悪い感情、卑しい感情、嫌悪の感情を持っている人の近くにいると、気分が悪くなると共に体の調子も狂ってきます。
なぜ、気分が悪くなり、体の調子も狂ってくるのかと思っておりましたが、その原因は、悪い感情、卑しい感情、嫌悪の感情を持っている人が発する「息」だそうです。
安岡正篤氏が解説している箇所を確認してみましょう。
「人殺しをして昂奮しておる奴の息を冷却すると、毒々しい栗色になる。そいつを実験用のモルモットにちょっと飲ませると、あっという間に倒れて死ぬ。だから「あいつの毒気にあてられた」というのは本当のことなんだ。そういう者の息を吸わされたら、こっちが鼠だったら死んでしまうわけだね」(安岡正篤『政治を導く思想―「貞観政要」を読む』ディシーエス出版局 27頁)
「息」には色があるのですね。
楽しいときには桃色になるようで、「桃色吐息」とはうまく言ったものです。
悪意のある人の「息」は、毒々しい栗色になるというのですから、相当な毒素を含んでいる様子が窺えます。
つまり、冷却しない「息」そのものは無色透明ですから見た目には気が付きません。
しかし、成分としては「毒」そのものですから、気分を害し、体の不調をきたすのですね。
十界論の観点から、悪意のある人の感情、毒々しい「息」に相当する境涯を確認してみましょう。
瞋っている状態は毒々しい状態といえるでしょう。「瞋るは地獄」とは、毒々しさをよく表しています。
欲望まみれの状態も毒々しい状態といえるでしょう。
卑しい状態や心がひん曲がっている状態も毒々しい状態といえるでしょう。
まとめると、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界は、毒々しい「息」を発する生命状態といえます。
地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界は、「四悪趣」ともいいますが、「悪趣」の生命状態には気を付けなければなりません。
自分だけでなく他人をも傷つけることになります。
「何も悪いことをしていない」と言って、自らを正当化しようとする人がいますが、そもそも、その人の発する毒々しい「息」が根本的な悪であることに気付いていないようです。
無色透明であれば気付かれないとでも思っているのでしょう。
しかし、周りの人間が感じる不愉快さが毒々しさを証明してしまいます。
「何も悪いことをしていない」は通用せず、自らの存在そのものが「悪趣」であれば、「息」が「毒」になるわけですから、生きていることそれ自体を問題としなければなりません。
何かをした、何かをしない、という「する」という次元にとどまらず、自らがどうあるのかという「ある」という次元がポイントとなります。
では、どのように「ある」のがよいのでしょうか。
十界論でいえば、声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界の次元に至るようにするのがよいでしょう。
高く尊い次元を自らの生命とするよう心掛けることが大切ですね。
自分自身が毒々しい状態にならないよう注意すると共に、毒々しい人の発する「息」にあてられないよう、悪意のある人とは接点を持たず、上手にかわすことが必要です。
安岡正篤氏が言うように、鼠だったら死んでしまうわけですから。