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2021年09月13日

政治を見る目を養うために必要な本として、『君主論』と『自由論』の2冊を選定する

「例えば経済学ならアダム・スミスの『国富論』と、マルクスの『資本論』を読了しただけでも、まあ兎に角経済学を勉強した人として通用しますし、資本主義経済機構の根本はそれだけで一応理解できます(近代経済学の人には叱られるかもしれませんが)。政治学にはこういった意味での「便利な」古典というものはありません」(丸山眞男『政治の世界』岩波文庫 245頁〜246頁)

確かに、丸山眞男の言うように政治学において、これだけ読んでおけば、一応、政治学を学んだことになると言えるような古典はないですね。

政治哲学の分野だけであっても、プラトン、アリストテレスに始まり、キケロ、アウグスティヌス、アクィナス、マキアヴェリ、ホッブス、ロック、ルソー、ヘーゲル、ヴェーバー等々、古典を数え上げればきりがありません。政治過程論や、外交史、国際政治学、政治史、行政学等々の分野にまで広げるともっと多くの古典が存在します。いくら読んでも政治学を一応学んだことになるのかどうか、よく分からないと言う状態となります。

政治学という学問では、幅が広すぎて軸となる古典がなく、あれもこれもとなってしまいます。

しかし、学者でもない一般庶民にとっては、あれもこれもと古典を読む余裕はなく、また、読む必要性もありません。

ただ、一般庶民であっても、政治の世界に生きていることは厳然たる事実であり、政治を見る目を養うことは、しなければならないことといえるでしょう。

そこで、分厚くなく、内容の濃い古典がないものかと考えてみますと、マキアヴェリの『君主論』とJ.S.ミルの『自由論』とがよいのではと思います。

『君主論』で政治の生々しい現実を垣間見て、お花畑の感覚を打ち破るのは、一般庶民にとって必要な教養といえます。世の中の厳しさ、人間の邪悪さ、愚かさについて、基本的な知識を得ておくことは重要です。

ただ、人間の獰猛な点を示す『君主論』だけでは、政治を見る目の半分は得られても、もう半分はないと思われます。人間の理知的な部分、理性的な部分にも目を配る必要があります。そうしますと、『自由論』が適切ですね。支配者は、どこまで一般民衆の権利を制限することができるのか、その線引きを理性的に論じています。

『君主論』は、いかに民衆を支配するかに力点が置かれている書とするならば、『自由論』は、いかに支配を制約するかに力点が置かれている書といえます。ベクトルが正反対なのですね。その意味から、この2冊をセットとして読むことが効果的と思われるのです。分量的にも文庫本一冊でまとまっており、ページ数も約200〜250ページでありほどよい分量となっております。古典としての地位も確立しており、読んで損はない本であることは確かです。

また、一読してそれでおしまいということを許さないのがこの2冊です。何度も読み込まないことには、自分の血肉にならないという深みのある本です。一生付き合うに申し分ない本といえるでしょう。

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posted by lawful at 06:00| 政治

2015年07月19日

社説とは何か:「社説」政党には政権担当能力がないこと

社説とは何かについて、早坂茂三氏が書かれた文章があります。まずは、確認してみましょう。

社説とは何か。自分の顔や名前を知られることのない安全地帯にいる偉いインテリが、自分で責任をとる必要のないお説教をしている。空調設備の行き届いた高層ビルの一角で、無辜の人民を見下しながら、ああではないか、いや、こうすればいいかも知れない、自分で血や汗や涙を流す心配のないお経を気楽に書いている。だから、新聞の社説なんて忙しい人は誰も読まない。千人に一人もいるかどうか。書いている本人と、論説主幹と、同業者と、役人――それと、並みの政治家。これが社説を読む人たちです。おおかたの政治家が一席ぶつネタは、新聞の社説だと思ったらいい。特に野党の皆さんがそうです。
早坂茂三『オヤジとわたし』集英社文庫 58頁

元々、『オヤジとわたし』は、1987年(昭和62年)1月に発行されていますから、今から28年も前の本です。

しかし、ここで述べられていることは、今でも見受けられることです。

何にも変わっていないということでしょう。

子供の頃、学生時代、20代の頃はよく分からなかったけれども、年を取るにしたがって、世の中のことが分かってくるものです。

特に、政権交代があった後、より一層、世の中が見えてきたように思います。

政権交代の前、野党は言いたい放題でありました。

政権を取った後、どうであったか。それなりに頑張ったでしょうが、政権担当能力のないことを証明しただけでした。

政権を取って、すっかり舞い上がってしまったのですね。舞い上がってどうする、ということなのですが、本人たちは、いい気になり、お気楽でありました。簡単に言うと、無責任であったのですね。

そのことから、再び、政権交代となり、保守政党が政権に戻りました。

保守政党に問題点があるとはいえ、政権担当能力がありますので、一応、評価できます。

野党に戻った政党は、相変わらず、所謂、「社説」議論でお茶を濁しています。

当分、保守政党の政権が続くことになるでしょう。

健全な政権交代を望んでいたのですが、そうはならなかったですね。

残念ですが、無責任政党で、「社説」政党では、話にならないということです。

ただ単に言うだけでなく、実現可能性を踏まえながらの言説を望みたいですね。

別に難しいことを要求しているわけではありませんので、もう少し、まともに議論をしてほしいものです。

やはり、「社説」レベルでは、何事も変わりません。単なるポーズですから。

格好が悪いのに、自分では格好が良いと勘違いしているのが、「社説」の人々といえます。

いつまでもイメージや印象操作でどうにかなるという、間違った考え方を改め、責任のある政党として精進してもらいたいところですが、精進しないでしょうね。

ある一定期間は、無責任な野党の時代が続くでしょう。その人たちが亡くなった後、まともな野党を作り上げる人が増えていけば、いずれ、政権交代が可能になるでしょう。

10年、20年、30年単位で考えざるを得ないですね。

今後、政治を観察する際、この政治家は、まともな議論をしているのか、それとも、「社説」議論をしているのか、早坂茂三氏の分析を参考に見抜いていくことですね。

野党の政治家には、「社説」議論が多く辟易しているところです。

野党に安住することなく、政権を目指す気概が欲しいですね。

そうしませんと、保守政党も活性化しませんからね。
posted by lawful at 17:01| 政治

2014年03月12日

『政治学』東京大学出版会

20数年前からすると、大学の教養課程の教科書も様変わりしましたね。

20数年前の教科書は、非常に分かりにくかったように記憶しております。

内容もパッとしなかったですね。

例えば、「政治学」の教科書で思い出してみますと、20数年前の教科書は、いろいろありましたが、やけに分厚い教科書があったかと思えば、やけに薄い教科書もありました。

「政治学」という科目の特性上、現代政治、特に日本の現代政治についても適切に触れなければならないのですが、著者が現代政治に関心がないのか、海外の理論ばかり紹介していましたね。

何のための「政治学」なのか分かりませんね。

しかし、今は、少子化ということもあるのでしょうが、大学も一生懸命、学生さんにサービスしているみたいですね。

教科書にしても、分かりやすいですね。

東京大学出版会から出ている『政治学』(川出良枝・谷口将紀編)を読むと、現代政治への言及が適切になされています。

また、要所で理論を紹介しています。

理論も現代政治の現象を解明するために利用しながら説明していますね。

「政治学」にはさまざまな分野がありますが、バランスよく記述されています。

図や写真も活用し、見やすくなっています。

分量も多すぎず少なすぎずで、大学教養課程の教科書としては、良くできていると思います。

今の学生さんは恵まれていますね。

しかし、当の学生さんは、どう考えているのでしょうか。

あくまでも20数年前を知っている私の経験に照らして、恵まれていると言っているだけで、当の学生さんからすると、ひどい大学、ひどい教科書の存在を知らないとすれば、今ある教科書が当たり前であり、恵まれているとは感じないでしょうね。

ただ、分かりやすい教科書になっていますので、早く理解できることでしょう。

ここ20年で世の中は相当変わりましたね。

すべてにおいて、分かりやすくなっているという特徴があります。

この点は喜ばしいことですね。

ただ、その分かりやすくなっていることを活用できているかといえば、活用できている人が増えている一方、活用できていない人も増えているようです。

よく言われる「格差」というのは、こういうことなのでしょうね。

20数年前は、すべてにおいて分かりにくかったので、理解できる人がほとんどおらず、格差が生じなかったということでしょうか。

今は、勉強するにしても分かりやすい教材が増えていますので、努力、心掛け次第で、いくらでも伸びていくことができます。

努力、心掛けがない人は、取り残されますね。

自業自得でしょう。

どちらになりたいか、それは、その本人次第ですね。

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posted by lawful at 11:37| 政治

2014年03月02日

拒否権がなくとも政治の動向を見つめるべきことについて

権力を感じ取るにはどうすればよいでしょうか。

簡単に言うと、拒否権を発動すればよいですね。

法律を作るという権力作用よりも、法律を作ろうとする人に対し、その法律はダメだと拒否する方が、権力を持っていると実感できます。

実際、拒否権を持っている人に権力があるものです。

もちろん、ここでいう拒否権は、事実上の拒否権のことです。

事実上、拒否することができる影響力といえばよいでしょうか。

以下、この意味で拒否権という言葉を使います。

拒否権を持っている人としては、高級官僚、ベテラン政治家、または、影響力のある業界団体の上層部の人々などがあげられるでしょう。

国民にも拒否権があるのではとお考えの方がいると思います。

確かに、選挙がありますので、理論上は、国民にも拒否権があるように思えますが、個人個人に拒否権があるというよりは、影響力を与えるほどのある一定数の票にまとまった段階でその票の集合に拒否権があるといえるかもしれません。

しかし、票の集合は、所詮、票にしか過ぎず、票そのものは意思表示ができません。

ましてや、候補者や政党に対しての票であって、個別具体的な政策についての意思表示ではありません。

拒否権は、人にありますので、特定の誰かにあるということです。

影響力を与えるほどの票を集める団体のトップに拒否権があるといえるでしょうね。

また、票に限ることなく、社会的に影響力のある団体のトップにも拒否権があるといえますね。

このように、特定の誰かに拒否権があり、その他の人々には拒否権などありません。

然るべき影響力を持っている人にしか拒否権はありません。

つまり、権力を実感できる人は、極めて少数ということですね。

拒否権がないにもかかわらず、あれはダメ、これもダメと言っているようでは、ただのお馬鹿さんですね。

一般大衆の人で、政治に対して、偉そうに論じている人がいますが、胡散臭く感じられます。

それは、これらの人が拒否権を持っていないにもかかわらず、その拒否権を持っていると勘違いしているからですね。

勘違いしている人々は、傍から見て、みっともないものです。

こちらが恥ずかしくなるぐらいです。

しかし、本人は至って大真面目ですから、救い難いですね。

とりあえず、放置しておきましょう。

自分で気付くまで待つことですね。

どうせ気付かないでしょうけれども。

政治に関し意見を言うことも大事ですが、それ以上に大事なのは政治の動向を適切に見抜くことでしょうね。

「経験的事象についてのさまざまな成果を尊重しつつも、あくまで理論と概念に軸をおいて政治の世界の把握を試みることである」(佐々木毅『政治学講義』第2版 東京大学出版会 24頁)

政治の動向を見抜いたのち、その見抜いた知見をもとに、自らの進路を定め、適切な行動をとることですね。

所詮、政治は多数決ですから、その多数決の意向を無視するわけにはいきません。

多数派の政治判断に合わせるところは合わせながら、気に入らない点はうまくかわしながら、上手に生きていく必要があります。

投票結果ほど、適切な判断材料はありません。

当選者だけに目を奪われるのではなく、落選者の票の獲得具合からも政治の動向を見ていくことですね。

そうしますと、おぼろげながら、今後の政治及び世の中がどこに向かおうとしているのかが分かってきます。

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posted by lawful at 17:53| 政治

2012年01月07日

トニー・ブレア「私の履歴書」 リーダー選び

「私は指導者のポストはなにがしかの気迫を持って獲得しなければならないと感じていた。機が熟したときではなくつかみとるのだ。年功序列のリーダー選びは最悪だ」(トニー・ブレア「私の履歴書」E 日本経済新聞 平成24年1月7日付)

この発言の通り、トニー・ブレアは、43歳でイギリス首相になっています。

順番を待つのではなく、自ら獲得するという姿勢です。

特に、国のリーダーには、トニー・ブレアのような姿勢が求められます。

マキァヴェッリが「他人に勢力を得させる原因を作る者は自ら滅びる」(『君主論』佐々木毅訳 講談社学術文庫 第3章)と厳しく言うように、自分自身が責任を持って勢力なりポストを得ていかなければなりません。

人任せでは自分の出番が来る前に排除されてしまいます。

トニー・ブレアがこのマキァヴェッリの言葉を意識していたかどうかは分かりませんが、いずれにしても、トニー・ブレアの行動は、マキァヴェッリが注意した点を忠実に守っています。

政治の世界は、子供の遊びではないわけですから、マキァヴェッリのような冷徹な視点及び冷静な行動は絶対に必要です。

年功序列でリーダーを選んでよい組織であれば、それでよいでしょうが、国家レベルの政治の世界においては、外国との壮絶な交渉もあり、年功序列のリーダー選びで良いリーダーを選ぶのは無理があるように思えます。

その時に応じたリーダーを選ぶという姿勢でなければなりません。

このことは、若ければよいということを意味せず、場合によっては年配者にリーダーを任せるという選択肢を残しています。

いろいろなリーダーのパターンを許容する国民であれば、時機に適ったリーダーを得ることができるでしょう。

あまり短絡的にならず、政治を観察していきたいものです。

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2012年01月01日

トニー・ブレア「私の履歴書」

「たとえ政府が正しくても、いったん世論が機嫌を損ねると、政府が正しいかどうかはどうでもよくなってしまうのである」(トニー・ブレア「私の履歴書」日本経済新聞 平成24年1月1日付)

世論とは民衆のことと思いますが、トニー・ブレアは、民衆の絶大なる権力に気付いている有能な政治家だったようですね。

首相という最高権力者であっても、民衆の機嫌を損ねると自分が正しくても為す術がないということです。

これは、現代だけの話ではなく、マキァヴェッリが「結論として述べておきたいのは、ただ一つ、君主は民衆を味方につけなければならない」(『君主論』池田廉訳 中公文庫 第9章)と言うように、中世の時ですら、民衆には絶大な権力があったということですね。

民衆に絶大な権力があるということは、いいことのようにも思えますが、危なっかしいともいえます。

トニー・ブレアの指摘のように、民衆が正しい正しくないではなく、機嫌がいいか悪いかで物事を判断していては、結局、民衆にとっても得るところはないでしょう。

中世と違い、現代は、より一層、民衆の権力の影響力が強い時代です。

民衆がいつまでもレベルの低い状態では、為政者は何もできないと共に、民衆の中から為政者になろうとする志のある人間も出てこないでしょう。

民衆ひとりひとりの地道な努力が善き政治を生むと思います。

政治に何かをしてもらうのではなく、政治に何かを与えるほどの民衆でありたいものです。

間違っても、政治にたかるようなみっともないことはしてはいけません。

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