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檀一雄(1912~1976)
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檀 一雄(だん かずお)は、日本の小説家、作詞家。山梨県南都留郡谷村町(現在の都留市下谷)に長男として生まれる。檀家は本籍地が福岡県山門郡沖端村(柳川市)で、柳川藩の普請方を務めた家柄であった。1914年(大正3年)、父が退職したため福岡へ戻る。父が画業修行のため上京して谷中に住み、栃木県足利の尋常高等小学校に通うが、1924年(大正13年)には両親が離婚する。この年には栃木県立足利中学校へ進学。1928年(昭和3年)には福岡高等学校文科乙類へ入学、社会主義読書会へも参加して停学処分を受けた。1932年(昭和7年)、東京帝国大学経済学部に入学。1933年(昭和8年)、同人誌『新人』を創刊し、処女作「此家の性格」を発表、瀧井孝作や林房雄らの賞賛を受け、尾崎一雄を紹介される。同年、太宰治、井伏鱒二の知遇を得、師と仰いだ佐藤春夫とも知る。1934年(昭和9年)、太宰治、中原中也、森敦らと『青い花』を創刊、翌年、日本浪曼派に合流する。1941年(昭和16年)、福岡の開業医の娘高橋律子と結婚。1946年(昭和21年)に律子は死去。同年、児童文学者与田準一の紹介で福岡県瀬高町の酒造家の娘山田ヨソ子と再婚。上京し、石神井に居を構える。1950年(昭和25年)、先妻律子を描いた連作「リツ子・その愛」、「リツ子・その死」にて文壇に復帰。翌1951年(昭和26年)「長恨歌」「真説石川五右衛門」の2作にて直木賞を受賞。舞台女優入江杏子と愛人関係であった。入江は石神井の自宅にしばしば出入りしていたが、1956年(昭和31年)、青森県蟹田町の太宰治文学碑除幕式に同行した際に、男女の関係となり、そのまま山の上ホテルで同棲をはじめた。入江杏子との生活そして破局を描いたのが代表作『火宅の人』(1961年(昭和36年)、最初の一編である「微笑」が新潮に発表されたが、執筆は遅々として進まず完成したのは、死の直前の1975年であった)である。私小説や歴史小説、料理の本などで知られる。また、西遊記の日本語抄訳もある(東京創元社ほか)。「最後の無頼派」作家といわれた。
●晩年考
1974年(昭和49年)、福岡市能古島に自宅を購入し転居、月壺洞(げっこどう)と名づけた。1975年(昭和50年)に檀は悪性肺ガンのため九州大学医学部付属病院に入院。その病床で『火宅の人』の最終章「キリギリス」を口述筆記にて完成させ、最後の著述となった。それから間もない1976年(昭和51年)1月2日に死去した。享年63。翌1977年(昭和52年)、終の住家となった能古島に文学碑が建てられ、その文面には檀の辞世の句となった「モガリ笛 幾夜もがらせ 花二逢はん」と刻まれ、毎年5月の第3日曜日には檀を偲ぶ「花逢忌」がこの碑の前で行われている。
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入江杏子
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映画『火宅の人』
(1986年、東映、深作欣二監督、緒形拳主演)
★9歳の時に実母が出奔し、また父が料理を作れなかったこと、そして小学校に上がっていない妹が3人いたことからやむなく料理を始めた経緯がある。・・・が、結果、檀は文壇屈指の料理人として名を通し、著書にも『檀流クッキング』や『美味放浪記』、『わが百味真髄』があり、その造詣の深さが窺えるという。
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