2022年04月01日
第6訓 西郷隆盛の遺訓を現代に顧みて
明治維新の立役者の西郷隆盛の訓話をまとめた「南洲翁遺訓」を垣間見て、
現代の日本の政治や世相を自分ながら解説してみよと思います。
南洲翁遺訓は全部で41訓ありますが、今日は第6訓を垣間見てみます。
南洲翁遺訓 第6訓
原文
人材を採用するに、君子小人の弁酷に過ぐる時は、却て害を引起すもの也。其の故は、開闢以来世上一般十に七八は小人なれば、能く小人の情を察し、其の長所を取り、之を小職に用い、其の材芸を尽さしむる也。東湖先生申されしは、「小人程才芸有て用便なれば、用いざればならぬもの也。去とて長官に居え、重職を授くれば、必ず邦家を覆すものゆえ、決して上には立てられぬものぞ」と也。
仮名入り
じんざい さいよう くんししょうにん べんこく す とき かえっ がい ひきおこ なり
人材を採用するに、君子小人の弁酷に過ぐる時は、却て害を引起すもの也。
そ ゆえ かいびゃくいらいせじょういっぱんじゅう しちはち しょうにん よ しょうにん じょう さつ
其の故は、開闢以来世上一般十に七八は小人なれば、能く小人の情を察し、
そ ちょうしょ と これ しょうしょく もち そ ざいげい つく なり
其の長所を取り、之を小職に用い、其の材芸を尽さしむる也。
とうこせえんせいもう しょうにんほどさいげい ようべん もち なり
東湖先生申されしは、「小人程才芸有て用便なれば、用いざればならぬもの也。
さ ちょうかん す じゅうしょく さず かなら ほうか くつがえす
去りとて長官に居え、重職を授くれば、必ず邦家を覆すものゆえ、
けっ うえ た なり
決して上には立てられぬものぞ」と也。

私流訳
人材を採用する時、よくよく考慮しなければならない。
世の中には、君子と呼ばれる徳のある人格の高い人と小人と呼ぼれる、あまり徳や人格の低い人がいるが、その区別を厳しくするとかえって問題を引き起こしてしまう。
その理由は、この天地が始まって以来、世の中で十人のうち七、八人までは小人であるから、よく小人の性格や様々なことを考慮し、長所があるはずだから、これをそれぞれの職業に採用し、その才能・特技を十分発揮させる事が重要である。
藤田東湖先生(水戸藩士、尊王攘夷論者)が申されるには、
「小人は才能と特技があって使用するに便利であるから、ぜひ使用して仕事をさせなければならない。だからといって、これを上役にして、重要な職務につかせると、必ず国や組織をひっくり返すような事になりかねないから、決して上役に立ててはならないものである。」と。
私流解説
君子と小人を区別をしてあるが、君子とは人格が素晴らしく、魅力のある人である。
小人は、才能や能力はあるが人間味がかける人で、言わば「できる人」である。
政治にしても、企業にしても今の日本は、利益・成果・効率を求めるが故に、
できる人が政治家でも社長でも多く感じる。
西郷は、そういった「できる人」を組織の長にすると弊害があるが、
小人がいなければ、また、うまくいかないと言っている。
森信三著の「西郷南洲翁遺訓に学ぶ」では、立教(学問)の立場と為政(政治)の立場でこの遺訓を解説されています。
学問の立場から言えば、君子は、人間をすべて君氏たらしめ、有徳者たらしめんとする努力であります。
すべてをやるときには、どうしても仕遂げないといけないという決心でなければならぬ。
それが教化の事であり立教の受持ちであります。
ところが政治の立場になりますと、現実界の現在の統一ということが眼目であり、政治に於いて最も大事なことは、先ずさしあたり当面いていることを現在可能な範囲においてとにかくまとめるということであります。
たとえば、池を直すという例で学問の立場と政治の立場でたとえると。
学問の立場では、池の水を全部吐かして根本的にゆっくりと築き直しをする。
政治の立場では、池の堰きの壊れている一部を防ぎ直すことであります。
即ち学問の立場では完璧を目指しますが、政治の立場に於いては現在ということが何よりも先ず基準になります。
しかし真の政治というものは、有徳者を上に置いて才能あるものしないという根本原則なのであります。
学問の立場と政治の立場の能力が高い人をあえて小人として、それを清濁あわせ呑む広大な慈愛のある有徳者が真の君子でなければならないのであります。
稲盛和夫著の「人生の王道 西郷南洲の教えに学ぶ」では、君子と小人の対比・第二電電の人事でこの遺訓を解説されています。
「君子」と「小人」という言葉が出ていますが、「君子」とは、素晴らしい徳を持ち、信望があり能力を持っている人です。「あの人は人間ができている」「あの人は徳がある」というように西郷は君子をという言葉を使っています。「小人」とは、才能面ではたいへん優れているが、人間的な修練の未熟な人、悪人ではないがまだ十分に人間ができていない人だと解釈してもいいと思います。社会を見たとき、そういう小人がリーダーになっている場合がよくります。
本当は人格と地位がパラレルになる。つまり、人物がよいから地位も上がっていくというようにしなければならない。しかし、現実には君子は非常に少ない。そのような中、人格的にあまり十分ではないけれど、才能があり、能力のある人にも、組織の中で力を発揮できる場を与えて、使っていくことが大事なのだと西郷はいっているわけです。
第二電電の社長人事についてお話をしします。私が社長に選んだのは、あまり目立たなかった人物でした。それは、トップとしてふさわしい「徳」を備えている、また社内の人々から信頼、信望を得られるという、基準に合致したからです。素晴らしい才能があり、多大な貢献をした人は他にもいたのですが、私はあえてその人を選ばなかった。その貢献に対しては、第二電電が上場する前に株式を持ってもらい、金銭的な面では十分遇しましたが、組織のトップに据えなかった。多くの小人能力、才能を使わなければ、企業経営などできません。しかし、能力があり、仕事ができるからといって、小人をトップにすえたのはでは、会社はつぶれてしまいます。徳や信望がある立派な人間性を身につけた人を見出し、その人を本当に重要な役職につけていかなければならないのです。
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稲盛和夫の南洲翁遺訓の解説本
経営者の視点では素晴らしい本です。

森信三の南洲翁遺訓の解説本
修身や道徳の視点では必見の本です。



現代の日本の政治や世相を自分ながら解説してみよと思います。
南洲翁遺訓は全部で41訓ありますが、今日は第6訓を垣間見てみます。
南洲翁遺訓 第6訓
原文
人材を採用するに、君子小人の弁酷に過ぐる時は、却て害を引起すもの也。其の故は、開闢以来世上一般十に七八は小人なれば、能く小人の情を察し、其の長所を取り、之を小職に用い、其の材芸を尽さしむる也。東湖先生申されしは、「小人程才芸有て用便なれば、用いざればならぬもの也。去とて長官に居え、重職を授くれば、必ず邦家を覆すものゆえ、決して上には立てられぬものぞ」と也。
仮名入り
じんざい さいよう くんししょうにん べんこく す とき かえっ がい ひきおこ なり
人材を採用するに、君子小人の弁酷に過ぐる時は、却て害を引起すもの也。
そ ゆえ かいびゃくいらいせじょういっぱんじゅう しちはち しょうにん よ しょうにん じょう さつ
其の故は、開闢以来世上一般十に七八は小人なれば、能く小人の情を察し、
そ ちょうしょ と これ しょうしょく もち そ ざいげい つく なり
其の長所を取り、之を小職に用い、其の材芸を尽さしむる也。
とうこせえんせいもう しょうにんほどさいげい ようべん もち なり
東湖先生申されしは、「小人程才芸有て用便なれば、用いざればならぬもの也。
さ ちょうかん す じゅうしょく さず かなら ほうか くつがえす
去りとて長官に居え、重職を授くれば、必ず邦家を覆すものゆえ、
けっ うえ た なり
決して上には立てられぬものぞ」と也。
私流訳
人材を採用する時、よくよく考慮しなければならない。
世の中には、君子と呼ばれる徳のある人格の高い人と小人と呼ぼれる、あまり徳や人格の低い人がいるが、その区別を厳しくするとかえって問題を引き起こしてしまう。
その理由は、この天地が始まって以来、世の中で十人のうち七、八人までは小人であるから、よく小人の性格や様々なことを考慮し、長所があるはずだから、これをそれぞれの職業に採用し、その才能・特技を十分発揮させる事が重要である。
藤田東湖先生(水戸藩士、尊王攘夷論者)が申されるには、
「小人は才能と特技があって使用するに便利であるから、ぜひ使用して仕事をさせなければならない。だからといって、これを上役にして、重要な職務につかせると、必ず国や組織をひっくり返すような事になりかねないから、決して上役に立ててはならないものである。」と。
私流解説
君子と小人を区別をしてあるが、君子とは人格が素晴らしく、魅力のある人である。
小人は、才能や能力はあるが人間味がかける人で、言わば「できる人」である。
政治にしても、企業にしても今の日本は、利益・成果・効率を求めるが故に、
できる人が政治家でも社長でも多く感じる。
西郷は、そういった「できる人」を組織の長にすると弊害があるが、
小人がいなければ、また、うまくいかないと言っている。
森信三著の「西郷南洲翁遺訓に学ぶ」では、立教(学問)の立場と為政(政治)の立場でこの遺訓を解説されています。
学問の立場から言えば、君子は、人間をすべて君氏たらしめ、有徳者たらしめんとする努力であります。
すべてをやるときには、どうしても仕遂げないといけないという決心でなければならぬ。
それが教化の事であり立教の受持ちであります。
ところが政治の立場になりますと、現実界の現在の統一ということが眼目であり、政治に於いて最も大事なことは、先ずさしあたり当面いていることを現在可能な範囲においてとにかくまとめるということであります。
たとえば、池を直すという例で学問の立場と政治の立場でたとえると。
学問の立場では、池の水を全部吐かして根本的にゆっくりと築き直しをする。
政治の立場では、池の堰きの壊れている一部を防ぎ直すことであります。
即ち学問の立場では完璧を目指しますが、政治の立場に於いては現在ということが何よりも先ず基準になります。
しかし真の政治というものは、有徳者を上に置いて才能あるものしないという根本原則なのであります。
学問の立場と政治の立場の能力が高い人をあえて小人として、それを清濁あわせ呑む広大な慈愛のある有徳者が真の君子でなければならないのであります。
稲盛和夫著の「人生の王道 西郷南洲の教えに学ぶ」では、君子と小人の対比・第二電電の人事でこの遺訓を解説されています。
「君子」と「小人」という言葉が出ていますが、「君子」とは、素晴らしい徳を持ち、信望があり能力を持っている人です。「あの人は人間ができている」「あの人は徳がある」というように西郷は君子をという言葉を使っています。「小人」とは、才能面ではたいへん優れているが、人間的な修練の未熟な人、悪人ではないがまだ十分に人間ができていない人だと解釈してもいいと思います。社会を見たとき、そういう小人がリーダーになっている場合がよくります。
本当は人格と地位がパラレルになる。つまり、人物がよいから地位も上がっていくというようにしなければならない。しかし、現実には君子は非常に少ない。そのような中、人格的にあまり十分ではないけれど、才能があり、能力のある人にも、組織の中で力を発揮できる場を与えて、使っていくことが大事なのだと西郷はいっているわけです。
第二電電の社長人事についてお話をしします。私が社長に選んだのは、あまり目立たなかった人物でした。それは、トップとしてふさわしい「徳」を備えている、また社内の人々から信頼、信望を得られるという、基準に合致したからです。素晴らしい才能があり、多大な貢献をした人は他にもいたのですが、私はあえてその人を選ばなかった。その貢献に対しては、第二電電が上場する前に株式を持ってもらい、金銭的な面では十分遇しましたが、組織のトップに据えなかった。多くの小人能力、才能を使わなければ、企業経営などできません。しかし、能力があり、仕事ができるからといって、小人をトップにすえたのはでは、会社はつぶれてしまいます。徳や信望がある立派な人間性を身につけた人を見出し、その人を本当に重要な役職につけていかなければならないのです。
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