1950年代の警備公安警察がどのように警備事件被疑者と対峙していたかが分かります。
「警察庁警備部『続警備犯罪取締上の諸問題』〔昭和30年〕所収の「警備事件被疑者の逮捕と取調要領」を、警備犯罪の捜査に関する内部資料の一例として掲げておくことにする。
(中略)
勿論被疑者を説得し、納得させた上、穏かに連行に応ぜしめることは、最上の方法であり、原則とすべきではあるが、とくに党員の如く、本来異れる世界観の上に立つ者に対しては、その説得にも一定の限界のあることを知らなければならない」(広中俊雄『警備公安警察の研究』岩波書店 627頁〜628頁)
党員とありますから左翼政党のことと思われますが、左翼政党に限らず、異なる世界観の上に立っていて対話が成り立たない人々を「党員」の部分に置き換えると、いろいろと参考になるように思われます。
「話せば分かる」とも言われますが、「話しても分かり合えない」という方が多いのではないでしょうか。
「話せば分かる」とは、「話し合って分かり合いたい」という願望を表現しているだけといえます。
願望を持つのは結構ですが、その願望が実現しないと言って、いきり立っている人がいますが、大人気ないですね。
一応、話し合ってみたり、説得をしたりしても、その説得にも一定の限界のあることをよくよく分かっておかなければなりません。
いつまでも、ものの分からぬ相手に道徳、倫理を説いても仕方がありません。
警備公安警察であれば権力がありますから、適切な刑事手続きにのせていけばいいわけですが、市井の人(庶民)は、直接、権力を行使することができません。
よって、犯罪等の刑事的な事柄では警察という公的機関に担当してもらい、損害賠償等の民事的な事柄では裁判所という公的機関が門戸を開いていますから、面倒でも、自分で裁判手続きにのせていくことですね。
いつまでも「話し合いでどうにかしよう」と思い悩まないことですね。
刑事事件、民事事件にするほどでもないことであれば、そもそも、そのような人は相手にしてはいけない人ですから、相手にせず、本来自分がしなければならないことに力を注ぐべきでしょう。
ものの分からぬ人にものを分かってもらうのではなく、ものの分からない人を相手にしても意味がない、価値がないことを自分自身が分かることですね。
相手ではなく自分が分かるというのが大切なことです。
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