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2023年06月04日

日蓮仏法における一日経

この経一部八巻二十八品六万九千三百八十四字、一々に皆妙の一字を備えて三十二相八十種好の仏陀なり。
『日蓮大聖人御書全集』新版 82頁 (開目抄)

この経とは、法華経のことですが、法華経の文字が69384文字あるということです。この法華経の文字をすべて写し取るにはどれぐらいの時間がかかるのでしょうか。1字につき10秒前後かけたとして、1日に6時間から7時間を費やした場合、約30日になります。1ヶ月かかるのですね。

そこで、法華経を1日で写経したい場合、どうすればよいか。これは簡単ですね。約30日かかるわけですから、30人で仕上げれば1日で法華経の全文字を写経することができます。これを「一日経」といいます。

御書の中で「一日経」を探すと、
世間の道俗の中に、わずかに観音品・自我偈なんどを読み、たまたま父母孝養なんどのために一日経等を書くことあれば、
『日蓮大聖人御書全集』新版 7頁 (唱法華題目抄)

とあったり、また、
二十四日の戌亥時、御所にすえして、三十余人をもって一日経かきまいらせ、
(中略)
ただし、一日経は供養しさして候。
『日蓮大聖人御書全集』新版 1816頁 (地引御書)

とあります。

「唱法華題目抄」では、世間の道俗が一日経を書くこともありますねと書いているだけであり、積極的に一日経をすべきと言っているわけではありません。

また、「地引御書」では、日蓮指揮の下、一日経を始めているのですが、その始めている時刻が、「戌亥時」であり、午後9時頃からなのですね。どう考えても1日で終わりません。その故か、その後、「ただし、一日経は供養しさして候」とあるように「止して候」ですから、途中で止めているのですね。あまり一日経を大事にしている様子はありません。

さらに、これは日蓮の筆ではなく、日澄が草案を書き、途中で死亡したため、日順が引き継いだものを日興が印可した書といわれている「富士一跡門徒存知の事」ですが、ここでは、
 一、五人一同に云わく、如法経を勤行し、これを書写し、供養す。よって、在々所々に法華三昧または一日経を行ず。
  日興云わく、かくのごとき行儀は、これ末法の修行にあらず。また謗法の代には行ずべからず。これによって、日興と五人と堅くもって不和なり。
『日蓮大聖人御書全集』新版 2175頁 (富士一跡門徒存知の事)

とあり、一日経は、末法の修行ではなく、行うべきでないと言っています。

日蓮は、一日経を重視していないようであり、日興に至っては、一日経を行うなと言っており、日蓮門流において一日経は顧みられることはないようです。

法華経全部ではなく、自我偈を書写することなどは、それなりに意義があるのではと思います。

ただ、日蓮は、写経よりは、唱えることを重視していますので、勤行、唱題が基本ということですね。

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2019年11月24日

岩波国語辞典で仏教用語を引く

岩波国語辞典を所々読んでみますと、日蓮が出てきました。
そし【祖師】
最初に教えを垂れた人。宗派の開祖。特に、禅宗で達磨、日蓮宗で日蓮のこと。「お―様」

祖師、開祖というところで、例として、日蓮が上げられていますが、やはり、祖師、開祖にふさわしい人物とみなされているということでしょうね。それだけ、強烈な印象を与えた人物ということでしょう。

せっかくですから、仏教関連の語句を引いてみました。
まんだら【曼陀羅・曼荼羅】
@色彩があざやかな絵図。「愛欲―」▽(2)の転。
A〔仏〕仏の悟った境地や、その境地に備わる功徳を絵にしたもの。また、悟りのための道場や壇。▽梵語。

通常、曼荼羅は、上記の説明の通り、絵や図のことを表わします。ただ、日蓮の曼荼羅は、絵や図ではなく、文字なのですね。文字曼荼羅となっています。

文字によって、仏の悟った境地を表わし、仏の境地に備わる功徳を表わしています。

また、文字曼荼羅を掛けるところは、道場や壇となります。壇ということですから、「戒壇」であるわけですが、岩波国語辞典で引いてみましょう。
かいだん【戒壇】
〔仏〕僧尼となる者に戒を授けるために作った壇。

戒を授けられる場が戒壇ということですね。

文字曼荼羅を掛けたところが戒壇となり、その場で勤行、唱題を行う者は、戒を授けられていると考えてもよいでしょう。

その後、我々としては、どうあるべきか。再び、岩波国語辞典を引いてみましょう。
はらみつ【波羅蜜】
〔仏〕迷いの世界である此岸(=俗世)から仏陀の悟りの境地である彼岸に至ること。仏になるための菩薩の修行。▽梵語。「波羅蜜多」とも言う。

戒を授けられただけでは、仏の次元に至りませんので、仏の次元に至るよう修行をしなければなりません。

それも菩薩の修行というわけですね。この菩薩の修行を行うことを波羅蜜という。

そして、波羅蜜は、仏の次元に至ることも表わしており、まさに、波羅蜜を行い、波羅蜜であるべきということです。

仏教信仰において、根本の目的は仏の次元に至ることです。波羅蜜を外して仏教信仰はあり得ないですね。

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2015年11月21日

悪口を言わない方法

仏教には、十悪業が説かれています。

まずは、その十個を確認してみましょう。

@  殺生
A  偸盗
B  邪淫
C  妄語
D  綺語
E  悪口
F  両舌
G  貪欲
H  瞋恚
I  愚癡

この中でよくしてしまうのは、悪口でしょう。

つい、悪口を言ってしまうのですね。

しかし、十悪業のひとつですから、安易に考えるわけにはいきません。

やはり、悪口を言わないようにしなければなりませんね。

では、どうすればよいか。

悪口とは、誰かさんのことについて言うことですから、その誰かさんを話題にしなければよいのですね。

話題にするから、悪口につながるわけです。

そもそも、話題にしても悪口しか出てこないような人は、相手にする必要がなく、話題にする必要がないのですね。

話題にしなければ、悪口が出てくる余地がありませんので、悪口を言わなくて済みます。

十悪業から逃れることができるのですね。

話題にしないという点を守れば、どうにかなります。もっと言うと、悪口を言ってしまう人など、そもそも思い出す必要すらないのですね。

万一、思い出しても、話題にしなければよいだけです。

捨てておけばよいでしょう。

わざわざ、どうでもいい人の悪口を言って十悪業を積む必要はありません。

賢明に生きていくことですね。

そのために仏教思想があるといえましょう。どんどん活用することですね。
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2015年11月01日

人を見る時には、境涯を見ること

後藤 われわれ凡夫は、逆に、すべてが変わらない方向に考えていきますね。とくに、自分のことになると、いつまでも変わらないように考える傾向が強いようです。
野崎 そうですね。自分も他人も瞬間瞬間、五蘊が仮に和合して、いま存在しているのであると捉えれば、人間関係も、もっとスムーズにいくわけです。ところが、ある時のある瞬間にとった一人の人の行動なり振る舞いから、その人にたいするイメージをいだくと、そのイメージをまったく変えようとしない人によく出会いますが、お互いに不幸ですね。これなども、五蘊仮和合という認識に立てば、もう少し余裕をもって、長い目で人を見ることができるのではないでしょうか。
池田 そうですね。仏法で事物・存在をあらわす言葉が法≠ナすが、ある学者の話によると法≠フ字の成り立ち方が、サンズイ偏に去≠ゥらできているところから、水が流れ去るという意味を持つ言葉だそうですね。(中略)五蘊仮和合も、事物・存在が流動的に変化することを表現しようとした言葉ですね。
池田大作・後藤隆一・野崎至亮『仏教思想の源流』東洋哲学研究所 76−77頁

人を見るときに、その人がどこに所属しているかに注目する人がいます。

例えば、創価学会に所属しているのか、それとも、日蓮正宗に所属しているのかという見方ですね。

その人そのものを見ていないのですね。

見ているのは、どの教団かというところです。

その教団の傾向性から、その人を判断してしまうのですね。

しかし、創価学会にしても、日蓮正宗にしても、それなりの人数を抱えている教団であり、構成員の個性は千差万別です。

実のところ、バラバラと見るのが妥当でしょう。

あくまでも、その人自身を見ないことには、何も分かりません。

では、人の何を見れば、よいのでしょうか。

それは、その人の境涯を見ればよいですね。

その人の境涯が高いのか低いのか、そこを見ればよいのです。

創価学会に所属していようと、日蓮正宗に所属していようと、境涯が高い人は高い。境涯が低い人は低いというだけのことです。

この境涯というのは、ごまかしがききません。その人の状態を如実にあらわします。

いくら虚勢を張っても、境涯の低さは隠せません。いくら立場が上だと誇ってみたところで、低い境涯は上がりません。

我々としては、境涯が高い人がいれば、その人から学べばよいのですね。お近づきになれるならば、なればよいですね。

そして、境涯が低い人がいれば、相手にしないことですね。こちらの境涯まで低くなってしまいますから。

ただ、この境涯も一定ではありません。『仏教思想の源流』でも触れられているように、瞬間瞬間に変化します。五蘊仮和合なわけですね。

ですから、出会うたびに境涯が違うというわけです。

よって、この人はこのような人だと決めつけるのは、仏教的なものの見方ではないですね。

常に変化していますので、我々としても、常に新鮮な気持ちで、相手の境涯を観察する必要があります。

今日は上がっているな、今日は下がっているな、という具合です。

また、自分自身についても、常に境涯を上げるべく、精進を重ねることです。

御書、法華経を通じて境涯を上げていけばよいのですね。

油断していますと、境涯は下がるものですからね。

境涯には、限度というものがありません。上はどこまで行ってもきりがありません。青天井です。

また、下はどこまで行っても限りがありません。まさに、奈落の底ですね。

人間は、どもまでも尊くなれると共に、どもまでも卑しくなれます。

どちらの人間になるかは、その人次第です。

どの教団に所属していようと、また、所属していなくとも、境涯は自分で上げていくものです。実際、教団には大した力はありません。教団に期待する必要はありません。また、何でもかんでも教団のせいにすることはできません。

境涯は、あくまで自分自身の問題なのですね。
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2015年09月19日

陀羅尼、呪文の本来の意味

自他ともの幸福を説く仏教においては、他者に不幸をもたらすことを願う「のろい」は容認されない。天台が『法華文句』で陀羅尼について「よく善を持し、よく悪を遮す」(国訳一切経四八一頁)と述べているように、仏菩薩の名を称える称名も陀羅尼も、善悪を区別しない盲目的な行為ではなく、悪を克服して善をもたらすための祈りであり「明呪」というべきである。
須田晴夫『新法華経論』ラピュータ 384頁

陀羅尼は、もともと、経典を記憶する力、善法を保持する力を意味していることから、「のろい」とは相容れないものですね。

あくまでも善を称揚するものなのですね。

陀羅尼は、呪文の意としても用いられるようになりますが、呪文も、本来は、教法や教理を記憶し保持するために用いたものであって、「のろい」とは関係しませんね。

陀羅尼、呪文は、もともと、善なるものを希求するためのものであり、悪とは正反対のものなのですね。

それにもかかわらず、呪という言葉に「のろい」という意味があるがために、呪文や陀羅尼にマイナスイメージが付きまといます。

もともとの意味を調べますと、全く違うわけで、言葉は正しく認識しておきたいものです。

その上で、言葉に対する信仰、文字信仰が成り立つと思いますね。

仏教といっても経典によって成り立っており、陀羅尼、呪文がたくさんあります。すべて言葉であり、文字なのですね。

よって、仏教信仰者は、言葉を信仰しているといえ、また、文字を信仰しているといえます。

その言葉、文字も「よく善を持し、よく悪を遮す」ものを信仰しているのであって、決して、「のろい」の言葉、文字を信仰しているのではありません。

時折、「のろい」を御祈念項目にしている人を見かけますが、少なくとも、それらの人々は仏教信仰者ではないですね。何教信仰者なのでしょうか。

いずれにしても、陀羅尼、呪文を唱えるならば、最高のものを唱えるべきですね。

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2014年09月21日

神学の4区分から日蓮仏法を考える(2)

神学は、以下の通り、4区分されるようです。

@ 聖書神学(旧約聖書神学・新約聖書神学)
A 歴史神学(教会史・教理史)
B 組織神学(教義学・倫理学)
C 実践神学(牧会学・説教学)

この神学の4区分を参考に日蓮仏法を研鑽する上で必要となる書籍を割り当ててみたいと思います。

旧約聖書神学に相当する書籍は、法華経ですね。

新約聖書神学に相当する書籍は、御書ですね。

教会史に相当する書籍はないかと考えたのですが、キリスト教にとって教会とは圧倒的な存在ですが、日蓮仏法にとっては圧倒的な教団というものは見当たりませんね。

確かに、伝統的に各日蓮宗は存在しますし、各新宗教団体もあります。

しかし、キリスト教の教会ほどの存在感があるかといえばありませんし、キリスト教の教会と比べるという次元にすら至っていないでしょう。

はっきり言ってしまえば、小さいわけです。

よって、日蓮仏法においては、教団というよりも、圧倒的な存在感を示している日蓮その人を研鑽するのがよいですね。

書籍としては、『日蓮入門』(末木文美士 ちくま学芸文庫)が参考になりましょう。

教理史の方ですが、日蓮宗の宗学や新宗教団体の教学という枠にとらわれず、仏教全体の教理の歴史を概観する書籍を読むのがよいでしょう。

書籍としては、『思想としての仏教入門』(末木文美士 トランスビュー)が参考になりますね。

教義学については、護教的な側面を保持した書籍がよいと思いますので、日蓮仏法を統合し、体系化しようとしていた昭和50年代初頭の創価学会の書籍である『仏教思想の源流』(池田大作、後藤隆一、野崎至亮 東洋哲学研究所)がよいでしょう。

倫理学、牧会学、説教学については、実践的な事柄ですので、書籍を読むというよりは、そのまま実践で展開した方がよいでしょう。

法華経、御書を軸としながら、『日蓮入門』、『思想としての仏教入門』、『仏教思想の源流』を読み、基礎的な仏教力を身に付けておくことは、信仰をする上で重要なことですね。

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2014年09月15日

神学の4区分から日蓮仏法を考える

「キリスト教神学は、伝統的に次の4つに分類される。すなわち聖書神学、歴史神学、組織神学、実践神学である」(佐藤優『神学部とは何か』新教出版社 31頁)

「聖書神学もまた、旧約聖書神学と新約聖書神学とに分類される」(同書 32頁)

「歴史神学は、教会史と教理史に分かれる」(同書 34頁)

「組織神学は教義学(教理学)と倫理学とに分かれる。」(同書 36頁)

「実践神学は、牧会学と説教学とに大きく分かれる。牧会学というのは、人間関係をケアするための実践的な学問である」(同書 38頁)

聖書神学について、日蓮仏法で考えますと、旧約聖書神学が法華経に相当し、新約聖書神学が御書に相当すると思われます。

歴史神学について、日蓮仏法で考えますと、教会史が各日蓮宗教団や各新宗教教団の歴史(大きく捉えると仏教教団そのものの歴史)に相当し、教理史が各日蓮宗教団や各新宗教教団において出来上がった教理、つまり宗学の歴史(大きく捉えると仏教の教学の歴史)に相当すると思われます。

「神学思想の中には歴史神学の成果もあり、聖書神学の成果もあるが、そういった諸々の成果をキリスト教の立場から整理し、統合していくのが組織神学の仕事なのである。よって、組織神学というのは、本質的に護教的な性格を持つ」(同書 36頁)ということですから、組織神学について、日蓮仏法で考えますと、特定の何かということはできませんが、法華経、御書、仏教の歴史を日蓮仏法の立場から統合し、体系化し、護法に努めるのが教義学に相当し、それに基づき、いかに行動するかという点が倫理学に相当すると思われます。

実践神学について、日蓮仏法で考えますと、日蓮が各門下の信仰や人生の悩みに答えるために消息文(手紙)を認めた振る舞い、所謂、カウンセリングなどが牧会学に相当し、法華経の解説、御書の解説をするのが説教学に相当すると思われます。

神学の4区分は、日蓮仏法においても同様に存在するといえますね。

日蓮仏法を信仰、研鑽、実践する中で、自分は今、どの地点にいるのかを確認するためにも神学の4区分の視点は活用できますね。

また、この4区分をバランスよく行うことが重要ですから、足りない部分を確認するためにも活用できますね。

まずは、ベースとなる経典である法華経、御書を研鑽することですね。

そして、仏教教団の歴史と仏教教学の歴史を押さえるということですが、教団とはそもそも人の集まりですから、「人」に注目するということであり、教学とは、まさに「法」であり、「人」と「法」とに着目し、その歴史を鑑みるということですね。

その上で、法華経、御書、仏教に纏わる「人」と「法」との歴史を統合、体系化し、行動していくということですね。

その行動に関しては、カウンセリングという側面の行動があり、また、法華経、御書のメッセージを的確に伝えるという側面の行動があります。

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2014年04月05日

専門であると言うために必要なこと

「研究者はおしなべて、自身が実験まで行っている分野しか「専門である」とは言及しない。単に知識として知っている程度では専門とは言いがたいのである」(村松秀『論文捏造』中公新書ラクレ 287頁)

これは、理系の学問分野について述べられた文章ですが、仏教の分野においても同様に考えてよいでしょう。

理系の学問もそれぞれ細分化されていますが、仏教でも、日蓮系、浄土系、真言系、禅系等々、さまざまな宗派があります。

その中で、私の場合、日蓮仏法を選んでいるわけですが、その日蓮仏法の法門を単に知識として知っているだけでは、専門家とは言えないという視点は重要ですね。

理系の学問でいう実験が必要になります。

日蓮仏法でいえば、勤行、唱題、化他行を通して、仏の境涯を得ようと修行していることになるでしょう。

理系の学問でも知識として知っているだけでなく、実験してはじめて専門と言えることからすると、単なる仏教学の一分野として日蓮仏法を学んでいるだけでは専門とは言えません。

仏の境涯を得るための実験、所謂、修行をしてこそ、日蓮仏法の専門家と言えましょう。

そう考えますと仏教は、文系の学問より理系の学問に近いような気がしますね。

理系の学問においては実験が成功しなければ何にもならないわけで、仏教においては成仏できなければ何にもならないわけです。

結局、信仰者しか仏教の専門家になれないということですね。

そして、本当に専門家になるためには、仏の境涯に至る必要があります。

日々の信仰は、理系の学問でいうところの実験というわけですね。

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2014年03月30日

草木成仏

「『大乗涅槃経』では山川草木に仏性はないと説いていたにもかかわらず、中国仏教や日本仏教では山川草木悉有仏性が説かれ、さらには山川草木悉皆成仏が説かれた」(田上太秀『『涅槃経』を読む』講談社学術文庫 140頁)

「涅槃経」は仏性を説いた経典ということで、てっきり、草木成仏についても言及しているものと思っていましたが、草木成仏を言っていなかったのですね。

草木成仏を言い出したのは、中国の仏教者からということです。

その中には、湛然(妙楽大師)がいます。

また、日本の仏教者では、最澄、空海、親鸞、日蓮が草木成仏に言及しています。

確かに、日蓮は「観心本尊抄」で妙楽大師の言葉を引いており、草木成仏が中国仏教から日本仏教へとつながっていることが感じ取れます。

仏教は、経典に基づくわけですが、その経典を受容した中国及び日本の仏教者の悟りも重要と思われます。

仏教は、インドにはじまり、中国を経て、日本に伝わりましたが、その伝播の中で仏教が豊かになっていったと考えるのがよいでしょう。

インド仏教、インド哲学を専門にしている人からすると、日本の仏教はインド仏教をズタズタにした異物と見えるようです。

インド仏教を至高と考える人からすると、「涅槃経」に草木成仏が説かれていないのに草木成仏を言う中国仏教や日本仏教はけしからんということになるでしょう。

インド仏教を至高とすれば、そうなるでしょうが、私からすると、インドにおいて仏教は原石であり、中国において磨かれ、日本において輝くまで磨かれるものと考えています。

原石のインド仏教は、磨かない限り意味がないと思っています。

また、磨いたにしても輝くまで磨かなければならないと考えています。

よって、現在も、仏教は完成しているわけではなく、信仰者ひとりひとりが常に磨いていくものであると思っているわけです。

その観点からすると、妙楽大師が草木成仏を言い出しても、それは、仏教の発展であって逸脱ではないということです。

つまり、磨かれているということです。

ただ、原石に傷をつけるようなことをしてはいけません。

簡単に言うと、草木だけでなく、人間においても成仏できないなどと言うならば、それは、単に原石に傷をつけていることであり、原石を割っていることにもなるでしょう。

仏教の根本義を外すことなく、発展せしめるべく磨いていくのが仏教信仰者の役割ですね。
posted by lawful at 14:42| 仏教

四弘誓願(しぐせいがん)

仏教には、四弘誓願というものがあります。

@  衆生無辺誓願度
A  煩悩無辺誓願断
B  法門無尽誓願知
C  仏道無上誓願成

菩薩が行う四つの誓願ということですが、内容は以下の通りですね。

@  一切衆生を悟りの彼岸に渡すとの誓い
A  一切の煩悩を断つとの誓い
B  仏教をすべて学び知るとの誓い
C  仏教の無上の悟りを成就するとの誓い

漢字ばかりで難しく感じられますが、簡単に言うとこういうことでしょう。

@  人の成仏を手助けする、サポートする
A  悪い習慣をやめる
B  勉強する(読書を含む)
C  成仏する(境涯をあげる)

さほど難しいことを言っているわけではありません。

煩悩と言っても悪い習慣のことと考えれば、思い当たるふしがあるでしょう。

その悪い習慣をやめればいいわけです。

仏教のすべてを学び知るというと仰々しいですが、簡単に勉強すると考えるとよいですね。

読書することも勉強であり、いろいろなものを見聞きするのも勉強です。

向上心をもってさまざまなものに触れていくことと考えれば、いつもしていることと違いがないことに気付くでしょう。

そして、仏教ですから、成仏を目指すわけです。

境涯をあげるといってもいいでしょうね。

仏の境涯を目指すということです。

そして、他の人々の成仏の手助けをすればよいですね。

漢字ばかりの仏教用語も、よくよく研鑽してみると特別なことは言っていません。

ただ、いざ、実践となると、不思議なもので、人間は逆のことをしてしまうのですね。

仏教の言っていることは簡単な事柄だけれども、実践となると簡単にできないということですね。

仏教の法門を研鑽し、そして、その法門を実践してきたいものです。

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