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2025年03月10日

島崎藤村

島崎藤村


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島崎藤村(1872~1943)

○略歴

 島崎 藤村(しまざき とうそん)は、日本の詩人、小説家。本名は島崎 春樹(しまざき はるき)。信州木曾の馬籠(現在の岐阜県中津川市)生れ。本陣や庄屋、問屋をつとめる地方名家で四男だった。1878年(明治11年)、神坂学校に入り、父から『孝経』や『論語』を学ぶ。1881年(明治14年)に上京、泰明小学校に通い、卒業後は、寄宿していた吉村忠道の伯父・武尾用拙に、『詩経』などを学んだ。さらに三田英学校(旧・慶應義塾分校、現・錦城高校の前身)、共立学校(現・開成高校の前身)など当時の進学予備校で学び、明治学院普通部本科(明治学院高校の前身)入学。在学中は馬場孤蝶、戸川秋骨と交友を結び、また共立学校時代の恩師の影響もありキリスト教の洗礼を受ける。学生時代は西洋文学を読みふけり、また松尾芭蕉や西行などの古典書物も読み漁った。20歳の時に明治女学校高等科英語科教師となる。翌年、交流を結んでいた北村透谷、星野天知の雑誌『文學界』に参加し、1896年(明治29年)、東北学院教師となり、仙台に赴任。1年で辞したが、この間に詩作にふけり、第一詩集・『若菜集』などを出版。1899年(明治32年)、小諸義塾の教師として長野県小諸町に赴任し、以後6年過ごす(小諸時代)。小諸を中心とした千曲川一帯をみごとに描写した写生文「千曲川のスケッチ」を書いた。さらに小説に転じ、『破戒』『春』などで代表的な自然主義作家となった。ほかの作品に、日本自然主義文学の到達点とされる『家』、姪との近親姦を告白した『新生』、父をモデルとした歴史小説『夜明け前』など。










●晩年考

 1940年(昭和15年)に帝国芸術院会員、米英との戦争が迫る中、1941年(昭和16年)に当時の陸軍大臣・東条英機が示達した『戦陣訓』の文案作成にも参画した。1942年(昭和17年)に日本文学報国会名誉会員。1943年(昭和18年)、「東方の門」の連載を始めたが、同年8月22日、脳溢血のため大磯の自宅で死去した。最期の言葉は「涼しい風だね」であった。





『破壊』(新潮文庫)



 ★『夜明け前』の主人公青山半蔵のモデルは、父正樹で国学者でもあり、藤村に与えた文学的影響は多大だったらしい。・・・父が郷里にて牢死した(何故?)というのも大きいですねぇ。



2025年03月09日

コナン・ドイル

コナン・ドイル


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コナン・ドイル(1859~1930)


○略歴

 アーサー・コナン・ドイル(Sir Arthur Conan Doyle KBE、本名:Arthur Ignatius Conan Doyle)はイギリス・スコットランドのエディンバラ生まれの小説家で、推理小説や歴史小説を多く著したほか、SFや戯作など、多岐にわたる活躍を示した。1876年から1881年にかけてエディンバラ大学で医学を学んだ。この時アストンの町で外科医師の助手として働いている。1882年にポーツマス市のサウスシー地区に眼科を専門とする診療所を開いた。彼の診察所は振るわず、患者を待つ間に小説を書き三文雑誌へ送ったが、その度に返却され終いには切手代すらも怪しくなった。1884年、『J・ハバクック・ジェフソンの証言』が評判になる。1887年のクリスマス、彼の最初のシャーロック・ホームズシリーズである『緋色の研究』が『ビートンクリスマス年鑑』にシャーロック・ホームズの登場として発表された。『四つの署名』がリピンコット・マガジン1890年2月号に掲載されるとホームズは莫大な人気を博した。シャーロック・ホームズは結局、56の短編と4つの長編に登場した。最終作『最後の挨拶』で引退した事になっている。エドガー・アラン・ポーとともに現代の推理小説の生みの親とされている。










●晩年考

 晩年は、第一次世界大戦での息子キングスリーの死もあってか、心霊学に傾倒し英国心霊現象研究協会会員となるが、科学的すぎるとして脱退。交霊会や心霊学の講演、それに関する執筆などを行ない、「心霊主義の聖パウロ」の異名を取った。そして、コティングリー妖精事件(イギリスのブラッドフォード近くのコティングリー村に住む2人の従姉妹フランシス・グリフィスとエルシー・ライトが撮ったという妖精の写真の真偽をめぐって起きた論争や騒動のことを言う。この写真は2人による捏造であった。多くの人が妖精の実在する証拠としてこの写真を見た。アーサー・コナン・ドイルもいた。)において大失態を演じてしまった。1930年7月7日朝7時半、妻に「この地上で最も優秀な看護婦へ、と刻んだ勲章をお前のために作るべきだと思う」と言った。これが最後の言葉。そして8時半、死後世界を信じて安らかに死んでいった。





「シャーロック・ホームズの冒険完全版」DVD-BOX(ハピネット)



 ★あまり知られていないが世界最初のボディビル・コンテストに、彼は審査員の一人として参加したという。シャーロック・ホームズシリーズの功績とは無関係に「サー」の称号も与えられている。・・・ほほぅ!



2025年03月08日

松平定信

松平定信


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松平定信(1759~1829)

○略歴
 松平 定信(まつだいら さだのぶ)は、江戸時代の大名、政治家。陸奥国白河藩第3代藩主。江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗の孫に当たる。定綱系久松松平家第9代当主。幼少期から聡明で知られており、田安家を継いだ兄・徳川治察が病弱かつ凡庸だったため、一時期は田安家の後継者、そしていずれは第10代将軍・徳川家治の後継を目されていたとされる。しかし、田沼意次による田沼政治が行われていた当時から、田沼政治を「賄賂政治」として批判したため存在を疎まれており、田沼の権勢を恐れた一橋家当主・一橋治済によって、安永3年(1774年)に久松松平家の庶流で陸奥国白河藩第2代藩主・松平定邦の養子とされてしまった。一時期は将軍世子とまで言われた定信は、このことにより田沼意次を激しく憎み、後に田沼暗殺を謀ったとまで言われる一方で、自らも幕閣入りを狙って、田沼に賄賂を贈っていたことは、有名な逸話・伝説である。白河藩主に就任したのは、天明の大飢饉の最中である天明3年(1783年)であるが、それ以前から養父・松平定邦に代わって藩政を代行していたと言われている。定信は天明の大飢饉で苦しむ領民を救うため、自らが率先して倹約に努め、さらに領民に対する食料救済措置を迅速に行なったため、白河藩で天明の大飢饉による餓死者は出なかったと言われている。藩士の子弟のための藩校立教館と共に、庶民のための郷校敷教舎も設置し、日本最古の公園である南湖公園を造り、庶民に開放した。天明6年(1786年)に徳川家治が死去して田沼意次が失脚した後の天明7年(1787年)、徳川御三家の推挙を受けて、幼少だった第11代将軍・徳川家斉のもとで老中首座・将軍輔佐となる。そして幕閣から旧田沼系を一掃粛清し、祖父・徳川吉宗の享保の改革を手本に寛政の改革を行い、幕政再建を目指した。しかし、将軍・徳川家斉と対立し、寛政5年(1793年)に海防のために出張中に辞職を命じられた。定信引退後、寛政の改革における政治理念は、幕末期までの幕政の基本として堅持されることとなった。









●晩年考
 老中失脚後は、馬産を奨励するなどして白河藩の財政を潤わせた。文化9年(1812年)、家督を長男の定永に譲って隠居したが、なおも藩政の実権は掌握していた。文政12年(1829年)5月13日に死去した。享年72。




白河の関跡



 ★福島県白河市の特産物「白河だるま」や、「白河そば」は定信が作らせたものと言われているとか。奥州三関の一つに数えられる「白河の関」も有名ですねぇ。白河関にちなみ東北地方および北海道をまとめて「白河以北」と称する場合がある。宮城県の地方紙「河北新報」の名は、これに由来する。・・・ほぉ~っ!!



2025年03月07日

司馬江漢

司馬江漢


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司馬江漢(1747~1818)

○略歴

 司馬江漢(しば こうかん)は、江戸時代の絵師、蘭学者。浮世絵師の鈴木春重(すずき はるしげ)は同一人物。本名は安藤峻。生まれつき絵を好み、宝暦11年(1761年)、15歳の時父の死を切っ掛けに、表絵師の駿河台狩野派の狩野洞春(美信)に学ぶ。しかし次第に狩野派の画法に飽きたらなくなり、明和半ば頃おそらく平賀源内の紹介で宋紫石の門に入る。ここで南蘋派の画法を吸収しつつ、紫石と交流のあった鈴木春信にも学んで浮世絵を描いた。ただし、初めに狩野派を学んだのは確かだが、師事した順番は諸説あってはっきりしない。後に洋風画を描くに至った。源内と接点があり、彼を通じて前野良沢や秋田の小田野直武(1746年 - 1785年)に師事したとも言われている。日本における洋風画の開拓者としては、直武とともに重要な画家で、直武の作品が、遠近法・明暗法などの西洋画法をとりいれつつ、画材は伝統的な絵具と墨とを使用していたのに対し、江漢は荏胡麻の油を使用した油彩画を描いたことで特筆される。江漢は、西洋画法と油彩の技法を駆使して富士などの日本的な風景を描き、それを各地の社寺に奉納することによって、洋風画の普及に貢献した。日本最初の銅版画(エッチング)家でもあり、天明3年(1783年)、その制作に成功した。安藤広重の名作「東海道五十三次」のオリジナルを描いたという説がある。










●晩年考

 晩年人付き合いが煩わしくなり、文化10年(1813年)自分の死亡通知を知人達に送り逼塞していた。どうしても外出せねばならなくなり、案の定知人と遭遇するや返事もせず逃走するもごまかしきれず、「死人は声を出さぬ」と答えた(『石亭画談』)。文政元年(1818年)10月21日、死去。





1792年に司馬江漢が発行した「地球全図」




寒柳水禽図 (パワーズコレクション) 絹本油彩 寛永初期



 ★初期には鈴木春重名で浮世絵師として活動していた。春信に師事して、版下絵を描いていたとも言われる・・・。明和7年(1770年)に没した鈴木春信の贋作絵師だったらしい。・・・贋作でもいいから、どこかの古物店にでも紛れ込んでいないかなぁ!



2025年03月06日

本居宣長

本居宣長


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本居宣長(1730~1801)

○略歴

 本居 宣長(もとおり のりなが)は、江戸時代日本の国学者・文献学者・医師。名は栄貞。通称は、はじめ弥四郎、のち健蔵。号は芝蘭、瞬庵、春庵(しゅんあん)、自宅の鈴屋にて門人を集め講義をしたことから鈴屋大人(すずのやのうし)と呼ばれた。伊勢国松坂(現在の三重県松阪市)の木綿商である小津家の次男として生まれた。少年時代から習字を習い、漢籍も学んだ。そして、執筆もするようになった。16歳の時(寛延元年(1748年))伊勢山田の今井田家の養子となり紙商売を始める。しかし3年後に離縁して松阪に帰った。宝暦2年(1752年)商売の勉強の為に上京し、堀景山(ほりけいざん)に入門した。当時の江戸までの道中の地図資料のいい加減なところから、「城下船津名所遺跡其方角を改め在所を分明にし道中の行程駅をみさいに是を記」すとして「山川海島悉く図する」資料集の『大日本天下四海画図』を起筆した。また宝暦7年(1758年)に江戸より帰郷し医者となった。宝暦13年(1763年)、伊勢神宮参宮のために松阪を来訪した賀茂真淵に初見した。かねてから志していた古事記の注釈について、指導を願い、その時に入門を希望し、その年の終わり頃に入門を許可された。真淵は、万葉仮名に慣れるため、『万葉集』の注釈から始めた方が良いという旨の教授し、以後、真淵に触発されて「古事記」の本格的な研究に進んだ。当時、既に解読不能に陥っていた「古事記」の解読に成功し、『古事記伝』を著した。紀州徳川家に「玉くしげ別本」の中で寛刑主義をすすめた。










●晩年考

 60歳の時、名古屋・京都・和歌山・大阪・美濃などの各地に旅行に出かけ、旅先で多くの人と交流し、また、各地にいる門人を励ましたりもする良い機会となった。さらに死後、弟子を自認し、その思想を継承した平田篤胤らがいる。門人も数多く、特に、天明年間 (1781~1789) の末頃から増加する。天明8年 (1788) 末のまでの門人の合計は164人であるが、その後増加し、宣長が1801年11月5日(享和元年9月29日)死去したときには487人に達していた(伊勢国の門人が200人、尾張国やその他の地方にも存在)。63歳で紀州徳川家(55万5千石)に仕官(但し松坂住み)、資格は医師ながらもっぱら古典講釈をおこなう。一時は紀伊藩に仕えたが生涯市井の学者として過ごした。遺言に自分の墓のデザインを示した。昭和34年(1959年)に松阪市内を見渡す小高い山(生前の宣長が好んだ場所とされる)へ移され、さらに平成11年(1999年)には遺言のデザインに沿った「本居宣長奥津墓(城)」が建造された。





『古事記伝』再稿本(本居宣長記念館蔵)



本居宣長旧宅(三重県松阪市殿町)内部



 ★宣長は、12歳から72歳で亡くなるまでこの家(旧宅)で暮らし、2階の書斎を鈴屋(すずのや)と名づけた。53歳のとき2階の物置を改造して新しい書斎を作った。鈴を愛好した宣長は書斎の床の間の柱に掛鈴を吊り下げ、執筆活動の息抜きにそれを鳴らして音色を楽しんでいたという。・・・風流を好む方でもあったのですねぇ!



2025年03月05日

近松門左衛門

近松門左衛門


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近松門左衛門(1653~1725)

○略歴

 近松 門左衛門(ちかまつ もんざえもん)は江戸時代前期の元禄期に活躍した人形浄瑠璃と歌舞伎の作者。本名は杉森 信盛。幼名は次郎吉。生まれは越前国と言われる(肥前国唐津、淀藩説など諸説がある)。父・信義が浪人し、門左衛門は共に京都へと移り住む。ここから先は、伝記が途絶えるが、延宝、天和頃より浄瑠璃の『宇治加賀掾』や歌舞伎の坂田藤十郎等のための作品を書いた。天和3年(1683年)、『曾我兄弟の仇討ち』の後日談を描いた『世継曾我』(よつぎそが)が宇治座で上演され、翌年竹本義太夫が竹本座を作ってこれを演じると大好評を受け、門左衛門の浄瑠璃作者としての地位が確立される。中途で歌舞伎狂言作者に転向したが、再度浄瑠璃に戻った。出世景清は近世浄瑠璃の始まりといわれる。100作以上の浄瑠璃を書いたが、そのうち約20曲が世話物(町人社会の義理や人情をテーマとした作品)、残りが時代物であった。当時人気があったのは時代物、特に『国性爺合戦』であり、『曽根崎心中』などは昭和になるまで再演されなかった。同時期に紀海音も門左衛門と同じ題材に基づいた心中浄瑠璃を書いており、当時これに触発されて心中が流行したのは事実であるが、世話物中心に門左衛門の浄瑠璃を捉えるのは近代以後の風潮に過ぎない。また、門左衛門は「虚実皮膜論」という芸術論を持ち、芸の面白さは虚と実との皮膜にあると唱えたといわれるが、これは穂積以貫が記録した『難波土産』に門左衛門の語として書かれているだけであり、門左衛門自身が書き残した芸能論はない。その他の代表作に『心中天網島』、『女殺油地獄』 など。










●晩年考

 享保8年(1724年)に、幕府は心中物の上演の一切を禁止した。心中物は大変庶民の共感を呼び、人気を博したが、こうした作品の真似をして心中をする者が続出するようになったためである。その翌年の享保9年(1725年)11月、門左衛門は72歳で没する。忌日の11月22日(明治以降は新暦で行われる)は近松忌、巣林子忌、または巣林忌と呼ばれ、冬の季語である。辞世の歌「残れとは 思ふも愚か 埋み火の 消ぬ間徒なる 朽木書きして」。 菩提寺は広済寺 (兵庫県尼崎市、日蓮宗)。





近松門左衛門像(尼崎市近松公園)



 ★門左衛門と義太夫って切っても切れない関係にあったのですねぇ。・・・でも、歌舞伎の坂田藤十郎のために描いた作品、『傾城仏の原』『けいせい壬生大念仏』『仏母摩耶山開帳』などってよくわかりませんねぇ。



2025年03月04日

オーソン・ウェルズ

オーソン・ウェルズ


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オーソン・ウェルズ(1915~1985)


○略歴

 オーソン・ウェルズ(George Orson Welles)はハリウッドを代表する映画監督、脚本家、俳優である。ウィスコンシン州ケノーシャで生まれ。子供時代の彼は詩、漫画、演劇に才能を発揮する天才児であったが、傍若無人な性格で周りとの人間関係に問題があった。イリノイ州ウッドストックのトッド校では、キリスト受難劇やシェークスピアの劇を自ら演じた。肥満児であった。1931年、16歳でアイルランドのダブリンにある有名なゲート劇場で脇役として舞台デビュー。1934年にはアメリカに戻ってラジオドラマのディレクター兼俳優となっており、この年、女優で社交界の名士のヴァージニア・ニコルソンと結婚(1940年に離婚)。世界恐慌後の大不況が続く1936年、わずか21歳でニューヨーク市ハーレム地区でのアフリカ系アメリカ人の俳優・スタッフたちとの演劇制作事業に、演出家として赴任した。敬愛するシェークスピアの『マクベス』をプロデュースし、大ヒットとなった。1938年夏から、マーキュリー劇場はアメリカCBSラジオにも出演し、小説や演劇を斬新な形式で短編ドラマ化した番組を毎週演ずることになったが大衆の反応は今ひとつだった。しかし10月30日にH.G.ウェルズのSF小説『宇宙戦争』の翻案、『火星人襲来』を放送する際、舞台を現代アメリカに変え、ヒンデンブルク号炎上の時を思い出させるような臨時ニュースで始め、以後もウェルズ演じる目撃者による回想を元にしたドキュメンタリー形式のドラマにするなど、前例のない構成や演出と迫真の演技で放送を行った。その結果、聴取者に本物のニュースと間違われ、パニックを引き起こした。この事件でウェルズは全米に名を知られるようになった。1941年、『市民ケーン』(監督)、1949年、『第三の男』(出演)などの作品がある。










●晩年考

 映画製作への情熱は生涯失わなかったが、多額の製作費を集めるのにはいつも苦労しており、B級映画への出演を続けてやりくりしていた。日本での英会話教材「イングリッシュ・アドベンチャー」のナレーションなど、チープな役どころとも生涯縁が切れなかった。1985年10月10日、肥満・糖尿病による心臓発作で、70年5ヶ月と4日の生涯を閉じた。





映画『第三の男』DVD



『第三の男』のラストシーン



 ★『第三の男』のラストシーンは映画史に残る名場面として非常に有名だが、これは当初の予定にはなかったものであるらしい。プロデューサーの計らいで現在に残る形に変更されたと。・・・生まれる前の映画かぁ・・・!脚本では通俗的なハッピーエンドとなるはずであったんだって?どんなエンドか見てみるか!?



2025年03月03日

大平正芳

大平正芳


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大平正芳(1910~1980)

○略歴
 大平 正芳(おおひら まさよし)は、日本の大蔵官僚、政治家。第68・69代内閣総理大臣。正二位大勲位。香川県三豊郡和田村(現観音寺市)の農家の三男として生まれる。1928年(昭和3年)4月、高松高等商業学校(現香川大学経済学部)に進学。1929年暮れに観音寺教会で洗礼を受けた。1933年(昭和8年)、東京商科大学(現一橋大学)に進学した。大学在学中も引き続きキリスト教の活動にも精力的に参加し、YMCA活動に従事した。1936年、大蔵省入省、預金部に配属。以後、税務畑を中心に役職を歴任。1949年(昭和24年)、池田勇人大蔵大臣の秘書官となり、1952年まで務める。1952年(昭和27年)、大蔵省を退官し自由党公認で衆議院議員に立候補し当選。1960年(昭和35年)に第1次池田内閣で官房長官に、第2次池田再改造内閣で外務大臣に就任。以後、通産大臣、外務大臣、大蔵大臣などを歴任。1978年12月7日に第68代内閣総理大臣に就任した。演説や答弁の際に「あー」、「うー」と前置きをする事から「アーウー宰相」の異名を取る。 また、その風貌から「讃岐の鈍牛」とも呼ばれた。









●晩年考
 1979年衆院選では大平の増税発言も響いて自民党が過半数を割り込み、首班指名選挙では福田の一騎打ちとなったが、これを下して第2次大平内閣が発足した。しかし、自民党は事実上の分裂状態となり、1980年(昭和55年)5月16日、社会党から内閣不信任決議案が提出され、可決されると衆議院を解散(ハプニング解散)、総選挙を参議院選挙の日に合せて行うという秘策・衆参同日選挙で政局を乗り切ろうとした。総選挙が公示された5月30日、大平は第一声を挙げた新宿での街頭演説の直後から気分が悪くなり、翌日過労と不整脈で虎の門病院に入院した。大平は年明け以降、休日が3月22日と翌23日の私邸での休養だけで多くの外国に訪問するなどの激務、70歳という高齢、心臓に不安があり、以前にもニトログリセリンを服用することがあるなど肉体は限界に来ていた。なお、ニトログリセリンの服用は公表されていなかった。6月12日午前5時過ぎ容態が急変し、志げ子夫人以下家族たち、伊東正義、田中六助自民党副幹事長に看取られながら5時54分死去した。死因は心筋梗塞による心不全。現職総理の死去という想定外の事態は状況を一変させた。自民党の主流派と反主流派は弔い選挙となって挙党態勢に向かい、有権者の多くも同情票を自民党候補に投じた結果、自民党は衆参両院で安定多数を大きく上回る議席を得て大勝した。 大平の選挙区であった香川2区も娘婿の森田一が補充立候補で急遽出馬し、当選を果たした。





銅像(香川県観音寺市)



 ★生い立ちから亡くなるまで、ドラマチックな生き方の方でしたねぇ。朴訥な印象の一方で、「アー、ウー」とは言うものの、言葉を大切にし、知性を重んじる政治家であったとか。・・・合掌。






 参考:Wikipedia










2025年03月02日

サトウ・ハチロー

サトウ・ハチロー


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サトウ・ハチロー(1903~1973)

○略歴

 サトウ・ハチローは詩人、童謡作詞家、作家。本名は佐藤 八郎(さとう はちろう)。別名に、陸奥速男、山野三郎、玉川映二、星野貞志、清水操六、並木せんざなど。作家の佐藤紅緑の長男として、東京市牛込区市谷薬王寺前町(現在の東京都新宿区市谷薬王寺町)に生まれる。中学に入学後、父が舞台女優の三笠万里子と同棲するようになり離婚、父への反発から旧制早稲田中学校(現早稲田中学校・高等学校)を落第、退校、勘当、留置場入りを重ねる。感化院のあった小笠原島で父の弟子であった詩人の福士幸次郎と生活を共にし、影響を受ける。1919年(大正8年)福士の紹介により西條八十に弟子入りして童謡を作り始め、数々の雑誌や読売新聞などに掲載される。その一方で今東光などが参加した同人誌『文党』や、草野心平や宮沢賢治などが参加した同人誌『銅鑼』に参加する。1926年(大正15年)には処女詩集『爪色の雨』を出版。1930年代からは童謡や詩だけにとどまらず、小説や映画の主題歌なども盛んに執筆する。1938年(昭和13年)には日本コロムビアと専属契約を交わす。第二次世界大戦が激しくなる中でも妻子を千葉県に疎開させて、自身は東京に残って仕事を続けた。1945年(昭和20年)第二次世界大戦後初めてとなる映画『そよかぜ』の挿入歌である「リンゴの唄」を作詞する。並木路子の歌により大流行し、戦後の日本を象徴する歌となった。1946年(昭和21年)、NHKのラジオ番組『話の泉』のレギュラーとなり、1964年(昭和39年)まで出演した。1953年(昭和28年)童謡集『叱られ坊主』を出版し、翌年これにより第4回芸術選奨文部大臣賞を受賞。以後は童謡の詩作に専念し、1955年(昭和30年)「ちいさい秋みつけた」を作詞、1962年(昭和37年)、レコード大賞童謡賞を受賞。1963年(昭和38年)、NHK放送文化賞受賞。1966年(昭和41年)、紫綬褒章受章。作家の佐藤愛子は異母妹にあたる。










●晩年考

 1967年(昭和42年)に就任した日本作詞家協会会長、1969年(昭和44年)に就任した日本童謡協会会長、1971年(昭和46年)に就任した日本音楽著作権協会会長の職は、永眠するまで続けることとなった。勲三等瑞宝章を受章した1973年(昭和48年)に、心臓発作により死去。





NHK 「新・話の泉」



 ★自分の詞の作曲に、必ず中田喜直を指名したのは有名である。・・・う~んっ、「ちいさい秋みつけた」もこのコンビか!また、父の故郷・青森には一度しか訪れていない一方、母の故郷・仙台への訪問は50回を越えているとか。



2025年03月01日

大宅壮一

大宅壮一


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大宅壮一(1900~1970)

○略歴

 大宅 壮一(おおや そういち)は、日本のジャーナリスト、ノンフィクション作家。毒舌の社会評論家として有名。大阪府三島郡富田村(現高槻市)の醤油屋に生まれる。18歳の時、米騒動に際して民衆蜂起を支持する演説をおこない、旧制茨木中学(現大阪府立茨木高等学校)を放校処分となる。第三高等学校に入学・卒業し、東京帝国大学文学部社会学科中退。新潮社で『社会問題講座』シリーズを企画編集して成功、また雑誌『新潮』に評論を発表してジャーナリストとしてデビュー。1933年にはゴシップ・スキャンダル雑誌の『人物評論』を自ら編集・刊行。1937年の南京攻略戦では現地を取材。イデオロギー的な表現を嫌い、「無思想人」と自称していた。ただし宗教と偽善者の排撃は終生止めなかった。宗教関係の文章では「出口王仁三郎訪問記」(『文学時代』新潮社1931.01)「出口王仁三郎と大本弾圧事件」(『中央公論』〔80巻4号〕中央公論社1965.04)などがある。中国で発生した文化大革命については幼い紅衛兵が支配者に利用されて暴れている様子を「ジャリタレ革命」と表現している。「駅弁大学」「恐妻」「一億総白痴化」「口コミ」「太陽族」「緑の待合」「男の顔は履歴書である」「肥後猛婦」などの造語を生んでもいる。妻は大宅壮一文庫の理事長を務めた大宅昌、三女はジャーナリストの大宅映子。










●晩年考

 1967年1月に大宅壮一東京マスコミ塾(略称・大宅マスコミ塾)を開塾する。1970年11月22日、心不全のため東京女子医大病院で死去。葬儀は同郷の生まれの川端康成が弔辞を読み、仕事仲間の池島信平が主に取りまとめた。逝去で幕が閉じられるまで、8期480名の塾生を送り出した。没年である1970年から、彼の名を被せた「大宅壮一ノンフィクション賞」が毎年気鋭の作家に与えられている。彼の蔵書を元につくられた「大宅壮一文庫」は、雑誌の図書館として知られている。また、『大宅壮一全集』が全30巻で出されている(蒼洋社 1982年完結)。選集では『無思想の思想』(文藝春秋、1993年新版)がある。





大宅壮一文庫世田谷本館(東京都世田谷区八幡山)



 ★対談をしたことのある三島由紀夫が三島事件で割腹自決する3日前に病没したので、後々まで多くの人々から「生きていれば三島事件をどう論評したか」と惜しまれた。・・・う~ん、「死人に口なし」か!?娘の映子は、「ジャーナリストとして光栄なこと」とコメントしていると。



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仰木彬 by (04/19)
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