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乃木希典(1849~1912)
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乃木 希典(のぎ まれすけ)は、日本の武士(長府藩士)、軍人。陸軍大将従二位・勲一等・功一級・伯爵。第10代学習院院長。贈正二位(1916年)。家紋は「市松四つ目結い」。現在の東京都港区に長州藩(現・山口県)の支藩である長府藩の藩士、乃木希次の三男(長兄・次兄が夭折したため、事実上の長男)に生まれる。現在、六本木ヒルズになっている長府藩上屋敷が生誕の地。幼少期に蚊帳の金具が落ちて左目に当たり、ほぼ失明状態となる。慶応元年(1865年)、長府藩報国隊に入り奇兵隊に合流し幕府軍と戦う。明治10年(1877年)、西南戦争に参加し、軍旗を薩摩軍に奪われ、これを終生忘れることはなかった。明治19年(1886年)、ドイツに留学。明治27年(1894年)、日清戦争に出征。 明治29年(1896年)、 台湾総督に就任。明治37年(1904年)、日露戦争で第三軍司令官(大将)として旅順攻撃を指揮。明治40年(1907年) - 学習院院長として皇族子弟の教育に従事。昭和天皇も厳しくしつけられたという。「乃木大将」、「乃木将軍」などの呼称で呼ばれることも多い。
●晩年考
大正元年(1912年) - 明治天皇大葬の9月13日夜、妻静子とともに自刃。まず静子が乃木の介添えで胸を突き、つづいて乃木が割腹し、再び衣服を整えたうえで、自ら頸動脈と気管を切断して絶命した。遺書には、明治天皇に対する殉死であり、西南戦争時に連隊旗を奪われたことを償うための死であるむねが記されていた。このときに乃木は、「うつ志世を神去りましゝ大君乃みあと志たひて我はゆくなり」という辞世を詠んでいる。享年62。墓所は港区青山霊園。
自決当日の乃木夫妻
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旧乃木希典邸(乃木・静子夫人が自刃した場所)
★明治天皇崩御に合わせ殉死した乃木将軍に対し、武士道的精神、軍人精神の極致として賞賛する意見や、逆に遺風による野蛮で時代遅れの行為として皮肉にとらえる受け止め方もあったという。しかし、生前の人徳をしのばせる逸話から、清廉な生き方を称賛する受け止め方が国民の間で主流であったという。・・・「だるまさんがころんだ」は、 横浜市等、「乃木さんは偉い人」と数える地区があるんだって。納得!!
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