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2019年04月10日

聖徳太子と飛鳥人の気概〜仏教信奉により「脱中華」を果たす その2


 


 





  聖徳太子と飛鳥人の気概〜仏教信奉により「脱中華」を果たす その2


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                  石平氏




 仏法の信奉によって中華文明を相対化せよ



 何故日本だけが中国の呪縛(じゅばく)から逃れられたのかこう考えてみると、日本使節の口上の背後に隠された、大和朝廷の対中国戦略思考の一端が見て取れる。

 それは、普遍性(ふへんせい)のある仏教と云う世界宗教の中に身を置くことによって、中国文明並びに中華王朝の権威を相対化し、中国と対等な外交関係を確立して行くと云うものだ。
 太陽のごとくこの世界を遍(あまね)く照らしている普遍的仏法の下では、中華王朝と大和朝廷との間、そして中国大陸と日本列島との間には、優劣も上下も無い。どちらが「中心」か、どちらが「周辺」かと云う事も無い。あるのは只、同じ仏法の信奉国としての対等な関係のみである。

 詰まり、仏法を信奉することによって、そして仏教と云う普遍的宗教の世界に身を置くことによって、日本は隣の中華帝国と対等な立場に立ったのである。


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               東大寺 / 奈良


 隋王朝とそれに次ぐ唐王朝の誕生で出現した隣の大中華帝国の圧力に対し、日本は一体どうやって自らの独立を保つのか、中国から文明と文化を受け入れ乍らそれに呑み込まれ無い為に、日本はどう云う立ち位置にあるべきなのかと云う問題は、推古朝の聖徳太子の時代から大和朝廷に取っての根本的な政治課題と為った。
 これに対し、先ずは推古朝の摂政を務める聖徳太子の主導下「日出づる処の天子」の国書をもって隋王朝に対する「独立宣言」を行なう一方、同じ聖徳太子の主導下で、大和朝廷は国家的プロジェクトとしての仏教の受容と振興策を推し進め、仏法の権威をもって中華皇帝の権威に対抗し、普遍的な価値を持つ仏教の世界に身を置くことによって中華文明を相対化して、それと一定の距離を取ると云う、誠に高度な文化戦略を展開したのである。

 推古朝の聖徳太子の時代から東大寺建立の聖武天皇の時代に至るまで、古代の日本人があれ程の熱意をもって仏教の振興政策を推し進めたことの最大の理由は、まさにここにあったのではないか。


 




 「須弥山」嗜好に託された飛鳥人の思い


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               大阪 四天王寺


 実はこの観点から見ると、聖徳太子が最初の仏教振興プロジェクトとして造営した四天王寺が、大和朝廷政治の中心地の飛鳥では無く、ヤヤ離れた難波の地に建てられたことの意味も判る。

 この時代の難波は港であり、朝鮮半島と中国大陸に向かって開かれた日本の玄関口であった。この難波の海を見下ろす上町丘陵に壮麗なる仏教寺院を建立したのは、海の向こうから来た人々に、仏教の国・日本の国家的威容を示す為であったのではないか。
 大和朝廷の仏教振興政策は「海の西」の中国を強く意識した対外政策の一環であったに違い無いと思うのである。


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          須弥山の位置と広さ  須弥山の概念


 それと関連して、この時代の寺院で屡(しばしば)行なわれた「須弥山(しゅみせん)」像の建造にも注目すべきであろう。「須弥山」とは、印度の古典仏教で考え出された「須弥(しゅみ)世界」の中心と為る山の名である。
 すなわち、須弥世界の中心に須弥山と云う想像を絶する高山が聳(そび)え立ち、外輪の山々が周囲を七重に取り込んでいる。山々の更に外側には海が広がって居て、そこに四つの大陸、四大洲を浮かべて居る。

 我々人間の住む世界とは、この四大洲の中の閻(えん)浮(ふ)(ジャンブー)洲とされて居るのである。我々の住む地は須弥世界の一部であるが、須弥世界全体は須弥山を中心に組み立てられて居る、と云う構図である。飛鳥時代の日本人は、「須弥山」を中心とする世界像を好んで受け入れて居た様である。


        4-10-23.jpg 須弥山


 




 『日本書紀』によると、推古天皇20年に宮殿の南庭が須弥山の形に築かれたと云う。更に斉(さい)明(めい)天皇3年、飛鳥寺の西に須弥山の像が造られたことも伝えられている。法隆寺の伝世の宝物である「玉虫(たまむし)厨子(ずし)」の台座の裏面には、須弥山の像が描かれて居た事が確認出来る。

 日本で描かれた「須弥世界」では、海に浮かぶ四大洲の中で、南洲の中央に天竺(印度)が、その東方に震(しん)旦(たん)(中国)があって、更に東方の大海にある中洲の傍らに日本の島々があると考えられていた(石田一良『日本文化史・・・日本の心と形』東海大学出版会、1989年)

 この「須弥世界」の中では「中華世界」即ち中国王朝を頂点とする中華文明圏が世界の中心でも何でも無い事は自明の事であろう。中国は「震旦(しんたん)」と呼ばれて、最早「中華」ですら無い。「須弥山」こそが世界の中心であり、日本も震旦もその周辺の海に点在する「周辺国」でしかない。
 「須弥山」からの距離には差があるものの、同じ「周辺国」としては、日本と震旦との間には上下は元より優劣の関係さえも存在しない。全く対等なのである。


 




 大和朝廷の心臓部にあたる宮殿や、日本仏教では中心的な役割を担う飛鳥寺、法隆寺に建造された須弥山には、中華世界を相対化する事で中国王朝と対等な立場に立とうとする、当時の日本人の思いが込められて居たのであろう。

 その後、平安時代に入ってからの日本は、仏法と云う普遍的な世界に身を置くことによって中国と対等のみ為らず、日本の優越性さえ主張するに至った。
飛鳥時代の推古朝以来の仏法の興隆と広がりは、日本を「大唐」と対等のみならず、仏教信仰の純粋さにおいては、中華世界を見下ろす迄の心情的優位へ導いたのである。


 ※本記事は、石平著『なぜ日本だけが中国の呪縛から逃れられたのか』(PHP新書)より、一部を抜粋編集したものです。


 以上




 



 


聖徳太子と飛鳥人の気概〜仏教信奉により「脱中華」を果たす その1




 聖徳太子と飛鳥人の気概〜仏教信奉により「脱中華」を果たす その1


 石平(評論家)2018年02月10日 公開 より引用します


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 聖徳太子が叩き着けた日本の「独立宣言」



 聖徳太子が摂政を務める推古朝が成立するその12年前、中国大陸では長い分裂の時代が終焉を告げ、隋(ずい)王朝と云う巨大帝国が誕生した。

 隋王朝は成立した時点から歴代中華帝国の伝統に従って周辺国への侵略・圧迫を始めたが、604年に2代目皇帝の煬帝(ようだい)が即位すると対外的覇権主義政策がより一層加速化した。煬帝の下で隋帝国は、大規模な高句麗征伐戦争を数回行なっただけで無く、朝鮮半島南部の百済と新羅を朝貢体制に組み込んだから、その勢力範囲の拡大が日本にまで及んで来るのは最早時間の問題であった。


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              聖徳太子とされる像


 593年から推古朝の摂政と為って日本の内政と外交を司る聖徳太子に取って、隋帝国にいかに対処するのかは当然、喫緊の政治課題と為って居り、隋の存在と動向を無視することは出来無く為って居た。
 そこで大和朝廷は、先ず600年に初めて使者を隋王朝に派遣して接点を作った。そして607年、小野(おのの)妹子(いもこ)を国使として隋王朝に遣わした。その時、妹子が携えて行った大和朝廷の国書が、日本と隋帝国との間でチョットした外交問題を起こしたことは余りにも有名な話である。


 





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         「日没する処の天子へ」と書かれても・・・


 推古天皇から隋の煬帝に宛てたこの国書は「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)なきや」との書き出しから始まるが、この書き出しの文言は煬帝を激怒させるのに十分であった。

 歴代中国王朝の世界観からすれば、これは飛んでも無く挑戦的な言辞であった。何しろ、世界の上には「天」と云うものがあって、天帝が宇宙の森羅万象全てを支配する一方「天下」即ち天の下の世界では、天帝の子である「天子」こそが天命を受けて「唯一の統治者」と為るべき存在なのだから。
 中国王朝の世界観からすれば、中華帝国の皇帝こそ「天命」を受けた唯一の天子であり、この世界の頂点に立つ唯一の支配者なのである。従って、この世界で「天子」と称することを許されるのは、中華帝国の皇帝のみである。


 




 実際、中華帝国を中心とした朝貢(ちょうこう)体制の中では、周辺国の国王や首長は誰一人として「皇帝」や「天子」と号することは出来ず、皆、中華帝国皇帝の「臣下」として、皇帝よりも一段下の「王」の称号を頂戴することと為って居た。
 例えば、朝鮮半島の百済の王は隋の煬帝によって「上開府儀(うえかいふぎ)同三司帯方郡公(どうみつかさたいほうぐんこう)百済王(くだらおう)」に封じられ、新羅の国王は同じ煬帝から「上開府楽浪郡公(うえかいふらくろうぐんこう)新羅王(あたらしらおう)」との称号を貰っている。彼等と煬帝との関係は少なくとも形の上では、中央の唯一の皇帝=天子とその家来である各地方の首長と云う関係に為って居るのである。

 しかし唯一、日本の推古朝だけは、隋王朝に国家間の交流を求め乍ら、隋の煬帝に「称号」を求める様な事は一切しなかった。それ処か、推古天皇自身が前述の国書において、隋の煬帝しか称することの出来無い筈の「天子」を自ら名乗って、もう一人の「天子」である煬帝に「書を致した」訳である。

 煬帝の立場からすれば、日本の推古朝がこの様な国書を送って来たことは、中華皇帝こそ唯一の天子であり世界の唯一の主人であると云う中華帝国の世界観を根底からヒックリ返す前代未聞の「下克上」であり、中華帝国と皇帝の権威に対する許せ無い挑戦であっただろう。
 だから、国書を受け取った煬帝は大変立腹して「蛮夷(ばんい)の書、無礼なる者有り」と怒鳴ったと、中国の史書に記載されている。

 しかし日本の立場からすれば、推古朝が摂政の聖徳太子の主導下で隋の煬帝に送ったこの国書こそが、中華帝国に決して従属し無いと云う日本国の決意の表明であり、日本が中華帝国とは対等の国家であることを世に示した日本の「独立宣言」そのものだったのだ。
 推古天皇は自らを「天子」と称することによって、しかも「日出づる処の天子」と云う優越感さえある表現を用いることによって、中華帝国に対する日本の独立した地位と、この独立した地位を守り抜くと云う日本人の気概を誇らしく示したのである。


 




 「海西(うみにし)の菩薩天子(ぼさつてんし)」と云う口上の深意


 この様にして、隋煬帝への国書の書き出しの文句からは、中華帝国に対抗して日本の独立を保とうとする推古朝と聖徳太子の決意の程が好く分かるが、実はその時、国書を携えて隋王朝を訪れた使節の小野(おのの)妹子(いもこ)が冒頭の挨拶において、一つの興味深い口上を述べたことが中国の史書に記録されている。『隋書』東夷伝倭国条の記述によると、それはこうである。

 「海西(うみにし)の菩薩天子(ぼさつてんし)重ねて仏法を興すと聞く。故に使いを遣わして天子朝拝せしめた。兼ねて沙門(しゃもん)数十人来りて仏法を学ぶ」

 ここでの「海西の菩薩天子」とは隋王朝の皇帝を指している。隋の文帝・煬帝と云う二代の皇帝は、共に仏教の振興に熱心だったからである。注目すべきは「海西(うみにし)」と云う言葉である。確かに日本列島から見ると隋王朝のある中国大陸は「海の西」の方角であるが、中国の王朝に対して殊更(ことさら)この言葉を使うのには、それ為りの深意があると思われる。
 何しろ、中華王朝の抱く世界観では、周辺の「蛮夷の国々」を含めた「天下=世界」は、中華朝廷を中心に広がる同心円的なものであった。中華朝廷と中華皇帝こそが世界の中心であり、そこから遠ざかれば遠ざかる程「野蛮化外」の地と為って行く。従って隋王朝から見れば、中華朝廷と「蛮夷の国」日本との間には「海の西」も「東」も無く、只「中央」と「周辺」と云う関係があるのみである。


 




 そう考えると、推古朝の使者である小野妹子が「海西」と云う言葉を発したのは、単に地理上の事実を述べただけでは無いだろう。それは、中華朝廷を中心とした世界観の否定であり「周辺」からの「中央」への反発とも捉える事が出来る。
 言わんとする処は要するに、我が日本から見れば、アナタ方中国王朝は、世界の中心でも無ければ「中華」と云うものでも無く、単なる「海の西」にある一つの国であるに過ぎ無いのだと云う事であろう。

 「外交」とは「言葉による戦争」であると好く言われるが、ここでは「海西」と云う言葉が発せられることによって、中華王朝の周辺国に対する優位が一挙に相対化されたことに為る。巨大な中華帝国は、海の向こうにある「普通の国」の一つにされてしまったのである。
 更に、これに続く小野妹子の言葉こそが、最大のポイントである。曰く「海西の菩薩天子重ねて仏法を興すと聞く。故に使いを遣わして朝拝せしめた」ここでは日本からの使節は、自分が大和朝廷の国書を携えて隋王朝を訪問した目的を述べている。

 「隋王朝の天子様が仏法を興すのに熱心であると聞き、我が朝廷は私を使いとして遣わした」 

 と云うのである。隋王朝にとって、これも耳を疑う程の信じられ無い言葉であろう。有史以来の中華王朝対周辺国の関係において「蛮夷の国」が中華朝廷に入朝して来る目的は只一つ。即ち、中華王朝並びに中華皇帝の「徳」を慕って中華文明の「教化」を求めて遣って来るのだ。
 しかし日本使節の述べた口上は、中華帝国有史以来の正統観念を破った。日本は別に中華皇帝の「徳」や朝廷の「教化」云々(うんぬん)を求めて来た訳では無いと云う意を含めた上で「仏法」を訪問理由の中心に持って来たのである。

 詰まり、隋王朝の天子さまが「仏法」を崇敬しそれを興すのに熱心だと聞いて居るからこそ、我々は訪れて来たのであり、そうで無ければここに来ることも無かったと言わんばかりである。そこには明らかに「仏法」を隋王朝の皇帝の更に上位に置き、逆に仏法の優越性をもって中華皇帝の権威を相対化しようとする意図が読み取れる。
 云うまでも無いが、仏教とは中国文明から生まれた教義では無い。高度な文明国の中国ですら受け入れざるを得なかった外来宗教なのである。しかも、その仏教は中国を経由して朝鮮半島、日本へと伝わり、東南アジアにも影響を及ぼしている。中華文明の「教化」等より、仏教は遥かに普遍的な価値を持つ世界宗教なのである。


 その2に続く


 



 



 







天命思想、易姓革命がもたらした中国史の悲劇 その2



 天命思想、易姓革命がもたらした中国史の悲劇

 その2




 





 だが、周期的な「易姓革命」が起きる度に、中国と云う国は短くて十数年、長ければ百年以上の内戦状態に陥ってしまい、時には国民の半分以上がその中で命を失うことに為る。しかも「易姓革命」の動乱と内戦が起きる度に、今まで蓄積して来た社会の富と文化的財産が破壊し尽くされ、歴史が一度リセットされることに為る。

 この様に、中国の長い歴史において、天命思想と易姓革命から生まれたものは、支配と収奪と統制、そして周期的な動乱と戦争だった。この様な歴史は、天下万民に取って苦難の連続以外の何ものでも無かった。







 「習近平皇帝」誕生の今こそ「脱中華の思想史」が必要だ


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              習近平国家主席


 2017年10月24日に閉幕した中国共産党全国大会は、党の第19期中央委員会を選出し、その翌日の25日、中央委員会が第1回総会を開いて最高指導部メンバーである政治局常務委員を選出した。だが、その中には、習近平総書記の後継者と思われる50代の人物が一人も居なかった。この事は実は大きな意味を持つ。


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                江沢民


 習近平政権以前の江沢民(こうたくみん)政権時代と胡錦濤(こきんとう)政権時代、最高指導者は2期10年を務めた後、次世代の後継者にバトンタッチされる事と為って居た。だが、習氏が五年後にこれを破って3期目に入った場合、更にその5年後の党大会でも引退し無い可能性さえ出て来る。
 習氏は2期10年処か、4期20も権力の座にしがみ付いて、毛沢東に近い「終身独裁者」と為って行く事も在り得ると云う事だ。


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                 胡錦濤


 習氏は、今回の党大会で誕生した新しい政治局に自分の過つての部下・同級生・幼なじみを大量に送り込み、党の指導部を自分の側近で固めた。そして今「習家軍」(習家の兵隊)と呼ばれるそれ等の側近幹部が中心と為って、共産党党内で習氏のことを全知全能の偉大為る指導者として「神格化」する動きが広がっている。
 幼稚園の園児までがテレビの前に座らされて習氏の演説を聞かされたり、年寄りが公園で習氏を讃える歌を歌ったりする様な、まさに毛沢東時代の文化大革命期さながらの風景が再現されて居る。この様にして、2017年10月の共産党大会の前後に、毛沢東時代晩期を特徴付ける終身独裁・個人崇拝・側近政治等の悪しき伝統が一気に復活してしまい、中国共産党政権は40年前に先祖返りしたかの様な様相を呈した。


 




 過つて、毛沢東は27年間の治世において、実質上の「皇帝」として振る舞い、天下万民に対する絶対的な支配を行なった。今、習近平はまさに第2の毛沢東、即ち中国の新しい「皇帝」に為ろうとしているかの如くだ。
 中国共産党は習氏のことを「歴史的使命を背負う偉大為る人民の領袖(りょうしゅう)」と持ち上げると同時に、彼の思想を「習近平思想」として党の規約に盛り込み、習氏を共産党の「教祖様」に祭り上げ様としている。この様なやり方は「天命思想」を持ち出して皇帝の絶対的権威と権力を正当化して行った、過つての儒教思想のそれと何ら変わら無い。

 そして今、中国国内の官製メデイアの宣伝では、習近平氏が「懐の深い指導者」「慈悲の心に満ちた指導者」「高遠なる知恵を持つ指導者」「至誠大勇の指導者」として賛美されている。詰まり中国共産党政権は、伝統の徳治主義に基づいて「徳のある人格者」としての習近平像を作り上げている最中なのだ。或は「徳のある偉大なる皇帝」の虚像が、間も無く完成するのかも知れ無い。
 その一方で、新しい「皇帝」と為った習氏は「中華民族の偉大なる復興」と云うスローガンを掲げ「大国外交」の推進によって中国を頂点とした新しい世界秩序の構築、即ち「中華秩序」の再建を図ろうとしている。彼等がイメージしたこの「新しい中華秩序」においては、アジアとその周辺の国々は、経済的にも政治的にも中国の軍門に下って、中国を「覇主」として仰が無ければ為ら無い。



 





 この点もまさに、儒教的「中華思想の世界観」そのものの現実化であり、古き悪しき中華思想の復活なのである。
 21世紀初頭の今、中国では古色蒼然たる「皇帝」が再び登場し、天命思想・徳治主義・中華思想の3点セットの悪しき儒教思想の伝統も見事に復活して来ている。これを見ていると、中国と云う国は本質的には永遠に変わらず、儒教思想の束縛から永遠に脱出出来ないことが好く分かって来る。
 同時に、同じアジアの国でありながら、我々が生きるこの日本が、海の向こうの中国といかに大きく異なって居るかも好く見えて来る。

 この様な違いが生じた理由として、勿論、様々な政治的・地理的要因も挙げられるが、日本の先人達が思想の面において「脱中華」の努力を絶えること無く続けて来た事が、日中の違いを生じさせた主要な要因の1つと為って居る事は誰も否定出来まい。
 「脱中華の日本思想史」の歩みがあったからこそ、今の日本は大陸の中華とは違って、素晴らしい伝統に立脚した良き近代民主主義国家と為って居るのだ。

 現代中国と日本との落差と違いを決定付けた「脱中華の日本思想史」とは一体どう云うものか。飛鳥時代から明治までの日本思想史を「脱中華」と云う視点で捉え直すと、実にダイナミックで、知的刺激に満ちて興味深い、まさに大河の様な連綿たる流れが浮かび上がって来るだろう。
 そして「脱中華」に懸けた各々の日本人思想家達の誇りや矜持(きょうじ)は、現代を生きる日本人にも多くの知恵と勇気を与えて呉れる筈である。

 以上


 






 【管理人のひとこと】


 中国を離れ日本に永住した著者は、外から見てこそ判る祖国の姿を、日本に住む人間として、そこと対比して考察する習慣が身に着いて居るのだろう。次には「聖徳太子と飛鳥人の気概〜仏教信奉により〈脱中華〉を果たす」とするレポートを参照する。


 



 



 







天命思想、易姓革命がもたらした中国史の悲劇 その1




 天命思想、易姓革命がもたらした中国史の悲劇

 その1




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    石平氏(評論家) 2018年02月05日 公開 より引用します




 





 政治権力を正当化する「御用思想」としての儒教


 中華文明は、世界最古の文明の一つで、取り分けアジアにおいて圧倒的な影響を周辺諸国に与え続けて来た。だが、東アジアにおいて、只一つだけ、中華文明から完全に脱却し、独立自尊の文明国として立ち得た国があった。その国こそ、日本である。
 何故日本は、これ程巨大な中華文明から離脱することが出来たのか。このことについて考える為には、先ず初めに、思想としての「中華」とは何かと云う事を明らかにして置かねば為るまい。


 中国の長い歴史の中で、特に紀元前5世紀から紀元前3世紀に掛けての春秋末期と戦国時代において、所謂「諸子百家」と呼ばれる思想家が輩出した。儒家・道家・墨家等の思想だ。
 しかし紀元前206年から中国を支配した前漢王朝の時代、皇帝の政治権力によって「儒家の思想」だけが国家的イデオロギーに祭り上げら、云わば「国教」としての儒教と為った。それ以降の2千数百年間「儒教思想」は殆どの期間を通じて支配的地位を保ち、中国思想の中核を為して来た。


 




 儒教は、中国の「国教」として君臨したその長い歴史を通じ、皇帝の権力を後ろ盾として中国における支配的地位を得ていた。当然、儒教は皇帝に奉仕するべき存在で、その為に儒教は皇帝の権力と権威を正当化する様な思想と化して仕舞い、云わば「御用思想」としての性質を帯びる様に為った。
 と云うよりも寧ろ、最初から政治権力を正当化する様な性格を持って居たからこそ、儒教思想は漢王朝皇帝のメガネに叶って国家的イデオロギーとして採用されたのだ。そして同じ理由によって、儒教は前漢王朝以後の中国歴代王朝でも重宝され続けた。
 画して、前漢王朝以来の中国思想史において、政治権力を正当化しそれを補完する役割を担う事が、儒教思想の最大の特徴と為った。この様な儒教思想が、中国思想の中核を占めて来た。


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             遣唐使・遣隋使船


 日本が中華文明からの影響を受け始めたのは、前漢王朝の後の後漢時代(西暦25〜220年)で、中国思想が本格的に日本に伝来したのは、後漢の時代から遥か後の隋(581〜618年)や唐(618〜907年)の時代だ。
従って、日本に伝来して様々な影響を及ぼした中国思想は当然「儒教」を中核とする中国思想だった。


 




 天命思想が、何故中国史の悲劇を生んだのか?


 この様な中国思想の中身とは何だったのか。中核的な要素の一つは即ち「天命思想」と呼ばれる考えである。儒教思想の世界観において、自然万物・森羅万象の絶対的支配者は「天」と云うものだ。それは自然界の「天空」であると同時に、キリスト教の云う「神」に相当する、唯一にして全知全能の神聖なる存在だ。
 森羅万象と同様に「天下」と呼ばれる人間世界も「天」によって支配されて居る。しかしその場合「天」と云うのは沈黙の支配者であり自らの意思を何も語ら無い。為らば「天」は一体どうやって人間世界を支配するのか。そこで出て来るのが「天子」と呼ばれる皇帝の存在だ。

 「天」は自らの意思を直接語りはしないが、人間の世界から誰かを自分の「子」として選び「天子」であるこの人に支配権を委譲する。そして「天子」を通して人間世界を支配する。
 その際「天」が人間世界の支配権を特定の人間に委譲することは、即ち「天命」をこの人に下すことで、「天子」に選ばれて天命を下された人間が即ち皇帝と為る。更に、委譲された支配権は「天命」を下された皇帝本人が持つだけで無く、その子孫にも受け継がれて行く事と為る。

 皇帝とその子孫達の統治権は「天」から委譲されたものであるとされるので、その正当性はまさに神聖なる「天」によって保証されたものと為る。人間世界の誰もが認めるべきものであって、人は誰もが「天」の子である皇帝に服従し無ければ為ら無いと云う理屈に為る。
 「天命思想」はまさにこの様にして、皇帝と云う権力者の権威と権力を正当化し、人々を従わせ様とする。

 しかし「天」が誰かを選んで天命を下し支配権を譲ることが出来るなら、「天」は支配権の委譲を撤回する事も出来る事に為る。もし「天」から支配権を譲られた皇帝とその子孫が「天」の意思に背いて悪事を働いたり責務を放棄したりして天下を乱したら、「天」は何時でも自らの下した天命を撤収して、それを別の人に下す。詰まり別の人間を「天子」として改めて選び、天下の支配権をこの人に譲るのである。


 




 「天」が「天命」を今の皇帝から回収して別の人に下す事が、即ち「革命」「革命」と云う漢語の本来の意味はまさにこのことを指す。
 天が「革命」を行なった結果、天下の支配権は当然「劉(りゅう)」や「楊(よう)」等の姓を持つ皇帝とその一族から、「李(り)」や「朱(しゅ)」等、別の姓を持つ人とその一族に移って行くことに為る。この政治的大変動が即ち、中国史を彩る「易姓革命(えきせいかくめい)」だ。
 勿論、実際の易姓革命は大抵、前王朝の失政によって天下が乱れた結果、誰かが反乱を起こして前王朝を潰し新しい王朝を立てる、と云うプロセスだ。だが兎に角「天命(てんめい)思想(しそう)」の理論上においては、この様な政治変動は、「天」の意思による「易姓革命」の実現として解釈される。

 こうしてみると、儒教の「天命思想」は、皇帝の政治権力を正当化する思想であると同時に、皇帝の政治権力の剝奪(はくだつ)と権力の交代を正当化する思想でもある。この様なイデオロギーの支配下では、王朝と皇帝の権力は「天命」によって保証されるが、同じ「天命」によって「易姓革命」の正当性も又保証される事に為る。
 それ故天命思想の下では「皇帝による人民の絶対的な支配」が中国歴代王朝の絶対的政治原理と為る一方で、皇帝の絶対的支配を打ち倒して新しい皇帝の支配権を確立する「易姓革命」も又、伝統的な政治原理と為った。


 




 この二つの政治原理が同時に働いた結果、社会的大動乱や内戦の周期的発生と、政治権力の残酷さが国の政治を彩る大きな特徴と為って行ったのだ。
 これは詰まり、こう云う事である。一人の皇帝が王朝を立てて支配体制を確立すると、神聖なる「天」によって「天命」が自分と自分の子孫に下されて居るとの論理から、皇帝は自分と自分の一族こそが天下の主人だと思ってしまう。そして天下万民を「私物化」してしまい、収奪と支配を欲しいままにするのだ。
 その一方で、皇帝とその一族は、易姓革命の発生を何よりも恐れる。それ故、日々、国内のあらゆる不穏な動きに目を光らせ、危険分子と思う人々に容赦の無い弾圧を加える。

 「易姓革命」の原理においては、天下万民の誰もが反乱を起こして新たに天命を勝ち取る可能性がある訳だから、皇帝とその一族に取って、民衆は「支配・収奪の対象」であると同時に、常に監視して統制して置か無ければ為ら無い「敵」でもある。
 画して中国では、天下万民は支配・収奪・統制の対象と為り常に不平不満を持つ存在に為る。それ故王朝の支配と収奪の度が過ぎて、人々の最低限の生存権が脅かされる様に為ると、人々の中から必ず反骨の人が出て来て、自分こそが新たな「天命」を受けたと宣言して反乱を起こす。

 そしてその反乱が成功すれば、反乱者は必ず前王朝の皇帝一族を根こそぎ殺してしまい、死屍累々の上に新しい王朝を作り、前王朝の行なった支配と収奪と統制を繰り返して行くのである。


 ・・・その2につづく・・・


 



 



 








文化大革命の嵐の中で、命がけで孫に論語を教えた祖父の話 その2



 


 文化大革命の嵐の中で、命がけで孫に論語を教えた祖父の話 その2



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              「正論」懇話会にて 石平氏



 





 漢方医の祖父が論語を教えたがった本当の理由


 しかしそれにしても、当時の祖父が身の危険まで冒して、私に『論語』を教えたかったのは一体何故なのか。大学生に為って田舎の村に帰省した時にヤッと祖母の口からその訳を聞き出した。

 実は、漢方医であった祖父は、孫の私に自分の医術を全部伝授して立派な漢方医に育てて行く積りだったと云うのだ。祖父自身の子供達は誰一人彼の医術を受け継ごうとし無かったから、孫の私が祖父母の家に預けられた時から、祖父はそんな決意を密かに固めたようだ。
 そして、祖父の世代の漢方医の考えは、医術は先ず「仁術(じんじゅつ)」で無ければ為ら無かった。祖父は医術伝授(いじゅつでんじゅ)の前段階の「基礎教育」として「仁術」を身に着けさせる為に『論語』の言葉を私に教えたと云う訳だ。

 しかし残念なことに、私が小学校五年生の時に成都に居る両親の元に戻されてから間も無くして、祖父は肺がんで亡くなった。孫の私を漢方医に育てると云う祖父の夢は遂に叶わ無かった。


 




 これが、私が子供時代に体験した、それこそ「論語読みの論語知らず」と云う奇妙な勉強体験で、私の人生における『論語』との最初の出会いだった。お陰で『論語』の多くの言葉が私の記憶の中に叩き込まれ深く刻まれた。初老と為った今でも『論語』の言葉の一つを耳にしただけで、一連の語句が次から次へと頭の中に浮かび上がって来て、湧く様に口元に上って来る。
 その一方で、祖父が私に施した『論語』教育の真意を、大学生の時に祖母から聞き出して以来ずっと「論語とは何か」と云うテーマが私の大いなる問題関心の一つと為った。

 我が祖父が命の危険を冒してまで私に教えた『論語』は、キッと素晴らしい書物だろう。しかし、その素晴らしさは一体何処にあるのか。二千数百年前に生きた孔子と云う人間の発した言葉の一つ一つに、一体どの様な深意があるのか。そして、今に生きる我々がそれをイチイチ覚えて置く程の価値があるのか。
 私の祖父と祖父の世代の中国の知識人達は『論語』のことを不滅の「聖典」だと思って居る様だが、果たしてそうなのか。現代に生きる我々に取って『論語』を学ぶ意味は一体何処にあるのか・・・等々、『論語』を巡る様々な問題はこの数十年間、ズッと私の心の中にあり時折浮上して来ては私に思索を促した。

 こうして、幼少時代の四川省の山村での体験によって、一思考者としての私は『論語』と生涯の縁を結ぶ事と為った。

 以上


 



 






 【管理人のひとこと】


 毛沢東の文化大革命の凄まじい中国内の環境を思い知らされました。この時代は、一体中国の政治史上でどの様に評価されているのでしょうか、そして、この時代を経て中国はどの様に変化するのか・・・
 石平氏が、日本の主に右翼系を主体に活動するのは「国を愛する」と云う一つのポリシーなのでしょうが、決して彼がゴリゴリの右翼だと決め着けるのはどうなのか。最近の右翼の方達は、意外に普通人の常識で物事を素直に見詰める傾向が強く為って居り、左翼に比較して論ずるのも適当では無さそうなのです。次には「天命思想、易姓革命がもたらした中国史の悲劇」と題したレポートを参照します。



 







文化大革命の嵐の中で、命がけで孫に論語を教えた祖父の話 その1





 文化大革命の嵐の中で、命がけで孫に論語を教えた祖父の話 その1


       4-10-6.jpg 石平(せき・へい)氏

 石平(せき・へい:評論家)2019年04月09日 公開 より引用


 



 

 評論家の石平(せき・へい)氏は近著『なぜ論語は「善」なのに、儒教は「悪」なのか』にて、多くの日本人が常識だと考える「論語=儒教」に対して、疑問を呈している。自身が幼少の頃に、祖父の摩訶不思議な「教え」から『論語』に接し、後に儒教の持つ残酷な側面を知り、強い葛藤を抱く様に為ったのだと云う。
 ここではその石平氏の幼少の頃の「論語」体験を語った一節を同書より紹介する。※本稿は石平著『なぜ論語は「善」なのに、儒教は「悪」なのか』(PHP新書)より一部抜粋・編集したものです。



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              毛沢東の文化大革命


 文化大革命の嵐の中も、平和に暮らしていた石平少年


 中国生まれの私が『論語』と出会ったのは、例の「文化大革命」の嵐が中国大陸を吹き荒れていた最中のことだった。私の出身地は中国・四川省(しせんしょう)の成都市(せいとし)、両親は二人共大学の教師だ。しかし1966年、私が4歳の時に「文化大革命」が始まると、両親は大学から追い出され、成都郊外の農場で強制労働をさせられる羽目と為った。
 そこで両親は子供の私を四川省の山村で暮らす祖父母に預けることに、五歳から小学校五年生まで、私はこの山村で育った。

 山村の風景は、私が今暮らしている奈良市や大阪の田舎のそれと好く似ていた。里山があって田んぼが広がり、竹林に覆われる丘と田んぼの間には、農家が一軒また一軒と点在。文化大革命の最中でも、紅衛兵達はそんな辺鄙(へんぴ)な寒村(かんそん)に滅多に来ないから、都市部と比べればここでの生活は幾分静かであった。
 祖父は村の漢方医で、自分達の住む村だけで無く周辺一帯でも「名医」として名が通っていた。毎日の様にアチコチから患者が受診に来るが、私の記憶では殆どの人が診療代の代わりにお米や鶏や鴨や卵や野菜等を持って来る。だから、祖父母と私の三人の生活は、貧困であり乍らも食べることに困ったことは無く、至って平穏で安定していた。


      4-10-8.jpg 紅衛兵達


 私達子供は毎日の様に里山で遊んだり合戦ゴッコをしたり、時には川や田んぼで小魚や泥鰌(どじょう)を捕まえて焼いて食べたりして随分楽しんで居た。七歳に為って村の小学校に入ってからも、午後の授業をサボって里山を駆け巡って遊ぶのは、私達悪ガキ集団の日常だった。
 祖父母は私の教育に関しては至ってルーズで、学校をサボって遊び更けたことがバレてもそんなに怒ら無いし、外の喧嘩に負けて泣いて帰って来ても、老人の二人は見て見無い振りをして「何かあったのか?」とは一切聞か無い。唯一、祖母に厳しく言われたのは「弱い子、小さな子を虐めたら絶対駄目だよ」と云う事で、他の事はどうでも好い風情だった。


 祖父は孫に、意味も判らぬ文字を只只管(ひたすら)に書き写させた


 祖父の方は、私の国語(中国では「語文」と云う)教育にだけ拘(こだわ)って居た。

 「算数位は学校で勉強しても好いが、お前の国語の勉強だけは、学校の青二才の先生にとても任せられ無い」

 と云うのが、祖父の何時ものセリフ。その為、私が小学校に上がったその日から、殆ど毎日の様に祖父の自己流の国語教育の施しを受けることに為った。
 そのお陰で、国語の成績に掛けては私は常にクラスの一番だった。悪ガキどもが誰も書け無い難しい漢字もサッサと書けるし、学校の先生でさえ知ら無い四字熟語も一杯覚えた。この小さな小学校で、私は何時しか、国語の「師匠」と呼ばれる様に為って居た。


 




 しかし小学校四年生あたりから、祖父の私に教える国語は以前とは全く違う奇妙な内容と為った。以前は、新聞や本を教材にしていたが、今度は祖父が一枚の便箋に幾つかの短い文言を書いて私に手渡し、自分のノートブックにそれを繰り返し書き写せと命じるのだ。
 しかも、一枚の紙が渡されると一週間か十日間は同じものを何百回も書き写さ無ければ為ら無い、と云う退屈極まり無い勉強である。更に奇妙なことに、明らかに現代語とは違ったそれ等の文言の意味を、祖父は一切教えて呉れ無い。何処から写して来たのか誰の言葉であるかも一切語ら無い。只「書き写せ」との一言である。

 今でも鮮明に覚えているが、例えば「不患人之不己知、患己不知人也」「興於詩、立於礼、成於楽」等々、小学校四年生の私にはその意味が判る筈も無い難しい言葉ばかり。それでも祖父の命令で、毎日自分の手で、それを何百回も書き写さ無ければ為ら無かった。しかし、それよりも更に摩訶不思議なのは、この件に関する祖父の奇怪な態度だ。
 毎日家の中で、私にそれ等の言葉を書き写させながら、学校ではそのことを絶対言ってはいけ無いと厳命した。そして、祖父に渡された便箋もそれを書き写したノートも、最後は一枚残さず祖父に回収される。祖父が私に書き写しを命じたそれ等の言葉はキッと良い言葉なのだろう。なのに一体どうして、悪いことでも遣って居るかの様に奇妙な行動をとるのか、子供の私には不思議で為ら無かった。そして或る日の夜、私は信じられ無い様な光景を目撃することに為った。


 




 何故「論語を教えること」は密かに行わ無ければ為ら無かったのか?


 私が夜中に目覚め、庭にあるトイレに向かおうとして台所の前を通った時に人の気配を感じた。密(ひそ)かに中を覗くと、普段は決して台所に入ら無い祖父の姿が。背中をコッチに向けて、シャガンデ何かを燃やしている。目を擦(こす)って好く見ると、そこで燃やされているのは何と、私が祖父から渡された文言を書き写したノートだった。
 我が目を疑う程の衝撃的な光景だった。何故、どうして、そんなことをし無ければ為ら無いのか。その当時の私には全く判ら無かった。

 その謎が解けたのは、祖父が亡くなった後、私が大学生に為ってからのことだ。実は、祖父が私に書き写しを命じたのは全部、かの有名な『論語』の言葉だった。『論語』の文章と現代中国語の文章は、日本人から見ると同じ「漢文」に見えるかも知れ無いが、文法的にも全く組み立ての違う文章だ。山村に育った小学生の私が十分に理解出来る筈も無い。
 にも関わらず、生徒に『論語』の言葉の意味を一切説明し無いまま、只何百回も書き写させると云うのは、まさに祖父の世代の教育法なのである。祖父は、この古式に則ったままの『論語』教育を、孫の私に施した訳だ。

 しかし、この様な『論語』教育を、まるで悪事でも遣って居るかの様に「密か」に行ったのは、別に「古式」でも何でも無い。それは「文化大革命」の時代における特異な事情によるものだ。

 毛沢東の発動した「文化大革命」は文字通り「文化」に対する革命だった。詰まり、中国の伝統文化を「反動的封建思想・封建文化」として徹底的に破壊してしまおうとするものだった。その中で、孔子の思想は葬(ほうむ)るべき「反動思想」の筆頭として槍玉に挙げられたのだ。
 この様な状況下では、子供に『論語』を教えること等はまさに許され無い事だった。もし見付かったら、大罪として徹底的に糾弾されただろう。発覚したら、祖父の命すら危なかったかも知れない。だからこそ、祖父は私に『論語』を教えるのに、ああするしか無かったの
である。

 その2につづく・・・



 




何故『論語(ろんご)』と儒教(じゅきょう)は全く関係が無いのか  石平氏





 何故『論語(ろんご)』と儒教(じゅきょう)は全く関係が無いのか?


 PHP Online 衆知(Voice)4/10(水) 11:54配信 より引用します


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             石平(せき・へい)氏


 




  石平氏の紹介(WIKIより)

 生い立ち〜日本との関わり〜帰化

 1962年 中華人民共和国・四川省成都市で生まれる。1966年 文化大革命の最中に教師であった両親が大学から追放されて農場へ「下放」された為、四川省の農村部で漢方医である祖父によって養育された。祖父は石に漢方医を継がせるべく、医者に為る為の教養として密かに「論語」を教えていたが、石が11歳の時に肺がんで死去。

 中学校時代、ゴミ拾いの貧しい老婆が近所に住んでいて、何時も学校帰りの石少年等子供達に、笑顔で「勉強頑張ってね」と声を掛けていたが、或る日突然その老婆が居なくなり「反革命分子」として政府に逮捕されたことを知った。
 数日後、老婆はトラックに乗せられ町中の市民に見せ着ける為一巡させられた後、処刑場で銃殺された。この老婆が「反毛主席」の大罪で処刑された理由が、ゴミ捨て場から拾った新聞紙(毛沢東の顔写真を印刷されていた)で大根を包んで居たからと云う事をその後知った石少年は衝撃を受けた。

 1980年9月に北京大学哲学部に入学し1984年7月に卒業。北京大学在学中の1982年頃より、毛沢東暴政の再来を防ぐ目的で中国民主化運動に情熱を傾け始める。1988年4月に日本に留学し、日本語学校入学。文化大革命及び1989年に勃発した天安門事件における中国共産党の党利党略振りへの憤怒と絶望感を抱き「この国には最早用が無い、何の愛着も義理も無い」と祖国である中華人民共和国との精神的決別に至った。
 その一方、留学中の日本で、中国の古き時代の隋・唐文化を守り発展させた日本文化に魅力を感じる様になり、孔子や論語の思想が日本の精神に生き続けていると感激し、次第に「愛日主義者」と為って行った。1995年に神戸大学大学院文化学研究科博士課程修了(学位は未取得)民間研究機関に勤務。
 2002年(平成14年)初頭に中華人民共和国国内に広がる反日感情をレポートした書物を出し、論壇デビュー。

 以来『正論』『Voice』『WiLL』等の保守論壇誌に論考を寄稿し、日中関係・中国問題等を論じて居る。又、フジテレビ・読売テレビ・テレビ朝日・TBS等の中国関連ニュース番組・討論番組でコメンテーターを務めている。

 日本へ帰化

 2007年(平成19年)11月30日日本に帰化。2008年(平成20年)4月に拓殖大学客員教授に就任。夏には公式サイトを(#外部リンク)開設し、同時にまぐまぐの無料メールマガジンも発行開始した。
 日本名は石 平〈せき へい〉だが、石平だと日本では苗字だと思われることもあり、Twitterでは差別化を兼ねて冗談半分で太郎を付けて使っている。2009年(平成21年)3月より産経新聞で隔週連載コラム「石平のChina Watch」の連載を開始。

 以上



 




 
 評論家の石平(せき・へい)氏は、多くの日本人が常識だと考える「論語=儒教」に対して疑問を呈している。自身が幼少の頃に、祖父の摩訶不思議(まかふしぎ)な「教え」から『論語』に接し、後に儒教の持つ残酷な側面を知り、強い葛藤を抱く様に為った事で、近著で示した結論に辿り着いたのだと云う。

 ここでは石平氏の主張の一端を同書より紹介する。※本稿は石平著『なぜ論語は「善」なのに、儒教は「悪」なのか』(PHP新書)より一部抜粋・編集したものです。


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         孔子の家系図が72年振りに更新された孔子像


 孔子は儒教の「教祖」では無い!


 孔子は、人生経験が豊富な常識人だが、所謂、哲学者でも無ければ聖人でも無く、宗教家や「教祖様」の様な存在とは尚更無縁の人間だった。そして『論語』と云う書物は、人生の指南書として大いに読むべきものであっても、哲学の書であるとは言え無いし、所謂、聖典でも無ければ宗教の教典でも無かった。
 言ってみれば、孔子(こうし)と云う知恵者の長者が、弟子達に向かって賢明な生き方や学び方や物の見方を諄々(じゅんじゅん)と語り教える、それが『論語』と云う書物の全てであった。

 しかし後世に為って成立した儒教において、孔子は「聖人」や「至聖」に持ち上げられ、儒教の「教祖様」の様な存在に祭り上げられた。更に後世に為って成立した儒教(じゅきょう)教典の「四書五経」では『論語』も儒教の聖典の一つに位置付けられ、科挙試験に必須の教科書と為って、読書人であれば誰もが恭(うやうや)しく「拝読」しなければ為ら無い一冊と為った。
 勿論、後世の儒教において孔子が「聖人」に奉られたことも『論語』が聖典に持ち上げられたことも、それ等は全部、孔子の与(あずか)り知る処では無い。孔子に取ってそれは甚だ不本意なことであろう。と云うのも、後世において誕生し成立した儒教は、孔子を「教祖」と祭り上げながらも、実際には孔子や『論語』とは関係の薄い教学だったからだ。


 




 時間的にも質的にも完全な隔たりがある


 儒教が成立したのは何時なのか。それに関しては諸説あるが、有力な説の一つは「漢代(かんだい)成立説」だ。例えば中国思想史家の東京大学大学院教授・小島毅(こじまたけし)氏は「漢代成立説」を主張する一人である。小島氏はその近著『儒教の歴史(宗教の世界史5)』(山川出版社)でこう述べている。
 「筆者の学術的認識では、儒教が誕生したのは漢代のことである。その理由は(中略)簡単に云えば、経典の確定とそれを巡る教学が成立するのが漢代だからである」と。


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                光武帝(漢)


 或は『世界大百科事典(第二版)』は「儒教」について「中国で前漢の武帝が董仲舒(とうちゅうじょ)の献策(けんさく)で儒家(じゅけ)の教説を基礎に正統教学として固定し、以後、清末までの王朝支配の体制教学と為った思想」と解説しているが、これも明らかに儒教の成立を漢代(前漢)とする見方である。

 筆者も儒教の成立は前漢時代であると考えるが、その成立時期の点からしても、儒教は孔子や『論語』とは殆ど関係が無いと思われる。前漢時代と云うのは、孔子及び『論語』の時代とは余りにも時間的な隔たりがあり、質的にも全く違った時代だからだ。
 孔子が没したのは紀元前479年で前漢王朝が成立したのは紀元前206年。孔子が死去してから273年も経ってからのことだ。しかも、前漢王朝成立後に儒教が直ちに誕生した訳でも無い。儒教が教学としてキチンと成立したのは紀元前141年に漢の武帝が即位した後のことで、孔子の死去から数えると三百数十年後のことだ。

 儒教は厳密に言えば宗教では無いので、安易に比較することは出来無いかも知れ無いが、世界三大宗教であるイスラム教・仏教・キリスト教の場合を見てみよう。イスラム教と仏教は、夫々の創始者であるムハンマドや釈迦の生前において既に宗教としての形を整えて大きな教団を作り上げている。キリスト教の場合、イエス・キリストが十字架の死から復活したその直後から教団としての布教活動は始まった。
 それ等に比べて儒教の場合の「教祖」或は「始祖」とされる孔子が没して三百年も経ってから教学として成立したと云うのはいかにも異様だ。孔子や『論語』と後世の儒教との関係の薄さは、それによっても示されて居る。


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             周王朝 文王(ぶんおう)


 時間的間隔が大きいだけでは無い。実は孔子の生きた中国史上の春秋時代と、儒教が成立した前漢時代とは全く異質の時代で、政治体制も社会の仕組みも完全に違っている。
 孔子が生きていた春秋時代は、中国史上の封建制時代で、当時、中国大陸には周王朝の王室を頂点とした封建制の政治システムが成立して居り、周王朝を宗主国と認める各諸侯が天下を分割統治していた時代。そして孔子の死後に始まった戦国時代に各諸侯国が戦いと併合を繰り返した結果、紀元前221年に七つの大国(戦国七雄)の一つである秦国が他の列強を滅ぼして天下を統一し、中国史上初めての統一帝国である秦王朝を樹立した。


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 秦王朝は、周代以来の封建制を廃止して中央集権制の政治システムを作り上げ、皇帝一人が官僚を手足の様に使って全国の土地と人民を直接支配する様に為った。それ以来、統一帝国と中央集権制は、中国の政治的伝統として受け継がれ、現在に至っても健在である。
 が、秦王朝の後を継いだ前漢の時代、特に儒教が成立した前漢第七代皇帝の武帝の時代は、まさに統一帝国と中央集権制がキチンと整備され定着した時代である。


 




 もし孔子が甦(よみがえ)って中国の皇帝独裁を目にしたら?


 こうして見ると、孔子の生きた時代と儒教の成立した時代は、中国史上の全く違った時代であることが好く分かる。前漢の時代に成立した儒教が、政治システムも社会の仕組みも完全に異なる三百年前の春秋時代に生きた孔子を「教祖」に奉ったのは、何かの間違いとしか思え無い。
 実際、孔子が『論語』の中で何度も述べて居る様に、彼自身が政治制度として最も推奨して居るのは周王朝のそれであり、要するに前漢時代とは全く異なった封建制なのだ。もし孔子が前漢の時代に蘇(よみがえ)って皇帝独裁の中央集権制の政治を目にしたら、もう一度憤死(ふんし)するに違い無い。この孔子を、前漢時代を代表するイデオロギーである儒教の「始祖」にするとは悪い冗談と云うしか無い。

 結局の処、漢代に成立した儒教は「孔子と『論語』の思想を継承した」云々と云うより、寧(むし)ろ孔子の名声を悪用して、孔子や『論語』とは殆ど関係の無い処で自分達の教学を作り上げただけのことだ。孔子と儒教、そして『論語』と儒教とは、最初から別々のものなのである。 

 石平


 





 【管理人のひとこと】


 先ず私達は「論語=儒教」と考えているが、それは全く違うのだと著者は説く。そして、著者がどの様な経緯で論語に向き合ったのかを次に参照します・・・


 











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