自他ともの幸福を説く仏教においては、他者に不幸をもたらすことを願う「のろい」は容認されない。天台が『法華文句』で陀羅尼について「よく善を持し、よく悪を遮す」(国訳一切経四八一頁)と述べているように、仏菩薩の名を称える称名も陀羅尼も、善悪を区別しない盲目的な行為ではなく、悪を克服して善をもたらすための祈りであり「明呪」というべきである。
須田晴夫『新法華経論』ラピュータ 384頁
陀羅尼は、もともと、経典を記憶する力、善法を保持する力を意味していることから、「のろい」とは相容れないものですね。
あくまでも善を称揚するものなのですね。
陀羅尼は、呪文の意としても用いられるようになりますが、呪文も、本来は、教法や教理を記憶し保持するために用いたものであって、「のろい」とは関係しませんね。
陀羅尼、呪文は、もともと、善なるものを希求するためのものであり、悪とは正反対のものなのですね。
それにもかかわらず、呪という言葉に「のろい」という意味があるがために、呪文や陀羅尼にマイナスイメージが付きまといます。
もともとの意味を調べますと、全く違うわけで、言葉は正しく認識しておきたいものです。
その上で、言葉に対する信仰、文字信仰が成り立つと思いますね。
仏教といっても経典によって成り立っており、陀羅尼、呪文がたくさんあります。すべて言葉であり、文字なのですね。
よって、仏教信仰者は、言葉を信仰しているといえ、また、文字を信仰しているといえます。
その言葉、文字も「よく善を持し、よく悪を遮す」ものを信仰しているのであって、決して、「のろい」の言葉、文字を信仰しているのではありません。
時折、「のろい」を御祈念項目にしている人を見かけますが、少なくとも、それらの人々は仏教信仰者ではないですね。何教信仰者なのでしょうか。
いずれにしても、陀羅尼、呪文を唱えるならば、最高のものを唱えるべきですね。