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2019年08月14日

戦時中女性アナに為った19歳 何故彼女は終戦前に「敗戦」を知って居たのか




 【終戦記念特集4】


 戦時中女性アナに為った19歳

 何故彼女は終戦前に「敗戦」を知って居たのか



 




 〜NHKの放送局でラジオアナウンサーをして居た女性達。東京をB29の空襲が襲う中、一体彼女達どんな日々を過ごしたのか。そして8月15日の玉音放送の放送をどう迎えたのか。当時を知る女性に話を聞いた〜


    〜Kota Hatachi 籏智 広太 BuzzFeed News Reporter, Japan2019/08/14 06:00〜




   8-14-14.jpg

         NHKラジオアナウンサーだった頃の武井照子さん


 太平洋戦争末期、ラジオのアナウンサーをして居た女性達が居る。男性の多くが出征し、空襲が激しく為る中で、彼女達は何を思い、マイクと向き合って居たのか。そして、どう戦争の時代を生き抜き、敗戦の日を迎えたのか。1944年、19歳で日本放送協会(NHK)に入局した或る女性の半生を聞いた。


 「私はね、ラジオと同い年なんですよ」

 そうBuzzFeed Newsの取材に話し始めたのは、武井照子さん。1925(大正14)年生まれの94歳だ。元アナウンサーだからこそ。その声は今も淀み無く、一言一言が聞き取り易い。ラジオっ子だったと云う武井さんは、自らの幼少期を語り始めた。

 「小さい頃は、夕方に遣って居た『コドモの新聞』と云う番組を噛り付く様にして聞いていたんです」

 未だ、戦争も始まって居なかった幼少期。大正ロマンの残り香が漂う自由な時代だった。「実に伸び伸びして居ましたね。し過ぎて居たかも」
 今の埼玉県羽生市生まれ。実家は足袋屋で、店の女将をして居た祖母が東京に用事がある度買って来て呉れたチョコレートが楽しみだった。5人兄妹の真ん中の一人娘で「女の子らしくは無かった」と笑う。雑誌も『少女倶楽部』よりも、兄や弟達が買った「少年倶楽部」が好きだったと云う。人気漫画『のらくろ』のテーマソングは、今でも歌える。明治時代の軍歌の替え歌で、作品と共に流行して居た。


        8-14-17.jpg

       ♪黒いからだに大きな目。陽気に元気に生き生きと・・・


 『少年倶楽部』の♪のらくろは、何時も皆を笑わせる。戦に出ればその度に、働き振りも目覚ましく。ドンドン増える首の星。末は大佐か元帥か・・・「ナンで覚えて居るんだろう。皆で声合わせて歌ってたからかな」歌い終えると、武井さんはまた笑った。

 大好きだった夏休み

 毎年、夏は一際楽しみな季節だった。お祭りが、その始まりの合図だ。町内毎の神輿はキラキラと飾り付けられ、揃いの浴衣を着た若人達が引っ張る様子は、兎に角綺麗だった。夜店に並ぶのは金魚、水ヨーヨー、針金細工、カルメ焼き……子供心を擽るものばかりだった。
 「でも、お好み焼きだけは絶対ダメと母に言われたんです。丁度疫痢が流行った時だったから……疫痢に為ると避病院(隔離病棟)に入れられて、誰も看て呉れ無いまま痩せて死ぬんだと聞いて、怖くって食べられませんでした」

 夏にはもう一つ、楽しみがあった。茨城の大洗にあった別荘だ。「毎年夏祭りが終わると、東武電車と汽車、オンボロバスを乗り継いで行くんです。目の前が海で、朝起きて一寸顔を洗ったら突っ走る。ひと月そんな所にズッと居るんですから、本当に楽しかったですね」
 中でも、別荘に集まって居た親戚の大学生達と過ごす日々が忘れられ無いと云う。一緒に映写機でアメリカの喜劇映画を見たり、チャイコフスキーのレコードを流したり。流行のダンスを教えて貰ったり、ボートで海に繰り出したりーー夜は蚊帳を吊って、怖い話を聞かせて貰った。1ヶ月間海際で過ごすから、新学期は真っ黒に焼けて登校して居たと云う。

 「非国民」と呼ばれて

 熊谷の女学校に入ってからは、時偶(ときたま)、東武電車で東京に出て映画や芝居を見に行く事もあった。
お気に入りだったのは、ハリウッド女優のディアナ・ダービンだ。その歌を一生懸命覚えながら「英語ってとっても綺麗だなって。将来は英文科に行こうと思ったんです」
 そんな「キラキラ」として居た武井さんの少女時代にも、戦争の足音は段々と近付いて居た。4年生の夏休み、大洗から学校に呼び出されたのだ。
 「学校に戻ると、教室で学年主任の先生から『この非常時に、海水浴に行って居るとは何事だ。非国民だ』と言われたんです。その言葉がとっても応えちゃって。どうして、そこまで言われ無きゃいけないのかって……」


 




 そのまま東京の実践女子専門学校(今の実践女子学園)に進学。英語を学びたいと云う気持ちは最早諦めざるを得無かった。丁度時代は太平洋戦争が開戦する直前で、英語が「敵性語」と見做される風潮が増して居たからだ。
 「選んだのは国文科。本当は英語を遣りたかったけれど、排斥が厳しく為って来て居たし、行きませんでした」

 父親が反対したアナウンサー

 戦況は、年を経る毎に悪化して行った。最早ハリウッド映画を楽しむ事は出来無く為った。食べ物や衣服は配給、切符制に。学生達は工場等で勤労奉仕をさせられる様に為った。
 「空気は急では無く、徐々に徐々に変わって行く感じでしたよ。贅沢は敵だとか。パーマネントは止しましょうとか、立て看板が掛かる様に為って。そう云うのに段々慣らされて行く。そう云う事って、あるじゃないですか」

 そんな状況でも笑顔は忘れ無かった、武井さんは云う。当時、勤労奉仕先の工場で写した記念写真では、皆明るい笑顔を見せて居る。
 「戦時中に皆ニコニコして居ると云うのは可笑しいかも知れませんけれど、女の子ですからね。普段はニコニコして居ますよ。一日中辛い顔をして居た事なんて無いですから」
 しかし、大きな力には抗い様が無かった。戦争の影響で、本来は1945年3月に卒業する筈だった武井さん達は、半年の繰り上げ卒業を選択させられた。

 「教師に為りたかったけれど、そう出来無い状況で。丁度放送員の募集が出て居たので、アナウンサーに為ったら私でも役に立つかなと思ったんです。父親はこんなに危ない時に東京に居るなんて、と反対して居ました」

 女は男の「代わり」だった

 「お国の為に何か出来る事があるなら」と云う気持ちから、武井さんはアナウンサーの道を選ぶことにした。「入ってから最初に在ったのは、アナウンサー学校での研修でした。本当は3ヶ月の筈なのだけれど、私達は1ヶ月半しか無かったんですよ」
 当時、日本放送協会の本部が置かれて居た東京放送会館は内幸町にあった。武井さんは兄や叔父と住んでいた目黒の家から、省線(今のJR)を使って新橋迄通勤をして居たと云う。ビルには防空の為に迷彩が施してあり、縞模様みたいに為って居た事を覚えている。食糧事情は逼迫して居たが、局内の食堂は開いて居た。

 「食堂にあったのは、うどんの乾麺。私達は『ちぎれうどん』って呼んでいたんです。長いんじゃ無い、捨てちゃうような折れたヤツだから。味とかはアンマリ覚えて無いですけれど、それでも食べるものがあるだけ、マシですよね」

 東京で採用された同期の女性アナウンサーは13人。一つ上の代までは、女性が一人居るか居ないかだったが、若い男性の多くが徴兵されて居た時代だ。
 「戦争中はね、女性は男の代わりだったの」と武井さんは云う。それでも、ニュースや空襲警報を任されたのは男性アナウンサーだった。
 「所謂、大本営発表とかニュースは遣らされ無かった。女の人が遣ると、堂々と雄大に出来無いから。キッと、軍からの指示でしょうね」


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 戦地に向けて届けたニュース

 当時のラジオは、全てが戦争一色だった訳では無い。音楽や物語、ドラマ等の「慰安番組」も多く放送されて居た。武井さんはそうした番組と共に、海外向けの短波放送を担当して居たと云う。
 「短波放送は夜中にも遣ら無きゃいけ無いので交代制で。南米向けとか、戦地向けとか、色々なものがあったんです。東京の新聞に書いてあるニュースを読んだりして居ました。政治的では無く、家庭的なニュースばかりでしたね」
 真夜中にひとり、スタジオから地球の反対側に向けて語りかけるーー「本当に伝わって居るのかな」と思って居たと云う。

 「後は、ドラマや子供番組。この頃は生放送でドラマもやってましたから、そのタイトルを読むことも。子供向けのお話番組は『爆弾三勇士』とか戦争のものばかり。児童劇団もありましたが、子供が疎開で少なくて、集めるのが大変だったそうですよ」

 制服があった訳では無く、もんぺ姿で働いて居た。おしゃれ盛りの19歳だった武井さんは、どう感じていたのか。
 「皆好きで着て居た訳じゃ無い。でも、派手な格好は出来ませんでしたから、着物を仕立て直してブラウスにするとか、そう云う工夫はしましたね。後、男の人は殆ど国民服でしょう、男性アナウンサーが『ナンだこれ、ミットもねえや』と言っていました」


 




 空襲が激しく為っても

 研修を終えた頃、東京が初めて本格的な空襲に襲われた。1944年11月24日、80機のB29が都内各所を爆撃したのだ。
 「局内には小さなアナウンスボックスがあって、そこで和田さんが初めての空襲警報をヤッタんです。窓から顔だけ見えたんですが、こっちはどう為るかと思って、本当、胸が痛く成程の気持ちで見て居たんですよね」
 和田さんとは、後に玉音放送を担当する事に為る、和田信賢アナウンサーだ。「そうすると、とても穏やかな声で『空襲警報発令、空襲警報発令』と……。落ち着いて、と呼び掛ける様な放送で、本当にホッとしたんです。和田さんって、凄い人だなって感じましたね」


 この日を皮切りに、東京への空襲は激しさを増して行く。当初は局内から警報を報じて居たが、その内、アナウンサーが軍の司令部に常駐する様に為ったと云う。武井さん自身も、1945年5月23日の空襲で目黒の家を焼け出された。
 警報を聞いて慌ててリュックに詰め込んだのは、配給の米と兄の大切にして居た本。防火水槽の水を被り目黒川沿いに逃げ隠れた。

 「朝に為って戻ると、家は無く為って居た。仕方無いから、局に行く事にしたんです。省線も動いて居ないから歩いてね。そしたら『オオ、お前も焼けて来たか』と言われて迎えられて。今日はアッチの家、明日はコッチの家が遣られる、そんな時代でしたからね」

 家族には無事を連絡する事が出来無かったが、放送を通じて武井さんの声は届いて居たと、後に為ってから知った。


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 「美しかったB29」そして空襲

 しかし、災難は続く。2日後の5月25日、今度は放送会館の傍が空襲にあったのだ。

 「宿泊所に為って居る病院のベッドに居たんですが、窓から見たらアッチコッチ全部メラメラと燃えて居て。それで、同僚達と一緒に消火活動をしたんです。下火に為ってから部屋に戻って、お互いの顔見たら、煤で真っ黒けに為って居るのね。笑っちゃって」

 翌朝、地方各局と本部を繋いで状況を報告する「ライン送り」で「東京は酷い空襲でしたけれども、放送会館は無事でした」と伝えられた。「私達が会館を守ったんだ」と云う誇らしさは、今も胸に残って居るという。
 そんな武井さんの手元には、当時の罹災証明書と給料明細がある。「戦時手当」「銃後後援会費」と云う文字が、当時の特異性を浮かび上がらせる。過酷な状況の中で、死を意識した事はあったのか。

 「無いですね。兎に角、綺麗なんですよ。病院の建物には蔦の葉が絡まって居て、チラチラ燃えて居て、道路の真ん中には紙クズの燃えかすが川みたいに流れる。恐怖を感じるのでは無くて、それを超えてタダタダ綺麗なんです」
 「現実だと言っても、物凄い空気の中に居るからね。例えばB29が空を飛ぶでしょ。ジュラルミンの物体が浮かんで居るのが見える訳ですよ。サーチライトに照らされるとそれが光るわけね。ヤッパリ綺麗だって思って居ましたね」


 8月14日、敗戦を知った

 1945年8月14日のことだ。「女子だけ此処に来なさい」女性職員達が、アナウンス室に集められた。呼び掛けたのは、浅沼博アナウンサー室長だった。浅沼室長は数人を前にして、こう語り掛けた。「日本は、負けました」と。「とっても静かに仰いましたね。普段からお茶目で面白い、何時もフザケテ居た方だから。負けたよと言われても。どう考えて好いか判ら無いじゃないですか」
 更に、こうも言ったと云う。「こう云う時には、必ず反乱軍が起きる。その時に君達がピストルを突き着けられたら、君達は自分の身を守りなさい。読めと言われたら読んで好いんだよ」

 目黒を焼け出されて以降、羽生の実家から通勤をして居た武井さんは、家に帰ると父親に日本の敗戦を伝えた。父親からは、「そうか」と云う一言だけが返って来た。「父は判って居たのかも知れませんね。私達は負けるなんて事、考え無い様にされて居たけれど」


 



 
 誰も、何も言わ無かった

 翌日、8月15日は、太陽がジンジンと照り着ける様な夏の日だった。出社はせず、実家でラジオに耳を澄ませた。セミの鳴き声だけが鳴り響く中、空襲警報で聞き慣れた「和田さん」の穏やかな声が聞こえた。玉音放送だった。

 「ラジオの前に集まって聞いて居た人は、誰も何も言いませんでしたね。何も」

 既にその事実を知っていた武井さんは、粛々とその現実を受け止めるしか無かった。何故敗戦と云う大きな事実を、女性達に伝えたのかーー後に為って浅沼室長に聞くと、こんな言葉が帰って来たと云う。
「君達を、助けたかったからだよ」浅沼室長が言って居た様に、放送会館には8月15日未明に反乱軍によって包囲された。反乱軍側は玉音放送の阻止と声明の放送を要求したが、職員の機転で最悪の事態は避けられた。

 あの時代とは、なんだったのか

 戦後、GHQの指導下の下でアナウンサーを続け、1982年迄NHKで働き続けた武井さん。今「あの時代」を振り返り、何を思うのか。聞くと、武井さんはサッパリとした口調でこう語った。

 「これも巡り合わせだと思います。戦争があったから一年繰り上げ卒業に為って、先生では無くアナウンサーに為ったのだから」
 「私達は兎に角、空襲が頻発する中で夢中に為って仕事をして居た。自分が遣れることを遣って居ただけ。国の為に、必死で働いて居ただけですよね」


                   以上


 



 



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「戦争の死者」とは誰か? 今日本人が考えるべき重要な問題




  【終戦日記念特集3】



 「戦争の死者」とは誰か? 今日本人が考えるべき重要な問題


 



       
          〜現代ビジネス 8/14(水) 10:00配信〜




 「死者」を思う季節

 日本人は夏に為ると「死者」に付いて思わざるを得無く為る。何故ならそれは「お盆」と「終戦」と云うレベルが異なる二つの〈行事〉が真夏に行われるからだ。しかし、現在の私達は、異常気象による灼熱の下で、十分に死者に思いを巡らせる事が出来て居るだろうか。

 古来日本では、仏教の盂蘭盆会(うらぼんえ)から派生した祖霊供養である「お盆」が、新暦の7月に、或は旧暦に8月に行われて来た。今では「盆踊り」も本来は、死者の霊を慰める為、共同体毎に行われるものだった。家々では、迎え火を焚いて先祖の魂を迎え、送り火と共に祖霊を送る。又麻幹(おがら)にキュウリやナスビを刺した「精霊馬(しょうりょうま)」が、お盆にあの世とこの世を行き来する祖霊の乗り物として供えられた。
 現在公開中の映画『天気の子』にも、迎え火と精霊馬が印象的に映し出される。『天気の子』は間違い無く、夏のお盆を扱った映画なのである。

 1945年の8月、6日に広島、9日に長崎に原爆が投下された。そして15日には玉音放送が流れ、日本人は「敗戦」を実感した。アレから74年が経ち、時代は昭和から平成、令和へと移った。そして今、8月の6日と9日と15日は、記念日や祈念日として思い起されるものの、歳時記の一項目に過ぎ無く為ったかの様でもある。

 加藤典洋『敗戦後論』の問題提起

 今アノ戦争以来、隣国との関係が厳しい状態にある。にも関わらず、或は逆にその為なのか、戦争の死者に付いて正面から向き合う事を、日本人は避けて居る様に感じられる。
 令和元年の現在「太平洋戦争の日本の死者」とは、どの様な死者を指し示すと人々は考えて居るのだろう。そこで問い掛けてみたいのは、昭和の戦争に於ける「日本の戦死者」とは、どの範囲迄を指し示すのか、と云う事だ。

 太平洋戦争に於ける死者の問題に付いては、今から20年程前「日本の三百万の死者を悼む事を先に置いて、その哀悼を通じてアジアの二千万の死者の哀悼、死者への贖罪に至る道は可能か」と問い掛けて物議を醸し、論争を巻き起こした人物が居る。文芸評論家の加藤典洋である。

 「悪い戦争に駆り出されて死んだ死者を、無意味のママ深く哀悼するとはどう云う事か。そしてその自国の死者への深い哀悼が、例えば私達を二千万のアジアの死者の前に立たせる」(『敗戦後論』講談社・1997年/ちくま学芸文庫・2015年)


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                靖国神社


 『敗戦後論』はその後、所謂「歴史主体論争」を巻き起こした。加藤の問題提起に対して〈左派〉の学者・研究者から、何故「アジアの死者」より「日本の死者」を先んじて考慮に容れ無ければ為ら無いのかと、云う批判が噴出したのである。
 加藤は、憲法9条の「戦争放棄」条項や靖国神社に於けるA級戦犯合祀を巡り、日本の国内で解(ほど)くに解け無い「ねじれ」が起こるのは、300万の日本の死者に向き合って来無かったからではないかと問い掛けたのである。しかし、こうした論法は、ナショナリズムの創出に過ぎ無い、と非難を浴びる事に為ったのだ。

 尚当時、編集者だった私は、この論議を受けて、加藤に『日本の無思想』(平凡社新書・1999年)を書き下ろして貰った。今年の5月、加藤は71歳で逝去したが、その問題提起は今こそ省みられるべきだろう。


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              千鳥ヶ淵戦没者墓苑


 




 靖国神社と千鳥ヶ淵に祀られる「死者」

 戦争の死者に対しては主に「戦死者」と「戦没者」と云う2つの言い表し方がある。それに呼応する様に、戦争の死者を慰霊・追悼、或は顕彰する為の施設が東京に2つ設けられて居る。云う迄も無く「靖国神社」と「千鳥ヶ淵戦没者墓苑」だ。

 靖国神社は1869年東京招魂社として創建され、1879年に現在の社号に改称された。戊辰戦争や明治維新に功の有った志士に始まり、日清戦争・日露戦争・第1次世界大戦・第2次世界大戦等戦死者を「英霊」として祀って居る。1939年からは府県毎に護国神社、市町村毎に忠魂碑が設立され、靖国神社を頂点とする英霊奉賛のシステムが整えられて行った。

 靖国神社は1978年に、刑死・獄死したA級戦犯14人を合祀。中曾根康弘首相が1985年に戦後初めて首相として公式参拝し、韓国・中国等の反発を招く事と為った。これ以後、首相の公式参拝は中止されたが、2001年8月に小泉純一郎首相が参拝し、近隣諸国から再び抗議を受けた。近年では、2013年末に安倍晋三首相が参拝し、韓国・中国から強く抗議されて居る。

 千鳥ヶ淵戦没者墓苑は、1959年に創建された。この墓苑には、日中戦争・太平洋戦争に於いて、海外で戦死した日本の軍人・軍属・民間人の遺骨の内、身元不明や引き取り手が無い等の理由で、遺族に引き渡す事が出来無かった遺骨が納められて居る。(今年5月現在37万69柱を安置)
 又、苑内の六角堂には、昭和天皇から下賜された骨壺に各地の遺骨を少しずつ納め、それを、全戦没者の象徴として安置して居る。千鳥ヶ淵戦没者墓苑は、政教分離の原則により、特定の宗教宗派に属さ無い施設とされ、毎年5月に厚生労働省主催の慰霊行事として拝礼式が行われる他、8月15日には内閣総理大臣が参列するのが恒例と為って居る。

「民主主義」は戦争の死者を区別するべきでは無い

 加藤典洋は、日本の戦争の死者を「300万人」と数えて「2000万人」のアジアの死者に対置した。しかし今、日中戦争・太平洋戦争の「戦死者」と云う時には、約250万人の軍人・軍属の死者を指す事が多い。それ以外の民間人、空襲や原爆、植民地等で亡く為った約50万人もの死者は「戦災死者」や「一般戦災死没者」等と呼ばれ戦死者と区別される。

 加藤の『敗戦後論』では、アジアの死者やA級戦犯と対比する為「戦死者」と「戦災死者」を分けては居ない。この点に付いては、その後の論争でも批判された。「戦争の死者」に付いて考え様とする時、又靖国神社の祭神を問題にする時、戦災死者の事を避けては通れ無いだろう。
 靖国神社は、日本の軍人・軍属以外の死者も祭神に祀って居る。同神社のホームページには、その様な祭神について、以下の様に記されて居る。

 「軍人ばかりで無く、戦場で救護の為に活躍した従軍看護婦や女学生、学徒動員中に軍需工場で亡く為られた学徒等、軍属・文官・民間の方々も数多く含まれて居り、その当時、日本人として戦い亡く為った台湾及び朝鮮半島出身者やシベリア抑留中に死亡した軍人・軍属、大東亜戦争終結時に所謂戦争犯罪人として処刑された方々等も同様に祀られて居ます」

 この説明を読んでも、私が靖国神社の祭神に違和感を覚えるのは、普通の民間人が祭神に含まれて居ない事だ。日中戦争・太平洋戦争では「国民総動員法」(1938年)が制定され「一億玉砕」のスローガンの下に、民間人も戦争を戦った筈である。従軍看護婦や軍需工場で働いて居た学徒の他に、婦人も少国民も〈従軍〉を余儀無くされ、数多くの戦死者が出たのである。

 日本人の宗教観念の中に本来、軍人と民間人の死を分け隔てる様な事は無かった。武運の長久を勇ましい神に願ったり、非業の死を遂げた者の御霊(ごりょう)を鎮めると言った祭祀の有り方は長い歴史を持つ。けれども、戦地に赴いた者、戦争を指示した者と、戦争の一翼を担わされた民間人を分け隔てる宗教裏付けは何処にも無いのだ。
 更に、一宗教法人とは言え、嫌宗教法人だからこそ、靖国神社が戦後民主主義の中で機能しようとするなら、死者を区別し、差別する等持っての他である。

 靖国神社は、戦争の死者の全てを祀るべきだと私は思う。『日本国憲法』を順守するなら、戦中の過誤を神社と云う宗教的主体に基づき、軍人・軍属と民間人の間に横たわる〈死〉の差別を解消すべきだろう。

 私は『死者の民主主義』(トランスビュー)と題した新刊で、柳田国男の民俗学を基に、日本の社会は生者だけで構成されて来たのでは無く、死者や精霊や小さな神々、妖怪等も重要な参加者だったと主張した。私の考えでも、死者を「戦死者」と「戦災死者」に分類すると云う事は有り得ないのである。


 




 戦争の〈当事者〉が祭神に祀られるべきだ

 加藤は『日本国憲法』の成立過程に遡(さかのぼ)り、日本の死者とアジアの死者に対する向き合い方の「ねじれ」を指摘した。今私は『日本国憲法』に基づき、戦死者と戦災死者は「民主主義」の名の基に区別されるべきでは無いと考える。更にその上で、アジアの民家人の死者を祭神に祀るかどうかも、靖国神社は考慮すべきなのではないか。

 一方、極東軍事裁判で裁かれたA級戦犯は「戦争の死者」と云うより「戦後の死者」である。靖国神社が、太平洋戦争に深く関わり、戦後に亡く為った死者を祭神に加えて置きたいと云うのであれば、昭和天皇も祭神に加えるべきではないだろうか。

 私はここで昭和天皇はA級戦犯だと言おうとして居るのでは無い。戦争に〈当事者〉として関わったと云う点では、民間人も軍人・軍属も変わる事が無い。靖国神社は民間人以上に、A級戦犯の戦争への〈当事者性〉を認めて(或は評価して)、祭神に祀り顕彰する事にしたのだろう。もしその通りであるなら、昭和天皇は崩御と共に、祭神に加えるべきだった。

 本稿の様な問題提起は、アイロニーかパラドックスだと見向かれ無いかも知れない。しかし靖国問題の本質は、戦争の死者達が、当事者性を配慮されず引き裂かれて居る事にあると民俗学者である私は思う。令和最初の夏、私達は戦死者とは一体誰の事であるかを、改めて考えるべきだろう。


        畑中 章宏  以上




 

 


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餓死 物乞い スリ・・・戦争が生み出した「浮浪児」その厳し過ぎる生活



 【終戦日記念特集2】

 

 餓死 物乞い スリ・・・戦争が生み出した「浮浪児」 その厳し過ぎる生活


 




            〜現代ビジネス 8/13(火) 10:00配信〜


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 本当の戦争の始まり

 戦争の犠牲と為るのは、何時もか弱き者だ。敗戦後、日本には戦災で両親を失った戦災孤児の数が約12万人に上ったと云われて居る。この内、引き取り手が居らず、路上で身一つで生き無ければ為ら無く為った「浮浪児」と呼ばれた子供達は3万5千人に上ったと推測されて居る。 (朝日年鑑1947年)

 私は10年来、元浮浪児達に会い、その体験を記録すると云う取材を進めて来た。2014年には『浮浪児1945・・・戦争が生んだ子供達・・・』(新潮文庫)と云うノンフィクションに、それ等の成果をまとめた。その経験から言えば、実態は3万5千人以上に上るだろう。後に述べる様に、浮浪児には戦災孤児以外から為った者も居り、それを合わせると膨大な数に上った事は想像に難く無いからだ。元浮浪児の一人は、私にこんな言葉を残した。

 「日本の終戦記念日は昭和20年8月15日ナンだよ。だけど、そこから先が、浮浪児に取って本当の戦争の始まりだった。生き延びる為の戦争だ。その事を知って欲しくて、君に初めて浮浪児だった時の事を語るんだ」
 
 これから述べるのは、そうして語られた浮浪児達の証言に基づいた歴史だ。


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 「仲間の死体は自分達で片づけて居た」

 浮浪児達の多くは戦時中の空襲に依って生まれた。終戦の年の1945年の冬から夏に掛けて、東京、大阪、仙台、愛知、福岡等日本中の都市が米軍の空襲に晒された。此処で親を失った子供達が、誰に頼る事も出来ずに町の路上で寝起きする「浮浪児」と為って行ったのである。
 東京では上野駅に浮浪児が多く集まって居たと云われて居るが、それには理由がある。3月10日の東京大空襲に依って、東京の下町は焼け野原と為ってしまった。未だ寒いその時期、寒風を避けられる数少ない場所が上野駅の地下道だったのだ。

 上野駅の地下道には最大で7千人位が暮らして居たと云われて居り、元浮浪児達の証言に依れば、混雑し過ぎて横に為る事は出来ず、大小便もその場でして居たと云う。この内、子供の数は1割から2割。詰まり、上野の地下道だけで最大で千人前後の浮浪児が寝起きして居た事に為る。
 地下道での生活は非常に厳しいものだった。敗戦後の日本は空前の食糧難に襲われて居た。当然、路上で暮らす人々に迄救済の手は届かず、当時の新聞では「上野駅で処理された浮浪者の餓死死体は多い日に6人を数へ、先月の平均は1日2.5人だった」(朝日新聞10月18日)と記されて居る。

 だが、元浮浪児によれば「仲間の死体は自分達で片付けて居たから、もっと多い筈だよ。1日十数人は死んで居た筈」との事だった。忘れては為ら無いのが、自殺者も多かった事だ。浮浪児の中には、小学生低学年位の幼い子も沢山居た。
 彼等は日中は物乞いをしたり、ゴミを漁ったり、時には犬や猫を殺して食べてナンとか生きて居たが、飢餓・寒さ・病気・差別等の中で段々と生きる気力を削がれ、自ら命を絶つ事を選んだ。

 元浮浪児で後に暴力団員と為った石原伸司(2018年に殺人事件を起こした後に自殺)に依れば、浮浪児仲間と共に墨田川の畔を歩いて居た処、一人が「もう疲れたよ」と呟き、そのまま川に飛び込んで死んだと云う。 又、農薬を飲んで自殺を図ろうとしたものの死に切れず、三日三晩血を吐いて悶え苦しんで死んだ子供も居たそうだ。

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 上野と闇市の関係 

 上野に集まった浮浪児達を救ったのが、終戦から程無くして現在のアメ横に生まれた闇市だ。この闇市は朝鮮出身の人達が作ったのが始まりとされ、その後日本人達が次々と露店を建てて居た。浮浪児達の中には、闇市の露店の手伝いをする者も出て来た。
 皿洗いをしたり、箱の上に乗って商品の叩き売りをしたりする。1日働けば、露天の店主から1日分の賄いや小遣いを貰えたと云う。又、未就学児位の小さな子達は働く事が出来無いので、落ちているものを漁った。露店の前に転がって居る野菜や残飯を拾って食べたり、小銭を拾って懐に入れたのだ。

 元浮浪児の菅野恭一郎は次の様に語って居た。

 「闇市で食べ物を拾って居たりすると、屋台の主人が『坊主、コッチで働け』って声を掛けて呉れるんですよ。お駄賃なら、2、30円貰えたかな。屋台のウドンが5円の時代だったので満腹に為る事が出来ましたよ。
 時々、テキヤの人がお小遣いを呉れる事もあるんですよ。『坊主、ヒモジイ思いしてんな、これでも食え』ってお金を呉れる。あの人達も戦争で苦労して来たので、僕みたいな浮浪児を哀れに思って助けて呉れたんでしょう」



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 当時のテキヤは、今の暴力団と違って、アウトローではあったが、町の顔役みたいな役割を持って居たし、警察からも闇市の取り締まりを求められて居た。そう云う意味では、未だ人情と云うものがあった時代だったのだ。
 更に闇市の影響で上野駅が賑わい出すと、子供達は駅前で様々な商売を始めた。「バタ屋(廃品回収業、ゴミ拾い)」「モク拾い(煙草の吸殻を拾って売る)」「新聞売り(新聞社で買って来た新聞を少し利益を乗せて売る)」等だ。人気があったのは靴磨きだ。靴磨きの少年は「シューシャインボーイ」と呼ばれて居た。駅を出た所に木箱を抱えてズラッと並んで「靴みがきはどうですか」と叫んで客引きをする。

 元浮浪児に依れば、靴墨(くつずみ)はチョコレートを呉れる進駐軍の兵隊に頼んでPX(進駐軍専用の売店)から買って来て貰い、靴を磨く布は電車の座席のシートをカッターで切ったものを使って居たと云う。人々も浮浪児を哀れに思って積極的に靴を磨かせて挙げて居た。


 




 盗みが見付かって撃ち殺された子も…

 こうした子供達の中には、スリや盗みと云った悪事をして食い繋いで行か無ければ為ら無い子も少なくなかった。スリは、通称「チャリンコ」と呼ばれ、犯罪の中でも花形だった。テクニックも色々とあった。
 「ナタ切り」と云ってカミソリでバッグを上から二つに裂いて中身を取る方法「てつぽう」と云って通行人の右胸にブツカリ、ソッチに神経が行って居る間に左胸のポケットのサイフを抜き取る方法等だ。

 こうしたスリの技術を身に着ける為の「スリの学校」為るものまであった。スリの名人が浮浪児達を一つの家に住まわせて、スリの技を徹底的に教え込み、その上前を撥ねるのだ。
 実際に、私が取材した元浮浪児によれば、山谷や深川や川崎等にスリの学校があって、此処へ行くと1週間位豪遊させて貰えて、その後に良い暮らしを続けたければスリに為れと言われると云う事だった。今ならば、窃盗集団に組み込まれたと云うべきだろう。
 泥棒に関しては、露店等から商品を盗むだけで無く、ヤクザの窃盗集団の様なものもあった。ヤクザの大人達に連れられて、進駐軍の倉庫に缶詰等を盗みに行くのだ。只、実際は捨て駒にされて居た様だ。

 これの経験を上羽秀彦は語る。

 「ヤクザに連れられて倉庫荒らしに行くんだけど、簡単や無い。入り口には機関銃を持った兵士が何人も居て、バレれば問答無用で射殺やわ。俺達も必死に為って金網の穴を潜り抜けて倉庫の下の空気孔から内部に入って、食糧・毛布・石鹸ナンかを盗み出した。途中で見付かって撃ち殺された子も居たよ」

 上羽は違うが、元浮浪児達の証言に依れば、悪事をして稼ぐ浮浪児と、そうで無い浮浪児には違いがあったと云う。終戦から1、2年は純粋な戦災孤児が大半だったそうだ。彼等は或る日突然空襲で親を失った子供であり、中には育ちが良い子も居る。その為、彼等の多くは浮浪児に為っても道を踏み外さず、露店の手伝いや商売をして生きて行こうとした。
 だが、終戦から暫くすると、家出少年が浮浪児として町に現れ出す。親が戦争に依って心を病んで家に帰って来て、敗戦のショックや将来への不安、生活難から家庭内暴力を振るう様に為ったり、アルコールや薬物に溺れたりする様に為る。その暴力に耐え兼ねて家出をして上野に遣って来るのだ。

 こう云う子は荒れた家庭の犠牲者であり、上野に来た時には心が荒んでしまって居る事がある。それ故、前者に比べれば、暴力的な素行が目立ち、積極的に悪事に手を染める事があったそうだ。これは複数の元浮浪児が語って居る事であり、当事者にしてみればその印象は少なからずあったと云う事なのだろう。
 1949年頃には、純粋な戦災孤児より家出少年の方が浮浪児としては大きな割合を占める様に為って行ったらしい。

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 路上で手を差し伸べた大人達
 
 そんな浮浪児達にも、路上で手を差し伸べて呉れた大人達が居た。私が取材で最も感銘を受けたのが、浮浪児達がそう云う大人と出会った瞬間だった。
 例えば、上野駅の周辺には、戦争に依って手足を失う等した「傷痍軍人」の姿があった。彼等がハーモニカやアコーディオンを弾いて物乞いをして居たのである。浮浪児達はそんな傷痍軍人達を可愛そうに思って手伝いをした。
 目の見え無い傷痍軍人が居れば物乞いをする所迄手を引いて行って挙げ、足の不自由な傷痍軍人が居れば飲み物や食べ物を差し入れて挙げた。傷痍軍人は、そんな浮浪児達を我が子の様に可愛がり「おじさんが、君達に読み書きを教えて挙げ様」と言って、路上の片隅で文字や計算を教えて挙げた。

 これはパンパンと呼ばれて居た売春をして居た女性達も同じだった。戦争で家族を失った若い女性、夫を失った未亡人等が、日々の生活に困って路上に立ち、春をヒサイデ居た。浮浪児達にして見れば、彼女達はお姉さんみたいな年齢だった事から懐(なつ)いて行った。彼女達の方も、弟の様に可愛がり、お菓子を上げたり、ご飯を食べさせて挙げたりした。


 




 元浮浪児の村上早人はパンパンと同棲した経験がある。

 「パンパンが俺の事を憐れんで家に連れて行って呉れたんだ。寝る場所とご飯を毎日用意して呉れて、時間のある時は読み書きや計算を教えて呉れた。お蔭で俺は社会で必要な最低限の知識を身に着けることが出来た。もしアソコで読み書きを教わって居なかったら、大人に為っても真面な事は何一つ出来無かっただろうね」
 
 傷痍軍人にせよ、パンパンにせよ、彼等は戦争に依ってドン底に叩き落された人々だ。だからこそ、同じく戦争に依って親を失い、路上で生きて行かざるを得無かった浮浪児を他人事とは思えず手を差し伸べ、そして将来の為を思って読み書きや計算を教えて挙げたのだろう。

 記憶して置か無ければ為ら無い事

 こうした浮浪児達が、上野でどの様に死を潜り抜けて生き、70数年の人生を駆け抜けて行ったのか。詳しい事は、拙著『浮浪児1945・・・戦争が生んだ子供たち・・・』をお読み頂ければと思う。只一つ書き記して置きたいのは、同じ路上の住民だけで無く、一般市民も浮浪児の救済に立ち上がったと云う事だ。
 或る人は、上野駅で出会った浮浪児達を放って置く事が出来ず、自宅に次々と連れ帰り、私財を投じて育て上げた。こうした処が、数年後には今の児童養護施設と為って行く。現在ある児童養護施設の中には、そうヤッテ出来た処も少なく無い。

 終戦から74年。1945年8月15日は、日本軍の兵士に取っては戦争の終わりだったかも知れ無い。だが、親を失い、路上に放り出された浮浪児達に取っては、長い長い苦しみの人生の始まりだった。その事を、私達は記憶して置か無ければ為ら無いだろう。



         著者 石井 光太氏  以上


 



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