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2016年05月08日
第153回 友愛会と青鞜社
文●ツルシカズヒコ
一九一五(大正四)年、当時の文壇思想界は個人主義全盛の時代だった。
自己完成、自己の生命の充実、自己を煩わし害(そこな)わんとする周囲からの逃避、静かなる内省と観照。
これが当時の個人主義の理論であり実際であった。
大杉は自分の獄中生活に顧みて、これを囚人哲学と呼んでいた。
幸徳秋水らの大逆事件以来、大杉たちの政治上および経済上の主張は言論の自由を奪われ、その思想は科学や文芸や哲学の形式に包まなければ表現できなかった。
自己完成や生命の充実のためには、内省や観照によるばかりではなく、自己を煩わし害(そこな)わんとする周囲に、大胆に当面し挑戦しなければならないと大杉は信じていた。
周囲は政治的にも経済的にもまた広く社会的にも、あまりに抑圧しすぎている。
それをはねのけなければ、自身の完成はもとより生命の生長発達すらも覚束ない。
この生の闘争を逃避して、ひたすらに内省や観照に耽ることは虚偽である、誤魔化しである、一時遁れであるーーこれを喝破しなければならないと、大杉は考えていた。
文壇の諸家は周囲の強圧を痛感しているが、周囲そのものの知識にはなはだしく欠けているので、大杉は周囲の何ものであるかを詳細に説き、周囲の中の本源を明らかにして、敵の本体を指し示さなければならないーー大杉はそう考えていた。
大杉は文壇諸家の中にきわめて少数ながら、とにかく漠然とこの精神に動かされている人々を発見し、その少数派の中に身を投じた。
大杉らは青鞜社の婦人解放の叫び声に満腔(まんこう)の同情を捧げてはいたが、その自己完成論の虚偽を棄てないかぎりは、ようするに文芸道楽のお嬢さんたちの寄り合いにすぎないぐらいに軽蔑していた。
大杉は同志たちに友愛会と青鞜社の話をよくしていた。
「ようするに友愛会はちょうど青鞜社のようなものなんだね。僕らは今の友愛会にはほとんどなんの期待も持たない。友愛会の言論や行動にはむしろ反感すら持っている。しかし、ああして労働者が団結して、とにかく自己の人格とか地位とかの向上を謀っている間に、あの中からきっと何か今の友愛会とは違った分子が生まれてくる。今の幹部に謀叛する何ものかが生まれてくる。そうして、友愛会をまったく新しい友愛会に変えてしまうか、あるいはそこから分離した新しい別な団体が起こる。その新友愛会、もしくは新団体が初めて本当の意味での労働者団体になり、本当の意味での労働運動の中心になるんだ。僕らは黙ってそのときの来るのを待って彼らと合体するか、なんとか方法を講じてできるだけその時期の来るのを早めるしかない。僕自身は後者を選ぶ。しかし、慎重でなければならない。結びつくべきはずの彼らと僕らとが、かえって相反目しなければならない妙なハメに陥ってしまうかもしれない」
大杉はこの本物の生まれ出たのを初めて野枝の中に見出したのだ。
そして、大杉は彼女の第一の手紙に示された自分への信頼によって、彼女が生涯離るべからざる友人であり、同志であるように感じた。
おそらくはそのときに、強い恋の予感というよりも、むしろ初めて彼女に対する恋らしい感情を兆したのだ。
そして、友愛会に対するのと同じように、ただ慎重な態度という考えから、強いてそれを抑えつけていたのだ。
丁度其時に、C社から、『貞操論』の寄稿を頼まれた。
僕はN子に宛てる公開状の形式でそれを書いた。
そして其の冒頭に、僕が今彼女に感じている強い親しみを、彼女に表明して置きたいと思つた。
そして其の結論には、可なり露骨に、僕の十年来の宿論を書いた。
自分が恋の強い予感を感じ更に恋らしい感情をすら抱いたと云ふ女に対しての、妻ある男が夫ある女に対しての、恋愛論としては、世間的には余程可笑しく聞こえる筈の結論である。
しかし恋の実際には甚だ臆病であつた僕も、其の理論だけには何処までも大胆であつた。
実際の恋の為めの負担は回避したかつたが、恋の理論の為めの負担は少しも恐れるところがなかつた。
これと同じ理論は既にTの前でも何んの遠慮もなく彼女と語り合つた。
彼女は全然不賛成であつた。
で、こんどは、雑誌の上で大いに議論し合つて見たいと思つたのであつた。
……勿論これは、単に議論の上の興味からではなかつた。
此の種の問題に就いて、彼女と語ると云ふ事が、僕に取つて少なからざる享楽であつたのは云ふまでもない。
『しかし僕なぞには、もうとても恋は出来ませんな。』
其時に僕は彼女に云つた。
『そんな事があるものですか。今に少しお暇になつて御覧なさい。きつと出来ますから。』
彼女は笑ひながら云つた。
僕は本当にさうだつたらと思ふと、恐ろしくもあり嬉しくもあつた。
其頃の事である。
或日Rが僕に云つた。
『あなたも議論通りに恋をする位だと、ほんとうに信用出来るんだが。』
……議論通りに恋をする位だと、と云ふ此のおだてだけには、ちよつと乗つて見たかつた。
(「死灰の中から」/『新小説』1919年9月号/伊藤野枝との共著『乞食の名誉』/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』_p586~589/日本図書センター『大杉栄全集 第12巻』_p272~275)
★大杉栄・伊藤野枝『乞食の名誉』(聚英閣・1920年5月)
★『大杉栄全集 第三巻』(大杉栄全集刊行会・1925年7月15日)
★『大杉栄全集 第12巻』(日本図書センター・1995年1月25日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第152回『谷中村滅亡史』
文●ツルシカズヒコ
葉山から帰京して二、三日後、大杉に野枝からの手紙が届いた。
『先日はもう一足と云ふところでお目に懸ることが出来ませんでしたのね。
御縁がなかつたのでせう。
雑誌(『青鞜』※筆者注、以下同)を気をきかしたつもりで葉山に送りましたがお手許につきまして?
C雑誌(『新公論』)を今朝、拝見しました。
いろいろなことを一杯考えさせられました。
そして、少しばかりあれには不公平がありますから書きたいと思ひますが、その前にD雑誌(『第三帝国』)に書きましたものを読んで頂けましたかしら。
あの御批評が伺ひたいのですの。
そしてから書きたいと思つてゐます。
お遊びにお出でくださいませんか。
私の方から伺つてもいいんですけれど、H新聞(『平民新聞』)も廃刊になりましたのね。
まあ仕方ありませんわ。
またK雑誌(『近代思想』)をお続けになつてはいかがですか。
『私たちにはあんな気持のいい雑誌が失くなつたのは、可なりさびしいことの一つです。
『 私は此頃すてきな計画を立てて一人で夢を見て楽しんでゐます。
二年かかつても三年かかつてもいいつもりで、自分の期待にそむかないものに仕上げたいと願つてゐます。
いまにあなた方を驚かしてあげますわ。
まあ、ちよつと話してみませうか。
私は今そのためにいろんなものを読んでゐます。
第一にA(荒畑)さんの「Y村滅亡史」(『谷中村滅亡史』)、それからKさんの「労働」、其他いろんなものを。
それは、私がいつかW(渡辺政太郎)さんからY村の話を聞いたときの、私の心的経験と興奮とに自分ながら深い興味を持つてゐて忘れることが出来ませんので、それをすつかり書いて見たいんですの。……
『本当にそれは不思議なほど私の頭の中にこびりついてゐます。これは今までになかつた現象です。今迄は大抵こんなものを書かうとしましても、他の思想が浮かんできますと先きのは消えてしまふのですけれど、此頃たまに小説でも書いてみようと云ふ気になつて書き始めて見ましても、直ぐ此の事で一杯になつて、とてもそんな下らない小説なんぞ書いてはゐられないのです。
私は今これが本当の意味での私の価値ある処女作になることを一生懸命に願つてゐます。……
『自分の興味でつまらない事をお話しました。私は書いてしまふまで誰にも話さないつもりでゐましたけれど、あなただけは少しは興味を持つて下さるかもしれないと思つてつい書いてしまひました。
これであなたに興味がなかつたら、私はずいぶんつまらないことをしやべつてしまひましたわね。
私は柄にもない大きなことを考へてるなんて軽蔑されると、折角の気持を不快にしますので、Tにもまだ其の計画は話しませんの。……
Wさんにはいろんなものを拝借しなければなりませんので話しました。
其他は誰にも云ひませんの。
『本当によろしかつたらお出で下さい。
私もお伺ひいたします。』
(「死灰の中から」/『新小説』1919年9月号/伊藤野枝との共著『乞食の名誉』/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』_p581~582/日本図書センター『大杉栄全集 第12巻』_p266~268)
大杉は少しむっとした。
「少しは興味を持つて下さるかもしれない」とはなんだ。
「それであなたに興味がなかつたら」とはなんだ。
大杉は野枝から第一の手紙を受け取ったときから、彼女がこの谷中村の事件についてどう興奮したのか、また辻がそれをどう嘲笑ったのか、そしてまた彼女と辻とがそれをどう議論し合ったのかーーそれを野枝自身から聞きたくて堪らなかったのだ。
まず大杉自身の社会主義運動に関わってきた経歴からの興味があった。
次には、社会的興味の色を濃くしてきた野枝の思想と感情とが、この事件からの興奮によって、さらにどれだけ高められかつ深められて、彼女の対社会態度や大杉らのムーブメントに対する態度にどれほどの決心をもたらしたかという興味である。
第三には、野枝と辻との論争が文壇思想界の二種の傾向を代表していやしないかという興味であった。
大杉のそれらの興味の中には、彼女の家庭崩壊、「弊履のように」棄てられる夫など、高低さまざまな興味があったことはもちろんである。
※不滅の『谷中村滅亡史』
★大杉栄・伊藤野枝『乞食の名誉』(聚英閣・1920年5月)
★『大杉栄全集 第三巻』(大杉栄全集刊行会・1925年7月15日)
★『大杉栄全集 第12巻』(日本図書センター・1995年1月25日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第151回 待合
文●ツルシカズヒコ
大杉は堀保子とは、もう八、九年ほどきわめて平和に暮らしていたが、大杉が野枝の家を訪れたときには、いつも保子の機嫌はよくなかった。
少なくてもいつも曇った顔をしていた。
野枝についての何かの話が出るときも同様だった。
そしてそのたびに大杉は、ただ心の中で軽く「馬鹿ッ」と笑っていた。
二月のある日の晩だった。
保子が大杉の机のかたわらに来て、いつも何か長話があるときに決まってするように、座布団を持ってきて妙に改まって言い出した。
「あなたは何か私に隠してやしませんか?」
「いや、何も。だが、なぜそんなことを言い出すんだい」
大杉は筆を置いて保子と火鉢に差し向かいになった。
「きっと何も隠してやしませんね」
「ああ、何も」
「それでは私の方から聞きますが、このごろあなたは野枝さんとどうかしてませんか?」
「いや、そんなことはない。ただ折々、遊び行くだけのことさ」
「それではもうひとつ聞きますが、このごろあなたはふたりきりで、どこかを歩いてやしませんでしたか?」
「うん、一度ちょっと一緒に歩いた」
「それ、ごらんなさい。やはり隠しているんじゃありませんか」
「いや、それはちっともそんな意味のことじゃないんだ。実はーー」
大杉が保子に事情を説明し始めた。
二週間ばかり前、大杉が同志の家に遊びに行ったときのことだった。
『青鞜』の一月号をまだ受け取っていないと大杉が言ったので、同志のひとりが野枝のところへ行ってもらって来ることなったが、あいにく野枝の手許には一部もなかった。
しばらくすると、野枝が大杉が遊びに行った同志の家にやって来た。
小売店から一部入手したので、届けに来たのだった。
大杉には尾行がついているにもかかわらず、野枝は大杉と一緒にその家を出た。
ふたりは水道橋まで電車に乗り、そこで別れた。
電車が混雑していたので、ふたりは離れた席に座った。
ただそれだけのことだったーーと、大杉は保子に話した。
しかし、保子はまだ疑い深い眼をしていた。
「ふたりで歩いたのは、それっきり?」
「ああ、それっきりだ」
「でも、あなたが野枝さんと一緒に待合に入ったのを見たという人があるんですがね」
保子は少し声を震わせながら言った。
大杉はあまりに意外な話なので口を開いて笑った。
大杉はそもそも、待合なぞというものを知らない男だった。
「へえ、誰がいったいそんなことを言ったんだい?」
保子の表情が少し和らいだ。
彼女によれば、同志のひとりが吹聴しているという。
大杉は尾行の警察の奴がその同志にいいかげんな情報を流し、その同志が話を大きくでもしたのだろうと思った。
保子の誤解は解けたようだったが、大杉はこう釘を刺された。
「しかしね、あなた、野枝さんも御亭主持ちなんですから、そんな噂を立てられてもお困りでしょうし、なるだけふたりきりで歩くなぞということは、これからお気をつけなさいね」
大杉は野枝にすまないことをしたと思い、そして少し困ったことになったとも思った。
大杉は野枝のことを得難い同志になる逸材だと見ていたので、同志たちに注意をした。
「今そんな噂をされちゃ困るんだよ。あの女も、女一通りを越したずいぶん自尊心の強い、つむじ曲がりなんだからね。そんな話を聞いちゃ、せっかく僕らに接近しかけているのを、すぐに怒って逃げ出してしまうよ」
そして、大杉はそんな気は毛頭ないことも話した。
しかし、面白半分に冷やかす同志もいた。
「しかし、あなたが野枝さんを恋の対象にしたら少し可笑しいな」
「馬鹿ッ」
大杉は軽く打ち消したが、ちょっと気にかかったので問い返した。
「しかし、もしそうとして、なぜそれが可笑しいんだ?」
「だって、あんまり釣り合いがとれませんからね」
「なぜ釣り合いがとれない?」
大杉はなんだか少しムキになっているよう見え、それにそばにいた三、四人のものまでが、妙に自分の顔を見つめているように感じたので、
「馬鹿だな、君は」
と言って笑ってゴマかした。
野枝に対しては、女であるし、それに例の新しい女ということから、とかく仲間内では評判が芳しくなかった。
やはりそのころ、堺利彦も笑いながら言った。
「このごろ、野枝さんとはどうしてるね」
「別にどうともしてやしないよ。ただ折々に遊びに行くだけのことさ」
堺が何か言いたそうな気配を感じた大杉は、面倒臭くなって言った。
「来月の『新公論』見てくれたまえ。その最初の方に、ふたりの関係が明らかにされているから」
「うん、そうか」
堺はそう言ったまま、何かを考え込んでいるようだった。
大杉はそんなことをひとつひとつ詳細に思い出した。
印刷所で野枝を待っていた二時間の間の、野枝が印刷所に来てびっくりする笑顔を思い浮かべながらの、焦慮とともに湧いてくるいろいろな回想を、幾度となく繰り返すのだった。
野枝から手紙を受け取るまで、大杉が抱いていたものは友情だった。
思想や感情に共鳴する濃い友情だった。
もっとも、それが恋になりはしないかという予感がないことはなかったが……。
しかし、二十前後のころをかぎりに、もう十年ばかり恋らしい恋の香を嗅いだことがなかった大杉だった。
そして、その間、牢獄また牢獄に暮らし、政治的叛逆の野心にのみ駆られていた大杉だった。
そして、フリーラブ論者でありながら、世間からの「恋の負担」にもまったく臆病になっていた大杉だった。
大杉は恋というロマンティックな場面に、自分を入れてみることができなかった。
其のほかにもまだ彼女に対する功利的な或者があつた。
僕は彼女を此の上もない異性の一友人として待つ外に、一同志としての、即ち僕等の有力な一協力者として彼女を待つてゐた。
彼女に対する僕の恋は、此のいづれをも僕から奪ひ取つて了ふか、或は其のいづれをも僕に与へるか、どつちかである事を僕は知つてゐた。
しかし此の予想の中の僕にとつて有利な一方、恋なぞといふ余計な努力なしに、安全に、且つ比較的、永続的に得られる事である。
斯くして僕は、先にも云つたやうに、僕は決して彼女に恋をしてはならぬもの、彼女との恋を予感する度びに、僕自身にきめてゐたのであつた。
けれども、ああ、其の間にいつの間にか、恋は徐ろに僕の心に食ひ入りつつあつたのだ。
だん/\熱が高くなつて来さうなので僕は急いで東京に帰つた。
(「死灰の中から」/『新小説』1919年9月号/伊藤野枝との共著『乞食の名誉』/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』_p579/日本図書センター『大杉栄全集 第12巻』_p265~266)
★大杉栄・伊藤野枝『乞食の名誉』(聚英閣・1920年5月)
★『大杉栄全集 第三巻』(大杉栄全集刊行会・1925年7月15日)
★『大杉栄全集 第12巻』(日本図書センター・1995年1月25日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第150回 革命のお婆さん
文●ツルシカズヒコ
一九一五(大正四)年、三月二十六日、葉山の日蔭茶屋に到着した大杉は、風邪気味だったのですぐ床についた。
鼻水が出る。
少し熱加減だ。
汽車の中でもさうであつたが、妙に興奮してゐて、床に就いても眠られない。
彼女の事ばかりが思ひ出される。
其の翌日も、翌々日も、ほんのちよつとではあるが熱が出て、仕事は少しも手につかない。
矢張り、妙に興奮してゐて、彼女の事ばかりが思い出される。
少々癪にさはつて、女中を三四人集めて、酒を飲ませて歌を唄はせて馬鹿騒ぎをして見たが、ちつとも浮かれて来ない。
彼女には置手紙までして来てゐるのに、彼女からは何んとも云つて来ない。
堪らなくぢり/\する。
ああ、僕は遂に、全く彼女に恋に落ちて了つたのだ。
(「死灰の中から」/『新小説』1919年9月号/伊藤野枝との共著『乞食の名誉』/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』_p568/日本図書センター『大杉栄全集 第12巻』_p255~256)
そして、大杉の脳裏に浮かんだのは、いつか堺利彦がした戯談(ぎだん)と、それ以来、芽生えた堀保子の淡いしかしコンスタントな疑いだった。
「ついにあれが本当になった……」
大杉はそう認めざるを得なくなった。
それはちょうど一年ほど前、野枝の訳著『婦人解放の悲劇』が出版されたころだった。
ある日、堺が遊びに来た。
雑談の末に青鞜社の話になり、堺が野枝について語り始めた。
『君いよ/\本物が出て来たんだよ。今でこそああしてなるべく社会と没交渉な生き方をしていると云つてゐるが、あの女ならきつと今に飛び出さずにはゐられなくなるよ。随分しつかりしているやうだからな。』
『うん、文章なんかでも実にしつかりしたもんだ。とても十九や二十の女の文章ぢやないね。男だつてあんなのは少ないよ。』
『尤もそれは大ぶ御亭主のお手伝があると云ふ話だがね。』
『ハハゝゝゝゝ、御亭主か、可哀相に。いづれは弊履(へいり)のように棄てられるんだらうな。』
(「死灰の中から」/『新小説』1919年9月号/伊藤野枝との共著『乞食の名誉』/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』_p569/日本図書センター『大杉栄全集 第12巻』_p256~257)
堺はいつもの大きな声で笑いながら言った。
「革命のお婆さん」と言われて、ケレンスキー時代の新しいロシアで盛んにもてはやされたブレスコフスカヤが、かつて夫を棄てて革命運動に走ったという話があった。
幸徳秋水が彼女の評伝に「彼女は弊履のごとくにその夫を棄てて」と書いた。
それ以来、大杉たちの運動に入って来ようとでもいうような女について、この「弊履」という言葉が大杉たちの間でよく使われていた。
ブレスコフスカヤの夫は、彼女の自叙伝の中にもあるように「農奴解放の三年後、私は自由主義の一青年と結婚した。彼は性質が寛宏なる、地方の一地主で、地方議会には特に深い興味を持っていた。で、私のために農学校を建ててくれ、私どもはまず農民の教育を始めた」くらいの男であった。
しかし、いわゆる「人民の中へ行け」という平和な教育運動に対する政府の無法な迫害とともに、その運動がさらに新しい革命運動に変わろうとしたとき、彼女は当時、二十六歳であった。
夫もやはり同じ年ぐらいで、ふたりの行く末はまだ永かった。
そこでブレスコフスカヤは「主義のためには追放も辞せぬ、死をも恐れぬという大決心があるか」と夫に糺したところ、彼はそこまでの堅い決心はないと言った。
彼女はただちに夫と離別した。
辻についてはただ少々英語ができるだけの、よほどの愚図のように、大杉たちの間には伝わっていた。
「そりゃもちろんだね。いよいよそうとなれば、僕らの間の誰かと恋に落ちるか、それでなくてもどうしてもあんな男とは別れなくちゃなるまいよ」
「やあ、あぶないぞ保子さん。よっぽど気をつけなくちゃ。ハハハハハハ」
堺はそのときまで黙って聞いていた保子をからかいながら、大きな声で言った。
Y子の眼は急に強く光つた。
そして、いつもならばそんな戯談は軽く受け流して了ふ彼女が、
『ほんとにあなた方はいけない。こんな話になると、すぐにそんな風にとつて了ふんだから。あの人の御夫婦だつて、随分深い恋仲なんださうだし、さう易々と別れられるものですか。』
と真面目になつて云ひ返しては見たが、暫くして又思ひ直したやうに、
『ええ、此の人なんかはほんとに何をするか知れたもんぢやありませんよ。』
と笑つて見せてゐたが、しかし彼女の眼の色は依然として光つてゐた。
「馬鹿ツ」
僕は軽く笑つた。
「ほんとだよ、Y子さん。大いに気をつけなくちや。」
Sは殊更のやうに前よりも大きく笑つた。
(「死灰の中から」/『新小説』1919年9月号/伊藤野枝との共著『乞食の名誉』/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』_p571/日本図書センター『大杉栄全集 第12巻』_p258~259)
堺も保子も、大杉が保子と一緒になる前の彼のふしだらをよく知っていた。
そして大杉の「フリーラブ・セオリー」も知っていたーーもっともそれは堺が大杉に教えたものだったのだが。
大杉豊『日録・大杉栄』によれば、大杉は東京外国語学校在学中の二十歳のころ、麹町区下六番町二十七番地(現在の番町小学校敷地内)に住んでいた。
大杉は「其頃僕は僕よりも二十歳ばかり上の或る女と一緒に下六番町に住んでゐたのだ」(「自叙伝」)と書いているが、荒畑寒村はこう回想している。
……大杉は外語に通っていたころ、下宿のおかみさんといい仲になってたんです。
そのうち、おかみが年上なもんだからいや気がさして別れたくなった。
それで、堀保子を介して、おかみと手を切ってもらったんです。
(『寒村茶話』_p137)
一九〇六(明治三十九)年の春、寒村は紀州田辺を引き払って堺利彦の家に寄寓し始めたが、そのころ堺家には保子、深尾韶、大杉も寄寓していた。
保子は、硯友社同人で読売新聞などの記者をした堀紫山の妹であり、二年前に死別した堺の先妻・美知は保子の実姉だった。
一九〇五(明治三十八)年、堺は延岡為子と再婚、保子も堺の友人と結婚したが離婚した。
大杉と保子が結婚したのは、一九〇六(明治三十九)年八月である。
下宿のおかみと手を切る際に仲介役を務めた保子に、大杉が惚れて結婚を迫った。
ところが、保子女史は深尾と婚約してるもんだから、なかなかウンと言わない。
とうとう大杉はある晩、保子女史の目の前で自分の着ている浴衣に火をつけて、「さあ、どうだ」って迫ったといいます。
さすがの保子女史もこれには参って、つい落ちちゃったというので、これこそ文字通りの、「熱い恋」だなんて、みんなでしゃれを言ったものですよ。
(『寒村茶話』_p137~138)
結婚といっても入籍はせず、夫婦別姓、保子の方が六、七歳年上の姉さん女房である。
★大杉栄・伊藤野枝『乞食の名誉』(聚英閣・1920年5月)
★『大杉栄全集 第三巻』(大杉栄全集刊行会・1925年7月15日)
★『大杉栄全集 第12巻』(日本図書センター・1995年1月25日)
★『寒村茶話』(朝日新聞社・1976年8月25日)
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index