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2016年03月23日
第42回 吉原登楼
文●ツルシカズヒコ
紅吉こと尾竹一枝は菊坂の女子美術学校を中退後、叔父・尾竹竹坡の家に寄寓していたが、一九一一(明治四十四)年十一月に実家のある大阪に帰郷していた。
紅吉がらいてうの存在を知るきっかけとなったのは、森田草平が『東京朝日新聞』に連載(一九一一年四月二十七日〜七月三十一日)した小説「自叙伝」だった。
森田は塩原事件(煤煙事件)を題材にして小説「煤煙」を『東京朝日新聞』に連載(一九〇九年一月一日〜五月十六日)したが、「自叙伝」は「煤煙」の続編である。
『青鞜』創刊前から、紅吉は塩原事件(煤煙事件)のヒロインのモデルであるらいてうに憧れ、崇拝の念を持っていた。
私が一番最初平塚さんを知つたのは草平氏の自叙伝を読んだ時なんです。
その時私は随分、様々の好奇心を自叙伝通して平塚さんの上に描いておりました。
そしてどうも不思議なすばらしい人だとも考へ、恐ろしい人のやうにも考へ、女として最も冷つこい意地の悪い人のやうにも思つてをりました、そして読み終つた日などは、すぐにでも東京に出て面会して私の解釈がどうだか見きはめたいとまで好奇心を一ぱいもつてをりました。
(尾竹紅吉「自叙伝を読んで平塚さんに至る」/『中央公論』1913年7月増刊・婦人問題号「平塚明子論」_p175~176)
紅吉は大阪から、青鞜社の社員になりたい旨の熱い手紙をらいてうに書いた。
らいてうが入社了承の返事を出し、紅吉が社員になったのは一九一二(明治四十五)年一月だった。
それからたびたび、らいてう宛てに熱い手紙が来るようになり、編集部では大阪の「へんな人」と見られていた。
一九一一年十二月に社員になった小林哥津は、知り合いを通じて紅吉と面識があり、紅吉の印象をらいてうにこう語っていた。
……小娘のような口振りだが男のようなたいへんな大女、声が大きくてあたりかまわずなんでもいう女(ひと)、白秋の詩が大好きな十九歳の娘ーー「そりゃあずい分変わった女(ひと)よ、恐い女だわ」
(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下)』_p364)
大阪から上京した紅吉が哥津に連れられて、らいてうの書斎を訪れたのは一九一二年二月十九日だった(らいてう「一年間(つづき)」/『青鞜』一九一三年十二月号・第三巻第十二号)。
尾竹紅吉「自叙伝を読んで平塚さんに至る」によれば、「東京にロダンの展覧会を見に来たとき平塚さんに初めてお目にかゝつたのです、丁度二月の十八日でした」。
らいてうは二月十九日と書き、紅吉は二月十八日と書いている。
「ロダンの展覧会」というのは、白樺主催第四回展覧会のことである。
『白樺』一九一〇(明治四十三)年十一月号は特集「ロダン号」だったが、ロダンから白樺同人に彫刻作品三点が贈られ、一九一二年二月に白樺同人が公開したのである。
『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下)』(p366)によれば、らいてうに初めて面会した紅吉は以後、青鞜社の事務所にも顔を出すようになり、編集の手伝いや表紙絵やカットの仕事などをするようになった。
久留米絣に袴、あるいは角帯に雪駄ばきと粋な男装で、風を切りながら歩き、言いたいことを言い、大きな声で歌ったり笑ったり、因習とは無縁な生まれながらに解放された人、紅吉。
らいてうは紅吉に好感を抱き、紅吉は他の社員からも可愛がられた。
一九一二年五月、尾竹越堂は一家で上京し、中根岸に居を構えた。
紅吉は第十二回巽画展に「陶器」と題する二曲一双の屏風を出品し、褒状三等を受けた。
五月十三日、紅吉は『青鞜』の仲間を中根岸の自宅に招き祝いの会を開いた。
その祝いの席でらいてうと紅吉は抱擁し接吻した。
紅吉は『青鞜』にらいてうへの想いを書いた。
不意にあらわれた、年上の女、
私は只それによつて、生きて行きそうだ、又、行かねばならぬ、
冷たいと思はせて泣かせられる時も来るだらう、けれど私は、恋しい、
私は如何なる手段によつて私自身の勝利が傷けられても、
その年上の女を忘れる事が出来ない、
DOREIになつても、いけにへとなつても、
只、抱擁と接吻のみ消ゆることなく与へられたなら、
満足して、満足して私は行かう。
(「或る夜と、或る朝」/『青鞜』1912年6月号・第2巻第6号_p115~116)
らいてうも「ふたりの紀念すべき五月十三日の夜」のことを書いた。
紅吉を自分の世界の中なるものにしやうとした私の抱擁と接吻がいかに烈しかつたか、私は知らぬ。
知らぬ。
けれどあゝ迄忽に紅吉の心のすべてが燃え上らうとは、火にならうとは。
(「円窓より」/『青鞜』1912年8月号・第2巻第8号_p82~83)
紅吉は五月十三日の「青鞜ミーチング」で、みんなで日本酒、麦酒、洋酒を飲んだことも書いた(「編輯室より」/『青鞜』一九一二年六月号・第二巻第六号_p121)。
たちまち『読売新聞』や『中央公論』で非難された。
さらに追い打ちをかけるように、紅吉が絡んだふたつの「醜聞」が報道された。
当時、日本橋区小網町鎧橋筋にあったレストラン兼バー、メイゾン鴻の巣は若い文士や画家たちに人気があった(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』p373)。
六月、紅吉は『青鞜』に載せる広告を取りにメイゾン鴻の巣を訪れ、比重によって色わけされるカクテルを見せられて「五色につぎ分けたお酒を青いムギワタの管で飲みながら」(『青鞜』第二巻七号_p109)と書いた。
そして七月の初旬。
紅吉、らいてう、そして青鞜社発起人のひとり中野初が吉原見学に出かけた。
『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(p374~375)によれば、そういうところを見ておくのも、社会勉強になるのではないかと誘ったのは紅吉の叔父・尾竹竹坡だった。
竹坡のお膳立てで吉原でも一番格式が高い妓楼「大文字楼」に上がり、「栄山」という花魁(おいらん)の部屋に通された。
寿司やお酒が出て、栄山を囲んで話をした。
その夜、らいてうら三人は花魁とは別の部屋に泊まり、翌朝、帰った。
堀場清子『青鞜の時代』(p112~113)によれば、七月十日の『万朝報』が「女文士の吉原遊」を記事にした。
『国民新聞』は「所謂新しい女」のタイトルで四回連載(七月十二日〜十五日)を組み「五色の酒」や「吉原登楼」に言及したが、それは噂話を面白おかしく暴露的に綴った中傷記事だった。
世間は青鞜社を非難した。
得体の知れない男が面会を強要したり、脅迫状が届いたり、らいてうの家には石のつぶてが投げられた(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p376)。
青鞜社の社員からも、紅吉と彼女をかばうらいてうへの非難の声が起こった。
塩原事件で受けた心の痛みを知るらいてうは、紅吉をかばい叱咤激励した。
私の少年よ。
らいてうの少年をもつて自ら任ずるならば自分の思つたこと、考へたことを真直に発表するに何の顧慮を要しよう。
みずからの心の欲するところはどこまでもやり通さねばならぬ。
それがあなたを成長させる為めでもあり、同時にあなたがつながる青鞜社をも発展させる道なのだ。
(らいてう「円窓より」/『青鞜』1912年8月号・第2巻第8号_p85)
発起人のひとりで、らいてうが雑誌創刊を最初に相談し、青鞜社の事務を一手に引き受け、社員から「おばさん」と親しまれていた保持研子(やすもち・よしこ)からも、らいてうに叱責の手紙が届いた。
君達三人は吉原に行つたさうだ。
随分思ひ切つた惨酷な真似をしましたね。
私は君達が行つた深い理由は知らないが、何だか自分が侮辱されたやうで悲しかつた。
さうしてたまらなく不快だつた。
(らいてう「円窓より」/『青鞜』1912年8月号・第2巻第8号_p78)
『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(p378)によれば、小学校や女学校の教師からは職を失うことを恐れ、『青鞜』の購読中止を申し出る人もいたし、青鞜社の事務所を置くことを家の人から断られた物集和子が、藤岡一枝というペンネームを使い始めたのもこのころからだった。
★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)
★堀場清子『青鞜の時代ーー平塚らいてうと新しい女たち』(岩波新書・1988年3月22日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第41回 同性愛
文●ツルシカズヒコ
野枝が円窓のあるらいてうの書斎を初めて訪れた日の夜、青鞜社員の西崎花世が友達ふたりを連れてやってきた。
ひとりは西崎が下宿している家の主婦で、もうひとりはやはり社員の小笠原貞だった。
『元始、女性は太陽であった(下)』(p397~402)によれば、らいてうが西崎に初めて会ったのは一九一二(大正元)年十月十七日、「伊香保」で開催した『青鞜』一周年記念の集まりだった。
鴬谷の「伊香保」は当時、会席料理の有名店で文人墨客がよく利用していたが、紅吉の叔父・尾竹竹坡も常連だったので、竹坡の紹介でこの店にしたのだった。
西崎は四国の徳島にいたころから長曽我部菊子というペンネームで、河井酔茗が編集する『女子文壇』の投書家として鳴らしていた。
文学に精進する決心をして上京し、食べるために雑誌の訪問記者などをしていた。
人一倍小柄な体を地味な着物に包んで、目立たない束髪に結った西崎は、らいてうにおよそ若さなど感じさせない「生活とたたかっている人」という印象を残している。
「伊香保」での一周年記念の集まりの後、西崎はらいてうの円窓の書斎に顔を出すようになっていた。
西崎は四国徳島のお国訛で粘っこい話し方をした。
らいてうに近寄ってくる人に対して誰彼となく嫉妬する紅吉は、小柄な西崎を毛嫌いして「小たぬき」という綽名をつけた。
『元始、女性は太陽であった(下)』(p413~414)によれば、西崎と同様に『女子文壇』で育てられた小笠原貞も文学を目指していたので、ふたりは親しかった。
小笠原は絵の勉強もしていたので、青鞜叢書第二編『青鞜小説集』(一九一三年二月/東雲堂発行)の木版の装幀(自画自刻)を手がけた。
らいてうの記憶によれば「色白の、ほっそりした美しい人、日本的なつつましい感じの娘さん」だった。
紅吉はらいてうと哥津の間に座り窮屈らしい体つきをしながら、ばかに丁寧な挨拶をして、まじまじと西崎の顔に見入っていた。
向き合って座っていた哥津と野枝は、そっと目で笑い合った。
西崎たちが来る前に、らいてうが話したことを思い出したからである。
「西崎さんと話しているとね、だんだんに夢中になってくると、こんなふうに膝でこちらにいざり寄って来て、しまいにはこちらの膝をつかまえて話すのですもの、なんだか少し薄気味悪いような人よ」
紅吉はその話をとてもおもしろがって聞いていた。
それを思い出したのだ。
七人の会話はなかなか打ち解けなかった。
イライラし始めた紅吉は、哥津の手を引っ張り寄せて捻ったり揉んだりした。
「紅吉はどうしたの、なんだか落ちつかないじゃないの」
らいてうがたしなめるように紅吉の方を向いた。
「もう帰ります。西崎さん、ここを開けますから、ここにいらっしゃいまし。私はもう帰ります」
「なんだって急に帰るなんて言い出すの、いやな人ね」
哥津は肥(ふと)った紅吉の手をグイグイ引っ張りながら、おかしそうに笑った。
野枝も笑わずにはいられなかった。
「さっきから帰ろうと思っていたんです。西崎さん、本当にここにいらっしゃい。私は本当に帰りますから」
「それじゃ、お帰んなさい。さっきからだいぶ帰る帰るが出ているんですから、もう帰ってもいいでしょう」
紅吉はらいてうにこのように強く出られると、すぐに当惑してしまうのだった。
帰っていいか悪いか、まだいたいような帰りたいような。
そんなとき、子供のような紅吉はいつでもそばにいる哥津のほっそりした肩や背中を、大きな肥った手で力まかせに打つのだった。
紅吉と明子とは世間にさへ同性愛だなどゝ騒がれてゐた程接近してゐた。
明子は本当に、紅吉を可愛がつてゐた。
紅吉は世間からはたゞ多く変り者として取扱はれてゐたが、彼女は子供らしい無邪気と真剣を多分に持つてゐた。
彼女が並はづれて大きな体をもつてゐながら何となく人に可愛いゝと云ふ感を起させるのはそれだつた。
彼女は何時でも何か新しいものを見つけ出さうとしてゐた、一寸した動作にも、言葉にも、其処に何か驚異を見出したいと云つたやうな調子だつた。
で彼女の気まぐれが時々ひどく迷惑がられることがあつた。
明子は何時でも彼女に愛感をもつてゐた。
紅吉ももまた夢中になつて明子の傍を殆どはなれることもないやうに、二人の間は非常に強い愛をもつて結ばれてゐた。
併し紅吉が病気になつて、その夏湘南のある病院に行つてゐたとき其処でーー紅吉の言葉を借りて云へばーー「ふたりの大事な愛に、ひゞがはいつた」のだ、「ひゞはもう決してなほりつこはない」と紅吉は主張してゐた。
紅吉の大事な愛に「ひゞ」を入れたその明子の恋愛事件が紅吉の子供らしい嫉妬を強くあほつた。
それに其頃、これも矢張り紅吉の気まぐれから明子と他に一人二人を誘つて紅吉の叔父がよく知つてゐると云ふ吉原の或る花魁(おいらん)の処に遊びに行つたのが大げさに新聞に報道されて問題になつた為に、小母(おば)さんと皆が呼んでゐる、クリスチヤンで、一番道徳家の保持(やすもち)が制裁と云ふ程の強い意志でもなく紅吉に退社をすゝめて、紅吉もそれを承諾して雑誌にそれを発表してから直(すぐ)だつたので、それも紅吉には明子の仕事から周囲から、いくらか遠くなると云ふことが不安なのだつた。
(「雑音」/『大阪毎日新聞』1916年1月3日・1月6日/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p15~17/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p131~132)
紅吉に打たれた哥津は痛さに肩をすくめながら、
「まあ痛い、本当にひどいわ、私はなにもしないのに」
またかというふうに顔をしかめながら、冗談らしく紅吉を睨みつけるのだった。
らいてうはそちらには目もくれずに、静かな調子で向こうの三人に話しかけていた。
哥津が調子を変えるように言った。
「野枝さん、あなたの頭はずいぶん寂しい頭ね、なんだか私、有髪(うはつ)の尼って気がするわ。私、結ってあげましょうか?」
「そう、じゃ結ってちょうだい」
「ええ、ハイカラな頭に結ってあげるわ。私、学校にいたときはよくハイカラな頭に結ったのよ」
哥津は気軽に座を立って、自分の懐中から櫛を出して、野枝の頭をとき始めた。
前を三七に分けて編みながら根を低く下げた、本当は洋服でも着なければ似合わないような頭になった。
「本当にずいぶんハイカラな頭ね」
野枝はらいてうの本棚の上に載っていた鏡を手にとって、面変わりのしたような自分の顔と頭を驚いたように眺めた。
「よく似合いますよ」
らいてうも話をやめて微笑みながら言った。
「本当によく似合うでしょう、野枝さん。これからこういうふうにお結いなさいよ」
哥津は得意らしく、それでもまだなにか思うようにいかないところがあるのか、チョイチョイいじりながら鏡を覗きこんだ。
みんなが野枝の頭を眺めていた。
紅吉はひとりつまらなそうにしていたが、突然、お腹の底から跳ね出したような声を出した。
「小笠原さん、あなたは油画をおやりになるのでしょう」
「ええ、描くというほどじゃありませんけれど、好きでただいい加減なことをやっていますの」
西崎はいつのまにか、らいてうをつかまえて、ねっつりねっつり話している。
それを見て不快そうに黙りこくっていた紅吉は、なにかじれったそうに膝をむずむずさせだした。
野枝と哥津は顔を見合わせては忍び笑いをした。
とうとう紅吉は頓狂な堪えかねたような声で、
「西崎さん、ここにいらっしゃい。私はそっちにゆきます。ここはらいてうさんのそばですから」
「いいえ、それにはおよびません。ここで結構です。どうぞおかまいなさらないで」
西崎は丁寧にそう言って紅吉に頭を下げた。
らいてうは「仕方がない」といったような顔をしながら、吸っていた「敷島」の灰を落としていた。
紅吉は少しも落ちついてはいられなかった。
このおおぜいの人が、自分の帰った後まで、らいてうのそばに居残っていることが堪えられないような気がして、思い切って立ち上がることもできなかった。
※女子文壇2 ※女子文壇3
★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)
★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
2016年03月22日
第40回 円窓
文●ツルシカズヒコ
「雑音」第一回は『青鞜』一九一二年十二月号の編集作業のシーンから始まっている。
野枝が本郷区駒込曙町一三番地のらいてうの自宅を訪れたのは、おそらく十一月も半ばを過ぎたころだろうか。
野枝が三畳ほどの円窓のあるらいてうの書斎に入るのは、そのときが初めてだった。
「いらっしゃい、この間の帰りは遅くなって寒かったでしょう」
らいてうは優しく微笑みかけ、火鉢を野枝の方に押しやった。
この日は小林哥津も来ることになっていた。
「哥津ちゃんはまだお見えになりませんか」
そう訊ねた野枝の目が本箱の中の書籍の背文字を追った。
「ええ、まだ。ダンテはわかりますか。この次までにね、林町の物集さんがあの本が不用になっているはずですからね、行って借りていらっしゃい。ところはね、千駄木の大観音をご存知? ええ、あすこの前を行ってねーー」
らいてうは万年筆で地図を書きながら、
「本当に、行ってらっしゃい、本がなくちゃね」
「ええ、ありがとう」
野枝はそれだけ言うのがやっとだった。
「物集さん」は青鞜社の発起人のひとり、物集(もずめ)和子。
当初、青鞜社の事務所は、本郷区駒込千駄木林町(はやしちょう)九番地の物集の自宅にあったのだが、『青鞜』一九一二年四月号(二巻四号)に掲載された荒木郁の小説「手紙」が発禁になり、刑事が物集邸に来て『青鞜』を押収したことなどがあり、同年五月半ばごろ青鞜社は本郷区駒込蓬萊町の万年山(まんねんざん)勝林寺に事務所を移転したのだった。
この寺をらいてうに紹介してくれたのは、らいてうが懇意にしていた浅草区松葉町の臨済宗の禅寺、海禅寺の住職・中原秀岳だった。
このころ、青鞜社では講師を呼んで講義をしてもらう勉強会を再開していた。
『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(p393)によれば、火曜と金曜の週二回、生田長江「モーパッサンの短篇」と阿部次郎「ダンテの神曲」である。
しかし、『白樺』一九一二年十月号に掲載された『青鞜』の広告には、阿部次郎「ダンテの神曲」が水曜日、生田長江「モーパッサン」が金曜日とある。
らいてうは物集が持っているダンテの『神曲』を、借りてきなさいと野枝に言ったのである。
物集は青鞜社から離れたので、『神曲』が不用になっているはずだからだ。
これから歩き出さうとする私を導いてくれるのは明子(はるこ)の手より他にはなかつた。
明子もまた、最近にすべての繫累(けいるい)を捨てゝたゞ自分の道に進んでゆかうとする若い私の為めに最もいゝ道を開いてやらうとする温かい親切な心持を私に投げかけることを忘れなかつた。
私にとつてはこの明子の同情は何よりも力強い喜びであつた。
「私は、この人のこの親切を、この同情を忘れてはならない、この人の為めにはどんな苦しみも辞してはならない。」
私はさうした幼稚な感激で一杯になつた。
(「雑音」/『大阪毎日新聞』1916年1月3日/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p7/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p127)
「今日は紅吉も来るかもしれません。それに晩には西崎さんと小笠原さんがいらっしゃるはずです」
「まあそうですか。ではずいぶん賑やかですね。紅吉さん、私が以前、図書館で見ていたころとはずいぶんお変わりになりましたよ」
野枝は尾竹紅吉のことを上野高女時代から見知っていた。
夏休みの間、毎日のように通った上野の帝国図書館でよく見かけていたのだ。
厖大な体を持った彼女は、本を読まずいつもスケッチブックを広げていた。
ふたりは同じ根岸に住んでいたので、図書館以外でもちょいちょい顔を合わせた。
ふたりは一緒になると無言のまま意地を張って歩きっこをした。
「あの方があらい紫矢絣の単衣に白地の帯を下の方にお太鼓に結んであの大きな体に申し訳のように肩上げを上げていたのを本当に可笑しいと思って見ていました。その格好で道を歩きながら、いつも歌っているから、ずいぶん妙な人だと思いましたわ。あの方の叔父様やお父様が画家として名高い方だということも、そのころからわかっていました。あの方の今のお住居は以前、私の叔父の住居だったこともあるのです」
「そうですか、でも紅吉がお太鼓になんか帯を締めていたことがあるのですかね」
らいてうが可笑しそうに笑った。
「じゃそろそろ仕事を始めましょうね。原稿はたいていそろっていますから、頁数を決めましょう。この社の原稿紙三枚で一頁になるのですから、そのつもりで数えて下さいね」
教えられたとおりに、野枝は一枚一枚数えていった。
広い邸内はひっそりしていて、縁側に置いた籠の中の小さな白鳩が喉を鳴らす音が柔らかにあたりに散る。
後ろの部屋のオランダ時計がカチカチ時を刻む。
静かだ。
本当に静かだ。
らいてうはうつむいて原稿紙にペンを走らせている。
小刻みな下駄の音が門の前で止まったと思うと間もなく、くぐり戸が開いて、けたたましいベルの音がして、内玄関で案内を乞う声がした。
「哥津ちゃんですよ」
らいてうがペンを置いて、そこの敷布団を直した。
「ごめんください、こんにちは」
哥津はスラリと長い体をしなやかに折って座りながら、格好のいい銀杏返しに結った頭をかしげて、らいてうと野枝に挨拶をした。
「他にまわるところがあったものですから、つい遅くなりましたの。もうお始めになってるの。目次やなんかお書きになって? そう、じゃ私が書くわ」
明るい調子で話す哥津が来てから、急に場は賑やかに伸びやかになった。
「野枝さんて、もっと若い人かと思った。二十二、三には見えるわ。着物の地味なせいかもしれないけど」
「哥津ちゃん、今度は何か書けて?」
「ええ、だけどずいぶんつまらないものよ。私小説は初めてですもの、なんだか駄目よ」
「でも、まあ見せてごらんなさいよ」
哥津は派手な模様のついたメリンスの風呂敷の中から原稿を出して、らいてうの前に置いた。
野枝は哥津とらいてうの隔てのない会話を聞きながら、その前に哥津が『青鞜』に書いた「お夏のなげき」という戯曲のひとくさりを思い浮かべていた。
ちなみに一幕ものの戯曲「お夏のなげき」のラストは、こうである。
子供の声ーー清十郎殺すなら……お夏も殺せ……。
お夏の声ーー向こう通るは清十郎ぢやないか、笠がよくにたすげの笠……
(小林哥津「お夏のなげき」/『青鞜』1912年10月号・第2巻第10号_p)
静かな通りに突然、ソプラノで歌う声がした。
「あ、紅吉が来たわ」
哥津は一番に耳をそばだてた。
らいてうが静かに微笑んだ。
紅吉が三人の笑顔に迎えられて入ってきた。
「編集ですか、手伝いましょうか。だけど私はもう社員じゃないからいけないんですね」
座るとすぐ、紅吉は原稿紙とペンを持ちながら、あわててそれを下に置いて三人の顔を見まわした。
「あのね、今月号の批評読みましたか。カットが誉めてありました、プリミティブだって。あなたの詩に使ったカットね、野枝さん、あれはね、特別にあなたのあの詩のために私が描いたんですよ。南国情緒が出ているでしょう。ねえ、哥津ちゃん、本当にあの詩のために描いたんですね」
「ありがとう、あんなつまらない詩のために、すみません。平塚さんからもうかがいましたの。私の詩にはすぎるくらいです、本当に」
「哥津ちゃんはどう思います」
「いやな紅吉、私あのときちゃんと誉めてあげといたじゃないの」
「そうそう、すいません」
可愛らしく頭を下げる紅吉の大きな体を見ながら、哥津と野枝は心からおかしがった。
紅吉は『青鞜』十月号に掲載された野枝の詩「東の渚」のカットを描いたのだが、「東の渚」は見開き始まりの三頁で、各頁の上に横長の地紋のようなカットがあり(一点描いたものを流用)、絵柄は花壇に咲いているアールヌーボ風のチューリップである。
らいてうは若い三人の対話から離れて、哥津の原稿を読んでいた。
鋭い紅吉はらいてうが熱心に原稿に目を通しているのを見ると、すぐ立ち上がりかけた。
「今日は邪魔になりますからもう帰ります。野枝さん、今度、私の家に遊びにいらっしゃい」
原稿に目を通しているらいてうが、顔を上げて穏やかに言った。
「今来たばかりのくせに、なんだってもう帰るの」
「だって編集の邪魔になるじゃありませんか。それに私はもう退社したのに、ここにいると誤解されるから」
真顔に答える紅吉の顔を、野枝はあきれて眺めた。
※尾竹紅吉2 ※尾竹紅吉3
★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)
★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第39回 青鞜
文●ツルシカズヒコ
一九一二(大正元)年九月十三日、明治天皇の大喪の礼が帝國陸軍練兵場(現在の神宮外苑)で行われた。
乃木希典と妻・静子が自刃したのは、その日の夜だった。
野枝がらいてうから送ってもらった旅費で帰京したのは、「伊藤野枝年譜」(『定本 伊藤野枝全集 第四巻』)によれば九月の末だが、秋たけなわというような「日記より」の文面やサボンの旬は十月ぐらいからなので、野枝の帰京は十月に入ってからかもしれない。
野枝は結局、まわりの人間を諦めさせたのであろう。
末松家との協議離婚交渉に当たったのは代準介だった。
再び、代とキチは上京し、ノエの説得を試みるも、結果、翻意ならず。
代はノエの気性を知悉しており、元の鞘に戻す事を諦める。
代はけじめをつけるために、腹にさらしを巻き、紋付袴の正装で末松家を訪れる。
大喪の最中であり、「姦通罪」で訴えるのも時節柄破廉恥であると説き、これまでの学費費用や結納金ほか諸費用を倍返しする。
男の面子を潰したのであるから、当然である。
末松家は受け取らぬという。
そこを代は三拝九拝して受け取ってもらう。
心にねじり鉢巻をしての謝罪だった。
(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p75)
末松福太郎と野枝の協議離婚が正式に成立したのは、一九一三(大正二)年二月十一日だった。
紀元節で「よき日」だったからだ。
『青鞜』一九一二年十月号(第二巻第十号)の「編輯室より」には、「新に入社せられし方……伊藤野枝」とあり、野枝が青鞜社員になったことを告げている。
『青鞜』の「芳舎名簿」には「伊藤野枝 福岡県三池郡二川村濃瀬(ママ) 阪(ママ)口方」とある。
二川(ふたかわ)村大字濃施(のせ)は、野枝の叔母・坂口モトの婚家で渡瀬(わたぜ)駅前で旅館を営んでいた。
「芳舎名簿」は名古屋市在住の青鞜社員・青木穠(じょう)が書き写した青鞜社の名簿。
『青鞜』十一月号(第二巻第十一号)には野枝の詩「東の渚」(『定本 伊藤野枝全集 第一巻』)が載った。
矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(p51~53)は「東の渚」は野枝が今宿の郵便局に勤務していたころの心情だと見ているが、『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下)』(p408)は、野枝が「結婚問題の整理に故郷へ帰ったとき、海を見ながら涙を流したという、ひとときを歌ったもののようです」と解釈している。
「東の渚」の末尾に「東の磯の渚にて、一〇、三」とあり、つまり十月三日時点で野枝はまだ今宿にいたのであろう。
とすれば、「東の渚」はらいてうの解釈が妥当だと思える。
野枝は後に『大阪毎日新聞』に「雑音」(サブタイトルはーー「青鞜」の周囲の人々「新しい女」の内部生活」)を連載(一九一六年一月三日から断続的に同年四月十七日まで)するが、「雑音」は一九一二(大正元)年晩秋から一九一四(大正三)年ごろまでの『青鞜』の内部を描いている。
「雑音を書くに就いて」(『定本 伊藤野枝全集 第一巻』p125)によれば、野枝が青鞜社に入社し内部でらいてうの手伝いをするようになったのは、一九一二(大正元)年十一月からだった。
当初は青鞜社への誤解をときたいという執筆動機があったが、それは捨てて、「自伝をかくと同じやうな心持で……自分の大事な記録としてかきたいと云ふ風に考へ」、自他ともに「私の良心が許すかぎり正直にかざりなく書きたいと思つてゐます」と書いている。
らいてうは野枝の生活の援助も考慮していたが「十円ほどのお小遣いを上げるのが、当時の青鞜社ではやっとのこと」(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下)』p407)だったという。
野枝さんが再度上京したのは九月ごろであったかと思います。
十月ごろには編輯室に、生きいきした、いつも生命力にあふれるような姿を見せるようになり、紅吉、哥津、野枝の三人は、三羽烏といった格好で、社内を賑わすようになりました。
なにがおもしろいのか、三人寄ればキャッキャッと笑い声が上がり、哥津ちゃんも野枝さんも、紅吉のふっくらとした大きな手で背中をよくぶたれていたものです。
……こうして野枝さんが加わってから、編集室の空気はいっそう活気づいたものとなり、わたくしは心ひそかに野枝さんを将来有望な人として見守っていたのでした。
実際面であまりあてにならない紅吉と違って、野枝さんはいちばん若いにかかわらず、役に立つ人として、社内のだれからも親しまれてゆきました。
紅吉のように、複雑で、わからない部分をもっている人でなく、打てば響くという実践的なところが、一番年下のこの人を頼もしく思わせたのでしょうか。
(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下)』_p407~408)
小林哥津は明治の浮世絵版画家、小林清親の五女。
『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下)』(p360~361)によれば仏英和女学校(現・白百合学園)在学中に、『青鞜』発起人のひとり木内錠子(ていこ)に誘われ社員になった。
背が高く浅黒いきりっとした顔、浅草育ちの哥津は東京の下町娘といった風情で、書くものにも下町趣味が色濃く出ていた。
『青鞜』掲載の原稿を取りに来た哥津を田村俊子がこう描写している。
十八九の娘さんで、根の抜けたやうな横仆(たお)しになつた銀杏返しがばら/\になつてゐる。
素足で、白飛白(かすり)の帷子(かたびら)を着て 濃い勝色繻子と黄色つぽい模様の一寸見えたものと腹合せの帯を小さく貝の口のやうにちよいと結んで、洋傘を開いて……。
美人だの、美しいのと云ふよりは美い容貌と云ひ度いやうな顔立をしてゐる。
細おもてゞ顔が緊つて、鼻がほそく高くつて、眼がぴんと張りをもつて、険を含んでいる。
江戸芸者の俤(おもかげ)を見るやうなすつきりした顔立ちだつた。
(田村俊「お使ひの帰つた後」/『青鞜』1912年9月号・第2巻第9号_p219~220)
尾竹紅吉は日本画家、尾竹越堂の長女。
紅吉の叔父たち竹坡、国観も日本画家で紅吉は名門尾竹一族の愛娘だった。
大阪の夕陽丘女学校を卒業後、東京菊坂の女子美術学校に入学したが中退。
※女子美術学校2 ※尾竹紅吉2
※尾竹紅吉3ーー中山修一著作集2『富本憲吉とウィリアム・モリス』(紅吉関連写真)
★『定本 伊藤野枝全集 第四巻』(學藝書林・2000年12月15日)
★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第38回 椎の山
文●ツルシカズヒコ
『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(p404~405)によれば、野枝から手紙を受け取ったらいてうは、まず辻潤に相談することにした。
小耳に挟んでいた染井という住所を頼りに、らいてうは辻の家を探し当てたが、辻は滝野川に引っ越していた。
その足で引っ越し先に行くと、辻は不在だった。
家人に用件を告げ名刺を置いていくと、翌日あたりに辻がらいてうを訪ねて来た。
野枝の上京後については、辻が責任を持つということだったので、らいてうは自分のポケットマネーから野枝に旅費を送った。
らいてうは、しばらくの間、辻と野枝の関係に気づかなかったと回想している。
野枝の印象がとても子供らしかったし、手紙や会話ではすべてを打ち明けているふうな野枝が、そのことに触れなかったからである。
辻は野枝のことを教師らしい言葉で「頭の良いよく出来る子」だと言った。
野枝も辻のことを「先生がああいった、こういった」という言い方をしていた。
辻が野枝のことで職を失ったことも、らいてうは後で知った。
らいてうがふたりの関係を知ったのは、野枝が妊娠したと聞いたときであり、野枝が辻のことを「先生」ではなく「辻」と呼ぶようになったのも、妊娠した後だった。
野枝がこのときの帰郷のことを『青鞜』に書いたのが「日記より」である。
野枝は本文に「牧野静」というペンネームを使用しているが、目次には「野枝」と印刷されている。
『定本 伊藤野枝全集 第一巻』解題によれば「原稿にあったペンネームを編集部が見落としたためであろうか」。
六日ーー
雨だらうと思つたのに案外な上天気。
和らかな日影が椽側の障子一ぱいに射してゐる。
書椽の方の障子一枚開くと真青な松の梢と高い晴れた空が覗かれる。
波の音も聞こえぬ。
サフランの小さい花がたつた一つ咲いてゐる。
穏やかな、静かな朝だ。
枕の上に手をついてそつと上半身を起して見る。
少し頭が重いばかりだ。
暫く座つてた。
朗らかな目白の囀(さえず)りが何処からともなく聞こえて来る。
来さうにもない手紙を待つてたけれども駄目だつた。
午後お隣りのお婆さんの歌が始まつた。
夷魔山(いまやま)のお三狐(さんぎつね)にもう、十年近くもとりつかれてゐるのだ。
七十越したお婆さんが体もろくに動かせない位痛み疲れてゐながら食べるものは二人前だと聞いて驚く。
時々機嫌のいゝ時には歌ふのだ。
私たちの知らないやうな、古い歌ばかりだ。
毎日々々たいして悪くもない体を床に横たへて無為に暮す私のさびしい今の心持ちでは、お婆さんの歌は非常に面白く聞かれる。
「わしが歌ふたら、大工さんが笑ふた。歌にかんながかけられよか」
なんて、おもしろい調子で歌ふ。
「婆さんが沈み入るごとある声出して歌ひなさるけん、私どもうつかり、歌はれまつせんや」
若い、お婆さんの養子は高笑ひしながらお婆さんを冷やかしてゐる。
お婆さんの細い声がクド/\何か云つてゐる。
暫くして畑にゐた祖母が垣根越しに養子と口きいてゐた。
「へゑ、只今御愁嘆の場で御座います、もう、近々お逝(か)くれになりますげなけん、そのお別れの口上で……」
ときさく者の養子はあたりかまはず笑つた。
祖母の笑ひ声も聞こえた。
今日も、平穏無事な一日が静かに暮れて行つた。
(「日記より」/『青鞜』1912年12月号・第2巻第12号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p13~14)
八日ーー
懐かしく恋しく、何時までも去り度くなくてはならぬ筈の父母の家を私は、再び逃がれ出でやうとのみ隙をねらつてゐるのだ。
何と云ふ不幸な私だらう。
十重廿重(とえはたえ)に縛(いまし)められた因習の縄を切つて自由な自己の道を歩いて行かうとする私は、因習に生きてゐる、両親やその他の人々の目からは、常軌を逸した、危険極る、道を平気で行く気違ひとしか、見えないだらう。
私は、両親を欺いた。
すべての、私の周囲の人を偽つた。
然しそれを私は、罪悪だとか何とか考へたくない。
……親なんか、何でもないと、いふ気も出るけれども、矢張り目に見えぬ、何かの絆は、しつかり、親と、子といふ間を、つないでゐてその絆はどうしたつて、断つ事は出来ないのだ。
……私が両親を欺いて、家を出て後に父母が襲はれる苦痛と家の中の暗い、不安な、空気をもつて、抱く苦しい心持がうろつく。
「不足なう教育も受けてゐながら、人並にしてゐれば幸福に暮せるものをどうして従順(おとな)しくしてゐる事が出来ないのだらう」
と昨日も祖母が次の間でこぼしてゐた、私は黙つて目をつぶつてゐた。
午後たあちやんが来た。
ザボンを持つて……
私が五つになるまで守をして呉れた女だ。
私の幼い記憶に残つてゐる、たあちやんは赤い、うすい髪の毛をひきつめた銀杏返しに結つた、色の黒い目の細い、両頬に靨(えくぼ)のある忘れられないやうな、何処となくやさしみのある顔だつた。
十三の年にあつて、それつきり会はないでゐるうちに見違へるやうな奇麗な女になつてゐる。
廿四とか云つてゐた。
今まで直方(のおがた)に奉公してゐたが、お嫁入の仕度に帰つて来たら丁度私が久しぶりに帰省してゐると聞いて早速来たのださうだ。
私も何とはなしになつかしくうれしい気がして日あたりのいゝ椽側に床を引つぱり出してその上に座つて話した。
私がナイフを出してもらつてザボンをむいて……。
ザボンはたあちやんの宅になるので奇麗な内紫だ。
たあちやんは……私の幼い時の話をはじめた。
私はザボンをたべながら黙つて、話を聞き聞き、頻(しき)りにおぼろ気な記憶をたどり始めた。
この頃のやうな秋の暮れ方、燈ともし前の一時を私はきつと、たあちやんの背に負はれる。
そして海岸に行つた。
私は小さい時から海が好きだつた。
松原ぬけて砂丘の上にたつて、たあちやんは背をゆすぶり乍(なが)ら、
椎ーのやーまゆーけばー
椎がボーロリボーロリとー
と透きとほるやうな声で歌つて呉れた。
暮れ方のうるみを帯びた物しづかな低い波の音につれる子守歌がたまらなく悲しい。
私はたあちやんの背に顔をうづめてシク/\泣いた。
そしてじーつと耳をすましては、歌を聞き思ひ出したやうに、泣き止んだり、また泣いたりした。
たあちやんは、歌ひ/\サク/\砂丘を降りてまつしろな、きれいな藻の根を、青い藻の中からさがし出しては私の手に握らして呉れた。
私は冷たいその根を噛んでは甘酢つぱい汁を、チユウ/\音をさして吸ふた。
さうしてたあちやんは椎の山を歌ひながら寒い海の風に吹かれて白い渚を行つたり来たりして背中をゆすつた。
五時近くたあちやんは私の髪を梳(す)いて呉れたりして帰つた。
後はまた寂しかつた。
(「日記より」/『青鞜』1912年12月号・第2巻第12号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p14~17)
九日――
今日も仰向あおむけになつたまゝ胸の上に指を組み合はして天井を見つめたまゝ何おもふともなしに一日は暮れてしまつた。
昼間シヤブが松原で殺された事が誰からともなく家の者の耳に入つて来た。
皆浮かぬ顔してゐる。
やさしい、おつとりした親しみを持つた眼と、深いフサ/\した美しい毛をもつた、老ひてはゐたが利巧な犬、可愛いゝ犬だつた。
可なり引き締つた気持ちでゐる私の目からもホロリ/\と涙が出る。
皆次の間で食事しながら犬の事で泣いたり笑つたりしてゐる。
(「日記より」/『青鞜』1912年12月号・第2巻第12号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p17)
※夷魔山
※ザボン2
★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第37回 野生
文●ツルシカズヒコ
出奔した野枝に対する親族のフォローが気になるが、矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(p74)によれば、代準介とキチが上京し野枝に翻意を促したが「ノエと辻はすでに深い関係となっており、しばらく間を置き、熱の冷めるのを待つことにした」とある。
平塚らいてう宛てに、九州の未知の少女から長い手紙が届いたのは、 一九一二(明治四十五)年晩春のころだった。
切手三枚を貼ったペン字の重たい封筒だった。
差出人は「福岡県糸島郡今宿 伊藤野枝」。
それは自分の生い立ち、性質、教育、境遇ーーことに現在肉親たちから強制されている結婚の苦痛などを訴えたもので、そこには道徳、習俗に対する半ば無意識な反抗心が、息苦しいまで猛烈に渦巻いておりました。
そして、自分はもうこれ以上の圧迫に堪えられないから、最後の力をもって肉親たちに反抗して、自分に忠実な正しい道につこうと決心している。
近いうち上京してお訪ねするから、ぜひ会ってほしいと書いてありました。
細かなペン字で、びっしり書きこまれたこの長い手紙は、ひとり合点の思いあがった調子ではありましたが、文章もよく、字も立派なこと、生一本の真面目さによって、青鞜社にくる多くの手紙のなかで格段に印象に残るものでした。
(『元始、女性は太陽であったーー平塚らいてう自伝(下巻)』_p404)
野枝の「あきらめない生き方・その三」の始動である。
またしても野枝は手紙を書く文才、すなわち「手紙作家」の才によって、らいてうに強烈なインパクトを与えたのである。
野枝からの手紙が来てから何日後かに、本郷区駒込曙町の自宅にいたらいてうは、女中さんからこう告げられた。
「伊藤さんという方がお見えになりました」
「どんな方?」
「十五、六ほどのお守(も)りさんのような方です」
……この人があのしっかりした手紙を書いた人とは、どうしても思われません。
小柄ながっちりとしたからだに、赤いメリンスの半幅帯を貝の口にぴんと結んだ野枝さんの感じは、これで女学校を出ているのかと思うほど子どもらしい感じでした。
健康そうな血色のいいふっくりした丸顔のなかによく光る眼は、彼女が勝気な、意地っぱりの娘であることを物語っています。
その黒目勝ちの大きく澄んだ眼は、教養や聡明さに輝くというより、野生の動物のそれのように、生まれたままの自然さでみひらかれていました。
話につれて丸い鼻孔をふくらませる独特の表情や、薄く大きい唇が波うつように歪んで動くのが、人工で装ったものとはまったく反対の、じつに自然なものを身辺から発散させています。
生命力に溢れるこの少女が、初対面のわたくしに悪びれもせず、自分のいいたいだけのことを、きちんと筋道立てていう態度には……情熱的な魅力が感じられるのでした。
(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下)』_p404)
野枝は苦痛と闘い、婚家を飛び出し、上野高女の英語教師だった辻の家に世話になっていることなど、らいてうに書いた手紙の内容をより具体的に話した。
らいてうは勇敢に因習に立ち向かう野枝に対して、青鞜社がなんらかの力になるべきであると思った。
らいてうに会ってみることを野枝に勧めたのは、辻だった。
僕は新聞の記事によつてらいてう氏にインテレストを持ち「青鞜」を読んで、頼もしく思つた。
野枝さんにすすめてらいてう氏を訪問させて相談させてみることを考へた。
(「ふもれすく」/『婦人公論』1924年2月号_p9/『ですぺら』_p184/『辻潤全集 第一巻』_p389)
野枝が住所を今宿にしたのは、その方がらいてうの同情を誘えると考えたからだと言われている。
『青鞜』の創刊は前年、一九一一(明治四十四)年九月であるが、創刊からの読者だった辻に勧められて、野枝も『青鞜』を読んでいただろう。
一九一二年(明治四十五)年)七月二十日、明治天皇の病気を報じる号外が出た。
七月三十日、午前〇時四十三分、明治天皇崩御。
実際の崩御は七月二十九日、二十二時四十三分だったが、諸々の都合で翌日にしたという。
山川菊栄は後に、この日をこう回想している。
明治四十五(一九一二)年七月三十日の夜は、すばらしい月夜でした。
その日、明治天皇は世を去りました。
私はひとりで二階に寝ていましたが、あけ放した窓からは月の光が水のように蚊帳の中まで流れこむ。
ああ明治は終った、明日からは新しい日がくる、今日までのあらゆるいやなことが一夜のうちにこの月の光に洗い去られて、明日からはすばらしく美しい、明るい日がくる、と私はかってな夢をえがいて、子供のころの遠足の前夜のようにうきうきした気分で寝入りました。
(山川菊栄『女二代の記ーーわたしの半自叙伝』/山川菊栄『おんな二代の記』_p192~193)
「伊藤野枝年譜」(『定本 伊藤野枝全集 第四巻』)によれば、明治が終わり大正になった七月末ごろ、野枝は今宿に帰郷していた。
自ら末松福太郎との離婚の話し合いをするためである。
出奔事件の解決がまだついていないので、一度郷里に帰りトラブルを解決してくるといって、平塚らいてう宅を辞した野枝は、今宿かららいてうに手紙を書いた。
それには、帰った日から毎日のように理解のない周囲の人たちから残酷に責め立てられ、以前にも増した苦しみで逃れる道がない。
幾度も死の決心をしたが、このままでは死ぬこともできない。
このごろはもう極度の疲労のため、体をこわしている。
ひとり海岸に出て、涙を流すばかりだというようなことが、思い迫った調子で書いてありました。
とても普通の手段では抜けられないから、家人の隙を窺って再度の家出をしようと思うが、その旅費をなんとか都合して送ってほしいということでした。
(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下)』_p405~406)
★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)
★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)
★『辻潤全集 一巻』(五月書房・1982年4月15日)
★山川菊栄『女二代の記ーーわたしの半自叙伝』(日本評論新社・1956年5月30日)
★山川菊栄『おんな二代の記』(岩波文庫・2014年7月16日)
★『定本 伊藤野枝全集 第四巻』(學藝書林・2000年12月15日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第36回 染井
文●ツルシカズヒコ
辻潤宅で辻と野枝の共棲が始まったのは、おそらく一九一二(明治四十五)年の四月末ごろである。
僕はその頃、染井に住んでゐた。
僕は少年の時分から、染井が好きだツたので一度住んで見たいと兼々(かねがね)思つてゐたのだが、その時それを実行してゐたのであつた。
山の手線が出来始めた頃で、染井から僕は上野の桜木町まで通つてゐたのであつた。
僕のオヤヂは染井で死んだのだ。
だから、今でも其処(そこ)にオヤヂの墓地がある。
森の中の、崖の上の見晴しのいい家であつた。
田圃には家が殆(ほと)んどなかつた。
あれから王子の方へ行くヴァレーは僕が好んでよく散歩したところだつたが今は駄目だ。
日暮里も僕がゐた十七八の頃は中々よかつたものだ。
すべてもう駄目になつてしまつた。
全体、誰がそんな風にしてしまつたのか、何故そんな風になつてしまつたのか?
僕は東京の郊外のことを一寸(ちよつと)話してゐるのだ。
染井の森で僕は野枝さんと生れて始めての熱烈な恋愛生活をやつたのだ。
遺憾なきまでに徹底させた。
昼夜の別なく情炎の中に浸つた。
始めて自分は生きた。
あの時、僕が情死してゐたら、如何に幸福であり得たことか!
それを考へると、僕は唯だ野枝さんに感謝するのみだ。
そんなことを永久に続けようなどと云ふ考へがそも/\のまちがひなのだ。
結婚は恋愛の墓場ーー旧い文句だが如何にもその通り、恋愛の結末は情熱の最高調に於て男女相抱いて死することあるのみ。グヅ/\と生きて、子供など生れたら勿論それはザツツオールだ。
全体僕の最初の動機は野枝さんと恋愛をやる為(た)めではなく、彼女の持つてゐる才能を充分にエヂュケートする為めなのであつた。
それはかりにも教師と名が付いた職業に従事してゐた僕にその位な心掛はあるのが当然な筈(はず)である。
で、それが出来れば僕が生活を棒にふつたことはあまり無意義にはならないことだなどと甚(はなは)だおめでたい考へを漠然と抱いてゐたのだ。
(「ふもれすく」/『婦人公論』1924年2月号_p7~9/『ですぺら』_p179~183/『辻潤全集 第一巻』_p387~389)
辻の母は美津(光津ともいった)は、会津藩の江戸詰め家老・田口重義とその妾某女との間に生まれたが、重義と別れた某女が美津を連れ子として辻四郎三の後添いに入り、美津は養女となる。
辻の父・六次郎は埼玉の豪農茂木家に生まれたが、茂木家は維新前は幕臣だったらしい。
六次郎は美津と結婚し辻家の養子婿となった。
六次郎も美津も明治前の生まれのようだ。
祖父の四郎三は明治維新までは浅草蔵前で札差をしていたので裕福だった。
辻の本名は潤平で弟・義郎(一八九二年生)と妹・恒(つね/一八九六年生)がいた。
義郎は若くして家を出て洋服職人として自活していた。
井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(P56)には、染井の森の緑がしたたる五月初めごろ、上野高女の同窓生四、五人が辻の家を訪ねたとある。
辻の家族一同は彼女たちを心よく迎い入れ、美津は三味線を弾き、辻は尺八を吹き、みんなは歌って「越後獅子」などを合奏した。
小町娘と言われた恒も、野枝と一緒にいそいそと給仕をしたりしてもてなした。
帰りに一同は染井の「ちまき」という汁粉屋に入ったのだが、辻が家を出るとき、野枝が辻の背に羽織を着せ掛けたしぐさが、ひどくなまめいて、友人のひとり神達つやはそれが心に残ったと回想している。
「あたしたちは野枝さんが先生とああいう仲だったとまったく気づきませんでした。そうした男女のむつみごとなんかなんにもしらないボンクラでした」
美津は江戸町人の伝統文化を身につけた粋人で、三味線の名人でもあり小唄もうまかった。
野枝も祖母と父の血筋を受け継ぎ、三味線や唄の才があったようなので、その点、野枝は辻家のノリに合っていたかもしれない。
僕角帯をしめ、野枝さん丸髷に赤き手柄をかけ黒襟の衣物(きもの)を着(ちやく)し、三味線をひき怪し気なる唄をうたつたが……。
大杉君もかなりオシヤレだつたやうだが、野枝さんも、いつの間にかオシャレになつてゐた。
元来、さうであつたかも知れなかつたが、僕と一緒になりたての頃はさうでもなかつたやうだ。
だが女は本来オシヤレであるべきが至当なのかも知れぬ、しかし御化粧などはあまり性来上手な方ではなかつた。
僕のおふくろが世話をやいて、妙な趣味を野枝さんに注入したので、変に垢ぬけがして三味線などひき始めたが、それがオシャレ教育の因をなしたのかも知れなかつた。
(「ふもれすく」/『婦人公論』1924年2月号_p17~19/『ですぺら』_p203~208/『辻潤全集 第一巻』_p400~404)
野枝の青鞜社時代の友人、小林哥津(かつ)も下町生まれだが、『自由 それは私自身』(P53)によれば、彼女も美津の粋さが好きで、春には竹の子ご飯に春菊のおひたしをちょっと出してくれる、質素でもそんな雰囲気が好きだったという。
※小林哥津さんの「清親考」
★『辻潤全集 一巻』(五月書房・1982年4月15日)
★井出文子『自由それは私自身 評伝・伊藤野枝』(筑摩書房・1979年10月30日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
2016年03月21日
第35回 出奔(七)
文●ツルシカズヒコ
野枝が出奔したのは一九一二(明治四十五)年四月だったが、その二年後『青鞜』に「S先生に」を寄稿し、出奔したころの上野高女の教頭・佐藤政次郎(まさじろう)の言動を痛烈に批判している。
佐藤に対する批判の要点を現代の口語風にまとめてみた。
先生は倫社の講義中、興奮すると腐敗した社会を罵倒しました。
先生の講義によって、半眠状態だった私の習俗に対する反抗心が目覚めました。
私は先生に教わったとおりに、全力で因習に反抗した結果、出奔したのです。
それなのに、私に反抗を教えてくれた先生の、そのときの対処はどうだったでしょう。
先生は傲慢にも私を徹頭徹尾、子供扱いしました。
そして先生の態度は不徹底で私にも、私の両親にも、両方に親切を見せつけ、どちらからもよく思われようとしました。
先生は社会に対抗して生きていける方ではなかったのです。
先生の講義は、現実社会に妥協して生きて行かざるを得ない苦しさ、その憂さ晴らしだったのです。
それに関しては、同情しますが、問題は先生にその自覚がないことです。
先生は辻に宛てた手紙に、こう書きました。
「私は感情的で、早い話が手紙を書く前と後ではあなた(辻)に対する感情が違う、感情の移りやすい私は過度に激昂したり、にわかに気の毒になって下らない妥協をする幼稚な悪癖があるのです」
またこうも書きました。
「人を見ても大づかみに値踏みをしたり、早飲み込みの侮蔑をしたりすることが多い。人を尊重せぬ悪弊と深く悔います」
「悪癖」という一種の病気にしているところが笑えますが、病気なのに辻や西原先生の態度について、自分を一段高いところに置いて批判しているようですね。
先生には自分が本当に悪癖を持っているという自覚がないんですよ。
先生は言論ではーー私たちに講義してくれたときーー社会とか道徳とか習俗などを極力排斥したように思います。
しかし、実際問題に直面したときには、先生はあそこまで道徳とか習俗に固執していました。
先生は型にはまったことが嫌いで、それを非難していましたが、先生自身が型にはまった生活から抜け出られないのです。
道徳なんて都合次第でできたものじゃないですか。
だから都合次第で破戒してもよいものだと思います。
人間の本性を殺したり無視したりする道徳は、どんどん壊してもよいと思います。
破戒する力を与えられていない人は仕方ないにしても、そうい確信を持っている人はどんどん破戒して進んだ方がよいと思います。
既存の道徳を破戒できない人は、道徳それ自体を恐れているのではなく、道徳を取り巻いているものたちを恐れているのです。
先生だって現今社会の道徳に偉大な権威を認め、満足しているわけではないでしょう。
ただ、その道徳を奉じている社会の群集の勢力が、先生の生活に及ぼす不利な結果を恐れているのですよ。
私はあの事件で一足飛びに大人になり、学校で聞いた先生方の講義が何の役にもたたないことを知りました。
あの事件のとき、先生は私の心の中に渦巻いている大きな矛盾を肯定させようとしました。
私にいくらか影響を与える周囲というものをつきつけて。
先生が日ごろ言っていたこととはまるで違う態度で、社会というものを説く先生が焦(じ)れったかったです。
しかも、先生は俗悪な社会の道徳や習俗に対して何の苦痛も抱かずに接しながら、一方では高遠な理想を説いていて、その理想と愚劣な現実をやむを得ないという、アッサリした言葉で片づけて平然とすましていました。
古き理想主義に徹底することもできず、俗な生活にも満足できず、一生ボヤっと過ごしているのかと思うと本当に淋しい気がします。
教育者や学校教育に対する辛辣な批判である。
言行の不一致を批判しているのである。
体を張って因習と闘ってきた野枝が、あの事件から二年後に佐藤に言論でリベンジしたのである。
佐藤は野枝より十九歳年上であるが、『青鞜』の「新しい女」の代表として頭角を表し始めていた野枝の、旧世代の男性教育者に対する批判という意味もあっただろう。
しかし、野枝は佐藤から受けた恩や親しみに対する感謝の念を忘れたわけではなく、「S先生に」の最後をこう結んでいる。
学校時代の無責任な楽しさは思ひ出しても気持ちのいいものです。
先生のお宅にゐました頃ーーそれももう二度とは返つて来ない楽しい月日です。
何だかあの先生のお宅で林檎をかぢりながらいろんなお話を伺つたときのやうな子供々々した、なつかしい親しみをもつて先生に甘へたいやうな気持になります。
かうなつて来ると、あんなにくまれ口をきいた大人になつた自分が悪(にく)らしくなつて来ます。
そのうちに、こんな理屈を云つたことは全く忘れたやうな顔をして、先生のお書斎に子供になつて甘へに行きます。
そのとき何卒(なにとぞ)悪(に)くらしい大人の私をしからないで下さいますやうに今からお願ひして置きます。(三、五、一五)
(「S先生に」/『青鞜』1914年6月号・第4巻第6号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p82)
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
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第34回 出奔(六)
文●ツルシカズヒコ
野枝は上野高女のクラス担任だった西原和治が送ってくれた、電報為替で旅費を工面し上京した。
上京したのは「十五日夜」に辻が書いた手紙が福岡についた後であるから、一九一二(明治四十五)年四月二十日ころだろうか。
とにかく、野枝としてはぐずぐずしていると拘束されてしまうので、できるだけ迅速に東京に旅立ちたかっただろう。
上京した野枝は北豊島郡巣鴨町上駒込四一一番地の辻潤宅に入った。
辻はその家で母のミツ(美津)と妹のツネ(恒)と同居していた。
上野高女の教師の職を辞め、野枝を受け入れた辻は、その間の事情をこう記している。
卒業して国へ帰へつて半月も経たないうちに飛び出してきた野枝さんは僕のところへやつて来て身のふり方を相談した。
野枝さんが窮鳥でないまでも若い女からさう云ふ話を持ち込まれた僕はスゲなく跳ねつけるわけにはいかなかつた。
親友のNや、教頭のSに相談してひとまづ野枝さんを教頭のところへ預けることにきめたが、その時は校長始めみんなが僕らの間に既に関係が成立してゐたものと信じてゐたらしかつた。
そして、野枝さんの出奔は予(あらかぢ)め僕との合意の上でやつたことのやうに考へてゐるらしかつた。
国の親が捜索願いを出したり、婚約の男が怒つて野枝さんを追ひかけて上京すると云ふやうなことが伝えられた。
一番神経を痛めたのは勿論校長で、若(も)し僕があくまで野枝さんの味方になつて尽す気なら、学校をやめてからやつてもらひたいと早速切り出して来た。
如何(いか)にも尤(もっと)も千万(せんばん)なことだと思つて僕は早速学校をやめることにした。
……たうとう野枝さんと云ふ甚だ土臭い襟アカ娘のために所謂(いわゆる)生活を棒にふつてしまつたのだ。
無謀と云へば随分無謀な話だ。
しかしこの辺がいい足の洗い時だと考へたのだ。
それに僕はそれまでに一度も真剣な態度で恋愛などと云ふものをやつたことはなかつたのだ。
さうして自分の年齢(とし)を考へてみた。
三十歳に手が届きさうになつてゐた。
一切が意識的であつた。
愚劣で、単調なケチ/\した環境に永らく圧迫されて圧迫されて鬱結してゐた感情が時を得て一時に爆発したに過ぎなかつたのだ。
自分はその時思う存分に自分の感情の満足を貪り味はうとしたのであつた。
それには洗練された都会育ちの下町娘よりも、熊襲(くまそ)の血脈をひいてゐる九州の野性的な女の方が遙かに好適であつた。
(「ふもれすく」/『婦人公論』1924年2月号_p6~7/『ですぺら』_p176~179/『辻潤全集 第一巻』_p385~387)
堀切利高編著『野枝さんをさがして』(p21)によれば、辻と一緒に西原も上野高女を辞めるはずだったが、ある事情(その事情は不明)でそうしなかった。
校長も教頭・佐藤政次郎(まさじろう)も、辻と野枝はすでに関係ができていて、野枝が婚家から出奔して辻の家に入るのは、あらかじめふたりが合意していたことであると見ていたようである。
辻も野枝も心外だったろう。
辻としては、因習を打破しようとして窮地に追い込まれている教え子を救うべく尽力しているうちに、自然にふたりは恋愛感情を持つようになったのだ、と周りに解釈してほしかったにちがいない。
野枝も「出奔」で、辻との恋のためだけに家出したと思われることが不快だと書いているが、彼女としても出奔はまず因習打破のための実際行動であり、辻との恋はその過程で成立したのだと、主張したいのである。
順序が逆で辻と恋愛に陥ったから出奔したとなれば、それこそ姦通罪に問われかねないので、野枝にとっては重要なことだった。
『野枝さんをさがして』(p75)によれば、佐藤も西原も結局、一九一五(大正四)年に上野高女を去るが、西原はその後、雑誌『地上』を創刊。
野枝は『地上』に寄稿した原稿で、上野高女五年時の自分と西原についてこう言及している。
もつとも私の苦しみのひどかつた時代であり最も私の学校生活の幸福な時代でありました。
……私の一生の前半生に於ける最大の危機でもありました。
来るべき爆発に対する恐怖時代でありました。
私のこの最大の危機に於いて兎にも角にももがきもだへてゐる私をとう/\無事に私の学校生活を終らして下さいましたのが西原先生でございました。
もしもあの最後の一年間に於いて先生がお出にならなかつたら私の性来の一徹な狂ひ易い感情は抑へるものゝないまゝに私の持つたあらゆる無分別と自棄を誘つて真直に自身を死地に導いたに相違ありません。
(「西原先生と私の学校生活」/『地上』1916年3月20日・第1巻第2号/堀切利高『野枝さんをさがして』_p26~27)
上野高女時代の野枝と言えば、辻との出会いにスポットを当てられがちだが、野枝にとって西原の存在も大きかった。
『地上』には辻も寄稿しており、西原、辻、野枝の三人の交流は、三人が上野高女を去った後も続いていたようだ。
★『辻潤全集 一巻』(五月書房・1982年4月15日)
★堀切利高編著『野枝さんをさがして 定本 伊藤野枝全集 補遺・資料・解説』(學藝書林・2013年5月29日)
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第33回 出奔(五)
文●ツルシカズヒコ
一九一二(明治四十五)年四月十五日付けの辻の手紙は、こう続いている。
然し問題は兎に角汝がはやく上京することだ。
どうかして一時金を都合して上京した上でなくつては如何(どう)することも出来ない。
俺は少くとも男だ。
汝一人位をどうにもすることが出来ない様な意気地なしではないと思つてゐる。
(「出奔」/『青鞜』一九一四年二月号・第四巻第二号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p103)
野枝の脳裏をいろいろなすべての光景が一度になって過ぎて行った。
今までまるでわからなかった国の方の騒ぎも、いくらかかわるような気もするし、学校での様子などもありありと浮かんできた。
そうして若し汝の父なり警官なり若しくは夫と称する人が上京したら逃げかくれしないで堂々と話をつけるのだ。
九日附の手紙をS先生に見せたのも一つは俺は隠くして事をするのが嫌だからだ。
姦通など云ふ馬鹿々々しい誤解をまねくのが嫌だからだ。
イザとなれば俺は自分の位置を放棄しても差支ない。
(「出奔」/『青鞜』1914年2月号・4巻2号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p103))
野枝の目は「姦通」という忌まわしい字の上に落ちて止まった。
「本当にそうなのかしら……」
野枝は身震いしたが、末松福太郎が憎らしいよりも滑稽になってきた。
あの男にそういうことが言える確信が、本当にあるのかおかしくなってきた。
「私妻」などと書かれたことの腹立たしさよりも、麗々しく書いた男が滑稽に思えてきた。
俺はあくまで汝の身方になつて習俗打破の仕事を続けやうと思ふ、汝もその覚悟でもう少し強くならなければ駄目だ。
兎に角上京したら早速俺の処にやつてこい。
かまはないから、俺の家では幸にも習俗に囚はれてゐる人間は一人もゐないのだから。
母でも妹でも随分わけはわかつてゐる。
そうして俺を深く信じてゐるのだ。
(「出奔」/『青鞜』1914年2月号・4巻2号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p103))
いろいろな感情が一時に野枝をかき回し、それが鬨(とき)の声を挙げて体中を荒れ狂うように走った。
遠慮せずにやつて来るがいゝ、だが汝はきた上でとても俺の内に辛抱が出来ないと思つたら、何時でもわきに行くがいゝ俺は全ての人の自由を重んずる。
兎に角東京へくれば道はいくらでもつく、そんなに心細がるなよ、だが汝は相変らず詩人だな、まあ其処が汝の尊いところなのだ。
(「出奔」/『青鞜』1914年2月号・4巻2号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p103))
野枝は辻の愛をこんなにも早く受けようとは思いもしなかった。
ただ彼女の気持ちをときどき不快にするのは、辻との恋のためだけに家出したと思われることだった。
彼女はなんとはなしに、自分にまで弁解がましいことを考えていた。
けれどもそれもひとつの動力になっていると思えば、そんなことはもう考えていられなくなり、今すぐにでも上京したくなった。
俺は近頃汝のために思ひがけない刺戟を受けて毎日元気よく暮してゐる。
ずいぶん単調平凡な生活だからなあ。
上京したらあらいざらひ真実のことを告白しろ、其上で俺は汝に対する態度を一層明白にする積りだ。
俺は遊んでゐる心持をもちたくないと思つてゐる。
なんにしろ離れてゐたのぢや通じないからな、出て来るにも余程用心しないと途中でつかまるぞ、もつと書きたいのだけれど余裕がないからやめる。(十五日夜)
(「出奔」/『青鞜』1914年2月号・4巻2号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p103))
野枝は目を据えて東京に着いたときのことを、いろいろに想像してみた。
そして、上京するまでの間に見つかるなどということを、それまで少しも考えなかったので、急に不安で胸が波打った。
辻からの手紙を読み終えた野枝は、しばらく唖然としていた。
空っぽになった頭に、早く行きたいという矢も盾もたまらない気持ちが、いっぱいに広がった。
いつにない楽しい気持ちで、電報為替をじっと見つめながら、鏡を出して頭髪に差したピンを一本一本抜いていった。
「出奔」に書かれている辻の手紙の文面は、辻が実際に野枝宛てに書いた手紙の文面だと考えてよいのだろう。
そうなると、このとき野枝が辻に宛てて書いた手紙の文面も知りたくなるが、残念ながら、その手紙は空襲で焼失し現存していない。
しかし、辻のハートを一気に鷲づかみにする文面だったのだろう。
「あきらめない生き方・その二」も、野枝の手紙文を書く文才が、新たな道を切り拓いたことになる。
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
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