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2016年05月21日
第204回 ミネルヴア
文●ツルシカズヒコ
野枝のところに「お八重さん」こと野上弥生子から、長い長い手紙が届いた。
野枝は弥生子の手紙の文面を引用しながら、大杉に手紙を書き、弥生子への反論をしている。
……私の今度の事に就いて可なりはつきりと意見を述べてくれました。
しかし私は、もう到底理解を望む事は出来ないと断念しかかつてゐます。
……彼(あ)の人には、恋愛と云ふ事が何んであるか解つてゐないのです。
あの人の恋愛観は、皆書物の上のそれです。
外のいろ/\の理窟は分るとしても、その心持が本当に解らない人には説明のしようはないと思ひます。
しかし、私は出来るだけ説明してみるつもりではありますけれど。
私の一番親しい友達が、私をどのやうに見てゐたかを、少しお知らせしませうか。
(「書簡 大杉栄宛」一九一六年五月三十一日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p370/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』「恋の手紙ーー伊藤から」)
『あなたの心霊がこの二三年、無意識にも有意識にもあこがれを感じ、渇きを覚えてゐる強い力ーー殊に異性の雄々しい圧力ーーこれを提(さ)げてあなたに迫るものがあつたとしたら、それは必ず大杉氏であつた事を要しない。
誰でもよかつたのではありませんか。
寧(むし)ろ、それほど必然的な危機があなたの周囲に生じてゐたと云ふ事を示すのです。
それほど重大なワナがあなたに投げかけられてゐたのです。
ですから、その強い魅力のある圧力の具体化として大杉氏が現はれたとき、どこまでも慎重にならなければならなかつたのです。
それが本統に自分の要する力か、自分に適した力か、純粋のものかをぢつと/\凝視する時間を、多く持つ程がいいのだつたと思ひます。』
(「書簡 大杉栄宛」一九一六年五月三十一日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p370/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』「恋の手紙ーー伊藤から」)
本当に、私はあなたでなくてもよかつたでせうか。
私はさうは思ひません。
私が、どんなに長くあなたを拒まうとして苦しんだかを、お八重さんは知らないのです。
私は慎重でなかつたのでせうか。
慎重でなかつたかも知れませんね。
けれども、私達は始めからそのやうな処を超えてゐたのではないでせうか。
慎重と云ふやうな言葉の必要を感ずるよりも、もつとずつと近い所にゐたのだと云ふ気がします。
ですから、お八重さんが『かう苦しまねばならない』と想像してゐるのと、私が苦しんだ事との間には、可なりの距離があるやうに思ひます。
そして又お八重さんは、私が第二の恋愛にはいつたのは、第一の牢から第二の牢にはいるのと同じだと云ひます。
私が今日まで謂(い)はゆる第一の牢で何に苦しんだのでせう。
同じ苦しみをした同じ処にはいつて行くほどの、私は馬鹿ではないと信じます。
第二の牢と第一の牢とが同じものならば、第二とか第一とか呼ぶ必要はない。
同じ処に帰つてゆくのだと云へばよろしい。
私は同じ処に二度はいつて、違つた処にはいつてゐると云ふ程の盲ではないつもりです。
同じ処に何時までもちぢこまつて、出たりはいつたりするものを嘲笑(あざわら)つてゐる不精者や利口者よりは、もう少し実際にはいろんなものを持つ事ができるのではないでせうか。
私は、出来るだけ躊躇なく出たり入つたりしたい。
いろ/\な処でいろ/\な事を知りたい。
どうせ現在の私達の生活は牢獄の生活ではないでせうか。
何処に本当の自由な天地があるのでせう。
お八重さんは、自分を本当に自由な処にゐるのだと思つてゐるのでせうか。
又、私が辻と別居してあなたとの恋愛に走つた事はミネルヴアの殿堂に行くつもりで又もとのヴイナスの像の前にひざまづくものだと云ひます。
かうなると、私はもう何にを云ふのも厭やになります。
ミネルヴアとヴイナスと一緒に信仰する事は出来ないと云ふ事があるのでせうか。
私達の恋愛がどのやうなものであるかと云ふ事が、少しも分らないのでせうね。
矢張り、私はだまつて私達の道を歩いて行きさへすればいいのですね。
他人が分らうと分るまいとそんな事にはもうこだはつてゐる気になりません。
そして最後にお八重さんは云ひます。
(「書簡 大杉栄宛」一九一六年五月三十一日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p370~371/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』「恋の手紙ーー伊藤から」)
『あなたはまだお若いから困りますね。
もつと聡明に恋をして下さい。
でないと、あなたのしようとしてゐる事が、何にも出来ないで駄目になりますよ。
今までの苦心も水の泡になりますよ。
しつかりなさい。
モルモン宗に改宗したり、恋の勝利者なんて浮れてる時ぢやありませんよ。』
(「書簡 大杉栄宛」一九一六年五月三十一日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p371/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』「恋の手紙ーー伊藤から」)
お分りになりました?
ねえ、私のお友達は本当に聡明ですね。
私の本当の事を知つてゐて下さるのは、あなただけね。
どうせ、私はもうあのサアクル(青鞜社)におさまつてはゐられないのですもの。
私は血のめぐりの悪い、殿堂におさまつた冷いミネルヴアはいやです。
私が、これからどのやうな道を歩かうとしてゐるのか、それもあの人には分つてゐないのです。
私は本当に勉強します。
五年先きか十年先きになれば、屹度(きつと)半分位は分るかも知れませんね。
私が恋に眩惑されてゐるのかさうでないかが。
眩惑されてゐるとしても、その恋がどんなものであるかが。
何んだか、私はまるであなたに怒りつけてゐるやうね。
御免なさい。
でも、なんだかあなたに話をして見たかつたんですもの。
(「書簡 大杉栄宛」一九一六年五月三十一日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p372/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』「恋の手紙ーー伊藤から」)
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第203回 二人とも馬鹿
文●ツルシカズヒコ
一九一六(大正五)年五月末、『女の世界』六月号を読んだ野枝は、大杉にこう書いている。
あなたは本当にひどいんですね。
あんな余計な処まで抜き書きをしなくつたつていいぢやありませんか。
本当にひどい。
でも、あなたが怒る/\つて云つてらしたほど怒りはしませんけれどね。
大好きなあなたがお書きになつたのですものね。
三人のあれを読んで分らない人は到底救はれない人達ですね。
私は何よりも、あのあなたのお手紙によつて、保子さんがあなたの気持をおたしかめになる事が出来るだらうと云ふ事を考へてゐます。
神近さんのを拝見して、非常によくあの方の気持が解つた事を嬉しく思ひました。
ただ、あなたと神近さんの最初の事が彼処に書いてありましたのね。
あれを読んで、あなたに少し厭やな感じを持ちました。
何故だか分るでせう?
私は昨日一日その厭やな感じを払い退ける事が出来ないでゐました。
今はもうそれ程ではありません。
国の父からは怒つて来ました。
子供なんか連れて来てはいけない、一人でも当分来てはいけない、と云つて来ました。
叔母からも従妹からもまだ何んとも云つては来ません。
(「書簡 大杉栄宛」一九一六年五月三十日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p369/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』「恋の手紙ーー伊藤から」)
大杉はこう返信している。
安成からは、きのふそちらへ金を送つた筈だが、ついたか知ら。
子供の事も、一昨日頼んで置いたが、もうやがて返事が来る事と思ふ。
あなたのお詫びは、わざ/\されなくつても、僕にはよく分つてゐる。
しかし、あなたばかりが悪いのぢやない、僕の方でも、矢張り同じ事をあなたにお詫びしなければならぬのだ。
二人とも馬鹿なのだ。
其の馬鹿は、二人ともお互ひによく分つてゐるのだから、今さらもうくど/\しく云ふ必要もあるまい。
『女の世界』のは、ああして三人のが並んで見ると、甚だ不十分ながらも、ともかく大体の気持だけは分るやうだ。
書きぬきに対する御立腹は、最初から覚悟してゐた。
神近の書いたものを読んだ時にも、あなたがそれを読む時の不快は、想像してゐた。
立腹と不快とは、あなたのおハコなんだからね。
(「戀の手紙ー大杉から」大正五年五月三十日正午/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』_p620~621)
しかし、『女の世界』六月号は五月三十日に発売禁止になった。
その余波で同誌七月号に掲載予定だった野枝の「果して人類の不幸か」も掲載が見送られた。
同誌七月号の「編輯だより」によれば、「本号に掲載する予定の伊藤野枝氏の評論は又々氏今回の事件に関連して母と子を論じた、現代の道徳を脅かす患(うれ)ひあるものでしたから之も見合せました」(堀切利高編著『野枝さんをさがして』_p55)。
『女の世界』六月号発禁の余波は『大阪毎日新聞』にまで及び、同紙に掲載予定だった野枝の原稿も不掲載になった。
送り返されてきた原稿には同紙文芸部長・菊地幽芳の非常な賛辞がついていたという(『定本 伊藤野枝全集 第二巻』「書簡 大杉栄・一九一六年六月六日」解題)。
けれども、ともかく向うからの注文で書いたのだから、原稿を送れば金を出さないと云ふ事も出来まい。
どうなるかね。
『女の世界』の発売禁止は、向うでも随分の損害だらうが、僕等にとつても、少なからず影響がある。
第一には、世間の奴等は僕等を何んと罵倒しようが勝手だが、僕等にはそれに対して一言半句も云ふ権利がなくなつた訳だ。
実は『中央公論』で例の高島米峯の奴が、『新しい女を弔ふ』とか何とか云ふ題で、大ぶ馬鹿を云つてゐるし、『新潮』でもケタ平(赤木桁平)の奴が妙な事を云つてゐるし……『それがどうしたと云ふのだ』とウンと威張つてやりたかつたのだが、それも出来さうにない。
又、『実業之世界』から少々の借金をするつもりでもゐたのだが、今日行つて見ての弱り方を見ると、それも云ひ出せなかつた。
それで止むを得ず、漸くの事で春陽堂から前借りして来た二十円だけを、電報為替で送つて置いた。
しかも其の為替料は、安成に出して貰つたのであつた。
宿屋にゐて、金もロクに払へないのは、つらからうが、これも仕方がない。
……今神近が奔走してゐてくれる。
斯う暑くなつちや、着物にも困るだらう。
安成の所では、子供の事に就いて、まだ返事が来てゐないさうだ。
そちらの方での話はうまく行きさうなのか。
『女の世界』を見てからの保子は、僕に対しては、もう何んのいやみも皮肉も云はないようになつた。
しかし、自分の事はもう何んにも書かないでくれ、と云ふ注文だ。
あなたや神近に対しては、まだ、少しも好意のある顔付を見せない。
ひとりボツチでゐるのは、まだ矢張り、静かでいい気持かい。
少しは僕を思ひ出させるやうに、若しあしたの朝うまく金がはいつたら、お望みのハムと何か御菓子を送らうと思つてゐる。
(「戀の手紙ー大杉から」大正五年五月三十一日午後九時/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』_p622~626)
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
★堀切利高編著『野枝さんをさがして 定本 伊藤野枝全集 補遺・資料・解説』(學藝書林・2013年5月29日)
★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第202回 いやな写真
文●ツルシカズヒコ
堀切利高編著『野枝さんをさがして』によれば、野枝は五月二十九日(推定)付けの手紙を安成二郎に宛てて書いている。
多恵春光著『新しき婦人の手紙』(日本評論社出版部・一九一九年九月)の第九章「文例 知名婦人の手紙」に「執筆の約束と周旋を頼む」という仮題で収録されているもので、この書簡は『定本 伊藤野枝全集』(全四巻)には収録されていない。
○○(※1)ありがたくたしかに落手いたしました。
雑誌(※2)も昨日頂きました。
大分頁をとりましたやうで御座いますね。
禁止になりさうで御座いますかしら、どうかそのやうなことのないやうにしたいもので御座いますね、それから、原稿(※3)はもう大抵腹案が出来て居ります。
昨日○○(野依※4)氏の拝見してゐる内に。
題丈け申あげて置きます。
「果して人類の不幸か」と云ふつもりです。
大方の非難が私が子供(※5)を捨てたと云ふことにあるらしいので少しそれについて書いて見やうと思つて居ります。
もう一週間したら此処を引き上げて九州(※6)の方へ行かうかと思つて居ります。
それから子供(※7)の世話を頼むやうな処に伝手をお持ちになるやうな話を○○(大杉※8)さんから聞きましたがもし心当たりが御座いますなら聞いて頂けますまいか、こちらでもなかなか一寸ありませんので弱つて居ります。
○○(大杉※9)さんが来てゐた間なまけましたので二十日迄の約束の大阪(※10)の方がまだ出来ないでゐます。
今一生懸命になつてゐる処です、もう二三日のうちにお仕舞にしたいと思つてゐます。
それが片附きしだいに直ぐにあたなの方の原稿にかゝります。
○○(野依※11)氏はもうおはいりになりましたか、少々長いやうですから随分お辛いでせう○○(社長)がお留守になつてあなたの方もお骨ですね、こちらは毎日曇つたいやなお天気です、この頃はどうかすると東京の郊外が恋しくなります。
海にはもう倦き/\して仕舞ひました。
○○(雑誌)をもう一部頂けませんでせうか、実は送つてやりたい処がありますのでもし頂ければ、きれいな方を送りたいと思ひまして。
私のいやな写真(※12)が出ましたね、あの顔にはほんとうに恐れ入ります。
今度東京に出ましたらせいぜい綺麗な顔に写してお送りいたしませうか、あの顔はもうとりけしにしたいものです。
(堀切利高編著『野枝さんをさがして』_p52~53)
○○は『新しき婦人の手紙』掲載の原文のままだが、『野枝さんをさがして』の注解を参考に、以下補足。
※1
○○は不明だが送金か為替か稿料。
※2
『女の世界』一九一六年六月号(第二巻第七号)。
※3
原稿とは『女の世界』六月号に「次号巻頭論文 伊藤野枝」の予告がある同誌七月号の原稿。
※4
○○氏を野依としたのは、野依が『女の世界』六月号に書いた「野枝サンと大杉君との事件」の文中に「野枝と人類の不幸」という章題があり、「いたいけな四歳の子を棄てたのは人類の利益幸福と衝突する」と非難しているので、「果して人類の不幸か」という野枝の題もそこから来ている。
※5
子供は辻との間に生まれた長男・一(まこと)のこと。
※6
野枝の故郷、福岡県糸島郡今宿村(現・福岡市西区今宿)。
※7
辻との間に生まれた次男・流二のこと。
※8 ※9
当然、大杉。
※10
野枝が今回の大杉との恋愛について書き進めている『大阪毎日新聞』に掲載予定の原稿。
同紙には『近代思想』に寄稿していた和気(わけ)律次郎がいたので、和気の線からの売り込みと推測できる。
※11
野依としたのは、野依秀一が愛国生命攻撃事件で懲役四年の判決を受け、五月二十六日に豊多摩監獄に入獄したから。
野依は東京電燈会社事件に次ぐ二度目の入獄だった。
※12
安成二郎「大杉君の恋愛事件」の最初のページに載っている野枝の写真のことで、堀切利高によれば『定本 伊藤野枝全集 第二巻』の口絵写真(『新潮』一九一五年七月号より転載)と少し似ているという。
★堀切利高編著『野枝さんをさがして 定本 伊藤野枝全集 補遺・資料・解説』(學藝書林・2013年5月29日)
★多恵春光著『新しき婦人の手紙』(日本評論社出版部・1919年9月)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第201回 ララビアータ
文●ツルシカズヒコ
大杉が御宿から帰京したのは、一九一六(大正五)年五月二十七日だった。
今日は私はあなたがおたちになる前に、二三日前からの私の我儘(わがまま)をお詫びして許して頂かうと思ひましたの。
それで、幾度もあなたの処へ行くのですけれど、何んだか自然であなたに話しかける事がどうしても出来ませんでしたの。
さうして、とうたう叉あなたの方から口をお切りになりましたのね。
さうして、私があなたに向つて云はうとする事を、あなたが私に仰云(おつしや)つたのですもの、
私本当に自分の小さな片意地がいやになつて、あなたに申訳けがなくて、それで泣きましたの。
私が、昨日だか一昨日だか、パウル・ハイゼのラ・ビヤタの話を持ち出しました時……私の片意地をお話しようと思ひました。
けれども……素直に口にする事が嫌やになつて、そのまま黙つて仕舞ひましたのです。
そんな風で、昨日山を一人で歩いてゐます時にも、その事ばかり考へてゐましたの。
暫(しばら)くは私はあの池の岸で考へてゐました。
さうして仕舞ひには泣きさうになりました。
それから……山に登り始めましたの。
そして急な道を一足々々用心しい/\登つてゐるうちに……頂上の平らな道に出ました時には、ぼんやりしてゐましたの。
そして少ししやがんでゐるうちに、急に叉あなたの事を思ひ出して、あなたがまたいやな顔をして本を読んでゐらつしやるのだらうと思ひますと、直ぐ大急ぎで歩き出しましたの。
今度こそ本当にすつかり私のいけない事をお話しなければならないと思つて息を切らして帰つて来ると直ぐに二階に上つて見ましたら、あなたはお留守なのですもの。
本当に私かなしくなつて仕舞ひました。
それから暫くしてあなたがお帰りになつた時には、もうすつかり先きのやうな無邪気な心持は失くしてゐました。
……この二三日の私の我儘から、あなたに不快な日を送らせて、それをお詫びしようと思ひながら、反対にあなたからお詫びを云はれて、まだ自分では何にも云へなかつた事を考へますと、私は自分にいくら怒つても足りないのです。
あなたが俥(くるま)に乗つてお仕舞ひになつた時、私はまた涙が出さうになりました。
さつき、あなたのお乗りになつた汽車の発車するのを聞きながら、小熱いお湯の中にひとりで浸つてゐる内に、私はすつかり落ちつきました。
今頃はあなたはもう東京の明るい町を歩いてゐらつしやるでせうね。
此処は今、私がかうやつて書いてゐるペンの音だけしかしません。
雨もやんだやうです。
あなたがこちらにゐらつしやる間に神近さんからの手紙が来て、あなたがそれを読んでゐらつしやる時、私は本当に淋しくなつて仕舞ふのです。
ゼラシイぢやないんです。
本当にただ淋しいんです。
……何時でも自分ひとりでゐる時のやうに、用心深く自分を見てゐないからだと云ふことがよく分ります。
うつかり、あなたと一緒にゐるといい気になつて仕舞ふのです。
さうして、さう云ふ場合になつて、自分のその弱味を見る事が、私には口惜しくて仕方がないんです。
ひとりでゐますと、総ての事が非常にはつきりしますから、すきを持たずにゐられます。
ですから、あなたが神近さんの傍にゐらしても保子さんの処にゐらしても、何んのさびしさも不安も感じません。
(「書簡 大杉栄宛」一九一六年五月二十七日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p366~368/「恋の手紙ーー伊藤から」/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』)
『定本 伊藤野枝全集 第二巻』解題によれば、「パウル・ハイゼのラ・ビヤタの話」とは、パウル・ハイゼの『ララビアータ(片意地娘)』のこと。
『ララビアータ(片意地娘)』は、佐藤政次郎編集『実験教育指針』(一九〇八年十、十一月号)に、辻が「せいび」のペンネームで「らゝびやた」として訳載していたという。
『女の世界』六月号に伊藤野枝「申訳丈けに」、大杉栄「一情婦に与へて女房に対する亭主の心情を語る文」、神近市子「三つの事だけ」が掲載された。
「申訳丈けに」解題(『定本 伊藤野枝全集 第二巻』)によれば、『女の世界』六月号「編輯だより」には「岩野泡鳴氏の離婚事件を取扱つた本誌は、今度の大杉氏の事件をより大きい且つ多様な意味を含む問題として厳重な批評を社会に要求する責任を感じ」、この事件にページを割いたとあり、野依秀一「野枝サンと大杉君との事件」、安成二郎「大杉君の恋愛事件」なども合わせて掲載された。
大杉の「一情婦に与へて女房に対する亭主の心情を語る文」は、野枝に宛てた手紙形式で書かれていて、野枝から大杉に宛てた手紙の文面もふんだんに引用し、「男女関係の進化」を実践している自分と野枝の現状リポートとも言える。
神近の「三つの事だけ」は、大杉と恋愛関係に至るまでの経緯、自分の恋愛観や結婚観、現在の心境について言及している。
神近が大杉を恋愛の対象と意識するようにななったのは前年(一九一五年)の暮れごろだった。
神近は大杉と恋愛に陥る前に、妻子持ちの男と恋に落ちていたという告白をしている。
神近市子『叢書「青鞜」の女たち 第8巻 引かれものの唄』の解説で瀬戸内晴美も記しているが、その男は高木信威(たかぎ・のぶたけ)で、神近は高木との間に礼子という女の子を産み、郷里に預けていた(一九一七年病死)。
神近は妻子持ちの高木との恋愛を経験していたので、妻帯者である大杉にも違和感なく恋愛感情を抱くことができたという。
そもそも神近は結婚生活というものが、決して男女の幸福を永続させるものではないという考えの持ち主だった。
それは自分の周りの既婚者を見れば一目瞭然であり、そういう考えを神近に決定的にさせたのは、相思相愛で結婚したはずの富本一枝の結婚生活に失望したことだった。
京都での御大礼の取材の後、神近が奈良在住の一枝を訪れたのは、一枝の結婚生活を自分の目で確かめたかったからだった。
大杉さんに対する気持は、今は非常に静かです。
あの人に逢つて居れば、私は少しの不安も動揺も感じません。
今はあの人を見て居れば、私は自分の成長と穫取とをさへ心掛けて居れば好い様です。
(神近市子「三つの事だけ」/『女の世界』1916年6月号・第2巻第7号/安成二郎『無政府地獄ーー大杉栄襍記』_p98)
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)
★神近市子『引かれものの唄 叢書「青鞜」の女たち 第8巻』(不二出版・1986年2月15日 ※『引かれものゝ唄』・法木書店の復刻版)
★神近市子『引かれものゝ唄』(法木書店・1917年10月25日)
★安成二郎『無政府地獄- 大杉栄襍記』(新泉社・1973年10月1日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index