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2025年02月18日

田沼意次

田沼意次


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田沼意次(1719~1788)

○略歴

 田沼 意次(たぬま おきつぐ)は、江戸時代中期の武士・大名。遠江相良藩の初代藩主である。相良藩田沼家初代。紀州藩の足軽田沼意行の長男として江戸の田安屋敷で生まれる。意次は父が当時としては老齢になってから生まれた息子だった。幼名は龍助。父は、第8代将軍の徳川吉宗に登用され小身旗本となった。意次は第9代将軍となる徳川家重の西丸小姓として抜擢され、享保20年(1735年)に父の遺跡600石を継ぐ。宝暦11年(1761年)、家重が死去した後も、世子の第10代将軍徳川家治の信任は厚く、破竹の勢いで昇進し、明和4年(1767年)にはさらに5,000石加増、御用人から側用人へと出世し従四位下に進み2万石の相良城主となって、明和6年(1769年)には侍従にあがり老中格になる。安永元年(1772年)、相良藩5万7,000石の大名に取り立てられ、老中を兼任し、前後10回の加増で僅か600石の旗本から5万7,000石の大名にまで昇進し、側用人から老中になった初めての人物となった。数々の幕政改革を手がけ、田沼時代と呼ばれる権勢を握る。










●晩年考

 社会の初期資本主義化によって、町人・役人の生活が金銭中心のものとなり、贈収賄が横行し、次第に田沼政治への批判が集まった。天明6年(1786年)8月25日、将軍家治が死去。死の直前から「家治の勘気を被った」としてその周辺から遠ざけられていた意次は、将軍の死が秘せられていた間(高貴な人の死は一定期間秘せられるのが通例)に失脚する。老中を辞任させられ、雁間詰に降格。閏10月5日には家治時代の加増分の2万石を没収され、さらに大坂にある蔵屋敷の財産の没収と江戸屋敷の明け渡しも命じられた。その後、意次は蟄居を命じられ、二度目の減封を受ける。相良城(さがらじょう)は打ち壊し、城内に備蓄されていた金穀は没収と徹底的に処罰された。長男の意知は既に死去していて(天明4年(1784年)に江戸城内で佐野政言に暗殺されている)、他の三人の子供は全て養子に出されていたため、孫の龍助が陸奥1万石に減転封のうえで家督を継ぐことを許された。天明8年(1788年)6月24日、死去。享年70。





第10代将軍「徳川家治」



 ★軽輩から側用人として権力をのぼりつめた柳沢吉保や間部詮房が、辞任のみで処罰は無く家禄も維持し続けたことに比べると最も苛烈な末路でしたねぇ。・・・都市部の治安の悪化、一揆・打ちこわしの激化などを招き、さらに贈収賄疑惑があったのだから、仕方ないか!?



2025年02月17日

千姫

千姫


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千姫(1597~1666)


○略歴

 千姫(せんひめ)は、安土桃山時代から江戸時代の女性で、豊臣秀頼・本多忠刻の正室である。父は徳川秀忠、母は継室の江。号は天樹院。慶長2年(1597年)5月26日、秀忠と江の長女として、山城国伏見城内の徳川屋敷で産まれる。 慶長8年(1603年)に7歳で秀頼と結婚し、乳母の刑部卿局とともに大坂城に入る。秀頼とは従兄妹にあたるが、たいへん夫婦仲睦まじかったという。慶長20年(1615年)19歳の時、大坂夏の陣では、祖父である徳川家康の命により落城する大坂城から救出される。その後、秀頼と側室の間の娘奈阿姫が処刑されそうになった時に千姫は彼女を自らの養女にして命を助ける。元和2年(1616年)、桑名藩主本多忠政の嫡男・本多忠刻と結婚。夫・忠刻とも夫婦仲睦まじく、翌元和4年(1618年)には長女・勝姫、元和5年(1619年)には長男・幸千代が生まれるが、元和7年(1621年)に幸千代が3歳で没したのを始め、その後は流産を繰り返すなど子宝に恵まれず(これは秀頼の祟りだと言われた)、寛永3年(1626年)には夫・忠刻、姑・熊姫、実母・江が次々と没するなど不幸が続き、本多家を娘・勝姫と共に出て江戸城に入り、出家して天樹院と号す。出家後は娘と二人で竹橋の邸で暮らす。寛永5年(1628年)に勝姫は池田光政の元へ嫁ぎ、一人暮らしとなる。










●晩年考

 寛永20年(1643年)、鎌倉の東慶寺の伽藍を再建する。正保元年(1644年)には迷信を避ける為に江戸城から移った3代将軍家光の側室・夏(後の順性院)とその後生まれた家光の次男・綱重と暮らすようになる。このことで大奥で大きな権力を持つようになったとされる。明暦3年(1657年)の明暦の大火で竹橋の邸が焼失した時には、紀州徳川家の屋敷に一時寄留する。寛文6年(1666年)、江戸で死去。享年70。墓所は傳通院と茨城県常総市の天樹院弘経寺にあり、また徳川家(松平家)が三河時代から帰依していた浄土宗の総本山である京都の知恩院(華頂山知恩教院大谷寺)に定例により分骨され宝塔に納められた。





「千姫折鶴祭」 (桑名市)



知恩院千姫の宝塔



 ★千姫は祖母・市の聡明さと美貌を受け継いだ、たいへん美しい姫君であったという。また、祖父・家康や父・秀忠からたいへん可愛がられたといいます。・・・桑名市の千姫折鶴祭では、選考会で千姫役が決定されるというから、一度出かけてみよう・・・かな!?



2025年02月16日

新田次郎

新田次郎


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新田次郎(1912~1980)

○略歴
 新田 次郎(にった じろう)は、日本の小説家、気象学者。本名:藤原 寛人(ふじわら ひろと)。長野県諏訪郡上諏訪町(現:諏訪市)角間新田(かくましんでん)に生まれる。ペンネームは“新田の次男坊”から(「しんでん」を「にった」と読み替え)。旧制諏訪中学校(現在の長野県諏訪清陵高等学校)・無線電信講習所本科(現在の電気通信大学の母体)・電機学校(現在の東京電機大学の母体)卒業。妻ていは作家。次男正彦は数学者・エッセイスト。長女の咲子も、家族を書いた小説を発表している。代表作に『八甲田山死の彷徨』、『アラスカ物語』、『富士山頂』、『武田信玄 』、『新田義貞』、『アイガー北壁・気象遭難』、『劒岳 点の記』などがある。登山好きの皇太子徳仁親王が愛読する作家として知られる。気象職員として最も知られている仕事に富士山気象レーダー建設がある。









●晩年考
 小説『武田信玄』に続き、続編である『武田勝頼』、さらには続々編である『大久保長安』を執筆するほどの入れ込みようであったが、その執筆中に突然の心筋梗塞で67歳で亡くなった。夫人のていも、自分の健康を顧みないほどの執筆態度をかなり心配していたが、不幸にも予感が的中した事になった。生前、『俺は死んだら諏訪に帰る』と言っていたといい、諏訪市の正願寺の墓石には「春風や 次郎の夢の まだつづく」と刻んである。「自分が死んだらこの句を刻んで欲しい」と、妻に言い残していたという。




新田次郎の墓



 ★高山気象研究分野では、気象測量機の第一人者で、無線ロボット雨量計で運輸大臣賞を受賞したこともあるらしい。・・・皆さん、映画『劒岳 点の記』は見ましたか?・・・当時の苦労がしのばれます。



2025年02月15日

田中絹代

田中絹代


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田中絹代(1909~1977)

○略歴

 田中 絹代(たなか きぬよ)は、大正・昭和期の日本の女優・映画監督。黎明期から日本映画界を支えた大スターであり、日本映画史を代表する大女優の一人。山口県下関市丸山町に四男四女の末娘として生まれる。呉服商などを営む傍ら20軒ほども貸し家を持つ裕福な家であったが、絹代が3歳になって間もない1912年、父が病死。その後母は藤表製造業を営んでいたが、使用人に有り金を持ち逃げされるなどの災難に遭い、一家の生活は徐々に暗転。1916年、下関市立王江尋常小学校に入学、経済的困窮で充分な通学ができない状況だった。幼少時より、琵琶を習い、1919年に、大阪楽天地の琵琶少女歌劇の舞台に立つ。兄が松竹大阪支社で給仕として働いていた関係で、1924年に松竹下加茂撮影所に入所し、野村芳亭監督の『元禄女』でデビュー。まもなく、当時新進監督だった清水宏に『村の牧場』の主役に抜擢。松竹蒲田撮影所に移った後の1927年、五所平之助監督の『恥しい夢』が好評を博し、その後、当時の人気スター鈴木傳明とのコンビで売り出し、松竹のドル箱スターとなり、会社の幹部に昇進する。また、五所監督による日本初のトーキー映画、『マダムと女房』に主演した。特に、上原謙とのコンビで1938年に公開された『愛染かつら』は空前の大ヒットとなり、シリーズ化された。1940年には、溝口健二監督の『浪花女』(共演:高田浩吉)に出演し、終戦後も、同監督の『女優須磨子の恋』や小津安二郎監督の『風の中の牝鶏』などに出演し、高い評価を得、1947年、1948年と連続して毎日映画コンクール女優演技賞を連続受賞する。1952年に溝口監督が絹代のために温めてきた企画である『西鶴一代女』に主演する。この作品はヴェネツィア国際映画祭で国際賞を受賞し、女優として完全復活を果たす。翌1953年には同じコンビで『雨月物語』を製作、ヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞を受賞する。映画監督業への進出を志し、成瀬巳喜男監督の『あにいもうと』(1953年)には「監督見習い」として加わり、同年『恋文』を監督。日本で二人目の女性監督の誕生であった。その後も、木下惠介監督の『楢山節考』、小津監督の『彼岸花』、京マチ子主演の『流転の王妃』の演出など、常に映画界をリードする活躍。出演映画において世界三大映画祭(カンヌ・ヴェネツィア・ベルリン)の全てを受賞し、三冠を達成。また、日本で二人目の女性映画監督でもある。










●晩年考

 1970年の『樅ノ木は残った』に出演以降、テレビドラマにも活躍の場を広げ、『前略おふくろ様』の主人公の母親役やNHK朝の連続テレビ小説『雲のじゅうたん』のナレーションなどで親しまれた。同年、紫綬褒章受章。1974年に主演した、熊井啓監督の映画『サンダカン八番娼館 望郷』の円熟した演技は世界的に高く評価され、ベルリン国際映画祭銀熊賞、芸術選奨文部大臣賞を受賞した。1977年3月21日、肺癌が転移した脳腫瘍のため67歳で死去。遺作はテレビドラマ『前略おふくろ様』。最晩年、借金を抱えて困窮していた田中の面倒は唯一の親戚である又従弟小林正樹監督が看ていた。病床についた田中は「目が見えなくなっても、やれる役があるだろうか」と見舞いに来た者に尋ねたという。死後、勲三等瑞宝章が授与された。同年3月31日、映画放送人葬が行われ、5000人が参列した。





DVD『愛染かつら』総集編
(1938年、松竹、野村浩将監督、田中絹代・上原謙主演、NHKエンタープライズ)




映画『楢山節考』
(1958年、松竹、木下惠介監督、田中絹代主演)



 ★「恋多き女性」としても有名で、清水宏監督との同棲生活と破局、慶應義塾大学野球部の花形スターだった水原茂とのロマンスなどは大きな話題となった。・・・その波乱に富んだ一生は、1987年に市川崑監督、吉永小百合主演で『映画女優』というタイトルで映画化されたらしい。・・・知ってる??



2025年02月14日

イングリッド・バーグマン

イングリッド・バーグマン


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イングリッド・バーグマン(1915~1982)

○略歴

 イングリッド・バーグマン(Ingrid Bergman)は、ハリウッドで活躍したスウェーデン出身の女優。スウェーデンではベルイマンと発音される。ストックホルム生まれ。3歳の時に母親が、13歳の時には父親が亡くなり、叔母の家に引き取られる。17歳の時にスウェーデンの王立演技学校(Dramatens elevskola)のオーディションに合格し演技を学ぶようになるが、すぐにエキストラや端役として映画に出演するようになる。1936年には『間奏曲』に主演。1937年(21歳のとき)、歯科医・医師のペッテル・リンドストロームと結婚し、翌年に娘ピア・リンドストローム(女優)を出産する。その後、『別離』(1939年)に主演、1942年の『カサブランカ』で一躍スターになり、1944年の『ガス燈』でアカデミー主演女優賞を獲得した。女優として頂点を極めたかに見えたが、イタリアの巨匠ロベルト・ロッセリーニ監督の作品を見て感動し、すぐさま手紙を送って、仕事と家庭を捨ててロッセリーニの元に走り、彼の映画に出演する。その結果、当時の世論から不倫を激しく非難され、ハリウッドから実質的に追放された。娘のピアとも何年も会わず、親子の確執があったが、後に和解したと伝えられている。やがて世論も和らぎ、1956年の『追想』に出演して、2度目のアカデミー主演女優賞を受賞。1974年の『オリエント急行殺人事件』では同助演女優賞を受賞し、生涯に3回オスカーを獲得している。ノーベル文学賞作家のヘミングウェイの著書で1930年代後半に起きたスペイン内戦を描いた『誰がために鐘は鳴る』の映画化(1943年)では、原作者が自ら主人公のマリア役としてバーグマンを指名した。スウェーデン語、ドイツ語、フランス語、英語、イタリア語に堪能だった。










●晩年考

 ロベルト・ロッセリーニと組んで製作された映画は興行的に失敗した。映画界から追放された後、夫婦の生活は経済的にも実質的にも破綻して、やがて夫婦は離婚に至った。結婚中に生まれた双子の娘のひとり、イザベラ・ロッセリーニは母をしのばせる女優である。そしてそのイザベラの娘エレトラ・ロッセリーニは、ランコムの代表モデルを母親から引き継いだ。1982年に癌のため、67歳で死去。生没同日だった。彼女の墓には「彼女は生の最後まで演技をした」と書かれている。AFI(アメリカ映画協会)選定の「最も偉大な女優50人」第4位。





『カサブランカ』(1942年、左はハンフリー・ボガート)



『誰がために鐘は鳴る』(1943年、左はゲーリー・クーパー)



バラ「イングリッド・バーグマン」(2000年世界バラ会議で「バラの殿堂」入り)



 ★身長が175cmあり(173cmともある)北欧女性としては、それほどでなくても当時の米国ではしばしばハリウッド男優とつりあいが取りにくい(さらに大きな骨格)サイズであったため、いくつかの有名な作品のシーンで可憐な女性を演出するため、ある種の“工夫”を施す必要があったという。・・・あまり大きくてもなぁ・・・。



2025年02月13日

セザンヌ

セザンヌ


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セザンヌ(1839~1906)

○略歴

 ポール・セザンヌ(Paul Ce'zanne)はフランスの画家。裕福なブルジョワ家庭の息子として南フランスのエクス=アン=プロヴァンスに生まれた。父の仕送りがあったおかげで、セザンヌは経済的な心配をせずに画業に専念できた。のちに自然主義文学の代表的作家となったエミール・ゾラと、エクスの中学で出会った。1859年、父の意向でエクス大学の法学部にしぶしぶ入学したが、結局大学を中退し、1861年4月にパリに出て、アカデミー・シュイスで絵の勉強をする。1865年頃に「カフェ・ゲルボワ」の常連たち(後の「印象派」グループ)と知り合い、とくに9歳年長のカミーユ・ピサロと親しくなった。1869年、後に妻となるオルタンス・フィケ(当時19歳)と知り合い後に同棲する。1872年にはポントワーズで、1873年にはオーヴェル=シュル=オワーズでピサロと共にイーゼルを並べて制作した。徐々に印象派の他のメンバーとの交流が少なくなり、制作場所もパリを離れ故郷のエクス=アン=プロヴァンスに戻した。1880年代には、規則的な筆触を用いて対象物を再構築するという独特の制作手法が現れ始めた。1886年、ゾラの小説『制作』が自分を中傷していると感じ、ゾラと絶交し、内縁の妻と正式に結婚。当初はモネやルノワール等と共に印象派のグループの一員として活動していたが、1880年代からグループを離れ、伝統的な絵画の約束事にとらわれない独自の絵画様式を探求した。セザンヌはモネら印象派の画家たちと同時代の人物だが、ポスト印象派の画家として紹介されることが多く、キュビスムをはじめとする20世紀の美術に多大な影響を与えたことから、しばしば「近代絵画の父」として言及される。後進への手紙の中で「自然を円筒、球、円錐として捉えなさい」と書き、この言葉がのちのキュビスムの画家たちに大きな影響を与えた。彼の肖像はユーロ導入前の最後の100フランス・フラン紙幣に、その作品と共に描かれていた。










●晩年考

 1895年、アンブロワーズ・ヴォラールの画廊で初個展を開き、一部の若い画家たちから注目され始めた。1900年にパリで開かれた万国博覧会の企画展である「フランス美術100年展」に他の印象派の画家たちと共に出品した。1904年から1906年までは、まだ創設されて間もなかったサロン・ドートンヌにも3年連続で出品した。1906年10月15日に野外で制作中に大雨に打たれ肺炎にかかり、同年10月22日(or10月23日)に死去した。





『オーヴェールの首吊りの家』(1873年、オルセー美術館)



『サント・ヴィクトワール山』(1904年)



 ★セザンヌは、ちょっとでも洋服が誰かに触れただけで、何度も何度もぬぐうなど異常なまでな潔癖症だったという。特に女性に。・・・でも、オルタンスはそうでなかったの?作品は時間をかけて何度も描き直されたというのもわかりそうな気がする。



2025年02月12日

ワシントン

ワシントン


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ワシントン(1732~1799)


○略歴

 ジョージ・ワシントン(George Washington)は、アメリカ合衆国の政治家、初代大統領である。ワシントンの一家はバージニア州で奴隷プランテーションを経営し、後には鉱山開発も手掛けた。青年期は測量を学び、 1748年には農園主としての経歴を積み始め、土地の測量にも参加した。1752年、長兄ローレンスが死去し、1754年にワシントンはバージニア市民軍の大佐に任命され、バージニア西部の一連の砦を構築した。1755年、ワシントンはフレンチ・インディアン戦争でオハイオ領土を取り戻すことを試みたイギリス軍のブラドック遠征に従軍した。1758年、ジョン・フォーブスの遠征隊に参加し、この時はデュケイン砦のフランス軍を排除することに成功した。この年遅くワシントンは軍隊の現役から退き、その後の16年間はバージニアの農園主および政治家として過ごした。1759年、ニューケント郡パマンキー川の南岸にあるホワイトハウス・プランテーションに住んでいる未亡人マーサと結婚した。ワシントンは裕福な未亡人と結婚してその資産を増し、社会的地位を上げた。1769年に高まった植民地の反抗で指導的な役割を担った。1775年、植民地軍総司令官に任命され、ニュージャージーを奪還した。1777年9月11日のブランディワインの戦いではワシントンが敗北し、フィラデルフィアを失った。1781年にアメリカ軍とフランス軍およびフランス艦隊が、イギリス軍に罠を仕掛け、勝利し、1783年のパリ条約によって、大英帝国はアメリカの独立を承認した。アメリカで最初の大統領選挙は1789年2月4日に行われ、選挙人投票で100%の票を得て当選、4月30日ニューヨークのフェデラル・ホールでアメリカ合衆国憲法に基づく大統領の就任宣誓式を行った。3期目の出馬は拒否し、大統領職は2期までという慣習的政策を作った。これは後に法制化された。身長が6フィート2インチ (188 cm)あったという。










●晩年考

 1797年3月に大統領職を辞任した後、ワシントンは解放感を抱いてマウントヴァーノンに帰った。その年は多くの時間を農園で過ごし、2,250平方フィート(75フィートx30フィート、200平米)の蒸留所を造った。1798年にフランスとの戦争の脅威に晒されていたアメリカ陸軍中将として最高司令官に再び指名された。ワシントンの任命は戦争が切迫していたフランスに対する警告であった。1799年12月12日、ワシントンは馬に乗って雪と後には霰と凍えるような雨の中を数時間見回りに過ごした。その夜は濡れた衣服を着替えもせずに食卓に座った。翌朝目覚めると悪寒と熱があった。化膿性扁桃腺炎という咽喉感染症に罹ったのである。これが急性の喉頭炎と肺炎に変わり、ワシントンは12月14日、自宅で67歳で死んだ。最後の言葉は「それはいい」だった。マウントヴァーノンの家族墓地に埋葬された。





フランスのパリ、ディエナ広場にあるワシントンの銅像



マウントヴァーノン



 ★自分の農園を経営するために奴隷がいたが、死ぬ時には317人がいたという。本人は「奴隷制度を嫌悪する」と言っていたらしいが、法律的には「妻の財産の奴隷」を売ることができず、自分が死んだ時に自分の奴隷を妻が解放するよう遺言を残したという。・・・奴隷に関しては、表と裏があったということですねぇ。






 参考:Wikipedia





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2025年02月11日

アダム・スミス

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アダム・スミス(1723~1790)

○略歴
 アダム・スミス(Adam Smith)は、スコットランド生まれのイギリス(グレートブリテン王国)の経済学者・哲学者である。1740年にオックスフォード大学に入学するが、1746年に退学。1748年からエディンバラで修辞学や純文学を教え始め、1750年頃、後に友人となる哲学者ヒュームと出会う。その後、1751年にグラスゴー大学で論理学教授、翌1752年に同大学の道徳哲学教授に就任する。アメリカ独立、チュルゴー失脚の年に発表された主著『国富論』(または『諸国民の富』とも。原題『諸国民の富の性質と原因の研究』An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations)は絶大な名誉をもたらし、イギリス政府はスミスの名誉職就任を打診したが、スミスは父と同じ税関吏の職を望み、1778年にエディンバラの関税委員に任命された。その他の著書は『道徳情操論』のみで、死ぬまでその改定増補に集中した。「経済学の父」と呼ばれる。








●晩年考
 1782年の母の死後は奇行が目立ち、税関職員の制服に身を包み、街を徘徊するようになる。1787年にはグラスゴー大学名誉学長に就任し、1790年にエディンバラで死亡した。享年67歳。収入の相当部分を慈善事業に捧げ、死の直前、草稿類をすべて焼却させたといわれる。




アダム・スミス著 「国富論」 4版



 ★アダム・スミスは若年性認知症だった!?・・・でも、名誉学長になれるの??



2025年02月10日

与謝蕪村

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与謝蕪村(1716~1784)

○略歴

 与謝 蕪村(よさ ぶそん、よさの ぶそん)は、江戸時代中期の日本の俳人、画家。本姓は谷口、あるいは谷。「蕪村」は号で、名は信章通称寅。「蕪村」とは中国の詩人陶淵明の詩「帰去来辞」に由来すると考えられている。俳号は蕪村以外に「宰鳥」、「夜半亭(二世)」があり、画号は「春星」、「謝寅(しゃいん)」など複数の名前を持つ。摂津国東成郡毛馬村(ひがしなりごおり けまむら)(大阪市都島区毛馬町)に生まれた。20歳の頃江戸に下り早野巴人(はやの はじん〔夜半亭宋阿(やはんてい そうあ)〕)に師事し俳諧を学ぶ。日本橋石町「時の鐘」辺の師の寓居に住まいした。このときは宰鳥と号していた。寛保2年(1742年)27歳の時、師が没したあと下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、松尾芭蕉に憧れてその足跡を辿り東北地方を周遊した。その際の手記を寛保4年(1744年)に雁宕の娘婿で下野国宇都宮(栃木県宇都宮市)の佐藤露鳩宅に居寓した際に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で初めて蕪村を号した。その後丹後、讃岐などを歴遊し42歳の頃京都に居を構えた。この頃与謝を名乗るようになる。45歳頃に結婚し一人娘くのを儲けた。島原(嶋原)角屋で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごした。松尾芭蕉、小林一茶と並び称される江戸俳諧の巨匠の一人であり、江戸俳諧中興の祖と言われる。









●晩年考

 京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明68歳の生涯を閉じた。死因は従来、重症下痢症とみられていたが、最近の調査で心筋梗塞であったとされている。旧暦12月25日は「蕪村忌」。辞世の句は「しら梅に明(あく)る夜ばかりとなりにけり」。墓所は京都市左京区一乗寺の金福寺(こんぷくじ)。






蕪村筆 俳画 ほととぎす 自画賛




与謝蕪村の墓(金福寺)



 ★数少ない私の知ってる蕪村の句「菜の花や月は東に日は西に」。・・・蕪村は正岡子規にも影響を与えたんでしたねぇ。






 参考:Wikipedia






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2025年02月09日

徳川吉宗

徳川吉宗


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徳川吉宗(1684~1751)

○略歴

 徳川 吉宗(とくがわ よしむね)は、江戸幕府第8代将軍。紀州藩第5代藩主。越前国葛野藩主。徳川御三家の紀州藩第2代藩主・徳川光貞の四男として生まれる。父と2人の兄の死後、紀州藩主を継ぎ藩財政の再建に努め、成果を挙げた。第7代将軍・徳川家継の死により秀忠の流れの徳川将軍家の男系男子が途絶えると、6代将軍家宣の正室・天英院の指名により御三家出身では初の養子として宗家を相続し、江戸幕府の第8代将軍に就任した。紀州藩主時代の藩政を幕政に反映させ、将軍家宣時代の正徳の治を改める幕政改革を実施。幕府権力の再興に務め、増税と質素倹約による幕政改革、新田開発など公共政策、公事方御定書の制定、市民の意見を取り入れるための目安箱の設置などの享保の改革を実行した。財政に直結する米相場を中心に改革を続行していたことから米将軍(八木将軍)と呼ばれていた。この幕府改革で破綻しかけていた財政の復興などをしたことから中興の祖と呼ばれ、江戸時代を代表する名君の一人となっている。










●晩年考

 延享2年(1745年)、徳川家重に将軍の座を譲った後も大御所(おおごしょ)として権力を維持し続けた。病弱な家重より聡明な次男・宗武や四男・宗尹を新将軍に推す動きもあったが、吉宗は宗武と宗尹による将軍継嗣争いを避けるため、あえて家重を選んだと言われている。ただし家重は、言語障害はあったものの、知能は正常であり、一説には将軍として政務を行える力量の持ち主であったとも言われる。宗武、宗尹は養子には出さず、部屋住みのような形で江戸城内にとどめたまま別家に取り立て、田安家、一橋家(両卿)が創設された(吉宗の死後に清水家が創設されて御三卿となった)。将軍引退から6年が経った寛延4年(1751年)6月20日に死去した。享年68(満66歳没)。寛永寺(東京都台東区上野桜木一丁目)に葬られている。





騎乗像(和歌山市)



 ★「大御所」とは、征夷大将軍職を退いて隠居した前将軍の敬称。例えば、徳川家康が、1605年に将軍職を子の徳川秀忠に譲って隠居した例がある。御所とは天皇の居所(皇居)を意味する言葉でもあり、それに大を加えて用いることは天皇よりも上の者を意味するということで、当時はその名に対して批判や疑問も多かったと言われている。家康は、古来の例を挙げて言い繕い、難を逃れているという。・・・本当に前例ってあったんだろうかねぇ!?






 参考:Wikipedia





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