「例えば経済学ならアダム・スミスの『国富論』と、マルクスの『資本論』を読了しただけでも、まあ兎に角経済学を勉強した人として通用しますし、資本主義経済機構の根本はそれだけで一応理解できます(近代経済学の人には叱られるかもしれませんが)。政治学にはこういった意味での「便利な」古典というものはありません」(丸山眞男『政治の世界』岩波文庫 245頁〜246頁)
確かに、丸山眞男の言うように政治学において、これだけ読んでおけば、一応、政治学を学んだことになると言えるような古典はないですね。
政治哲学の分野だけであっても、プラトン、アリストテレスに始まり、キケロ、アウグスティヌス、アクィナス、マキアヴェリ、ホッブス、ロック、ルソー、ヘーゲル、ヴェーバー等々、古典を数え上げればきりがありません。政治過程論や、外交史、国際政治学、政治史、行政学等々の分野にまで広げるともっと多くの古典が存在します。いくら読んでも政治学を一応学んだことになるのかどうか、よく分からないと言う状態となります。
政治学という学問では、幅が広すぎて軸となる古典がなく、あれもこれもとなってしまいます。
しかし、学者でもない一般庶民にとっては、あれもこれもと古典を読む余裕はなく、また、読む必要性もありません。
ただ、一般庶民であっても、政治の世界に生きていることは厳然たる事実であり、政治を見る目を養うことは、しなければならないことといえるでしょう。
そこで、分厚くなく、内容の濃い古典がないものかと考えてみますと、マキアヴェリの『君主論』とJ.S.ミルの『自由論』とがよいのではと思います。
『君主論』で政治の生々しい現実を垣間見て、お花畑の感覚を打ち破るのは、一般庶民にとって必要な教養といえます。世の中の厳しさ、人間の邪悪さ、愚かさについて、基本的な知識を得ておくことは重要です。
ただ、人間の獰猛な点を示す『君主論』だけでは、政治を見る目の半分は得られても、もう半分はないと思われます。人間の理知的な部分、理性的な部分にも目を配る必要があります。そうしますと、『自由論』が適切ですね。支配者は、どこまで一般民衆の権利を制限することができるのか、その線引きを理性的に論じています。
『君主論』は、いかに民衆を支配するかに力点が置かれている書とするならば、『自由論』は、いかに支配を制約するかに力点が置かれている書といえます。ベクトルが正反対なのですね。その意味から、この2冊をセットとして読むことが効果的と思われるのです。分量的にも文庫本一冊でまとまっており、ページ数も約200〜250ページでありほどよい分量となっております。古典としての地位も確立しており、読んで損はない本であることは確かです。
また、一読してそれでおしまいということを許さないのがこの2冊です。何度も読み込まないことには、自分の血肉にならないという深みのある本です。一生付き合うに申し分ない本といえるでしょう。