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2019年05月10日
クロア篇−10章3
クロアが抱えていた猫がむずがり、床へ下りた。クロアは手中の温もりを失う。自身の両腕をつかむことで、自身のさびしさをまぎらわせる。
「わたしが、魔人の娘……」
はじめて知ったことだ。それでも突拍子ない事実とは思えなかった。
「ベニトラやナーマが、わたしを魔族寄りの人間みたいに言っていたのは……」
「魔族の血が濃い者は魔障の血の濃度が見抜ける。あなたのように気付かない者もいるがね」
「じゃあダムトやプルケも、わたしが……お父さまの子じゃないとわかってた?」
魔人寄りの官吏は「黙っていてごめん」と婉曲的に肯定する。
「クロアさまには教えなくていいことだと、みんな思っていたんだ。でもこうして実父疑惑の魔人と関わりをもっちゃ、そうも言ってられないよね……」
「お父さまは? 知っていらしたの?」
「ああ、ダムトが……教えてたらしい」
「いつ?」
「ダムトがクロアさまの従者に取りたてられたころ、だったかな」
「そんなに……むかしから?」
父は自身の血を受け継がない娘を、そうと知ってなお愛育した。その行為にどれだけのむなしさがあっただろうか。クロアは父が表に見せなかった心情を想像するといたたまれなくなり、目元に熱気がのぼってくる。
「お父さまは、ずっと……真実を隠しておいでだったのね……」
娘が慕う父親が他人だと知れば娘は傷つく。それゆえ官吏にも口止めして、クロアを領主の娘として居させた。その情愛を想うとクロアはむせび泣きそうになる。だが感情の爆発をこらえ、毅然とした態度をつらぬいた。涙はいくつか流れてくるが、強引にぬぐい、鼻をすすった。
タオは兎に茶の用意を頼み、部屋を出る。クロアも彼に手を引かれて出ていく。
「帰るまえに、すこし休んでいこう」
「わたしは、もう話すことは──」
「事情を飲みこむには時間がかかるだろう? 一息ついておこう」
クロアはタオの心遣いに甘えることにした。クロア自身は自分が平静をたもてていると思うのだが、他人から見てどうかはわからない。余計な不安を屋敷へ持ちこまないよう、ここで心の整理をしておこうと考えた。
タオに連れられる間、クロアはかつてないほどに思考をめぐらせる。母がヴラドの妻に等しい人だと父が知ったらどうなるだろう。母を魔人に返すのか。
(お母さまがいなくなったら、妹たちが寂しがるわ。まだちいさいんだもの)
クロアの不安は幼い家族にあった。学舎に住まう妹と弟は長期休暇の帰省時、我先にとフュリヤに抱きつくのだ。彼らは母への慕情が強く、まだまだ甘え盛りだ。
(あの子たちが独り立ちするまでは、お母さまにいてもらわないと……)
母の身柄を返さないのなら、どうやって捜索人の目をくらますのか。その手段はとてもクロアでは思いつけなかった。
クロアたちは沈黙したまま、一階へもどった。灰色の獣人が手招きしていたので、その案内にしたがうと、食堂のような場所に出た。調理場の近くに食卓がある。タオが食卓に着き、クロアとプルケも着席する。兎の獣人たちが手際よく茶の支度をした。二人の獣は言葉を交わさずに息の合った連携を見せる。タオの急な茶会の要求を、別室にいた獣人がすでに知っていたのを鑑みると、兎の彼らにのみ聞こえる会話をしているのかもしれない。
クロアとプルケには蜂蜜の入った紅茶がふるまわれた。タオは甘味が好かないのか素のままの紅茶を飲む。クロアは飲食をする気になれず、湯気の立つ茶杯を見ていた。
「今後のことが、心配か?」
タオがこともなげに聞いた。他人事にはちがいないのだが、クロアには快く思えない質問だ。
「あなたに憂えていただく必要はありませんわ」
「ねえや、じいやに生活を支えられていた貴族が、いきなり平民の暮らしを営めるか?」
こう聞かれてやっと、クロアは自分が公女である資格が無いことを悟る。
「あ……そうだわ、わたし……お父さまの後継者じゃなくなるんだわ」
「いま気付いたか?」
タオがあきれたようにおどろくので、クロアはむっとする。
「わたしがバカだとおっしゃりたい?」
「そうじゃない。さきほど貴女が落ちこんでいたのを、公女でなくなることに対する不安のせいだと……私が勘違いした」
他人の目からはそう見えたのか、とクロアは意表をつかれた。タオはプルケを見て、「領主はどうお考えだ?」と問う。プルケは彼女は首をひねって「ヒラ役人にはなんとも」と言う。
「クノードさまのお心は、わからない。クロアさまをどうしたいのか、ご本人に聞かないと」
父に話さなくては物事が進まない。クロアは意を決して、紅茶を一気飲みした。空けた茶杯をそっと机上へおろす。
「そう、ね……お父さまとお母さまにちゃんと知らせなくちゃ」
「継承権の話も大事だが、ヴラドが夫人を連れもどしたがっていることにも対処してほしい」
「そこが問題だわ。お母さまを返さなかったら、やっぱり武力行使してくるのかしら?」
「そうなる危険は、ある」
前途の暗くなる可能性だ。クロアは口の中の甘い後味がすっかり苦々しくなるのを感じる。
「もしお母さまの身柄を渡したら……一生、お母さまと会えなくなる?」
「わからない。ヴラドの活動時期はまちまちだ。やつが活動するときは夫人も同行するだろうが、何十年と寝られれば夫人もそれに従うことになる」
クロアはヴラドの居室にある空の棺桶を思い出した。寝台のない部屋であったが、あれが寝床だというのか。
「ヴラドはいつも棺桶の中にいるの?」
「ああ。普通の寝台で寝ると体にほこりが積もるそうだ。ほこり除けに、棺桶を使う」
並みの人間では考えられない問題対策だ。この館の主が何十年でもねむるというのは、本当によくあることらしい。
「あんなに大きい棺桶を使うのだから、さぞ体も大きいのでしょうね」
「そうだな……貴女がそれだけ体格がよいのも、きっとヴラドの遺伝だ」
そう言われてしまうと、クロアはこれまで自身を欺いてきた自意識を直視する。
「わたしの身長……お父さまを追い越してしまったものね……」
クノードは中背で、フュリヤは女性にしては高いほうだがクロアほどではない。クロアが両親に似なかった身体的特徴を、ずっとフュリヤの父方の影響だと思いこんできた。クロアの怪力もそうだ。自己に流れる魔人の血が、すぐれた身体能力を発現したのだと信じてきた。同じ血を継ぐフュリヤにはあらわれていない異能力だと知りながら、自分は特異な例の混血児なのだと見做した。そうすることで、公女である自己を肯定しつづけた。しかし現実は、もっと単純だったようだ。
「……ヴラドも、力がとびっきり強いの?」
クロアは平易な答案の答え合わせをするように、否定を想定しない確認をこころみた。タオは目を閉じて「かなり強い」と明快に答える。
「ほかにも貴女とヴラドが似ている部分はあるが……じかに見てみればわかる」
タオの話は一段落ついたと見て、クロアは獣人に茶の礼を言う。そうして食堂を出た。朱色の猫がとことこと後ろをついてくる。
『もう平気か』
クロアがしゃがみ、猫と目線を合わせる。
「ええ、わたし……いろいろと納得はできたわ」
『公女でなくなってもかまわぬか』
「いいのよ。もともとわたしに不似合いだったわ」
しかしさびしさは感じた。クロアの周囲にいる人々は、クロアが公女という立場だからよくしてくれたのだ。その地位が不当であったと知れたいま、彼らとも離別するおそれがある。それでもクロアが自分を孤独だと思わない望みがあった。
クロアは猫の両頬をそっと手で包んだ。毛皮ごしに頬肉をもむ。
「わたしが身分を剥奪されても……ベニトラはわたしと一緒にいてくれる?」
『おぬしの心根が変わらぬかぎりは、共にいよう』
クロアは感極まって、猫を抱き上げる。その頬に自分の頬をごしごしとすり寄せた。どんな窮地に陥っても自分はひとりではないのだと、温かい被毛が教えてくれた。
「わたしが、魔人の娘……」
はじめて知ったことだ。それでも突拍子ない事実とは思えなかった。
「ベニトラやナーマが、わたしを魔族寄りの人間みたいに言っていたのは……」
「魔族の血が濃い者は魔障の血の濃度が見抜ける。あなたのように気付かない者もいるがね」
「じゃあダムトやプルケも、わたしが……お父さまの子じゃないとわかってた?」
魔人寄りの官吏は「黙っていてごめん」と婉曲的に肯定する。
「クロアさまには教えなくていいことだと、みんな思っていたんだ。でもこうして実父疑惑の魔人と関わりをもっちゃ、そうも言ってられないよね……」
「お父さまは? 知っていらしたの?」
「ああ、ダムトが……教えてたらしい」
「いつ?」
「ダムトがクロアさまの従者に取りたてられたころ、だったかな」
「そんなに……むかしから?」
父は自身の血を受け継がない娘を、そうと知ってなお愛育した。その行為にどれだけのむなしさがあっただろうか。クロアは父が表に見せなかった心情を想像するといたたまれなくなり、目元に熱気がのぼってくる。
「お父さまは、ずっと……真実を隠しておいでだったのね……」
娘が慕う父親が他人だと知れば娘は傷つく。それゆえ官吏にも口止めして、クロアを領主の娘として居させた。その情愛を想うとクロアはむせび泣きそうになる。だが感情の爆発をこらえ、毅然とした態度をつらぬいた。涙はいくつか流れてくるが、強引にぬぐい、鼻をすすった。
タオは兎に茶の用意を頼み、部屋を出る。クロアも彼に手を引かれて出ていく。
「帰るまえに、すこし休んでいこう」
「わたしは、もう話すことは──」
「事情を飲みこむには時間がかかるだろう? 一息ついておこう」
クロアはタオの心遣いに甘えることにした。クロア自身は自分が平静をたもてていると思うのだが、他人から見てどうかはわからない。余計な不安を屋敷へ持ちこまないよう、ここで心の整理をしておこうと考えた。
タオに連れられる間、クロアはかつてないほどに思考をめぐらせる。母がヴラドの妻に等しい人だと父が知ったらどうなるだろう。母を魔人に返すのか。
(お母さまがいなくなったら、妹たちが寂しがるわ。まだちいさいんだもの)
クロアの不安は幼い家族にあった。学舎に住まう妹と弟は長期休暇の帰省時、我先にとフュリヤに抱きつくのだ。彼らは母への慕情が強く、まだまだ甘え盛りだ。
(あの子たちが独り立ちするまでは、お母さまにいてもらわないと……)
母の身柄を返さないのなら、どうやって捜索人の目をくらますのか。その手段はとてもクロアでは思いつけなかった。
クロアたちは沈黙したまま、一階へもどった。灰色の獣人が手招きしていたので、その案内にしたがうと、食堂のような場所に出た。調理場の近くに食卓がある。タオが食卓に着き、クロアとプルケも着席する。兎の獣人たちが手際よく茶の支度をした。二人の獣は言葉を交わさずに息の合った連携を見せる。タオの急な茶会の要求を、別室にいた獣人がすでに知っていたのを鑑みると、兎の彼らにのみ聞こえる会話をしているのかもしれない。
クロアとプルケには蜂蜜の入った紅茶がふるまわれた。タオは甘味が好かないのか素のままの紅茶を飲む。クロアは飲食をする気になれず、湯気の立つ茶杯を見ていた。
「今後のことが、心配か?」
タオがこともなげに聞いた。他人事にはちがいないのだが、クロアには快く思えない質問だ。
「あなたに憂えていただく必要はありませんわ」
「ねえや、じいやに生活を支えられていた貴族が、いきなり平民の暮らしを営めるか?」
こう聞かれてやっと、クロアは自分が公女である資格が無いことを悟る。
「あ……そうだわ、わたし……お父さまの後継者じゃなくなるんだわ」
「いま気付いたか?」
タオがあきれたようにおどろくので、クロアはむっとする。
「わたしがバカだとおっしゃりたい?」
「そうじゃない。さきほど貴女が落ちこんでいたのを、公女でなくなることに対する不安のせいだと……私が勘違いした」
他人の目からはそう見えたのか、とクロアは意表をつかれた。タオはプルケを見て、「領主はどうお考えだ?」と問う。プルケは彼女は首をひねって「ヒラ役人にはなんとも」と言う。
「クノードさまのお心は、わからない。クロアさまをどうしたいのか、ご本人に聞かないと」
父に話さなくては物事が進まない。クロアは意を決して、紅茶を一気飲みした。空けた茶杯をそっと机上へおろす。
「そう、ね……お父さまとお母さまにちゃんと知らせなくちゃ」
「継承権の話も大事だが、ヴラドが夫人を連れもどしたがっていることにも対処してほしい」
「そこが問題だわ。お母さまを返さなかったら、やっぱり武力行使してくるのかしら?」
「そうなる危険は、ある」
前途の暗くなる可能性だ。クロアは口の中の甘い後味がすっかり苦々しくなるのを感じる。
「もしお母さまの身柄を渡したら……一生、お母さまと会えなくなる?」
「わからない。ヴラドの活動時期はまちまちだ。やつが活動するときは夫人も同行するだろうが、何十年と寝られれば夫人もそれに従うことになる」
クロアはヴラドの居室にある空の棺桶を思い出した。寝台のない部屋であったが、あれが寝床だというのか。
「ヴラドはいつも棺桶の中にいるの?」
「ああ。普通の寝台で寝ると体にほこりが積もるそうだ。ほこり除けに、棺桶を使う」
並みの人間では考えられない問題対策だ。この館の主が何十年でもねむるというのは、本当によくあることらしい。
「あんなに大きい棺桶を使うのだから、さぞ体も大きいのでしょうね」
「そうだな……貴女がそれだけ体格がよいのも、きっとヴラドの遺伝だ」
そう言われてしまうと、クロアはこれまで自身を欺いてきた自意識を直視する。
「わたしの身長……お父さまを追い越してしまったものね……」
クノードは中背で、フュリヤは女性にしては高いほうだがクロアほどではない。クロアが両親に似なかった身体的特徴を、ずっとフュリヤの父方の影響だと思いこんできた。クロアの怪力もそうだ。自己に流れる魔人の血が、すぐれた身体能力を発現したのだと信じてきた。同じ血を継ぐフュリヤにはあらわれていない異能力だと知りながら、自分は特異な例の混血児なのだと見做した。そうすることで、公女である自己を肯定しつづけた。しかし現実は、もっと単純だったようだ。
「……ヴラドも、力がとびっきり強いの?」
クロアは平易な答案の答え合わせをするように、否定を想定しない確認をこころみた。タオは目を閉じて「かなり強い」と明快に答える。
「ほかにも貴女とヴラドが似ている部分はあるが……じかに見てみればわかる」
タオの話は一段落ついたと見て、クロアは獣人に茶の礼を言う。そうして食堂を出た。朱色の猫がとことこと後ろをついてくる。
『もう平気か』
クロアがしゃがみ、猫と目線を合わせる。
「ええ、わたし……いろいろと納得はできたわ」
『公女でなくなってもかまわぬか』
「いいのよ。もともとわたしに不似合いだったわ」
しかしさびしさは感じた。クロアの周囲にいる人々は、クロアが公女という立場だからよくしてくれたのだ。その地位が不当であったと知れたいま、彼らとも離別するおそれがある。それでもクロアが自分を孤独だと思わない望みがあった。
クロアは猫の両頬をそっと手で包んだ。毛皮ごしに頬肉をもむ。
「わたしが身分を剥奪されても……ベニトラはわたしと一緒にいてくれる?」
『おぬしの心根が変わらぬかぎりは、共にいよう』
クロアは感極まって、猫を抱き上げる。その頬に自分の頬をごしごしとすり寄せた。どんな窮地に陥っても自分はひとりではないのだと、温かい被毛が教えてくれた。
タグ:クロア
2019年05月09日
クロア篇−10章2
「どういう、こと?」
クロアは答えを聞きたくない問いをつぶやいた。明るい茶色の兎が「そのまんまの意味」と無邪気に切り捨てる。
「この子どもを抱いてる人、ヴラドが捜してる女性なの」
「ちがうわ。だって、お母さまは十数年もお父さまと連れ添って──」
「うん、それくらいむかしにここを出て行ったよ。『施療院に行く』と言って」
施療院は公営の医療施設だ。診察だけなら無料で利用でき、旅人もお世話になるという。聞くところによると、クロアの両親の馴れ初めも、クロアの母が町の施療院へ向かうところを騎馬で通りがかった父が送ってあげたという。
「なんで、その女性が……アンペレに行くの? ここは聖王国じゃないわ、剣王国でしょう。この国の人は、この国の施療院に行くものじゃないの?」
クロアは母がヴラドの関係者ではない点をひねり出した。それ以外に否定の根拠は出ない。
「聖王国のほうが医療技術がいいって噂だからかも?」
それは療術士の技術差が激しい両国において根強い評価だった。医療を司る魔人の子が、兎に別の写真を見せて「間違いないか」と念押しする。兎はなおもクロアの母をヴラドの所有物だと肯定した。
「名前はフュリヤというらしいが、それで合っているか?」
「うん、そんな名前だった。ちゃんと確認してみるね」
兎が戸棚から帳簿を出した。年号と物品の名前、それを渡した者の情報などが記載してある。兎は白紙の部分を見開きにし、そこからさかのぼった。最新の記録らしき項目を読み上げる。
「トリフ暦九六一年三月、剣王国のテミーズ村の者が村娘と引き換えに魔物退治を依頼する。娘の名はフュリヤ。種族は半魔。魔物を倒し、娘をもらう」
クロアはテミーズの名を母の故郷として聞いていた。山奥の草木豊かな村であり薬草を採取、調合して村全体の利益としていたという。
母の名と故郷の名、半魔という特徴とその人物の活動時期。それらはすべてクロアの母と一致している。クロアは否定しうる材料を失った。
「なんで……お母さまはヴラドのことなんて、一度もおっしゃらなかったのに……」
「それは本人に聞くしかないな。だがそのまえに……」
タオは部屋の扉に向かった。通路へ出て、すぐにもどる。その片手に女性の襟首をつかんでいた。タオが捕まえた人物は桃色の髪をした術官だ。
「この者は偵吏なのか?」
「え……プルケ? どうしてついて来たの?」
プルケは拘束を解かれた。逃げるそぶりはせず、恥ずかしそうにする。
「クロアさまが心配だったんだ。屋敷内でタオさんに会ったら、クロアさまの気配と変な感じがして……」
透明化の術は物理的には姿を隠せても、精神的に感覚のするどい者には効き目がうすいという。プルケは術士としての実力が高いため、隠遁したクロアの気配を察したのだ。
「追いかけてみたらタオさんの姿が消えたでしょ。で、気配は空へ遠ざかっていく。これは透明化状態で遠出する気だな、と思ってついてきたわけだよ」
「わたしを心配してくれたのはいいわ。盗み聞きの弁解はどうするつもり?」
クロアはずいと顔を近づけた。背の低いプルケは身長差による圧力を感じ、畏縮する。
「あの、盗み聞くつもりはなくて……」
「だいたい、兎の獣人が侵入者を引き止める約束なのだけど……どうやって入ってきたの?」
「え? 『だれだ』と聞かれたからアンペレの官吏だと答えて、普通に入れてもらえたけど」
クロアはタオの顔を見上げた。タオは「そういえばだれも入れるなとは言わなかった」と自身の言葉不足を内省した。
「まあいいわ。プルケ、これだけははっきりさせとく。この場で聞いたことを他言する?」
「いえ、黙っておきます。他人があれこれ言えるもんじゃない」
「そう、わかったわ。わたしはお母さまに申し上げるつもりだから、めぐりめぐってお父さまやカスバンにも知られるでしょうね」
母と娘だけの話では済まない。確実に父も知る。そして母の身柄を魔人に明け渡すか否かを高官と協議するだろう。結果的にはプルケの口止めをする意味はないが、順番が大事だ。まず家族内で満足のいく話し合いをする。そうしないうちに家族外の者、とりわけ老爺に知らせては彼の意見が横行してしまいかねない。その状況は家族が納得する結末を迎えにくくさせる。
「さっそく屋敷にもどりましょう」
「待て。まだ話は終わっていない」
「どんな話ですの? プルケが居てもよろしいのかしら」
「ああ、彼女はきっとわかっている。隠し立ては無用だ」
タオはプルケと視線で会話した。プルケが悲しげな顔をする。クロアにとっておもしろい話ではなさそうだ。
「お母さまの素性以外に、わたしが知るべきことがあるとおっしゃるの?」
「ああ、もはや、隠しつづけてはおけないことだ」
「まだるっこしいですわね。簡潔に教えてちょうだい」
タオは感情が見えない仮面をつくる。
「あなたはヴラドの子だ」
短文の言葉が、強固な飛礫(つぶて)のようにクロアの胸に当たった。だがすぐさま粉塵と化して心の底に落ちる。それは意外にも拒否反応なく心身に溶け込んだ。
クロアは答えを聞きたくない問いをつぶやいた。明るい茶色の兎が「そのまんまの意味」と無邪気に切り捨てる。
「この子どもを抱いてる人、ヴラドが捜してる女性なの」
「ちがうわ。だって、お母さまは十数年もお父さまと連れ添って──」
「うん、それくらいむかしにここを出て行ったよ。『施療院に行く』と言って」
施療院は公営の医療施設だ。診察だけなら無料で利用でき、旅人もお世話になるという。聞くところによると、クロアの両親の馴れ初めも、クロアの母が町の施療院へ向かうところを騎馬で通りがかった父が送ってあげたという。
「なんで、その女性が……アンペレに行くの? ここは聖王国じゃないわ、剣王国でしょう。この国の人は、この国の施療院に行くものじゃないの?」
クロアは母がヴラドの関係者ではない点をひねり出した。それ以外に否定の根拠は出ない。
「聖王国のほうが医療技術がいいって噂だからかも?」
それは療術士の技術差が激しい両国において根強い評価だった。医療を司る魔人の子が、兎に別の写真を見せて「間違いないか」と念押しする。兎はなおもクロアの母をヴラドの所有物だと肯定した。
「名前はフュリヤというらしいが、それで合っているか?」
「うん、そんな名前だった。ちゃんと確認してみるね」
兎が戸棚から帳簿を出した。年号と物品の名前、それを渡した者の情報などが記載してある。兎は白紙の部分を見開きにし、そこからさかのぼった。最新の記録らしき項目を読み上げる。
「トリフ暦九六一年三月、剣王国のテミーズ村の者が村娘と引き換えに魔物退治を依頼する。娘の名はフュリヤ。種族は半魔。魔物を倒し、娘をもらう」
クロアはテミーズの名を母の故郷として聞いていた。山奥の草木豊かな村であり薬草を採取、調合して村全体の利益としていたという。
母の名と故郷の名、半魔という特徴とその人物の活動時期。それらはすべてクロアの母と一致している。クロアは否定しうる材料を失った。
「なんで……お母さまはヴラドのことなんて、一度もおっしゃらなかったのに……」
「それは本人に聞くしかないな。だがそのまえに……」
タオは部屋の扉に向かった。通路へ出て、すぐにもどる。その片手に女性の襟首をつかんでいた。タオが捕まえた人物は桃色の髪をした術官だ。
「この者は偵吏なのか?」
「え……プルケ? どうしてついて来たの?」
プルケは拘束を解かれた。逃げるそぶりはせず、恥ずかしそうにする。
「クロアさまが心配だったんだ。屋敷内でタオさんに会ったら、クロアさまの気配と変な感じがして……」
透明化の術は物理的には姿を隠せても、精神的に感覚のするどい者には効き目がうすいという。プルケは術士としての実力が高いため、隠遁したクロアの気配を察したのだ。
「追いかけてみたらタオさんの姿が消えたでしょ。で、気配は空へ遠ざかっていく。これは透明化状態で遠出する気だな、と思ってついてきたわけだよ」
「わたしを心配してくれたのはいいわ。盗み聞きの弁解はどうするつもり?」
クロアはずいと顔を近づけた。背の低いプルケは身長差による圧力を感じ、畏縮する。
「あの、盗み聞くつもりはなくて……」
「だいたい、兎の獣人が侵入者を引き止める約束なのだけど……どうやって入ってきたの?」
「え? 『だれだ』と聞かれたからアンペレの官吏だと答えて、普通に入れてもらえたけど」
クロアはタオの顔を見上げた。タオは「そういえばだれも入れるなとは言わなかった」と自身の言葉不足を内省した。
「まあいいわ。プルケ、これだけははっきりさせとく。この場で聞いたことを他言する?」
「いえ、黙っておきます。他人があれこれ言えるもんじゃない」
「そう、わかったわ。わたしはお母さまに申し上げるつもりだから、めぐりめぐってお父さまやカスバンにも知られるでしょうね」
母と娘だけの話では済まない。確実に父も知る。そして母の身柄を魔人に明け渡すか否かを高官と協議するだろう。結果的にはプルケの口止めをする意味はないが、順番が大事だ。まず家族内で満足のいく話し合いをする。そうしないうちに家族外の者、とりわけ老爺に知らせては彼の意見が横行してしまいかねない。その状況は家族が納得する結末を迎えにくくさせる。
「さっそく屋敷にもどりましょう」
「待て。まだ話は終わっていない」
「どんな話ですの? プルケが居てもよろしいのかしら」
「ああ、彼女はきっとわかっている。隠し立ては無用だ」
タオはプルケと視線で会話した。プルケが悲しげな顔をする。クロアにとっておもしろい話ではなさそうだ。
「お母さまの素性以外に、わたしが知るべきことがあるとおっしゃるの?」
「ああ、もはや、隠しつづけてはおけないことだ」
「まだるっこしいですわね。簡潔に教えてちょうだい」
タオは感情が見えない仮面をつくる。
「あなたはヴラドの子だ」
短文の言葉が、強固な飛礫(つぶて)のようにクロアの胸に当たった。だがすぐさま粉塵と化して心の底に落ちる。それは意外にも拒否反応なく心身に溶け込んだ。
タグ:クロア
2019年05月08日
クロア篇−10章1
他国にある館の魔人の住処に到着したクロアは飛竜から降りた。屋内は明るいため、何者かが館にいるとうかがい知れる。クロアは魔人がいるのではないかと思い、すぐに玄関へ突入する気にはなれなかった。タオが「楽にしていい」と忠告する。
「ヴラドがいる気配はない。この照明は同居人が点けたものだ」
館の主は不在だと知り、クロアは緊張がほぐれた。臨戦態勢は不要となれば両手を空けておく必要はない。それゆえ足元にいるベニトラを抱きあげる。
「ヴラド以外に、どういった方が住んでらっしゃるの?」
「普段ねむりつづけるヴラドに代わって屋敷を守る者だ。迷いこんだ旅人の世話もする」
タオが大きな両扉を開けた。開けた瞬間は暗かったが、足を踏み入れると壁に設置された灯りが点灯する。四尺ばかり前方に、もうひとつ扉が構えていた。
「ここは改築した玄関だ。入口と広間が直通していると落ち葉が入ってきて困る、と管理者に言われて直した」
「きれい好きな方ですのね」
「ああ、もとが掃除目的に造った生き物だ」
「『造った』……?」
タオはふたつめの扉を開けた。広間は明るく、暖炉や長椅子などの常人に入り用な設備、家具が最低限ある。魔人の住居とはいえ、人間の宿代わりになるという噂は本当らしい。
ぺたぺたという物音が近付く。クロアはつい杖に手を伸ばすが、現れた生き物を見て気が抜けた。薄茶色の毛に覆われた獣人で、兎に似た長い耳と大きな目が印象的だ。背は子どものように小さい。裳を履くさまは女性のようだ。
「お客さんなの?」
声は幼く、敵意がまるでない。クロアは獣人の無防備さに意識がいってしまい、上の空で「そんなところですわ」と答えた。タオが会話を引き継ぐ。
「ティッタ、ヴラドの部屋へ案内してくれ」
「うん、わかった」
クロアたちは兎の獣人に先導される。階段を上がり、扉が点々と続く廊下を進んだ。今度は灰色の毛皮の兎が手を振りながら走ってきた。獣人が「リロー」とタオに声かける。
「頼んでおいたハタキは?」
「すまない、まだ買っていない」
クロアは「リロー?」と新たな呼び名に反応した。タオが「私のあだ名だ」と言う。タオの名となんら共通点のない呼称だ。マキシのように長い名前を省略した愛称では確実にない。
「ティド、お前は館に不審な人物が入らないように見張ってくれるか」
「いつもやってるよ!」
灰色の兎は一階へ行った。クロアたちは最上階へ上がる。重厚な両扉の前へ着き、茶色の兎がたやすく扉を開けた。扉は見た目ほど重くはないらしい。
兎が部屋の灯りを点けた。室内には蓋の開いた棺桶が中央に置かれている。体格の良いタオ以上の者が収まりそうな巨大さだ。その棺桶が室内でもっとも目立った。棺桶を囲むようにして棚や箱が壁際に並ぶ。武具も装飾品のごとく陳列していた。タオはおもむろに棚の引き戸をあけ、中にあった写真を出す。色あせた写真には所狭しと人が写っている。その中にはリックらしき姿があった。
「これは大昔、私が生まれる前に撮ったものだそうだ。この男がヴラド」
タオが指でひとりの男を示した。残念ながら年代ものの写真に加え、被写体が後方にあって、顔がはっきり見えない。
「よくわかりませんわね……最近の写真はありませんの?」
「これは術で経年劣化を防いでいる。単に写真機の性能が悪いんだ」
タオは別の一枚を見せる。男性の横顔が写りきらないほどの接写だった。雰囲気は気の強そうな、眼力のある壮年に感じられた。
「撮り方は下手だがこれが一番、よく顔が見える」
「ヴラドの顔を知っても、肝心の女性さがしには役に立たないのではなくて?」
「意味は、ある」
タオがじっとクロアの顔色をうかがった。憐れみを帯びた目だ。クロアは自分になんら恥じ入る部分はないゆえ、反抗心を燃やす。
「なぜそんな目でわたしを見るの? わたしが捨てられた子犬にでも見える?」
「ああ、いずれそうなるかもしれないからな」
なかば冗談で言った例えが、否定されなかった。クロアは屈辱を覚える。
「どういうつもり?」
クロアは苛立った。タオが鞄からクロアの家族写真を出す。写真帳をめくり、兎に見せた。
「ティッタ、この中に見知った者がいるか?」
兎は大きな目をぐるぐるうごかしたのち、「うん」と答える。
「この女の人がヴラドの宝物」
兎が毛むくじゃらな手で写真を示した。一般動物の兎にはない指先を、クロアは注目する。幼いクロアを抱く赤髪の婦人。その上に獣の指があった。
「ヴラドがいる気配はない。この照明は同居人が点けたものだ」
館の主は不在だと知り、クロアは緊張がほぐれた。臨戦態勢は不要となれば両手を空けておく必要はない。それゆえ足元にいるベニトラを抱きあげる。
「ヴラド以外に、どういった方が住んでらっしゃるの?」
「普段ねむりつづけるヴラドに代わって屋敷を守る者だ。迷いこんだ旅人の世話もする」
タオが大きな両扉を開けた。開けた瞬間は暗かったが、足を踏み入れると壁に設置された灯りが点灯する。四尺ばかり前方に、もうひとつ扉が構えていた。
「ここは改築した玄関だ。入口と広間が直通していると落ち葉が入ってきて困る、と管理者に言われて直した」
「きれい好きな方ですのね」
「ああ、もとが掃除目的に造った生き物だ」
「『造った』……?」
タオはふたつめの扉を開けた。広間は明るく、暖炉や長椅子などの常人に入り用な設備、家具が最低限ある。魔人の住居とはいえ、人間の宿代わりになるという噂は本当らしい。
ぺたぺたという物音が近付く。クロアはつい杖に手を伸ばすが、現れた生き物を見て気が抜けた。薄茶色の毛に覆われた獣人で、兎に似た長い耳と大きな目が印象的だ。背は子どものように小さい。裳を履くさまは女性のようだ。
「お客さんなの?」
声は幼く、敵意がまるでない。クロアは獣人の無防備さに意識がいってしまい、上の空で「そんなところですわ」と答えた。タオが会話を引き継ぐ。
「ティッタ、ヴラドの部屋へ案内してくれ」
「うん、わかった」
クロアたちは兎の獣人に先導される。階段を上がり、扉が点々と続く廊下を進んだ。今度は灰色の毛皮の兎が手を振りながら走ってきた。獣人が「リロー」とタオに声かける。
「頼んでおいたハタキは?」
「すまない、まだ買っていない」
クロアは「リロー?」と新たな呼び名に反応した。タオが「私のあだ名だ」と言う。タオの名となんら共通点のない呼称だ。マキシのように長い名前を省略した愛称では確実にない。
「ティド、お前は館に不審な人物が入らないように見張ってくれるか」
「いつもやってるよ!」
灰色の兎は一階へ行った。クロアたちは最上階へ上がる。重厚な両扉の前へ着き、茶色の兎がたやすく扉を開けた。扉は見た目ほど重くはないらしい。
兎が部屋の灯りを点けた。室内には蓋の開いた棺桶が中央に置かれている。体格の良いタオ以上の者が収まりそうな巨大さだ。その棺桶が室内でもっとも目立った。棺桶を囲むようにして棚や箱が壁際に並ぶ。武具も装飾品のごとく陳列していた。タオはおもむろに棚の引き戸をあけ、中にあった写真を出す。色あせた写真には所狭しと人が写っている。その中にはリックらしき姿があった。
「これは大昔、私が生まれる前に撮ったものだそうだ。この男がヴラド」
タオが指でひとりの男を示した。残念ながら年代ものの写真に加え、被写体が後方にあって、顔がはっきり見えない。
「よくわかりませんわね……最近の写真はありませんの?」
「これは術で経年劣化を防いでいる。単に写真機の性能が悪いんだ」
タオは別の一枚を見せる。男性の横顔が写りきらないほどの接写だった。雰囲気は気の強そうな、眼力のある壮年に感じられた。
「撮り方は下手だがこれが一番、よく顔が見える」
「ヴラドの顔を知っても、肝心の女性さがしには役に立たないのではなくて?」
「意味は、ある」
タオがじっとクロアの顔色をうかがった。憐れみを帯びた目だ。クロアは自分になんら恥じ入る部分はないゆえ、反抗心を燃やす。
「なぜそんな目でわたしを見るの? わたしが捨てられた子犬にでも見える?」
「ああ、いずれそうなるかもしれないからな」
なかば冗談で言った例えが、否定されなかった。クロアは屈辱を覚える。
「どういうつもり?」
クロアは苛立った。タオが鞄からクロアの家族写真を出す。写真帳をめくり、兎に見せた。
「ティッタ、この中に見知った者がいるか?」
兎は大きな目をぐるぐるうごかしたのち、「うん」と答える。
「この女の人がヴラドの宝物」
兎が毛むくじゃらな手で写真を示した。一般動物の兎にはない指先を、クロアは注目する。幼いクロアを抱く赤髪の婦人。その上に獣の指があった。
タグ:クロア
2019年05月07日
クロア篇−9章7
夕食を終えたクロアは自室で休んでいた。クロアのあらたな招獣はいま、マキシに預けてある。その様子を見に行こうかな、とぼんやり考えたころ、扉を叩く音が鳴った。音の出所は隣室のレジィの部屋ではなく、廊下だ。
「どちらさま?」
「療術士のタオだ。いま、部屋に入ってもいいか」
「ええ、どうぞ」
帽子を被った男が入室する。彼は外套を羽織っており、外出の支度ができていた。ただし杖は持っていない。
「いまからお出かけになるの?」
「ああ、ヴラドの館に行く。先だっては貸していただきたいものがあって来た」
「なんですの?」
「写真……とくにご両親が写っているものがいい」
「お父さまとお母さまの写真? ええ、わかりましたわ」
クロアは不可解ながらも要求通りに家族写真を探す。寝台の横にある棚から写真帳を出した。冊子状のそれは収めた枚数がクロアお気に入りの画ぞろい。ぺらぺらとめくり、両親が共にいる構図を選んだ。これはどう、とタオに見せると「帳面ごと貸せるか」と聞いてくる。写真を個別に保護する袋がないため、写真の保存の面においてクロアは了承した。タオは写真帳を自身の鞄にしまう。
「公女も同行を願う。無理なら日を改める」
「わたしも一緒に? でしたらみなに一言伝えておきましょう」
「いや、黙って行こう。尾行されては面倒だ」
クロアは従者にも告げずに外出をすることに抵抗を覚えた。おまけに目の前の人物はまだよく知らない相手だ。二人きりで行動して、なにが起きるかわからない。
「不安ならば武具を装備したうえで、ベニトラも連れていこう。こいつは口が堅い」
「他言無用なものを調べに行くんですの?」
「そうだ。かなり繊細に扱わねば……この町に混乱が訪れる」
クロアはタオが口走った、ヴラドが町を滅ぼしに来るという脅し文句を思い出した。他者が魔人の所有物に無礼を働けば破滅を呼ぶという行為。それがタオも引き起こす可能性があるのではないかと不安がよぎる。
「館の調査は、あなたの雇用の際に依頼したことではないのに……ほんとうによろしいの?」
「私のことは案じるな。さ、飛獣を出すぞ」
成人の背丈ほどの爬虫類が現れた。赤黒い鱗で覆った体に羽毛のない翼が生える。飛竜にしては小型で、ひとりが騎乗するのがやっとだ。
「わたしはベニトラに乗りましょうか」
「いや、この屋敷を出るまでは飛竜に乗っていてほしい。姿を隠せる」
クロアはタオの指示にしたがって武装し、竜にまたがった。鱗がほんのり温かい。さらに温かい猫がクロアの手中におさまった。ベニトラが竜に乗ると半透明な膜が竜全体を包みはじめた。タオが部屋を出て、その後を泡に入った竜が低空飛行する。タオは飛竜を引き連れて屋敷内を闊歩した。道中すれ違う官吏はタオにのみ注目し、後ろにいる飛竜とクロアにはまったく視線を投げなかった。妙だと思ったクロアは竜や自身の手を見る。可視できる姿だ。ダムトが使う透明化の術とは異なる隠遁の術があるのだとわかった。
クロアはだれにも声をかけられずに屋敷を出た。人目につかない場所にて竜は上昇する。タオが同乗しないまま上空へ飛翔することにクロアは焦ったが、彼は竜の足につかまっていた。
小型の飛竜は町の外壁を越え、歩哨の警戒範囲を離脱する。そのとたん飛竜は肥大化し、大人が二、三人背に乗れる大きさまでに成長した。タオが飛竜の背中に自身の足をかけ、よじのぼる。そうしてクロアの後方に騎乗した。竜全体を包む膜は依然としてある。
「この膜はなんですの?」
「主な効果は風よけと目くらましだ。それと転落防止にもなる」
「落ちても平気……それはとても安心できますわね。ダムトの飛獣だと、すこし体の傾きを変えただけで落ちそうなんですもの」
「安定感を度外視して飛行に特化する分、精気の消費が抑えられるんだろう。かくいう自分も、この飛竜を最低限の大きさで飛行させているしな」
「ほんとうはもっと大きいと?」
「昼間の飛竜よりは大きかったと思う。と言っても、公女は近くで見ていなかったかな」
賊の逃走を援助した竜。その背には一体何人乗せていたのかクロアは気になった。
「そういえば飛竜に乗った賊の数、おわかりになる?」
「下から見ていたせいでわからないな。ダムトは最低でも十六人、確認できていたんだろう? 捕えた十人を引いて六人。その程度は運べる。詰めればあと三、四人は乗る」
「十人も運べますの? 竜はそんなに大きいんですのね」
「手荒な方法を使えばもっと運べるぞ」
「荒っぽい方法?」
「飛竜の胃袋には食物の消化用と物の保管用の二種類がある。保管用に人を入れるんだ」
「まちがって消化されません?」
「飛竜の気分と呑まれる人の暴れ方次第では、そういった間違いが起きるだろうな」
「さらっと物騒なことをおっしゃるのね、あなたは」
「可能性があることはたしかだ。そこを言い繕っても意味がないように思う」
クロアはこの療術士に不器用な実直さを見い出す。いよいよダムトが評した「信用できる男」が真実味を帯びてきた。
飛竜は聖王国と剣王国を隔てる山を越える。この大陸上での国境は通常、自由に出入りが許される。通行に制限がかかるときとは、凶悪犯罪者の逃亡や凶暴な魔獣の出現などの緊急時にかぎる。さらに緊迫した状況になると、山に張り巡らされた防衛機能が作動し、山および空からの移動もできなくなるという。その機能は第三訓練場の利用時に発生する防壁と同種のものだ、とクロアは聞いていた。
行く手を阻まれない飛竜はとある屋敷の前へ着陸した。森林に囲まれた静謐な館だ。中には煌々とした灯りが窓から漏れ、日の落ちた庭を照らしていた。
「どちらさま?」
「療術士のタオだ。いま、部屋に入ってもいいか」
「ええ、どうぞ」
帽子を被った男が入室する。彼は外套を羽織っており、外出の支度ができていた。ただし杖は持っていない。
「いまからお出かけになるの?」
「ああ、ヴラドの館に行く。先だっては貸していただきたいものがあって来た」
「なんですの?」
「写真……とくにご両親が写っているものがいい」
「お父さまとお母さまの写真? ええ、わかりましたわ」
クロアは不可解ながらも要求通りに家族写真を探す。寝台の横にある棚から写真帳を出した。冊子状のそれは収めた枚数がクロアお気に入りの画ぞろい。ぺらぺらとめくり、両親が共にいる構図を選んだ。これはどう、とタオに見せると「帳面ごと貸せるか」と聞いてくる。写真を個別に保護する袋がないため、写真の保存の面においてクロアは了承した。タオは写真帳を自身の鞄にしまう。
「公女も同行を願う。無理なら日を改める」
「わたしも一緒に? でしたらみなに一言伝えておきましょう」
「いや、黙って行こう。尾行されては面倒だ」
クロアは従者にも告げずに外出をすることに抵抗を覚えた。おまけに目の前の人物はまだよく知らない相手だ。二人きりで行動して、なにが起きるかわからない。
「不安ならば武具を装備したうえで、ベニトラも連れていこう。こいつは口が堅い」
「他言無用なものを調べに行くんですの?」
「そうだ。かなり繊細に扱わねば……この町に混乱が訪れる」
クロアはタオが口走った、ヴラドが町を滅ぼしに来るという脅し文句を思い出した。他者が魔人の所有物に無礼を働けば破滅を呼ぶという行為。それがタオも引き起こす可能性があるのではないかと不安がよぎる。
「館の調査は、あなたの雇用の際に依頼したことではないのに……ほんとうによろしいの?」
「私のことは案じるな。さ、飛獣を出すぞ」
成人の背丈ほどの爬虫類が現れた。赤黒い鱗で覆った体に羽毛のない翼が生える。飛竜にしては小型で、ひとりが騎乗するのがやっとだ。
「わたしはベニトラに乗りましょうか」
「いや、この屋敷を出るまでは飛竜に乗っていてほしい。姿を隠せる」
クロアはタオの指示にしたがって武装し、竜にまたがった。鱗がほんのり温かい。さらに温かい猫がクロアの手中におさまった。ベニトラが竜に乗ると半透明な膜が竜全体を包みはじめた。タオが部屋を出て、その後を泡に入った竜が低空飛行する。タオは飛竜を引き連れて屋敷内を闊歩した。道中すれ違う官吏はタオにのみ注目し、後ろにいる飛竜とクロアにはまったく視線を投げなかった。妙だと思ったクロアは竜や自身の手を見る。可視できる姿だ。ダムトが使う透明化の術とは異なる隠遁の術があるのだとわかった。
クロアはだれにも声をかけられずに屋敷を出た。人目につかない場所にて竜は上昇する。タオが同乗しないまま上空へ飛翔することにクロアは焦ったが、彼は竜の足につかまっていた。
小型の飛竜は町の外壁を越え、歩哨の警戒範囲を離脱する。そのとたん飛竜は肥大化し、大人が二、三人背に乗れる大きさまでに成長した。タオが飛竜の背中に自身の足をかけ、よじのぼる。そうしてクロアの後方に騎乗した。竜全体を包む膜は依然としてある。
「この膜はなんですの?」
「主な効果は風よけと目くらましだ。それと転落防止にもなる」
「落ちても平気……それはとても安心できますわね。ダムトの飛獣だと、すこし体の傾きを変えただけで落ちそうなんですもの」
「安定感を度外視して飛行に特化する分、精気の消費が抑えられるんだろう。かくいう自分も、この飛竜を最低限の大きさで飛行させているしな」
「ほんとうはもっと大きいと?」
「昼間の飛竜よりは大きかったと思う。と言っても、公女は近くで見ていなかったかな」
賊の逃走を援助した竜。その背には一体何人乗せていたのかクロアは気になった。
「そういえば飛竜に乗った賊の数、おわかりになる?」
「下から見ていたせいでわからないな。ダムトは最低でも十六人、確認できていたんだろう? 捕えた十人を引いて六人。その程度は運べる。詰めればあと三、四人は乗る」
「十人も運べますの? 竜はそんなに大きいんですのね」
「手荒な方法を使えばもっと運べるぞ」
「荒っぽい方法?」
「飛竜の胃袋には食物の消化用と物の保管用の二種類がある。保管用に人を入れるんだ」
「まちがって消化されません?」
「飛竜の気分と呑まれる人の暴れ方次第では、そういった間違いが起きるだろうな」
「さらっと物騒なことをおっしゃるのね、あなたは」
「可能性があることはたしかだ。そこを言い繕っても意味がないように思う」
クロアはこの療術士に不器用な実直さを見い出す。いよいよダムトが評した「信用できる男」が真実味を帯びてきた。
飛竜は聖王国と剣王国を隔てる山を越える。この大陸上での国境は通常、自由に出入りが許される。通行に制限がかかるときとは、凶悪犯罪者の逃亡や凶暴な魔獣の出現などの緊急時にかぎる。さらに緊迫した状況になると、山に張り巡らされた防衛機能が作動し、山および空からの移動もできなくなるという。その機能は第三訓練場の利用時に発生する防壁と同種のものだ、とクロアは聞いていた。
行く手を阻まれない飛竜はとある屋敷の前へ着陸した。森林に囲まれた静謐な館だ。中には煌々とした灯りが窓から漏れ、日の落ちた庭を照らしていた。
タグ:クロア
2019年05月06日
クロア篇−9章6
会議終了後、クロアは平常通りに執務室で昼食をとった。自室で食べてもよかったが、午前にできなかった事務作業を食後すぐにこなしたかった。出兵のせいで疲れたからと言って後日に回してもよかったが、快勝とは言えぬ結果に終わったため気が引けた。
室内には四人の男女がいる。レジィとダムトの両人が揃っているためにマキシの座席はなく、予備の椅子を使ってクロアの机にお邪魔した。その図々しさにクロアは少々うんざりする。
「あなたは客室で召し上がってもよろしいのですけど?」
「なんの、保護した魔獣が起きたら公女に知らせがくると言うじゃないか。だったらきみのそばに居させてもらう。僕の知らない間にあの魔獣の招術士を決められてほしくないからね」
「なんです、あなたは同じ種類の招獣がもう一体欲しいんですの?」
「それが一番気楽だな。彼がグウェンと相性がよくなかったとしても、ほかの雌に会わせてあげられる。もしここのだれかが招術士になったときは、そう簡単にいくまい」
「魔獣は複数人の招獣になれるのでしょ」
「できはするが……基本的にひとりを招術士に認めるものだ。いろんな人に代わる代わる呼ばれたくはないんだろう。きみだって『資料をまとめろ』とか『経費の試算をしろ』とか一日中働かせられたら、嫌になるだろ?」
クロアは午前限定の公務でさえ嫌気が差している。事務作業が苦手な者には気が重くなる例えだ。魔獣を招獣にする行為は彼らに仕事を押し付け、拘束することに近しいのだと考えをあらためる。ベニトラを招獣にして以来、気ままな猫としてすごす獣を見ていると、招獣とは楽な生き物だとばかりうらやんでいたが、そうでもないらしい。
「そうね……ベニトラはいつも寝ているけれど、今日のような戦いがひっきりなしに起きたんじゃ、大好きな昼寝ができないわ」
「きみのように招獣を伸び伸びと暮らさせる招術士ばかりじゃない。多くが戦闘や運搬などをさせる目的で呼ぶんだ。術士の精気を代価としてね」
マキシの講義中に、ひとりの官吏が入室してきた。官吏は小型の檻と包みをクロアの机に置く。檻の魔獣の処遇をクロアに一任すると言って、すぐ退室した。クロアが檻の中の生物を見ているとマキシは包みを勝手に開ける。包みには割れた赤い石が入っていた。
「これが赤い魔石……の欠片か。ありがたく頂戴しよう」
「そんなもの、もらってどうしますの?」
「研究させてもらう。うまくいけば招獣の強化用の装具に転用できるぞ」
「せいぜい招獣を凶暴化させないようにお気をつけになって」
クロアは檻の戸を開ける。ちいさな白い魔獣がそろりと前足を机上につけた。
「ねえあなた、この部屋にいる人間の招獣になってくださる?」
「オレが、人間の小間使いに?」
四肢の長いトカゲのような魔獣がクロアを見上げた。
「いまのところ、あなたになにかしてもらう予定はありませんわ。静養にどうかと勧めております。招獣として呼ばれる間、招術士の精気があなたに流れる……早く活力を取りもどすには好都合なのではなくて?」
「なにが目的だ? 金にならんことを人間がすると思えん」
「わたしは金品に困窮しておりません。しいていえば戦える仲間が不足しているかしら」
「ほーう、オレを手駒にしたいか」
無毛の獣が部屋の左右に控える従者を見た。レジィは手を振りながら獣に笑いかける。ダムトは魔獣の視線を無視して、空の食器を配膳台に運ぶ。獣は最後にクロアとマキシを見つめる。
「オレの信条から決めさせてもらうと、アンタだな」
「わたし?」
「術や道具を使ってオレらを捕まえる連中は好かん。だがアンタは腕力でオレに勝った」
鱗で覆われた獣が前足をあげる。クロアは握手をするように鱗で覆われた足を握った。
室内には四人の男女がいる。レジィとダムトの両人が揃っているためにマキシの座席はなく、予備の椅子を使ってクロアの机にお邪魔した。その図々しさにクロアは少々うんざりする。
「あなたは客室で召し上がってもよろしいのですけど?」
「なんの、保護した魔獣が起きたら公女に知らせがくると言うじゃないか。だったらきみのそばに居させてもらう。僕の知らない間にあの魔獣の招術士を決められてほしくないからね」
「なんです、あなたは同じ種類の招獣がもう一体欲しいんですの?」
「それが一番気楽だな。彼がグウェンと相性がよくなかったとしても、ほかの雌に会わせてあげられる。もしここのだれかが招術士になったときは、そう簡単にいくまい」
「魔獣は複数人の招獣になれるのでしょ」
「できはするが……基本的にひとりを招術士に認めるものだ。いろんな人に代わる代わる呼ばれたくはないんだろう。きみだって『資料をまとめろ』とか『経費の試算をしろ』とか一日中働かせられたら、嫌になるだろ?」
クロアは午前限定の公務でさえ嫌気が差している。事務作業が苦手な者には気が重くなる例えだ。魔獣を招獣にする行為は彼らに仕事を押し付け、拘束することに近しいのだと考えをあらためる。ベニトラを招獣にして以来、気ままな猫としてすごす獣を見ていると、招獣とは楽な生き物だとばかりうらやんでいたが、そうでもないらしい。
「そうね……ベニトラはいつも寝ているけれど、今日のような戦いがひっきりなしに起きたんじゃ、大好きな昼寝ができないわ」
「きみのように招獣を伸び伸びと暮らさせる招術士ばかりじゃない。多くが戦闘や運搬などをさせる目的で呼ぶんだ。術士の精気を代価としてね」
マキシの講義中に、ひとりの官吏が入室してきた。官吏は小型の檻と包みをクロアの机に置く。檻の魔獣の処遇をクロアに一任すると言って、すぐ退室した。クロアが檻の中の生物を見ているとマキシは包みを勝手に開ける。包みには割れた赤い石が入っていた。
「これが赤い魔石……の欠片か。ありがたく頂戴しよう」
「そんなもの、もらってどうしますの?」
「研究させてもらう。うまくいけば招獣の強化用の装具に転用できるぞ」
「せいぜい招獣を凶暴化させないようにお気をつけになって」
クロアは檻の戸を開ける。ちいさな白い魔獣がそろりと前足を机上につけた。
「ねえあなた、この部屋にいる人間の招獣になってくださる?」
「オレが、人間の小間使いに?」
四肢の長いトカゲのような魔獣がクロアを見上げた。
「いまのところ、あなたになにかしてもらう予定はありませんわ。静養にどうかと勧めております。招獣として呼ばれる間、招術士の精気があなたに流れる……早く活力を取りもどすには好都合なのではなくて?」
「なにが目的だ? 金にならんことを人間がすると思えん」
「わたしは金品に困窮しておりません。しいていえば戦える仲間が不足しているかしら」
「ほーう、オレを手駒にしたいか」
無毛の獣が部屋の左右に控える従者を見た。レジィは手を振りながら獣に笑いかける。ダムトは魔獣の視線を無視して、空の食器を配膳台に運ぶ。獣は最後にクロアとマキシを見つめる。
「オレの信条から決めさせてもらうと、アンタだな」
「わたし?」
「術や道具を使ってオレらを捕まえる連中は好かん。だがアンタは腕力でオレに勝った」
鱗で覆われた獣が前足をあげる。クロアは握手をするように鱗で覆われた足を握った。
タグ:クロア
2019年05月05日
クロア篇−9章5
一行はアンペレの町に着いた。クロアはベニトラの背に担がれていた白い魔獣を抱える。猛獣の姿のベニトラを町中に入れては住民が怯えてしまうため、ベニトラには愛らしい幼獣に変じてもらう。太い足の猫と化したベニトラを、レジィが抱いた。
町には当主以下別働隊が帰還しており、余力のある兵が賊の連行を引き継いだ。予想外の魔人と交戦した隊員たちは緊張の糸が切れ、口々に自身の生あることを喜んでいた。隊列の後方にいたユネスが呆れたように苦笑する。
「ほんとに戦士って柄じゃねえのが多いな」
「剣王国の常識で言わないでちょうだい。これがうちの国民の普通の感想なの」
「怪我したら療術ですぐ治してもらえるってのに、そんなに怖いもんですかね」
「ユネスは大怪我してても、戦うのが怖くならない?」
クロアは彼の血まみれた腹部に視線をやった。傷は完治しているが引き裂かれた服に血が付着したままだ。ユネスは腹に手を当てる。
「……正直、この傷をつけた野郎が出てきた時はびびりました。やり合わないうちから、強さが突き刺さってくるんです」
「逃げたいとは思わなかったの?」
「兵には逃げろと言いましたよ。だが野郎は襲ってくるんで、おれが凌ぐしかないでしょう。兵士連中が時間稼ぎをしたんじゃ、死人が出る」
「自己犠牲の精神でそのケガを負ったのね」
「そんな立派な考えは全然ないですよ。おれが隊長という職分だからそうしたんです。所属のない傭兵時代だったらスタコラ逃げていましたね」
「あら、意外だわ。独り身のほうが無茶しやすいのかと思っていたけれど」
「なにもしがらみがなけりゃ、自分の命優先でやっていきますとも。いまじゃあ隊長に、父親っていう大それた名前がくっついてきてる。そんな身分のやつが部下を置いて逃げたとあっちゃ、もう情けなくって生きていけませんよ」
軽口を言いながらクロアたちは屋敷に帰還した。魔獣とその胸にあった赤い石の残骸を一時官吏に預ける。そしてすぐに会議室へ集合した。会議室内には留守を預かった高官と、クノードと彼が率いる別働隊に加わったプルケと客分のルッツ、タオがすでに在席していた。リックとフィルはクロアたちの集結に合わせて登場する。口から酒の匂いを漂わせていたため、時間ギリギリまで飲食に勤しんでいたのだとわかった。
ユネスが遅れて入室する。彼は汚れた服を着替えてきたのだ。クノードは話しあいを始めるまえに兵の状態を尋ねた。ボーゼンは皆壮健だと答え、当主が人当たりのよい笑顔を見せる。
「では結果報告を始めよう。最初に成果を言うと、我々は一部の賊を逃がした。これは賊の逃走にそなえていた私の落ち度だ。ボーゼンたちは善戦し、十名の賊を捕えてくれた」
「伯、それは語弊があります。本官とユネスの隊は予想外の強敵に遭遇し、敗北を喫しました。これに打ち勝てれば賊の逃走を許すことはなかったのです。賊を逃がしたのは我らの力量不足ゆえです」
「『予想外の強敵』とは魔獣のことではないね?」
「はい、館の魔人──ヴラドが協力者にいました」
カスバンのみが魔人の名に反応を見せた。ヴラドと遭遇していないクノードと彼に同行した者たちは平然としている。その態度を察したボーゼンは「どなたがヴラドについて皆に教えたのです」と質問し、タオが挙手する。
「私が教えた。飛び去る飛竜の追跡を引きとめたのも私だ」
「貴殿はかの魔人とはお知り合いか」
「そうだ。あの青紫の飛竜はヴラドのものだとすぐにわかった。あの速さについていける飛獣を持ちあわせていないため、追跡はムダだと判断した」
「ではどう対策を講じるべきか、一計がおありだろうか?」
「ヴラドがどういう動機で悪党に関与するかによる。リック、お前は会ったんだろう?」
椅子を揺すっていたリックがめんどくさそうに「そうだなぁ」と気のない返事をする。
「あいつは女を捜してる。何年前だかの報酬で捧げられた女だ。それを賊がさがすから、その対価として、あいつが賊の援護をすることになったんだとよ」
クノードが苦々しく「女性……か」とつぶやいた。リックはかまわず説明を続ける。
「そいつをワシらが見つけてヴラドにくれてやりゃあ、あいつは自分ちに帰るだろうよ。そんで後ろ盾を失くした賊をふんじばるってえ寸法だ。クロアも同じ考えだな?」
クロアは「おっしゃるとおりですわ」とリックに同意した。しかし具体的にヴラドがどんな人物をもとめているのか、わからない。
「どういう女性なのか……タオさんはご存知?」
「私も……よくは知らないな。リック、なぜヴラドに問い詰めなかった」
「聞いても答えやしねえ。あいつ、またド忘れしてんぜ。こうなるなら帳簿を漁っときゃよかったな」
「しょうのないやつだ。館を調べて手がかりを見つけよう。これは私に任せてほしい」
タオは全体に向けて進言した。断る理由はないとクロアは思うが、カスバンが反論する。
「それはわがアンペレの官吏が調査すべきことでしょう。客人ひとりに任せるわけには」
「ヴラドの所有物を破損なり紛失なりさせてみろ、この町を滅ぼしに来るやもしれんぞ」
タオの剣幕に押され、老官が黙った。タオは物静かそうなわりに過激なことを言う男だ。
「私がヴラドの怒りを買ったとしても、対抗手段はある。ここは私を頼ってくれ」
クノードが「お任せしよう」と決定を下す。
「いつ頃に実行するつもりか、教えていただけるかな」
「そう何日とは時間をかけない。準備ができ次第、と言っておきましょう」
「ではあなたの裁量を信じよう」
今後の方針が決定し、あとは細々とした状況報告が展開する。昼食時を過ぎた時間帯での会議は武官たちとクロアの集中力が欠けてしまい、早々に解散となった。
町には当主以下別働隊が帰還しており、余力のある兵が賊の連行を引き継いだ。予想外の魔人と交戦した隊員たちは緊張の糸が切れ、口々に自身の生あることを喜んでいた。隊列の後方にいたユネスが呆れたように苦笑する。
「ほんとに戦士って柄じゃねえのが多いな」
「剣王国の常識で言わないでちょうだい。これがうちの国民の普通の感想なの」
「怪我したら療術ですぐ治してもらえるってのに、そんなに怖いもんですかね」
「ユネスは大怪我してても、戦うのが怖くならない?」
クロアは彼の血まみれた腹部に視線をやった。傷は完治しているが引き裂かれた服に血が付着したままだ。ユネスは腹に手を当てる。
「……正直、この傷をつけた野郎が出てきた時はびびりました。やり合わないうちから、強さが突き刺さってくるんです」
「逃げたいとは思わなかったの?」
「兵には逃げろと言いましたよ。だが野郎は襲ってくるんで、おれが凌ぐしかないでしょう。兵士連中が時間稼ぎをしたんじゃ、死人が出る」
「自己犠牲の精神でそのケガを負ったのね」
「そんな立派な考えは全然ないですよ。おれが隊長という職分だからそうしたんです。所属のない傭兵時代だったらスタコラ逃げていましたね」
「あら、意外だわ。独り身のほうが無茶しやすいのかと思っていたけれど」
「なにもしがらみがなけりゃ、自分の命優先でやっていきますとも。いまじゃあ隊長に、父親っていう大それた名前がくっついてきてる。そんな身分のやつが部下を置いて逃げたとあっちゃ、もう情けなくって生きていけませんよ」
軽口を言いながらクロアたちは屋敷に帰還した。魔獣とその胸にあった赤い石の残骸を一時官吏に預ける。そしてすぐに会議室へ集合した。会議室内には留守を預かった高官と、クノードと彼が率いる別働隊に加わったプルケと客分のルッツ、タオがすでに在席していた。リックとフィルはクロアたちの集結に合わせて登場する。口から酒の匂いを漂わせていたため、時間ギリギリまで飲食に勤しんでいたのだとわかった。
ユネスが遅れて入室する。彼は汚れた服を着替えてきたのだ。クノードは話しあいを始めるまえに兵の状態を尋ねた。ボーゼンは皆壮健だと答え、当主が人当たりのよい笑顔を見せる。
「では結果報告を始めよう。最初に成果を言うと、我々は一部の賊を逃がした。これは賊の逃走にそなえていた私の落ち度だ。ボーゼンたちは善戦し、十名の賊を捕えてくれた」
「伯、それは語弊があります。本官とユネスの隊は予想外の強敵に遭遇し、敗北を喫しました。これに打ち勝てれば賊の逃走を許すことはなかったのです。賊を逃がしたのは我らの力量不足ゆえです」
「『予想外の強敵』とは魔獣のことではないね?」
「はい、館の魔人──ヴラドが協力者にいました」
カスバンのみが魔人の名に反応を見せた。ヴラドと遭遇していないクノードと彼に同行した者たちは平然としている。その態度を察したボーゼンは「どなたがヴラドについて皆に教えたのです」と質問し、タオが挙手する。
「私が教えた。飛び去る飛竜の追跡を引きとめたのも私だ」
「貴殿はかの魔人とはお知り合いか」
「そうだ。あの青紫の飛竜はヴラドのものだとすぐにわかった。あの速さについていける飛獣を持ちあわせていないため、追跡はムダだと判断した」
「ではどう対策を講じるべきか、一計がおありだろうか?」
「ヴラドがどういう動機で悪党に関与するかによる。リック、お前は会ったんだろう?」
椅子を揺すっていたリックがめんどくさそうに「そうだなぁ」と気のない返事をする。
「あいつは女を捜してる。何年前だかの報酬で捧げられた女だ。それを賊がさがすから、その対価として、あいつが賊の援護をすることになったんだとよ」
クノードが苦々しく「女性……か」とつぶやいた。リックはかまわず説明を続ける。
「そいつをワシらが見つけてヴラドにくれてやりゃあ、あいつは自分ちに帰るだろうよ。そんで後ろ盾を失くした賊をふんじばるってえ寸法だ。クロアも同じ考えだな?」
クロアは「おっしゃるとおりですわ」とリックに同意した。しかし具体的にヴラドがどんな人物をもとめているのか、わからない。
「どういう女性なのか……タオさんはご存知?」
「私も……よくは知らないな。リック、なぜヴラドに問い詰めなかった」
「聞いても答えやしねえ。あいつ、またド忘れしてんぜ。こうなるなら帳簿を漁っときゃよかったな」
「しょうのないやつだ。館を調べて手がかりを見つけよう。これは私に任せてほしい」
タオは全体に向けて進言した。断る理由はないとクロアは思うが、カスバンが反論する。
「それはわがアンペレの官吏が調査すべきことでしょう。客人ひとりに任せるわけには」
「ヴラドの所有物を破損なり紛失なりさせてみろ、この町を滅ぼしに来るやもしれんぞ」
タオの剣幕に押され、老官が黙った。タオは物静かそうなわりに過激なことを言う男だ。
「私がヴラドの怒りを買ったとしても、対抗手段はある。ここは私を頼ってくれ」
クノードが「お任せしよう」と決定を下す。
「いつ頃に実行するつもりか、教えていただけるかな」
「そう何日とは時間をかけない。準備ができ次第、と言っておきましょう」
「ではあなたの裁量を信じよう」
今後の方針が決定し、あとは細々とした状況報告が展開する。昼食時を過ぎた時間帯での会議は武官たちとクロアの集中力が欠けてしまい、早々に解散となった。
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