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浅沼稲次郎(1898~1960)
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浅沼 稲次郎(あさぬま いねじろう)は、東京府三宅村(後の東京都三宅村)出身の日本の政治家。日本社会党書記長、委員長を歴任した。正しい姓名は淺沼 稻次郎。三宅村神着地区の名主の庶子として生まれる。東京府立三中に入学、1918年に早稲田大学予科に入学する。早大では、建設者同盟の結成に加わって、社会主義運動に飛び込み、同志たちと全国の小作争議や労働争議を応援する日々を過ごした。1926年、単一無産政党として、労働農民党が結成される分裂し、浅沼は日本労農党に参加した。1932年、社会大衆党に参加。1933年に東京市会議員に、1936年には衆議院議員選挙に初当選した。1945年、日本社会党の結成に際し、組織部長に就任した。1955年、社会党再統一が実現すると、書記長に就任する。巨体と大きな声で全国を精力的に遊説する姿から、「演説百姓」「人間機関車」の異名を取った。また「ヌマさん」の愛称で親しまれた。
●晩年考
1959年、訪中した浅沼は、中華人民共和国で「アメリカ帝国主義は日中両国人民の共同の敵」と発言し、国内外に大きな波紋を広げた。1960年、委員長に選ばれ、安保闘争を自ら戦いの前面にたって戦い、岸信介内閣を総辞職に追い込むが、安保条約の廃案を勝ち取ることはできなかった。続く1960年総選挙で、前哨戦として、1960年10月12日に日比谷公会堂で開催された自民・社会・民社3党首立会演説会に参加した浅沼は、演説中に突然壇上に上がって来た17歳の右翼少年・山口二矢に腹部を刺され、波乱の生涯を終えた(浅沼稲次郎暗殺事件)。社会党は浅沼の妻である浅沼享子を身代わり候補に立て、享子は当選した。
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当選を祝う浅沼未亡人と娘の衣江さん(左)
1960年11月21日 東京・選挙事務所
★生前は新聞記者から「政界ゴシップの素材が見当たらない時は浅沼を探せばいい」と言われ、「一日に五回、風呂に入ってくれ」といった無理な要求にも怒らずに対応した。 雑談中に昭和天皇を揶揄する発言をした新聞記者をいきなり怒鳴りつけたこともあるという。・・・それほど昭和天皇・皇室を敬愛していたということですかねぇ。
参考:Wikipedia
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