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2012年01月15日
『ゲーテとベートーヴェン』
「われわれは今、この二人から学びうるものが限りなくあるのを感じる。
ベートーヴェンは、きびしい運命を克服しながら常に他者への共感を失わず、ついにはそれを地球大にまで拡げ、しかも一方では自分自身への誠実さを貫いて、「神と対座する姿勢」を失わなかった。彼は文筆家ではなかったから、自分の人生の軌跡をしるしたりはしなかった。しかしわれわれがその作品、とくに後期の作品群に静かに耳を澄ますならば、そこから彼が到達した世界の奥深さと人生の哲学が、無言のメッセージとして伝わってくるはずだ。
ゲーテはといえば、同じ天才でもベートーヴェンのように、はじめから圧倒的な精神の強靭を与えられていたわけではなかったようだ。しかし、自分の弱さを自覚し、それを自分で訓化し統御しつつ、彼のいう自己形成をとげていった。ゲーテが偉大さという栄光をまといながら、われわれ普通人にとっても自己形成のモデルとなりうる理由は、そこにある」(青木やよひ『ゲーテとベートーヴェン』平凡社 231頁〜232頁)
ゲーテとベートーヴェンとは、二人とも天才とも巨匠ともいわれる人物です。
同時代に生きており、両者は、実際に会ったことがあり、互いの才能を認め合っていたようです。
著者の言うようにゲーテとベートーヴェンから学ぶべきものは多くあります。
しかし、両者とも作品数は多く、すべての作品を把握するのは困難です。
そこで、両者の代表作を中心として、学びながら、親しんでいきたいと思います。
ベートーヴェンでいえば、「第九」が代表作といえます。
さまざまな「第九」を聴いていく中でベートーヴェンの精神に触れていきたいと思います。
また、ピアノ協奏曲第5番「皇帝」も個人的には好きでよく聴いています。
好きなものから入っていくというのがよいでしょうね。
勉強だ、教養だといって、あまり好きでもないものを無理して聴いても意味、価値はないでしょう。
また、すべての作品が素晴らしいというわけでもありません。
専門家になるわけではありませんので、好きかどうかという判断基準は意外と重要です。
ゲーテでいえば、『ファウスト』が代表作といえます。
長大な戯曲であり、読むのは大変ですが、一読する価値があります。
しかし、第二部はやや冗漫な感じがしますから、あまり好みでない場合は無理して読む必要はないかもしれません。
私が『ファウスト』を一読したときは、とにかく名作といわれている『ファウスト』を読み終えるのだという一心でした。
特に第二部はまどろっこしかった記憶があります。
それでも読み終えたのは、教養主義といった感じがあったからでしょう。
その後、ところどころ読み返すと、違った発見があったりして、やはり、名作なのだと感じ入ったものです。
あとは、詩、格言を集めた文庫もありますので、身近にゲーテの文学に触れることができます。
ゲーテが自ら書いたものではありませんが、エッカーマンの『ゲーテとの対話』は、ゲーテの発言をまとめており、ゲーテの人となりが分かります。
ゲーテとベートーヴェンから学ぶといっても、両巨人の作品から学ぶほかはなく、直接、作品に触れていきながら、時折、解説書を読むというのがよいでしょう。
ベートーヴェンは、きびしい運命を克服しながら常に他者への共感を失わず、ついにはそれを地球大にまで拡げ、しかも一方では自分自身への誠実さを貫いて、「神と対座する姿勢」を失わなかった。彼は文筆家ではなかったから、自分の人生の軌跡をしるしたりはしなかった。しかしわれわれがその作品、とくに後期の作品群に静かに耳を澄ますならば、そこから彼が到達した世界の奥深さと人生の哲学が、無言のメッセージとして伝わってくるはずだ。
ゲーテはといえば、同じ天才でもベートーヴェンのように、はじめから圧倒的な精神の強靭を与えられていたわけではなかったようだ。しかし、自分の弱さを自覚し、それを自分で訓化し統御しつつ、彼のいう自己形成をとげていった。ゲーテが偉大さという栄光をまといながら、われわれ普通人にとっても自己形成のモデルとなりうる理由は、そこにある」(青木やよひ『ゲーテとベートーヴェン』平凡社 231頁〜232頁)
ゲーテとベートーヴェンとは、二人とも天才とも巨匠ともいわれる人物です。
同時代に生きており、両者は、実際に会ったことがあり、互いの才能を認め合っていたようです。
著者の言うようにゲーテとベートーヴェンから学ぶべきものは多くあります。
しかし、両者とも作品数は多く、すべての作品を把握するのは困難です。
そこで、両者の代表作を中心として、学びながら、親しんでいきたいと思います。
ベートーヴェンでいえば、「第九」が代表作といえます。
さまざまな「第九」を聴いていく中でベートーヴェンの精神に触れていきたいと思います。
また、ピアノ協奏曲第5番「皇帝」も個人的には好きでよく聴いています。
好きなものから入っていくというのがよいでしょうね。
勉強だ、教養だといって、あまり好きでもないものを無理して聴いても意味、価値はないでしょう。
また、すべての作品が素晴らしいというわけでもありません。
専門家になるわけではありませんので、好きかどうかという判断基準は意外と重要です。
ゲーテでいえば、『ファウスト』が代表作といえます。
長大な戯曲であり、読むのは大変ですが、一読する価値があります。
しかし、第二部はやや冗漫な感じがしますから、あまり好みでない場合は無理して読む必要はないかもしれません。
私が『ファウスト』を一読したときは、とにかく名作といわれている『ファウスト』を読み終えるのだという一心でした。
特に第二部はまどろっこしかった記憶があります。
それでも読み終えたのは、教養主義といった感じがあったからでしょう。
その後、ところどころ読み返すと、違った発見があったりして、やはり、名作なのだと感じ入ったものです。
あとは、詩、格言を集めた文庫もありますので、身近にゲーテの文学に触れることができます。
ゲーテが自ら書いたものではありませんが、エッカーマンの『ゲーテとの対話』は、ゲーテの発言をまとめており、ゲーテの人となりが分かります。
ゲーテとベートーヴェンから学ぶといっても、両巨人の作品から学ぶほかはなく、直接、作品に触れていきながら、時折、解説書を読むというのがよいでしょう。
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2012年01月13日
『知ってるようで知らない ベートーヴェンおもしろ雑学事典』
ベートーヴェンの宗教観について、『知ってるようで知らない ベートーヴェンおもしろ雑学事典』(ヤマハミュージックメディア)では、以下のように説明しています。
「宗派などにはこだわらず、広範な知識を懸命に吸収することによって、理性に基づく合理的な神のイメージを抱こうと努めていたのでしょう」(同書 100頁)
ベートーヴェンは、カトリックではありましたが、プロテスタント、古代インドの宗教にも関心があり、勉強熱心であったようです。
ベートーヴェンは、「教会」という空間に留まらない宗教観を持っていたと思われます。
世界的な、もっと言えば宇宙的な規模で神を捉えていたのでしょう。
それ故、西洋人という範疇に留まらず、日本人の範疇にまで届く音楽を創造し得たと思われます。
キリスト教圏でない日本においてベートーヴェンが好まれる理由は、カトリックやキリスト教という枠組みをはみ出しているからともいえ、西洋人向けの音楽という枠組みではなく全世界の人々向けの音楽であったからといえるでしょう。
「第九」第四楽章で合唱されるシラーの「歓喜に寄す」の神も、「教会」や西洋という次元を超え、星空のかなたという次元で捉えられており、本来的な宗教性が見て取れます。
ベートーヴェンがこのシラーの詩に曲をつけようと思ったのも同様の宗教観があったからでしょう。
日本においては、仏教、神道が大きな影響力を持っていますが、このような宗教性、宗教観であれば、宗派という枠組みを超え、ベートーヴェンの音楽は違和感なく日本人に溶け込むことができます。
宗派の違いは違いとして正確に理解しつつも、自らの宗教性、宗教観においては、宗派に囚われないあり方が求められます。
ベートーヴェンの音楽には囚われのないあり方が感じられ、人々から親しまれているといえるでしょう。
「宗派などにはこだわらず、広範な知識を懸命に吸収することによって、理性に基づく合理的な神のイメージを抱こうと努めていたのでしょう」(同書 100頁)
ベートーヴェンは、カトリックではありましたが、プロテスタント、古代インドの宗教にも関心があり、勉強熱心であったようです。
ベートーヴェンは、「教会」という空間に留まらない宗教観を持っていたと思われます。
世界的な、もっと言えば宇宙的な規模で神を捉えていたのでしょう。
それ故、西洋人という範疇に留まらず、日本人の範疇にまで届く音楽を創造し得たと思われます。
キリスト教圏でない日本においてベートーヴェンが好まれる理由は、カトリックやキリスト教という枠組みをはみ出しているからともいえ、西洋人向けの音楽という枠組みではなく全世界の人々向けの音楽であったからといえるでしょう。
「第九」第四楽章で合唱されるシラーの「歓喜に寄す」の神も、「教会」や西洋という次元を超え、星空のかなたという次元で捉えられており、本来的な宗教性が見て取れます。
ベートーヴェンがこのシラーの詩に曲をつけようと思ったのも同様の宗教観があったからでしょう。
日本においては、仏教、神道が大きな影響力を持っていますが、このような宗教性、宗教観であれば、宗派という枠組みを超え、ベートーヴェンの音楽は違和感なく日本人に溶け込むことができます。
宗派の違いは違いとして正確に理解しつつも、自らの宗教性、宗教観においては、宗派に囚われないあり方が求められます。
ベートーヴェンの音楽には囚われのないあり方が感じられ、人々から親しまれているといえるでしょう。
2012年01月05日
ルイス・ロックウッド『ベートーヴェン』
ベートーヴェンの交響曲第9番は、現在では名曲であるとの評価も定まり、人々に親しまれている曲ですが、当初から現在のよう評価を得ているわけではなかったようです。
評価される場合もあり、また、評価されない場合もあったようです。
私にとっても、合唱に参加した時は、第九を何度も聞いて親しんでおりましたが、ほどなくして、聴かなくなりました。
何か重々しい感じがし始めたからです。
また、あまりにも人々に親しまれており俗っぽく感じてしまったこともあります。
しかし、最近、さまざまな第九を聴くにつれ、単なる重々しさを感じることもなくなり、俗っぽい雰囲気を感じることもなくなり、第九を純粋に楽しめるようになりました。
第九がどうのこうのというよりも、私自身が変わったということでしょう。
第九は、いろいろな評価を受けることがやむを得ないほどの大きな作品といえます。
「この交響曲は幾多の解釈に対して開かれており、称賛と非難に共に等しく堪えうる強さをもっているように思われる」(ルイス・ロックウッド『ベートーヴェン』春秋社 647頁)
第九は、強い作品であると共に、大きく深い作品です。そこが人々の心を引き付けるのでしょう。
「この作品の崇高な、精神を高揚させるような象徴性が包含しているのは、百万の人々それ自体にとどまらず、すべての個々人の命運が大事であるように百万の命運も大事であるような世界への信頼なのである」(同書 648頁)
人々の繋がりを謳い上げ、理想的な世界への憧憬もあります。
未来に開かれているといった感じを受けます。
聴けば聴くほど引き込まれるいい曲です。
多くの人々に親しまれているのは、それなりの理由があるからであり、単に俗っぽく感じる方が俗っぽいのですね。
いいものはいいと素直に感じ取ればよいと思います。
評価される場合もあり、また、評価されない場合もあったようです。
私にとっても、合唱に参加した時は、第九を何度も聞いて親しんでおりましたが、ほどなくして、聴かなくなりました。
何か重々しい感じがし始めたからです。
また、あまりにも人々に親しまれており俗っぽく感じてしまったこともあります。
しかし、最近、さまざまな第九を聴くにつれ、単なる重々しさを感じることもなくなり、俗っぽい雰囲気を感じることもなくなり、第九を純粋に楽しめるようになりました。
第九がどうのこうのというよりも、私自身が変わったということでしょう。
第九は、いろいろな評価を受けることがやむを得ないほどの大きな作品といえます。
「この交響曲は幾多の解釈に対して開かれており、称賛と非難に共に等しく堪えうる強さをもっているように思われる」(ルイス・ロックウッド『ベートーヴェン』春秋社 647頁)
第九は、強い作品であると共に、大きく深い作品です。そこが人々の心を引き付けるのでしょう。
「この作品の崇高な、精神を高揚させるような象徴性が包含しているのは、百万の人々それ自体にとどまらず、すべての個々人の命運が大事であるように百万の命運も大事であるような世界への信頼なのである」(同書 648頁)
人々の繋がりを謳い上げ、理想的な世界への憧憬もあります。
未来に開かれているといった感じを受けます。
聴けば聴くほど引き込まれるいい曲です。
多くの人々に親しまれているのは、それなりの理由があるからであり、単に俗っぽく感じる方が俗っぽいのですね。
いいものはいいと素直に感じ取ればよいと思います。
2012年01月04日
フジ子・ヘミング『ブジ子・ヘミング 魂のピアニスト』
「わたしは数え切れないぐらい何人もの音楽家に会ってきたが、世間一般がいうところの、表の名声とは違って、人間としてあまり尊敬できない音楽家がずいぶん多いように思う。だからといって、一流ではないとは限らない。でも、わたしの思う一流の音楽家、演奏家は、こころが広く、教養があり、人間性があって、音楽に対して偏見も差別もない純粋性のある人のこと。その意味でも、バーンスタインはとても誠実で、わたしの尊敬できる唯一の一流の音楽家なのだ」(フジ子・ヘミング『フジ子・ヘミング 魂のピアニスト』求龍堂 97頁)
単に、演奏会やCDにて音楽を聴いているだけですと、音楽家、演奏家の表の名声しか知り得ません。
直接、音楽家、演奏家との接点があるフジ子・ヘミングさんが体験したことを通して、音楽家、演奏家の表の部分だけでない違った一面を知るに至ります。
フジ子・ヘミングさんによると、ほとんどの音楽家、演奏家は、人間性に深みがないようです。
やはり、自分の音楽で精一杯という現状があるのでしょう。
また、音楽家、演奏家は、他の人との関わりというよりも音楽そのものとの関わりにほとんどの精力を注ぎこむため、人間関係、人間性を陶冶する機会がほとんどないのかもしれません。
仏教の知見を援用すると、縁覚界の限界といえるでしょう。
しかし、レナード・バーンスタインは、音楽家として一流であるだけでなく、人間性においても一流であったようです。
アメリカという国の大らかさ、フレンドリーなところを体現している人だったのでしょう。
「カラヤンは人間的には深みがない面が多すぎたけれど、オーケストラから素晴らしい音を引き出す天才だった」(同書 86頁)
フジ子・ヘミングさんのカラヤン評は、人間性に関しては辛辣、音楽に関しては抜群との評です。
ヨーロッパの人は、階級社会の伝統の中で生きているからか、差別する癖が抜けないのかもしれません。
それが、人間性に悪影響を及ぼしているともいえます。
反面、アメリカの人の方は、自由の国らしく、自由で気さくでフレンドリーという感じがします。
日本は、階級社会の伝統もある国といえるでしょうが、現代になってからは、特にアメリカの影響を強く受け、自由気ままな感じも見受けられます。
差別が根強くありながら、差別をしない生き方をさりげなくできる人々も多いという印象を受けます。
日本は、ヨーロッパ的であると共にアメリカ的でもあるという特殊な国といえるでしょう。
フジ子・ヘミングさんの言うように人間的にも尊敬できる音楽家が理想ですが、そのような人はほとんどいないというのが現状でしょうから、音楽家には特別に人間性を求めるというのではなく、音楽そのもので評価して楽しむのがよいでしょう。
単に、演奏会やCDにて音楽を聴いているだけですと、音楽家、演奏家の表の名声しか知り得ません。
直接、音楽家、演奏家との接点があるフジ子・ヘミングさんが体験したことを通して、音楽家、演奏家の表の部分だけでない違った一面を知るに至ります。
フジ子・ヘミングさんによると、ほとんどの音楽家、演奏家は、人間性に深みがないようです。
やはり、自分の音楽で精一杯という現状があるのでしょう。
また、音楽家、演奏家は、他の人との関わりというよりも音楽そのものとの関わりにほとんどの精力を注ぎこむため、人間関係、人間性を陶冶する機会がほとんどないのかもしれません。
仏教の知見を援用すると、縁覚界の限界といえるでしょう。
しかし、レナード・バーンスタインは、音楽家として一流であるだけでなく、人間性においても一流であったようです。
アメリカという国の大らかさ、フレンドリーなところを体現している人だったのでしょう。
「カラヤンは人間的には深みがない面が多すぎたけれど、オーケストラから素晴らしい音を引き出す天才だった」(同書 86頁)
フジ子・ヘミングさんのカラヤン評は、人間性に関しては辛辣、音楽に関しては抜群との評です。
ヨーロッパの人は、階級社会の伝統の中で生きているからか、差別する癖が抜けないのかもしれません。
それが、人間性に悪影響を及ぼしているともいえます。
反面、アメリカの人の方は、自由の国らしく、自由で気さくでフレンドリーという感じがします。
日本は、階級社会の伝統もある国といえるでしょうが、現代になってからは、特にアメリカの影響を強く受け、自由気ままな感じも見受けられます。
差別が根強くありながら、差別をしない生き方をさりげなくできる人々も多いという印象を受けます。
日本は、ヨーロッパ的であると共にアメリカ的でもあるという特殊な国といえるでしょう。
フジ子・ヘミングさんの言うように人間的にも尊敬できる音楽家が理想ですが、そのような人はほとんどいないというのが現状でしょうから、音楽家には特別に人間性を求めるというのではなく、音楽そのもので評価して楽しむのがよいでしょう。
2011年12月17日
ロヴロ・フォン・マタチッチ指揮の第九
ベルナルト・ハイティンク指揮の第九
ベルナルト・ハイティンク指揮の第九を聴きました。
1987年12月、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団による演奏です。
雑味がなく、聴きやすい第九です。
スマートな印象を与えます。
演奏、独唱、合唱ともにきれいに仕上がっています。
安心して標準的な第九を聴きたいときにはよい第九と思われます。
1987年12月、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団による演奏です。
雑味がなく、聴きやすい第九です。
スマートな印象を与えます。
演奏、独唱、合唱ともにきれいに仕上がっています。
安心して標準的な第九を聴きたいときにはよい第九と思われます。
オットー・クレンペラー指揮の第九
オットー・クレンペラー指揮の第九を聴きました。
1957年10月、11月、フィルハーモニア管弦楽団による演奏です。
ゆっくりしていますが聴き手を引き付ける演奏となっております。
重みのある厚みのある演奏と感じられます。
音色が心地よく、それでいて力強い第九です。
独唱、合唱ともにややゆっくりしたテンポです。
1957年10月、11月、フィルハーモニア管弦楽団による演奏です。
ゆっくりしていますが聴き手を引き付ける演奏となっております。
重みのある厚みのある演奏と感じられます。
音色が心地よく、それでいて力強い第九です。
独唱、合唱ともにややゆっくりしたテンポです。
2011年12月14日
ギュンター・ヴァント指揮の第九
ギュンター・ヴァント指揮の第九を聴きました。
1986年2月、5月、6月、北ドイツ放送交響楽団による演奏です。
すっきりしたテンポのある演奏と感じられます。
また、明るさを感じさせる雰囲気があります。
独唱、合唱とも、あっさりした感じを受けます。
全体的には、聴きやすい第九に仕上がっています。
1986年2月、5月、6月、北ドイツ放送交響楽団による演奏です。
すっきりしたテンポのある演奏と感じられます。
また、明るさを感じさせる雰囲気があります。
独唱、合唱とも、あっさりした感じを受けます。
全体的には、聴きやすい第九に仕上がっています。
ハンス・シュミット=イッセルシュテット指揮の第九
2011年12月12日
ダニエル・バレンボイム指揮の第九
ダニエル・バレンボイム指揮の第九を聴きました。
1992年12月、ベルリン・シュターツカペレによる演奏です。
スタンダードな演奏の中に重みを感じさせます。
第1楽章、第2楽章は、適度に迫力があり、第3楽章、第4楽章は、とてもやさしい風情であり、聴きやすい第九となっております。
独唱は、伸びやかさがあります。
合唱は、控えめに感じられます。
1992年12月、ベルリン・シュターツカペレによる演奏です。
スタンダードな演奏の中に重みを感じさせます。
第1楽章、第2楽章は、適度に迫力があり、第3楽章、第4楽章は、とてもやさしい風情であり、聴きやすい第九となっております。
独唱は、伸びやかさがあります。
合唱は、控えめに感じられます。