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2025年02月24日

コペルニクス

コペルニクス


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コペルニクス(1473~1543)

○略歴

 ニコラウス・コペルニクス(ラテン語名:Nicolaus Copernicus)は、ポーランド出身の天文学者。当時主流だった地球中心説(天動説)を覆す太陽中心説(地動説)を唱えた。これは天文学史上最も重要な再発見とされる。また、教会では律修司祭(カノン)であり、知事、長官、法学者、占星術師であり、医者でもあった。暫定的に領主司祭を務めたこともある。ポーランドのトルンで生まれた。10歳の時、銅を商う裕福な商売人だった父親が亡くなり、母親も既に亡くなっていた。母方の叔父に育てられた。1491年にコペルニクスはクラクフ大学に入学し、従来定説とされていた天動説に懐疑的な見解を持っていた著名な天文学者のアルベルト・ブルゼフスキ教授によってはじめて天文学に触れた。卒業後は教育に援助をしていた叔父は彼が司祭になることを望んでいたが、カノンとローマ法について学んでいる間に、彼の恩師であり著名な天文学者であるノヴァーラと出会い、その弟子となった。やがてノヴァーラの影響により本格的に地動説に傾倒し、天動説では周転円により説明されていた天体の逆行運動を、地球との公転速度の差による見かけ上の物であると説明するなどの理論的裏付けを行っていった。1526年にはクラクフ大学時代のブルゼフスキ教授の天文学の講座の同窓の親友で数学者のベルナルド・ヴァポフスキがポーランド王国とリトアニア大公国の版図全体の地図を作成した際、その事業を手伝った。一方で1535年、「地球の動き方」に関するコペルニクスの重要な論文の出版に向けてはヴァポフスキは力を貸し、出版を請け負っていたウィーンの関係者へ手紙を書いて出版の催促をするなどしている。










●晩年考

 自己の地動説の発表による影響を恐れたコペルニクスは、主著『天体の回転について』の販売を1543年に死期を迎えるまで許さなかった(彼自身は完成した書物を見る事無く逝ったと言われている)。死後はポーランドのフロムボルクの大聖堂に埋葬されたとみられていたが、遺骨は確認されていなかった。シュチェチン大学などのチームが2004年から発掘を進め、大聖堂の深さ約2メートルの場所から2005年夏、遺骨を発見した。2008年、同大学とスウェーデンのウプサラ大学との共同のDNA鑑定でコペルニクスのものと最終的に認定された。





恩師のブルゼフスキ教授



主著『天球の回転について』(1543年初版)



コペルニクスの肖像『コペルニクス: 神との対話』(ヤン・マテイコ)



 ★1616年、ガリレオ・ガリレイに対する裁判が始まる直前に、コペルニクスの著書「天体の回転について」は、ローマ教皇庁から閲覧一時停止の措置がとられたという。・・・これは、地球が動いているという内容が、聖書に反するとされたためであったとか。ただし、禁書にはならず、純粋に数学的な仮定であるという注釈をつけ、数年後に再び閲覧が許可されるようになったんだって。






 参考:Wikipedia





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