2012年02月27日
『佐伯祐三』新潮日本美術文庫
筆力の充実した絵画を見ると、こちらの生命力も充実します。
激しさ、狂おしさがあれば、より一層、命を揺さぶられます。
佐伯祐三(1898〜1928)の絵は、そのような絵です。
スピード感のあるタッチでありながら、よくよく見ると繊細であり、無駄なタッチがありません。
絵の実力の申し分ないことが窺われます。
佐伯祐三は、主にパリの風景を描いていますが、その中の人物はほとんど線としかいいようのない細さでありながら人物にしか見えず、人形のようでありながらそうでもなく生き生きした感さえ与えます。
不思議な感じですね。
パリの風景も単なる風景ではなく、パリに行ったことがない人間にもパリの風情を感じさせる力があります。
躍動感があるといえましょう。
色合いに関しては、重厚であり、圧倒的な存在感を醸し出しています。
明るめの色を使っている絵は鮮やかであり、華やかさが感じられます。
ただ、佐伯祐三の絵では暗めの色の絵が多く、陰鬱な感じを与えるようかと思いきや、そうでもなく、暗めの色でありながら、鮮やかさ、華やかさがどことなく感じられます。
鋭さがあるためかもしれません。
シャープで激しい筆遣いによる効果でしょうか。
特に、暗めでありながらも緑の色の鮮やかさには目を見張るものがあります。
なぜ、ここまで鮮やかな存在感のある緑が出るのだろうと思います。
緑が多く含まれていない絵であっても、ほんのちょっとの一部分に緑が使われていることがあります。
ちょっとなのですが、吸い込まれるような緑なのですね。
美術館において、佐伯祐三の絵を見ていますと、なかなか絵の前から立ち去ることができません。
磁力があるようです。
何度も何度も見返し、見続けるといった感じです。
1998年(平成10年)には、生誕100年記念の佐伯祐三展があり、全国から多くの作品が集められており圧巻でしたね。
ただ、頻繁に美術館に行くわけにもいきませんので、展覧会での図録や画集(『佐伯祐三』新潮日本美術文庫)で絵を見ますが、印刷物であっても佐伯の絵には人を引き付ける力があります。
佐伯祐三の絵の多くは、大阪市が所蔵していますが、全国の美術館にも点在しています。
いつも佐伯祐三の絵を展示しているというわけでもないでしょうが、各地を訪れる際、機会があれば見てみたいですね。
佐伯祐三の絵を見るというテーマで旅行するのもおもしろいかもしれません。
激しさ、狂おしさがあれば、より一層、命を揺さぶられます。
佐伯祐三(1898〜1928)の絵は、そのような絵です。
スピード感のあるタッチでありながら、よくよく見ると繊細であり、無駄なタッチがありません。
絵の実力の申し分ないことが窺われます。
佐伯祐三は、主にパリの風景を描いていますが、その中の人物はほとんど線としかいいようのない細さでありながら人物にしか見えず、人形のようでありながらそうでもなく生き生きした感さえ与えます。
不思議な感じですね。
パリの風景も単なる風景ではなく、パリに行ったことがない人間にもパリの風情を感じさせる力があります。
躍動感があるといえましょう。
色合いに関しては、重厚であり、圧倒的な存在感を醸し出しています。
明るめの色を使っている絵は鮮やかであり、華やかさが感じられます。
ただ、佐伯祐三の絵では暗めの色の絵が多く、陰鬱な感じを与えるようかと思いきや、そうでもなく、暗めの色でありながら、鮮やかさ、華やかさがどことなく感じられます。
鋭さがあるためかもしれません。
シャープで激しい筆遣いによる効果でしょうか。
特に、暗めでありながらも緑の色の鮮やかさには目を見張るものがあります。
なぜ、ここまで鮮やかな存在感のある緑が出るのだろうと思います。
緑が多く含まれていない絵であっても、ほんのちょっとの一部分に緑が使われていることがあります。
ちょっとなのですが、吸い込まれるような緑なのですね。
美術館において、佐伯祐三の絵を見ていますと、なかなか絵の前から立ち去ることができません。
磁力があるようです。
何度も何度も見返し、見続けるといった感じです。
1998年(平成10年)には、生誕100年記念の佐伯祐三展があり、全国から多くの作品が集められており圧巻でしたね。
ただ、頻繁に美術館に行くわけにもいきませんので、展覧会での図録や画集(『佐伯祐三』新潮日本美術文庫)で絵を見ますが、印刷物であっても佐伯の絵には人を引き付ける力があります。
佐伯祐三の絵の多くは、大阪市が所蔵していますが、全国の美術館にも点在しています。
いつも佐伯祐三の絵を展示しているというわけでもないでしょうが、各地を訪れる際、機会があれば見てみたいですね。
佐伯祐三の絵を見るというテーマで旅行するのもおもしろいかもしれません。
サマセット・モーム『サミング・アップ』
大学受験予備校が発行する英文解釈の参考書に内容の濃い英文があり、感じ入ったことがあります。
参考書には、出題大学の名前は書いていますが、出典が書いていないので、誰のどの本なのか分からないままでした。
英文は、以下の通りです。
I have always wondered at the passion many people have to meet the celebrated. The prestige you acquire by being able to tell your friends that you know famous men proves only that you are yourself of small account.
さすがに今はネット社会ですから、偶然にもその英文の出典を見つけることができました。
サマセット・モーム(1874〜1965)の『サミング・アップ』(1938年)ということが分かりました。
岩波文庫で翻訳がありましたので、確認してみましょう。
「多数の人々が有名人にぜひ会いたいと切望しているのを、私は常々不思議に思っている。自分の友人たちに有名人を知っていると言えることで得られる名声など、とりもなおさず自分自身は無名だということの証明に他ならないではないか」(サマセット・モーム『サミング・アップ』行方昭夫訳 岩波文庫 12頁)
せっかくですから、自分でも和訳してみたいと思います。
「私は、いつも、多くの人々が有名人に会いたいと熱中しているのを不思議に思っている。自分は有名人と知り合いであると友人たちに吹聴できることによって面目をほどこしても、自分自身が取るに足らないつまらない人間であることを証明することにしかならない」
内容としては、全くその通りと首肯するばかりです。
有名人、著名人、実力者等々の人と知り合いになるといいことがあるのではないかと思いがちですが、実のところ、どうでもいいようです。
特に政治家と親しくなりたいと思う人もいるようですが、政治家は人を利用こそすれ自分が利用されることがないようにしているものです。
考えてみれば、利用されている政治家など使い物にならないでしょう。
有名人は、もう有名ですから、有名人自身としては大した人間になっているともいえるでしょう。
しかし、有名人と知り合いになって、そのことを吹聴しても大した人間になれるわけではありません。
モームの指摘によると、取るに足らないつまらない人間であることがばれるだけです。
わざわざ有名人と知り合いになって評価が下がるのでは割に合わないですね。
有名人と知り合いになることに熱心にならないで、自分自身が大した人間になるよう努力、精進した方がよいでしょう。
ひとかどの人間になる過程において、その都度、無理なく、然るべき人と知り合いになっていけばよいと思います。
自分の境涯、境地に見合った人としかお付き合いはできないわけですから、どうしても有名人と知り合いになりたい場合は、自分の境涯、境地を上げていくしかありません。
ただ、自分の境涯、境地を上げていく中で、有名人と知り合いになることに価値はないと気付くことでしょう。
気付いていないならば、まだまだといえます。
参考書には、出題大学の名前は書いていますが、出典が書いていないので、誰のどの本なのか分からないままでした。
英文は、以下の通りです。
I have always wondered at the passion many people have to meet the celebrated. The prestige you acquire by being able to tell your friends that you know famous men proves only that you are yourself of small account.
さすがに今はネット社会ですから、偶然にもその英文の出典を見つけることができました。
サマセット・モーム(1874〜1965)の『サミング・アップ』(1938年)ということが分かりました。
岩波文庫で翻訳がありましたので、確認してみましょう。
「多数の人々が有名人にぜひ会いたいと切望しているのを、私は常々不思議に思っている。自分の友人たちに有名人を知っていると言えることで得られる名声など、とりもなおさず自分自身は無名だということの証明に他ならないではないか」(サマセット・モーム『サミング・アップ』行方昭夫訳 岩波文庫 12頁)
せっかくですから、自分でも和訳してみたいと思います。
「私は、いつも、多くの人々が有名人に会いたいと熱中しているのを不思議に思っている。自分は有名人と知り合いであると友人たちに吹聴できることによって面目をほどこしても、自分自身が取るに足らないつまらない人間であることを証明することにしかならない」
内容としては、全くその通りと首肯するばかりです。
有名人、著名人、実力者等々の人と知り合いになるといいことがあるのではないかと思いがちですが、実のところ、どうでもいいようです。
特に政治家と親しくなりたいと思う人もいるようですが、政治家は人を利用こそすれ自分が利用されることがないようにしているものです。
考えてみれば、利用されている政治家など使い物にならないでしょう。
有名人は、もう有名ですから、有名人自身としては大した人間になっているともいえるでしょう。
しかし、有名人と知り合いになって、そのことを吹聴しても大した人間になれるわけではありません。
モームの指摘によると、取るに足らないつまらない人間であることがばれるだけです。
わざわざ有名人と知り合いになって評価が下がるのでは割に合わないですね。
有名人と知り合いになることに熱心にならないで、自分自身が大した人間になるよう努力、精進した方がよいでしょう。
ひとかどの人間になる過程において、その都度、無理なく、然るべき人と知り合いになっていけばよいと思います。
自分の境涯、境地に見合った人としかお付き合いはできないわけですから、どうしても有名人と知り合いになりたい場合は、自分の境涯、境地を上げていくしかありません。
ただ、自分の境涯、境地を上げていく中で、有名人と知り合いになることに価値はないと気付くことでしょう。
気付いていないならば、まだまだといえます。
2012年02月26日
親の愛情による絶対的な肯定観
親の恩というものを感じるのは、親がいなくなってからという場合が多いかもしれませんが、親の存命中に親の恩を感じておくことは人間として重要であると思います。
しかし、日常生活の中において、親の恩を認識することは困難です。
ただ、エッセイ等の文章に接した時、気付かされることがあります。
「父との思い出はさまざまなものが複雑にもつれ合って、ひとことで言い表わすことなど出来はしないのだが、私を溺愛し、どんな人間でもいい、ただ大きくなって欲しいと念じつづけてくれた人がこの世にあったということを、筆舌に尽くしがたい感謝の念で思い起こすのである」(『宮本輝全集』第14巻 新潮社 172頁)
通常の親は、子供を溺愛するものです。
また、子供を愛している場合、元気で生きていてくれさえすればよいと念じ続けるものです。
このような親の愛情に対して、子供としては、言葉で感謝を表すことは不可能であり、ただただ感謝の念で親を思い起こすことしかできません。
身勝手な親になると、自分が満足するために子供にいろいろと押し付けます。
子供の成長、出世等々は、すべて自分の欲望を満たす材料にしか過ぎず、子供が自分の思い通りの生き方をしない場合、怒りにまかせて子供に当たり散らすということになります。
一定数、みっともない親が存在しますので、このような親にあたってしまった子供は、端的に言って不幸です。
一方、宮本輝氏の父は、子供が元気で生きていってくれればよいと念じ続ける親であり、宮本輝氏は、その父が今この世にいなくても、「この世にあったということ」に大きな意味を付与しています。
自分を溺愛してくれた父がこの世に存在していたということは、自分自身に対する絶対的な肯定観を感じることに繋がります。
生きていく上で必要なのは、自分で自分を肯定できる感覚であり、それは親から譲り受けるものといってもよいでしょう。
親からの愛情は、生きていくためにどうしても必要なものであり、親の愛情を受けた人間は、どんなに苦しくても生き抜いていく活力が出てきます。
親子関係の勘所はこの一点にあるといってよいでしょう。
財産、地位、名誉等々は付随的なものです。
親は子供に対し溺愛というほどの愛情をもって接し、子供は親に対し筆舌に尽くしがたい感謝の念で接していくことが肝要です。
世の人間関係で密接な関係は、親子関係ぐらいのものといえます。
夫婦関係、友人関係も確かに大切ですが、所詮、他人と他人です。
夫婦など書面一つで他人と他人に戻りますし、友人はどこまで行っても他人と他人です。
ましてや、職場や学校等々の人間関係など、赤の他人と赤の他人にしか過ぎません。
親を大事にし、子供を大事にしてから、その次の人間関係がはじまるという感覚を持っておきたいですね。
一番大切なところを蔑にしては、よりよき人生は歩めません。
しかし、日常生活の中において、親の恩を認識することは困難です。
ただ、エッセイ等の文章に接した時、気付かされることがあります。
「父との思い出はさまざまなものが複雑にもつれ合って、ひとことで言い表わすことなど出来はしないのだが、私を溺愛し、どんな人間でもいい、ただ大きくなって欲しいと念じつづけてくれた人がこの世にあったということを、筆舌に尽くしがたい感謝の念で思い起こすのである」(『宮本輝全集』第14巻 新潮社 172頁)
通常の親は、子供を溺愛するものです。
また、子供を愛している場合、元気で生きていてくれさえすればよいと念じ続けるものです。
このような親の愛情に対して、子供としては、言葉で感謝を表すことは不可能であり、ただただ感謝の念で親を思い起こすことしかできません。
身勝手な親になると、自分が満足するために子供にいろいろと押し付けます。
子供の成長、出世等々は、すべて自分の欲望を満たす材料にしか過ぎず、子供が自分の思い通りの生き方をしない場合、怒りにまかせて子供に当たり散らすということになります。
一定数、みっともない親が存在しますので、このような親にあたってしまった子供は、端的に言って不幸です。
一方、宮本輝氏の父は、子供が元気で生きていってくれればよいと念じ続ける親であり、宮本輝氏は、その父が今この世にいなくても、「この世にあったということ」に大きな意味を付与しています。
自分を溺愛してくれた父がこの世に存在していたということは、自分自身に対する絶対的な肯定観を感じることに繋がります。
生きていく上で必要なのは、自分で自分を肯定できる感覚であり、それは親から譲り受けるものといってもよいでしょう。
親からの愛情は、生きていくためにどうしても必要なものであり、親の愛情を受けた人間は、どんなに苦しくても生き抜いていく活力が出てきます。
親子関係の勘所はこの一点にあるといってよいでしょう。
財産、地位、名誉等々は付随的なものです。
親は子供に対し溺愛というほどの愛情をもって接し、子供は親に対し筆舌に尽くしがたい感謝の念で接していくことが肝要です。
世の人間関係で密接な関係は、親子関係ぐらいのものといえます。
夫婦関係、友人関係も確かに大切ですが、所詮、他人と他人です。
夫婦など書面一つで他人と他人に戻りますし、友人はどこまで行っても他人と他人です。
ましてや、職場や学校等々の人間関係など、赤の他人と赤の他人にしか過ぎません。
親を大事にし、子供を大事にしてから、その次の人間関係がはじまるという感覚を持っておきたいですね。
一番大切なところを蔑にしては、よりよき人生は歩めません。
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本来の信仰とは(組織宗教団体との対比において)
人が信仰をするきっかけとしては、代々続く檀家などであったからというような親からの引き継ぎの場合もあるでしょうし、自らが何がしらの縁で特定の宗教を奉じるに至った場合もあるでしょう。
親からの流れ、若しくは、自分から、という二つのパターンが考えられますが、どちらにしても、最初から独力で信仰を全うする人はほとんどいないでしょう。
最初は、組織宗教団体の助けを借りながら、信仰をしていくというパターンであると思われます。
また、組織宗教団体としても、檀家、信者、会員等々、呼び名はいろいろありますが、組織宗教団体の構成員を一人でも多く獲得したいと考えていることから、初信の人に対して親切であったりします。
信仰をする人にとっても、何も分からないところから信仰をスタートするわけですから、組織宗教団体を利用することにより、信仰をする上で必要な知識、基本的な作法が身に付きます。
その意味では、組織宗教団体は有用でしょう。
しかし、信仰する上での一定の知識が身に付いたならば、本来の信仰を磨くことに集中した方が良いでしょう。
間違っても、組織宗教団体の枠内での考え方に染まらないことです。
このことに関し、美輪さんが明快に指摘してくれていますので、確認してみましょう。
「信仰と宗教は別物よ。宗教は企業よ。信仰というのは、自分の心の鍛錬。自分自身を信じ仰げるように、日常の中で自己反省していって鍛錬し、向上させる行為なのよ」(美輪明宏『生きるって簡単 苦悩の娑婆を生き抜く法華経の力―美輪明宏の悩み相談室』佼成出版社 208頁)
宗教を端的に「企業」と言い切っているところは、見事な慧眼ですね。
まさにその通りです。
企業ですから、利用者としては、必要な時には利用するけれども、必要なくなったら利用しない、というだけのことですね。
ところが、組織宗教団体は、構成員がいなくなると財政的に苦しくなるため、教義を悪用し、構成員を脅しにかかります。
この時点で、本来の信仰から全くかけ離れてしまいます。
このような組織宗教団体は偽物ですから注意しなければなりません。
実のところ、ある一定の知識さえあれば、あとは自分で学んで深めていきながら信仰ができるものです。
美輪さんの言うように、本来の信仰は、自分自身を信じ仰げるようにするために自己を鍛錬し向上させることです。
決して、他者を信じ仰ぐことではありません。
この点は、特に注意しなければなりません。
組織宗教団体の有用性は最初だけといってよいでしょう。
そうであるからこそ、組織宗教団体としても、相当のサービスを提供し続けない限り見捨てられます。
企業と同様、一生懸命に顧客サービスに努めなければなりません。
そうでない組織宗教団体は、これまた企業と同様、いずれ潰れていくでしょう。
親からの流れ、若しくは、自分から、という二つのパターンが考えられますが、どちらにしても、最初から独力で信仰を全うする人はほとんどいないでしょう。
最初は、組織宗教団体の助けを借りながら、信仰をしていくというパターンであると思われます。
また、組織宗教団体としても、檀家、信者、会員等々、呼び名はいろいろありますが、組織宗教団体の構成員を一人でも多く獲得したいと考えていることから、初信の人に対して親切であったりします。
信仰をする人にとっても、何も分からないところから信仰をスタートするわけですから、組織宗教団体を利用することにより、信仰をする上で必要な知識、基本的な作法が身に付きます。
その意味では、組織宗教団体は有用でしょう。
しかし、信仰する上での一定の知識が身に付いたならば、本来の信仰を磨くことに集中した方が良いでしょう。
間違っても、組織宗教団体の枠内での考え方に染まらないことです。
このことに関し、美輪さんが明快に指摘してくれていますので、確認してみましょう。
「信仰と宗教は別物よ。宗教は企業よ。信仰というのは、自分の心の鍛錬。自分自身を信じ仰げるように、日常の中で自己反省していって鍛錬し、向上させる行為なのよ」(美輪明宏『生きるって簡単 苦悩の娑婆を生き抜く法華経の力―美輪明宏の悩み相談室』佼成出版社 208頁)
宗教を端的に「企業」と言い切っているところは、見事な慧眼ですね。
まさにその通りです。
企業ですから、利用者としては、必要な時には利用するけれども、必要なくなったら利用しない、というだけのことですね。
ところが、組織宗教団体は、構成員がいなくなると財政的に苦しくなるため、教義を悪用し、構成員を脅しにかかります。
この時点で、本来の信仰から全くかけ離れてしまいます。
このような組織宗教団体は偽物ですから注意しなければなりません。
実のところ、ある一定の知識さえあれば、あとは自分で学んで深めていきながら信仰ができるものです。
美輪さんの言うように、本来の信仰は、自分自身を信じ仰げるようにするために自己を鍛錬し向上させることです。
決して、他者を信じ仰ぐことではありません。
この点は、特に注意しなければなりません。
組織宗教団体の有用性は最初だけといってよいでしょう。
そうであるからこそ、組織宗教団体としても、相当のサービスを提供し続けない限り見捨てられます。
企業と同様、一生懸命に顧客サービスに努めなければなりません。
そうでない組織宗教団体は、これまた企業と同様、いずれ潰れていくでしょう。
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2012年02月25日
「話せば分かる」はウソ!?
昭和48年出版の本に興味深い記述がありました。
1950年代の警備公安警察がどのように警備事件被疑者と対峙していたかが分かります。
「警察庁警備部『続警備犯罪取締上の諸問題』〔昭和30年〕所収の「警備事件被疑者の逮捕と取調要領」を、警備犯罪の捜査に関する内部資料の一例として掲げておくことにする。
(中略)
勿論被疑者を説得し、納得させた上、穏かに連行に応ぜしめることは、最上の方法であり、原則とすべきではあるが、とくに党員の如く、本来異れる世界観の上に立つ者に対しては、その説得にも一定の限界のあることを知らなければならない」(広中俊雄『警備公安警察の研究』岩波書店 627頁〜628頁)
党員とありますから左翼政党のことと思われますが、左翼政党に限らず、異なる世界観の上に立っていて対話が成り立たない人々を「党員」の部分に置き換えると、いろいろと参考になるように思われます。
「話せば分かる」とも言われますが、「話しても分かり合えない」という方が多いのではないでしょうか。
「話せば分かる」とは、「話し合って分かり合いたい」という願望を表現しているだけといえます。
願望を持つのは結構ですが、その願望が実現しないと言って、いきり立っている人がいますが、大人気ないですね。
一応、話し合ってみたり、説得をしたりしても、その説得にも一定の限界のあることをよくよく分かっておかなければなりません。
いつまでも、ものの分からぬ相手に道徳、倫理を説いても仕方がありません。
警備公安警察であれば権力がありますから、適切な刑事手続きにのせていけばいいわけですが、市井の人(庶民)は、直接、権力を行使することができません。
よって、犯罪等の刑事的な事柄では警察という公的機関に担当してもらい、損害賠償等の民事的な事柄では裁判所という公的機関が門戸を開いていますから、面倒でも、自分で裁判手続きにのせていくことですね。
いつまでも「話し合いでどうにかしよう」と思い悩まないことですね。
刑事事件、民事事件にするほどでもないことであれば、そもそも、そのような人は相手にしてはいけない人ですから、相手にせず、本来自分がしなければならないことに力を注ぐべきでしょう。
ものの分からぬ人にものを分かってもらうのではなく、ものの分からない人を相手にしても意味がない、価値がないことを自分自身が分かることですね。
相手ではなく自分が分かるというのが大切なことです。
1950年代の警備公安警察がどのように警備事件被疑者と対峙していたかが分かります。
「警察庁警備部『続警備犯罪取締上の諸問題』〔昭和30年〕所収の「警備事件被疑者の逮捕と取調要領」を、警備犯罪の捜査に関する内部資料の一例として掲げておくことにする。
(中略)
勿論被疑者を説得し、納得させた上、穏かに連行に応ぜしめることは、最上の方法であり、原則とすべきではあるが、とくに党員の如く、本来異れる世界観の上に立つ者に対しては、その説得にも一定の限界のあることを知らなければならない」(広中俊雄『警備公安警察の研究』岩波書店 627頁〜628頁)
党員とありますから左翼政党のことと思われますが、左翼政党に限らず、異なる世界観の上に立っていて対話が成り立たない人々を「党員」の部分に置き換えると、いろいろと参考になるように思われます。
「話せば分かる」とも言われますが、「話しても分かり合えない」という方が多いのではないでしょうか。
「話せば分かる」とは、「話し合って分かり合いたい」という願望を表現しているだけといえます。
願望を持つのは結構ですが、その願望が実現しないと言って、いきり立っている人がいますが、大人気ないですね。
一応、話し合ってみたり、説得をしたりしても、その説得にも一定の限界のあることをよくよく分かっておかなければなりません。
いつまでも、ものの分からぬ相手に道徳、倫理を説いても仕方がありません。
警備公安警察であれば権力がありますから、適切な刑事手続きにのせていけばいいわけですが、市井の人(庶民)は、直接、権力を行使することができません。
よって、犯罪等の刑事的な事柄では警察という公的機関に担当してもらい、損害賠償等の民事的な事柄では裁判所という公的機関が門戸を開いていますから、面倒でも、自分で裁判手続きにのせていくことですね。
いつまでも「話し合いでどうにかしよう」と思い悩まないことですね。
刑事事件、民事事件にするほどでもないことであれば、そもそも、そのような人は相手にしてはいけない人ですから、相手にせず、本来自分がしなければならないことに力を注ぐべきでしょう。
ものの分からぬ人にものを分かってもらうのではなく、ものの分からない人を相手にしても意味がない、価値がないことを自分自身が分かることですね。
相手ではなく自分が分かるというのが大切なことです。
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2012年02月23日
「息」から発せられる毒気(十界論の観点から)
悪い感情、卑しい感情、嫌悪の感情を持っている人の近くにいると、気分が悪くなると共に体の調子も狂ってきます。
なぜ、気分が悪くなり、体の調子も狂ってくるのかと思っておりましたが、その原因は、悪い感情、卑しい感情、嫌悪の感情を持っている人が発する「息」だそうです。
安岡正篤氏が解説している箇所を確認してみましょう。
「人殺しをして昂奮しておる奴の息を冷却すると、毒々しい栗色になる。そいつを実験用のモルモットにちょっと飲ませると、あっという間に倒れて死ぬ。だから「あいつの毒気にあてられた」というのは本当のことなんだ。そういう者の息を吸わされたら、こっちが鼠だったら死んでしまうわけだね」(安岡正篤『政治を導く思想―「貞観政要」を読む』ディシーエス出版局 27頁)
「息」には色があるのですね。
楽しいときには桃色になるようで、「桃色吐息」とはうまく言ったものです。
悪意のある人の「息」は、毒々しい栗色になるというのですから、相当な毒素を含んでいる様子が窺えます。
つまり、冷却しない「息」そのものは無色透明ですから見た目には気が付きません。
しかし、成分としては「毒」そのものですから、気分を害し、体の不調をきたすのですね。
十界論の観点から、悪意のある人の感情、毒々しい「息」に相当する境涯を確認してみましょう。
瞋っている状態は毒々しい状態といえるでしょう。「瞋るは地獄」とは、毒々しさをよく表しています。
欲望まみれの状態も毒々しい状態といえるでしょう。
卑しい状態や心がひん曲がっている状態も毒々しい状態といえるでしょう。
まとめると、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界は、毒々しい「息」を発する生命状態といえます。
地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界は、「四悪趣」ともいいますが、「悪趣」の生命状態には気を付けなければなりません。
自分だけでなく他人をも傷つけることになります。
「何も悪いことをしていない」と言って、自らを正当化しようとする人がいますが、そもそも、その人の発する毒々しい「息」が根本的な悪であることに気付いていないようです。
無色透明であれば気付かれないとでも思っているのでしょう。
しかし、周りの人間が感じる不愉快さが毒々しさを証明してしまいます。
「何も悪いことをしていない」は通用せず、自らの存在そのものが「悪趣」であれば、「息」が「毒」になるわけですから、生きていることそれ自体を問題としなければなりません。
何かをした、何かをしない、という「する」という次元にとどまらず、自らがどうあるのかという「ある」という次元がポイントとなります。
では、どのように「ある」のがよいのでしょうか。
十界論でいえば、声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界の次元に至るようにするのがよいでしょう。
高く尊い次元を自らの生命とするよう心掛けることが大切ですね。
自分自身が毒々しい状態にならないよう注意すると共に、毒々しい人の発する「息」にあてられないよう、悪意のある人とは接点を持たず、上手にかわすことが必要です。
安岡正篤氏が言うように、鼠だったら死んでしまうわけですから。
なぜ、気分が悪くなり、体の調子も狂ってくるのかと思っておりましたが、その原因は、悪い感情、卑しい感情、嫌悪の感情を持っている人が発する「息」だそうです。
安岡正篤氏が解説している箇所を確認してみましょう。
「人殺しをして昂奮しておる奴の息を冷却すると、毒々しい栗色になる。そいつを実験用のモルモットにちょっと飲ませると、あっという間に倒れて死ぬ。だから「あいつの毒気にあてられた」というのは本当のことなんだ。そういう者の息を吸わされたら、こっちが鼠だったら死んでしまうわけだね」(安岡正篤『政治を導く思想―「貞観政要」を読む』ディシーエス出版局 27頁)
「息」には色があるのですね。
楽しいときには桃色になるようで、「桃色吐息」とはうまく言ったものです。
悪意のある人の「息」は、毒々しい栗色になるというのですから、相当な毒素を含んでいる様子が窺えます。
つまり、冷却しない「息」そのものは無色透明ですから見た目には気が付きません。
しかし、成分としては「毒」そのものですから、気分を害し、体の不調をきたすのですね。
十界論の観点から、悪意のある人の感情、毒々しい「息」に相当する境涯を確認してみましょう。
瞋っている状態は毒々しい状態といえるでしょう。「瞋るは地獄」とは、毒々しさをよく表しています。
欲望まみれの状態も毒々しい状態といえるでしょう。
卑しい状態や心がひん曲がっている状態も毒々しい状態といえるでしょう。
まとめると、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界は、毒々しい「息」を発する生命状態といえます。
地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界は、「四悪趣」ともいいますが、「悪趣」の生命状態には気を付けなければなりません。
自分だけでなく他人をも傷つけることになります。
「何も悪いことをしていない」と言って、自らを正当化しようとする人がいますが、そもそも、その人の発する毒々しい「息」が根本的な悪であることに気付いていないようです。
無色透明であれば気付かれないとでも思っているのでしょう。
しかし、周りの人間が感じる不愉快さが毒々しさを証明してしまいます。
「何も悪いことをしていない」は通用せず、自らの存在そのものが「悪趣」であれば、「息」が「毒」になるわけですから、生きていることそれ自体を問題としなければなりません。
何かをした、何かをしない、という「する」という次元にとどまらず、自らがどうあるのかという「ある」という次元がポイントとなります。
では、どのように「ある」のがよいのでしょうか。
十界論でいえば、声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界の次元に至るようにするのがよいでしょう。
高く尊い次元を自らの生命とするよう心掛けることが大切ですね。
自分自身が毒々しい状態にならないよう注意すると共に、毒々しい人の発する「息」にあてられないよう、悪意のある人とは接点を持たず、上手にかわすことが必要です。
安岡正篤氏が言うように、鼠だったら死んでしまうわけですから。
2012年02月18日
「考えること」が「運命」を決定するということについて
以前、新聞に英語の言葉が紹介されており、いい言葉であると思っていた言葉があります。
Watch your thoughts, they become words.
Watch your words, they become actions.
Watch your actions, they become habits.
Watch your habits, they become character.
Watch your character, it becomes your destiny.
あなたの考えることに気を付けて、考えることは言葉になります。
言葉に気を付けて、言葉は行動になります。
行動に気を付けて、行動は習慣になります。
習慣に気を付けて、習慣は人格になります。
人格に気を付けて、人格はあなたの運命を形作ります。
人の「運命」が形作られるまでには、順番があるようです。
確認してみましょう。
「考えること」→「言葉」→「行動」→「習慣」→「人格」→「運命」
いきなり、「運命」が決まるわけではなく、自分自身の内部にある「考えること」がそもそものスタートということですね。
「考えること」は、まだ、外部に表れていないことですが、外部に表れていないだけに油断してしまいがちなところといえましょう。見えないところに注意することが重要ですね。
「考えること」は、いつまでも内部に留まることなく、「言葉」として外部に放出されます。
つい出てしまった「言葉」は、その人の「考えること」を反映しています。
自分の発した「言葉」が自分の「考えること」とは違うと言い訳をしたくなるときもあるでしょうが、言い訳は、所詮、言い訳に過ぎず、やはり、自分の「考えること」から出てきたものと認めなければなりません。
言霊といわれるように、「言葉」は繰り返し発せられると、その「言葉」を実現しようとして「行動」に移っていきます。
「行動」が積み重なると、その「行動」が固定化され「習慣」になっていきます。
意識的な「行動」から無意識的な「習慣」になっていくわけですね。
「習慣」になってしまうと自分自身でその「習慣」を注意するのが難しくなります。
「習慣」は、単なる「習慣」に留まらず、その人の「人格」になっていくというのですから、大いに気を付けなければなりません。
しかし、この段階になってしまうと気を付けるにも、無意識の次元に至っており、どうにもならないというのが実情でしょう。
「人格」は、その人の個人という次元を超え、世界とその人との関係性を決定づける「運命」に至ります。
宿命ともいっていいと思いますが、その人の人生そのものが決定してしまうわけです。
このように考えていきますと、「習慣」→「人格」→「運命」の段階では、どうすることもできません。
何事も早めに手を打っておくことですね。
つまり、「考えること」→「言葉」→「行動」という段階で注意をしておくということですね。
特に、「考えること」はそもそもの始まりですから、気を付けておきたいものです。
その上で、「考えること」をより良くするために、素晴らしい先人の「言葉」や「行動」に学ぶことですね。
端的にいえば、古典を読み、歴史に学ぶということになります。
上記の英語の言葉は、出典が明らかではありませんが、多くの人々に紹介されています。
同じように簡潔で鋭い指摘をする言葉をまとめたものとしては、『ブッダの真理のことば・感興のことば』(中村元訳 岩波文庫)があります。
どのように「考えること」が良いことなのかを教えてくれる本です。
Watch your thoughts, they become words.
Watch your words, they become actions.
Watch your actions, they become habits.
Watch your habits, they become character.
Watch your character, it becomes your destiny.
あなたの考えることに気を付けて、考えることは言葉になります。
言葉に気を付けて、言葉は行動になります。
行動に気を付けて、行動は習慣になります。
習慣に気を付けて、習慣は人格になります。
人格に気を付けて、人格はあなたの運命を形作ります。
人の「運命」が形作られるまでには、順番があるようです。
確認してみましょう。
「考えること」→「言葉」→「行動」→「習慣」→「人格」→「運命」
いきなり、「運命」が決まるわけではなく、自分自身の内部にある「考えること」がそもそものスタートということですね。
「考えること」は、まだ、外部に表れていないことですが、外部に表れていないだけに油断してしまいがちなところといえましょう。見えないところに注意することが重要ですね。
「考えること」は、いつまでも内部に留まることなく、「言葉」として外部に放出されます。
つい出てしまった「言葉」は、その人の「考えること」を反映しています。
自分の発した「言葉」が自分の「考えること」とは違うと言い訳をしたくなるときもあるでしょうが、言い訳は、所詮、言い訳に過ぎず、やはり、自分の「考えること」から出てきたものと認めなければなりません。
言霊といわれるように、「言葉」は繰り返し発せられると、その「言葉」を実現しようとして「行動」に移っていきます。
「行動」が積み重なると、その「行動」が固定化され「習慣」になっていきます。
意識的な「行動」から無意識的な「習慣」になっていくわけですね。
「習慣」になってしまうと自分自身でその「習慣」を注意するのが難しくなります。
「習慣」は、単なる「習慣」に留まらず、その人の「人格」になっていくというのですから、大いに気を付けなければなりません。
しかし、この段階になってしまうと気を付けるにも、無意識の次元に至っており、どうにもならないというのが実情でしょう。
「人格」は、その人の個人という次元を超え、世界とその人との関係性を決定づける「運命」に至ります。
宿命ともいっていいと思いますが、その人の人生そのものが決定してしまうわけです。
このように考えていきますと、「習慣」→「人格」→「運命」の段階では、どうすることもできません。
何事も早めに手を打っておくことですね。
つまり、「考えること」→「言葉」→「行動」という段階で注意をしておくということですね。
特に、「考えること」はそもそもの始まりですから、気を付けておきたいものです。
その上で、「考えること」をより良くするために、素晴らしい先人の「言葉」や「行動」に学ぶことですね。
端的にいえば、古典を読み、歴史に学ぶということになります。
上記の英語の言葉は、出典が明らかではありませんが、多くの人々に紹介されています。
同じように簡潔で鋭い指摘をする言葉をまとめたものとしては、『ブッダの真理のことば・感興のことば』(中村元訳 岩波文庫)があります。
どのように「考えること」が良いことなのかを教えてくれる本です。
2012年02月14日
『新・TVのそばに一冊 ワールドアトラス 世界・日本』
読書する際には、辞典類が必要です。日本語関係では、国語辞典、漢和辞典、古語辞典等の辞典が必要であり、外国語、特に英語関係としては、英和辞典、英英辞典、和英辞典等が必要になります。
専門分野でいえば、仏教辞典等も必要でしょう。
上記辞典類が必要であると共に、地図も必要です。
しかし、地図といっても使い勝手の良い地図はなかなかないものです。
普段使用する地図に求められる条件を考えてみましょう。
1 大部ではなく、程よくコンパクトであること。(利便性)
2 日本地図だけでなく世界地図も含まれていること。(網羅性)
3 無駄な情報がなく、適切な情報で構成されているもの。(洗練性)
4 統計資料や世界の国旗が載っており、索引があるもの。(付加価値性)
5 値段がリーズナブルであること。(経済性)
上記の条件を満たす地図を探し、見つけ出し、現在使用しているのが、『新・TVのそばに一冊 ワールドアトラス 世界・日本』です。
タイトルは、軽めですが、中身が軽いわけではありません。
充実した内容となっています。
帝国書院の発行ですから、信頼度は申し分ありません。
帝国書院といえば、高等学校の教材に使用される『新詳高等地図』がありますが、同じような作りでありながら、『新詳高等地図』よりも『新・TVのそばに一冊 ワールドアトラス 世界・日本』の方が学校での勉強で使うような項目がそぎ落とされ、見やすく使いやすくなっています。
端的に、地図で場所を確認し、統計資料で数字を確認し、その国の国旗を確認したいという向きには、『新・TVのそばに一冊 ワールドアトラス 世界・日本』が良いですね。
いまさらお勉強じゃあるまいしという向きに『新詳高等地図』は勧められません。
ほとんど同内容であれば、使いやすい方がいいでしょう。
ニュースで外国の話題が取り上げられることがありますが、地図で確認すると新たな発見があります。
また、日本のことにしても、改めて地図で確認すると、実のところ、日本のことをよく知らないものだと認識させられます。
いろいろなことを知っていると思いがちですが、地図を確認してみて、あやふやな知識で世の中を見ていたのだと考えさせられることが多々あります。
日本のこと、世界のことを再認識するために地図は有効です。
十二分に活用したいですね。
専門分野でいえば、仏教辞典等も必要でしょう。
上記辞典類が必要であると共に、地図も必要です。
しかし、地図といっても使い勝手の良い地図はなかなかないものです。
普段使用する地図に求められる条件を考えてみましょう。
1 大部ではなく、程よくコンパクトであること。(利便性)
2 日本地図だけでなく世界地図も含まれていること。(網羅性)
3 無駄な情報がなく、適切な情報で構成されているもの。(洗練性)
4 統計資料や世界の国旗が載っており、索引があるもの。(付加価値性)
5 値段がリーズナブルであること。(経済性)
上記の条件を満たす地図を探し、見つけ出し、現在使用しているのが、『新・TVのそばに一冊 ワールドアトラス 世界・日本』です。
タイトルは、軽めですが、中身が軽いわけではありません。
充実した内容となっています。
帝国書院の発行ですから、信頼度は申し分ありません。
帝国書院といえば、高等学校の教材に使用される『新詳高等地図』がありますが、同じような作りでありながら、『新詳高等地図』よりも『新・TVのそばに一冊 ワールドアトラス 世界・日本』の方が学校での勉強で使うような項目がそぎ落とされ、見やすく使いやすくなっています。
端的に、地図で場所を確認し、統計資料で数字を確認し、その国の国旗を確認したいという向きには、『新・TVのそばに一冊 ワールドアトラス 世界・日本』が良いですね。
いまさらお勉強じゃあるまいしという向きに『新詳高等地図』は勧められません。
ほとんど同内容であれば、使いやすい方がいいでしょう。
ニュースで外国の話題が取り上げられることがありますが、地図で確認すると新たな発見があります。
また、日本のことにしても、改めて地図で確認すると、実のところ、日本のことをよく知らないものだと認識させられます。
いろいろなことを知っていると思いがちですが、地図を確認してみて、あやふやな知識で世の中を見ていたのだと考えさせられることが多々あります。
日本のこと、世界のことを再認識するために地図は有効です。
十二分に活用したいですね。
2012年02月07日
著作権を考える:引用の作法
ブログ等で文章を書く際、書籍等からの引用を行いますが、引用するには然るべきルールがあります。
引用の作法といってもよいでしょう。
どのようなものか、まずは、確認してみましょう。
------------------------------------------------------------
・引用する著作物が、すでに公表されているものであること
・引用が、公正な慣行に合致すること
・報道、批評、研究などの引用の目的上、正当な範囲内であること
・引用部分が、それ以外の部分と明確に区別されていること
・引用部分(従)と新しい著作物(主)との主従関係が明確なこと
・引用を行う必然性があること
(『著作権のことならこの1冊』自由国民社 54頁)
------------------------------------------------------------
引用する部分を明確にする癖を付けておけば、さほど難しいことではなく問題はないでしょう。
内容の面でも適切に引用すればよいということですね。
ネット社会になる前は、著作権といっても本を出版できる人に関係することであって、市井の人(庶民)にとっては文章を公に発表する機会などほとんどなく、あまりなじみのない権利でした。
しかし、ネット社会になると、ブログ等で簡便に文章を発表できますから、引用する機会も多くなり、著作権のことを考えなくてはならない時代となりました。
うっかりしていると著作権の侵害をしてしまうことがあります。
やはり、著作権法は、専門性の高い法律ですので、専門家の解説が必要とされます。
また、著作権法の条文や最高裁判例を確認しておくことも大切でしょう。
------------------------------------------------------------
著作権法
(引用)
第三十二条 公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない。
------------------------------------------------------------
最高裁判所第三小法廷:昭和55年3月28日判決
引用にあたるというためには、引用を含む著作物の表現形式上、引用して利用する側の著作物と、引用されて利用される側の著作物とを明瞭に区別して認識することができ、かつ、右両著作物の間に前者が主、後者が従の関係があると認められる場合でなければならない。
------------------------------------------------------------
著作権法を含め、今後は、市井の人(庶民)にも法律の知識が必要な時代となってきています。
法律といっても膨大な数があり、正直なところ難しいものです。
まずは、法律の基本的なことは押さえておかなければなりません。
その上で、実務的・実用的に法律を捉えることですね。
また、何事も自分でまかなうことはできませんから、弁護士等の法律の専門家に委任することも必要です。
注意しなければならないのは、自分の権利を主張することでいきり立たないことです。
相手方の出方をも冷静に観察する姿勢が必要です。
法的な問題を解決する際、興奮しやすい人は、問題がうまく解決しないものです。
引用の作法といってもよいでしょう。
どのようなものか、まずは、確認してみましょう。
------------------------------------------------------------
・引用する著作物が、すでに公表されているものであること
・引用が、公正な慣行に合致すること
・報道、批評、研究などの引用の目的上、正当な範囲内であること
・引用部分が、それ以外の部分と明確に区別されていること
・引用部分(従)と新しい著作物(主)との主従関係が明確なこと
・引用を行う必然性があること
(『著作権のことならこの1冊』自由国民社 54頁)
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引用する部分を明確にする癖を付けておけば、さほど難しいことではなく問題はないでしょう。
内容の面でも適切に引用すればよいということですね。
ネット社会になる前は、著作権といっても本を出版できる人に関係することであって、市井の人(庶民)にとっては文章を公に発表する機会などほとんどなく、あまりなじみのない権利でした。
しかし、ネット社会になると、ブログ等で簡便に文章を発表できますから、引用する機会も多くなり、著作権のことを考えなくてはならない時代となりました。
うっかりしていると著作権の侵害をしてしまうことがあります。
やはり、著作権法は、専門性の高い法律ですので、専門家の解説が必要とされます。
また、著作権法の条文や最高裁判例を確認しておくことも大切でしょう。
------------------------------------------------------------
著作権法
(引用)
第三十二条 公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない。
------------------------------------------------------------
最高裁判所第三小法廷:昭和55年3月28日判決
引用にあたるというためには、引用を含む著作物の表現形式上、引用して利用する側の著作物と、引用されて利用される側の著作物とを明瞭に区別して認識することができ、かつ、右両著作物の間に前者が主、後者が従の関係があると認められる場合でなければならない。
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著作権法を含め、今後は、市井の人(庶民)にも法律の知識が必要な時代となってきています。
法律といっても膨大な数があり、正直なところ難しいものです。
まずは、法律の基本的なことは押さえておかなければなりません。
その上で、実務的・実用的に法律を捉えることですね。
また、何事も自分でまかなうことはできませんから、弁護士等の法律の専門家に委任することも必要です。
注意しなければならないのは、自分の権利を主張することでいきり立たないことです。
相手方の出方をも冷静に観察する姿勢が必要です。
法的な問題を解決する際、興奮しやすい人は、問題がうまく解決しないものです。
2012年02月06日
「法」という漢字
「法」という漢字は、「氵」と「去」から成り立っていますが、「法」は略字であり、本字は「灋」です。
「灋」という漢字は画数が多いので、大きくしてみましょう。
「灋」
本字の「灋」は、「氵」と「廌」と「去」との三つの字が合わさったものです。
それぞれの字の意味を見てみましょう。
「氵」
さんずいで水をあらわし、水平にする、公平な水準という意味があります。
「廌」という字も画数が多いので、大きくしてみましょう。
「廌」
「廌」(チ)(タイ)
人の正邪を見分けるという神獣。
正直でない者に触れるという神獣。
訴訟中の不正な人を角で突くという神獣。
羊に似ている一角という想像上の獣にかたどった字。
西洋でいえば一角獣といわれる「ユニコーン」のような想像上の動物ですね。
「去」
悪を去る。
上記の三つの字を合わせた「灋」は、神獣にふれさせて公平に悪をとり去る刑罰という意味になります。
人や物事を公平に見て、人や物事の正邪を見分けて邪悪をあぶり出し、そして、その邪悪をとり去る、ということですから、冷静さをあらわしていると共に、非常に能動的な、活動的な感じも与えます。
「氵」で公平さをあらわすところなどは、静かな感じであり、「法」という漢字のイメージ通りですね。
しかし「廌」となると想像上の神獣まで出てきて、邪悪な人を角で突くわけですからドラマチックでさえあります。
また、「去」も、ただ単に去るというのではなく、悪をとり去るという困難な大変な行動をあらわしており、力強さを感じさせます。
権力の香りがしますね。
「法」といえば、決まりきったもの、固定的なものというイメージもありますが、全然違いますね。
深い意味があります。
本来の漢字の意味を知ることは興味深いですね。
「灋」という漢字は画数が多いので、大きくしてみましょう。
「灋」
本字の「灋」は、「氵」と「廌」と「去」との三つの字が合わさったものです。
それぞれの字の意味を見てみましょう。
「氵」
さんずいで水をあらわし、水平にする、公平な水準という意味があります。
「廌」という字も画数が多いので、大きくしてみましょう。
「廌」
「廌」(チ)(タイ)
人の正邪を見分けるという神獣。
正直でない者に触れるという神獣。
訴訟中の不正な人を角で突くという神獣。
羊に似ている一角という想像上の獣にかたどった字。
西洋でいえば一角獣といわれる「ユニコーン」のような想像上の動物ですね。
「去」
悪を去る。
上記の三つの字を合わせた「灋」は、神獣にふれさせて公平に悪をとり去る刑罰という意味になります。
人や物事を公平に見て、人や物事の正邪を見分けて邪悪をあぶり出し、そして、その邪悪をとり去る、ということですから、冷静さをあらわしていると共に、非常に能動的な、活動的な感じも与えます。
「氵」で公平さをあらわすところなどは、静かな感じであり、「法」という漢字のイメージ通りですね。
しかし「廌」となると想像上の神獣まで出てきて、邪悪な人を角で突くわけですからドラマチックでさえあります。
また、「去」も、ただ単に去るというのではなく、悪をとり去るという困難な大変な行動をあらわしており、力強さを感じさせます。
権力の香りがしますね。
「法」といえば、決まりきったもの、固定的なものというイメージもありますが、全然違いますね。
深い意味があります。
本来の漢字の意味を知ることは興味深いですね。