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2025年02月27日

ワーグナー

ワーグナー


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ワーグナー(1813~1883)


○略歴

 ヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナー(Wilhelm Richard Wagner、ヴァーグナー、ヴァグナーとも表記される。)は、歌劇の作で知られる19世紀のドイツの作曲家、指揮者である。ロマン派歌劇の頂点として「歌劇王」の別名で知られる。また理論家、文筆家としても知られ、音楽界だけでなく19世紀後半のヨーロッパに広く影響を及ぼした中心的文化人の一人でもある。1813年、ザクセン王国・ライプツィヒに生まれる。ワグナー一家は音楽好きで、家庭内で演奏会などをよく開くなど幼児から音楽に親しみ、リヒャルトの兄弟の多くも音楽で身を立てている。特に一家とも親交があった作曲家ウェーバーから強い影響を受ける。15歳のころベートーヴェンに感動し、音楽家を志した。1831年、18歳の時にライプツィヒ大学に入学。哲学や音楽を学び、翌年1832年、交響曲第1番ハ長調を完成させた。時を同じくして、最初の歌劇『婚礼』を作曲した。1833年にヴュルツブルク市立歌劇場の合唱指揮者となった。その後指揮者に飽き足らず歌劇作曲家を目指したが芽が出ず、貧困と借金に苦しんだ。1842年ドイツに帰り、ドレスデンで上記2歌劇を上演してようやく注目された。翌年ザクセン王国宮廷劇場指揮者に任命された。44年にはイギリスで客死したウェーバーの葬送行進曲とウェーバーを讃える合唱曲を作詞作曲し、多才を発揮した。1849年、ドレスデンで起こったドイツ三月革命の革命運動に参加。しかし運動は失敗したため全国で指名手配され、リストを頼りスイスへ逃れ、数年間を過ごす。超大作『ニーベルングの指環』を書き始め、また『トリスタンとイゾルデ』を1859年に完成した。追放令が取り消された後の1864年、ワーグナーに心酔していたバイエルン国王ルートヴィヒ2世から突然招待を受ける。しかしそれを非難した宮廷勢力や、すでに噂となっていたリストの娘で指揮者ハンス・フォン・ビューローの妻だったコジマ(Cosima, 1837年 - 1930年)との仲を王も快く思わなかったことから、翌年スイスへ退避し、ルツェルン郊外トリープシェンの邸宅に住んだ。ワーグナーの正妻ミンナが病死(1866年)したのち、コジマはビューローと離婚してワーグナーと再婚した(1870年)。










●晩年考

 1872年、バイロイトへ移住し、ルートヴィヒ2世の援助を受けて、ワーグナーが長く夢見てきた彼自身の作品のためのバイロイト祝祭劇場の建築を始める。1874年に『ニーベルングの指環』を完成。劇場は1876年に完成し、『指輪』が華々しく上演された。が、自身が演出したこの初演にはワーグナーはひどく失望して、再度の上演を強く望んだが、おもに多額の負債のため、生前には果しえなかった。1882年、最後の作品となった舞台神聖祝典劇『パルジファル』を完成。彼の言行はいろいろの形で流布され、反ユダヤ主義者としても有名となった。1883年2月13日、ヴェネツィアへの旅行中、客死。作品でも私生活でも女性による救済を求め続けたワーグナーらしく、最後に書いていた論文は「人間における女性的なるものについて」であり、その執筆中に以前から患っていた心臓発作が起きての死であった。ワーグナーの死後、祝祭劇場はコジマ、ついで息子のジークフリートが中心となって運営した。





バイロイト祝祭劇場のコジマの胸像



バイロイト祝祭劇場



 ★ワーグナーの作品、『タンホイザー』、『ニーベルングの指環』、『トリスタンとイゾルデ』・・・。名前だけは知っています。・・・でも、どれ一つ最後まで聞いたor見たことがないんだよねぇ。何故?



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