ、兼好は吉田家の系統であったことから江戸時代以降は吉田兼好と通称されるようになった。また出家したことから兼好法師(けんこうほうし)とも呼ばれ、中学校国語の検定済み教科書ではすべて「兼好法師」と表している。また、兼好と呼ぶこともある。日本三大随筆の一つとされる『徒然草』(つれづれぐさ)の作者であり、また私家集『兼好法師家集』がある。
●晩年考
晩年は、当時の足利氏の執事高師直に接近したとされ、『太平記』にその恋文を代筆したとの記述がある。没年は、諸記載や伝承により、観応元年/正平5年4月8日(1350年5月14日)ともされ、また異説として観応元年2月15日に死去したとする記事もあることからこの日とする説もあったが、これらの日付以降の活動を示す史料が複数指摘され、その中でもっとも遅いものとして1352年8月の奥書に名前がみえることから、現在の通説ではこの年以後と考えられている。
『徒然草』(おおさかページより引用)
★『徒然草』は、清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』と合わせて日本三大随筆とされる。・・・「つれづれなるまゝに、日ぐらし硯に向かひて、・・・」・・・「つれづれなる」とは「手持ち無沙汰」なこと。最近は、「つれづれなる」ときは、携帯を手にしている人が増えましたねぇ。
2025年02月22日
ソクラテス
ソクラテス
ソクラテス(紀元前469年頃~紀元前399年)
○略歴
ソクラテス(ソークラテース)は古代ギリシアの哲学者である。父は彫刻家ないし石工のソプロニスコス、母は助産婦のパイナレテとされる。アテナイに生まれ、生涯のほとんどをアテナイに暮らした。彼はスパルタと戦ったペロポネソス戦争の最初の大会戦(デリオンの戦い)では重装歩兵として従軍した。青年期には自然科学に興味を持ったとの説もある。彼自身は著作をおこなわなかったため、その思想は、弟子のプラトンや歴史家のクセノポン、アリストテレスなどの著作を通じて紹介されている。
●晩年考
晩年は倫理や徳を追求する哲学者としての生活に専念した。当時、賢人と呼ばれていた人々や通りすがりの若者を次々にたずね、「アポロンの宣託の通り自分が最も知恵があるのかどうか」を知るために対話をおこなった。結局、「知っていると言っていることを、実は知らない(知っていると思い込んでいる)のだ。」ということを暴くことになった。相手は論破され恥をかかされたとしてソクラテスを憎むようになった。このため、「アテナイの国家が信じる神々とは異なる神々を信じ、若者を堕落させた」などで公開裁判にかけられることになった。アテナイの500人の市民によりソクラテスは死刑にされた。しかしその後、アテナイの人々は不当な裁判によってあまりにも偉大な人を殺してしまったと後悔し、告訴人たちを裁判抜きで処刑したという。
ソクラテスの最期が描かれている「ソクラテスの死」
ジャック=ルイ・ダヴィッド作(1787)
★ソクラテス自身はかなりの恐妻家で、妻のクサンティッペに「何が哲学だ!?屁理屈ばかり重ねずに仕事をしろ」と言われるなど頭が上がらなかった。そんな中、ソクラテスは結婚について悩んでいる人間に向かい、「結婚してもしなくても、どのみち君は後悔することになる」と言った。・・・思い当たるところあり!?男性諸君!
2025年02月21日
ピタゴラス
ピタゴラス
ピタゴラス(紀元前582~紀元前496)
○略歴
ピタゴラスは、ピタゴラスの定理などで知られる、古代ギリシアの数学者、哲学者。イタリアのクロトンでピタゴラス教団を立ち上げた。この教団はやがて大きな力を持つようになったが、市民によって追放された。彼の数学や輪廻転生についての思想はプラトンにも大きな影響を与えた。「サモスの賢人」、「クロトンの哲学者」とも呼ばれた。
●晩年考
ピタゴラスの最期に関しては4つの説があるとされる(ディオゲネス・ラエルティオスは『ギリシア哲学者列伝』)。1)家が放火されて逃げたけれど、追手に捕らえられ咽喉を切られて殺された、2)神殿に逃げ込み、40日間の断食をした後で死んだ、3)メタポンティオンに退き、断食をして死んだ、4)戦闘に参加し、敵に捕らえられて殺された・・・などがあるという。
ピタゴラス(三平方)の定理
★知ってる、知ってる『ピタゴラスの定理』。中学の数学の必須項目!・・・でも、何かの役に立ってる??・・・ま、名前を知ってるだけでもいいか!!
2025年02月20日
オナシス
オナシス
オナシス(1906~1975)
○略歴
アリストテレス・ソクラテス・オナシス(Aristotle Socrates Onassis)はギリシャの実業家、ミリオネア。オスマン帝国時代のスミルナ(現トルコ領イズミル)で、中流階級のギリシャ人家庭に生まれた。1923年にはギリシャを離れアルゼンチンに行き、1925年にアルゼンチンとギリシャの市民権を取得した。アルゼンチンでは葉巻の輸出などの貿易業を始め、食肉のヨーロッパへの輸出なども手掛け大きな成功をおさめた。その後ギリシアにもどったオナシスは、第二次世界大戦後に余剰化した連合国軍の船舶を安値で購入し海運業をはじめ、さらにギリシアの海運王のスタブロス・リバノスの娘のアシーナ・リバノスと結婚した(2人の子供であるアレクサンダーとクリスティナは両方ともニューヨークで生まれた)。これにより規模を拡大した海運業は、戦後復興を進めるギリシアとヨーロッパ諸国においてまたたくまに成功し、1957年にはギリシャのフラッグ・キャリアであるオリンピック航空を設立するなどさらに事業領域を拡大し、間もなくオナシスは「海運王」と称されるようになった。オナシスは1度目の結婚中、1957年にヴェネツィアで開かれたパーティーでオペラ歌手マリア・カラスと知り合い、最初の妻と離婚した。カラスとは9年ほど関係していたが結婚はせず、1968年には、1963年11月に暗殺されたアメリカ大統領のジョン・F・ケネディの未亡人であるジャクリーン・ケネディと結婚し、世界的に話題を呼んだ。
●晩年考
オナシスはジャクリーンとの離婚申請を考えていたが、1975年にフランスのヌイイ=シュル=セーヌで、晩年患った重症筋無力症の合併病である気管支肺炎によって死んだ。オナシスの莫大な遺産は、彼の遺書に基づいて娘のクリスティナが55%、アレクサンダー・S・オナシス財団が45%(これは彼の息子アレクサンダーが相続するはずだった分の財産である)の遺産を得た。また、妻ジャクリーンは彼の義弟エドワード・ケネディによる交渉の結果、1000万ドルといわれる(2600万ドルともいわれている)財産を手にした。
ジャクリーンと前夫のケネディ(左)
★オナシスは、「欲しいものはすべて手に入れた男」とも言われますねぇ。・・・しかしジャクリーンには浪費癖があり、旅行と買い物に多くの時間を費やしたと言われるが、金を使いきれなかっただろうねぇ?・・・あ~ぁ、庶民感覚w!
2025年02月19日
スカルノ
スカルノ
スカルノ(1901~1970)
○略歴
スカルノ(Sukarno)は、インドネシアの植民地時代(オランダ領東インド時代)から民族主義運動、独立運動において大きな足跡を残した政治家。Sukarnoでフルネーム。ジャワ島東部の都市スラバヤ生まれ。父はジャワの下級貴族の出身で小学校教師、母はバリ人貴族の出身でヒンドゥー教徒だった。名前の「スカルノ」は、ジャワのワヤン劇に登場する武芸の達人「カルノ karno」に由来。幼い頃からオランダ語を学び、原住民学校を卒業後、ヨーロッパ人子弟の通う小学校を経て、スラバヤの高等市民学校に入学、1921年に同校を卒業後、高等工業学校(現バンドゥン工科大学)に入学、1926年卒業、本格的に反植民地運動を開始。1927年、インドネシア国民党を結成。各地で積極的に集会を開催し、壇上での熱のこもった演説で聴衆を魅了し、「民族の指導者」として認められるようになった。1929年、逮捕されるも、1931年、出獄。1933年には再び逮捕され、フローレス島→1938年スマトラ島のベンクルに流刑となる。ファトマワティと出会い、結婚(後に第1夫人)。太平洋戦争が始まり、日本軍がオランダ領東インドを占領すると、第16軍司令官である今村均はオランダに囚われていたスカルノやハッタらを解放した。スカルノらもまた民衆総力結集運動を組織し、日本軍に協力しオランダ軍と戦うことを選択した。日本の敗戦から2日後の1945年8月17日、スカルノとハッタの2人がインドネシアの独立を宣言。しかし、これを認めないオランダは軍を派遣し、同地の再植民地化に乗り出した。戦局はオランダ優位に進むかに思われたが、オランダはインドネシアの武装勢力とのゲリラ戦に苦しめられ、また、国際的な非難も高まり、外交交渉による紛争の解決がはかられた。1950年8月15日、単一のインドネシア共和国が発足。1955年、第一回アジアアフリカ会議(バンドゥン会議)を主催し、国際社会での知名度を高めた。1950年代末頃から「指導される民主主義」の構想を打ち出した。国内では大衆からの支持を維持するため、スカルノはたえず、ナショナリズムを鼓舞しつづけた。反帝国主義、反植民地主義を掲げて、1963年に成立したマレーシアとの対決を宣言した。そのため国際社会からの経済援助を停止され、西側諸国との関係はさらに険悪となり、スカルノは共産主義勢力への接近を強めていった。そして1965年1月には国際連合を脱退した。
●晩年考
1965年の「9月30日事件」(急進左派軍人による国軍首脳部暗殺というクーデター、それに迅速に対応したスハルトを中心とする反クーデタ、国内での共産党員狩り)によって求心力は失われ、失脚した後は不遇の晩年を送った。軟禁状態におかれたまま、1970年6月21日にジャカルタで死去した。第2代大統領に就任したスハルトの「新秩序」体制のもとで、冷戦下の東南アジアにおける反共国家として西側諸国との関係改善、国際社会への復帰を果たしていく。今なお国民には「ブン・カルノ」(カルノ兄さん)と呼ばれ、国父として敬意をもって愛され続けており、現在も10万ルピア紙幣に肖像が描かれている。
独立戦争で使用された日本製の軽戦車
デヴィ夫人(1940-)
★第1夫人との間の第2子メガワティは第5代大統領です。第3夫人デヴィ(Dewi, 日本名:根本七保子)は、タレントであることはご存知ですよねぇ!?
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