社説とは何か。自分の顔や名前を知られることのない安全地帯にいる偉いインテリが、自分で責任をとる必要のないお説教をしている。空調設備の行き届いた高層ビルの一角で、無辜の人民を見下しながら、ああではないか、いや、こうすればいいかも知れない、自分で血や汗や涙を流す心配のないお経を気楽に書いている。だから、新聞の社説なんて忙しい人は誰も読まない。千人に一人もいるかどうか。書いている本人と、論説主幹と、同業者と、役人――それと、並みの政治家。これが社説を読む人たちです。おおかたの政治家が一席ぶつネタは、新聞の社説だと思ったらいい。特に野党の皆さんがそうです。
早坂茂三『オヤジとわたし』集英社文庫 58頁
元々、『オヤジとわたし』は、1987年(昭和62年)1月に発行されていますから、今から28年も前の本です。
しかし、ここで述べられていることは、今でも見受けられることです。
何にも変わっていないということでしょう。
子供の頃、学生時代、20代の頃はよく分からなかったけれども、年を取るにしたがって、世の中のことが分かってくるものです。
特に、政権交代があった後、より一層、世の中が見えてきたように思います。
政権交代の前、野党は言いたい放題でありました。
政権を取った後、どうであったか。それなりに頑張ったでしょうが、政権担当能力のないことを証明しただけでした。
政権を取って、すっかり舞い上がってしまったのですね。舞い上がってどうする、ということなのですが、本人たちは、いい気になり、お気楽でありました。簡単に言うと、無責任であったのですね。
そのことから、再び、政権交代となり、保守政党が政権に戻りました。
保守政党に問題点があるとはいえ、政権担当能力がありますので、一応、評価できます。
野党に戻った政党は、相変わらず、所謂、「社説」議論でお茶を濁しています。
当分、保守政党の政権が続くことになるでしょう。
健全な政権交代を望んでいたのですが、そうはならなかったですね。
残念ですが、無責任政党で、「社説」政党では、話にならないということです。
ただ単に言うだけでなく、実現可能性を踏まえながらの言説を望みたいですね。
別に難しいことを要求しているわけではありませんので、もう少し、まともに議論をしてほしいものです。
やはり、「社説」レベルでは、何事も変わりません。単なるポーズですから。
格好が悪いのに、自分では格好が良いと勘違いしているのが、「社説」の人々といえます。
いつまでもイメージや印象操作でどうにかなるという、間違った考え方を改め、責任のある政党として精進してもらいたいところですが、精進しないでしょうね。
ある一定期間は、無責任な野党の時代が続くでしょう。その人たちが亡くなった後、まともな野党を作り上げる人が増えていけば、いずれ、政権交代が可能になるでしょう。
10年、20年、30年単位で考えざるを得ないですね。
今後、政治を観察する際、この政治家は、まともな議論をしているのか、それとも、「社説」議論をしているのか、早坂茂三氏の分析を参考に見抜いていくことですね。
野党の政治家には、「社説」議論が多く辟易しているところです。
野党に安住することなく、政権を目指す気概が欲しいですね。
そうしませんと、保守政党も活性化しませんからね。