ドストエフスキーの傑作『カラマーゾフの兄弟』を読んだことがあるだろうか?
未読の人には声を大にして言いたい。
「とにかく今すぐに読み始めろ!」「そうすれば人生が開けるから」と。
なかにし礼 『人生の教科書』ワニブックス 36頁
ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』が世界最高の小説ということで、学生時代に読み始めたことがあります。
新潮文庫では、上巻、中巻、下巻と3冊でしたね。3冊とも購入し、読み始めたのですが、上巻の真ん中あたりまで読んだところで、ストップしてしまいました。
正直なところ、面白みが感じられず、興味も続かなかったのですね。『罪と罰』は最後まで読み進めたのですが、『カラマーゾフの兄弟』は、途中でプツンと途切れたという感じでしたね。
いずれ読み続けるだろうと思いながら、結局、読み続けることもなく、後日、本は処分しましたね。
処分する前に本を確認したところ、中巻の一部分を丹念に読み込んでいた形跡がありました。何かの本を読んだ際、中巻のその部分が関連しており、そこだけ確認して読んだのでしょう。
いずれにしても、私にとって、『カラマーゾフの兄弟』は、その程度の縁しかなかったということですね。
結局、有名な「大審問官」の部分を読むことなく、それぎりです。
なかにし礼さんは、とにかく読め、と強調されます。理由として、『カラマーゾフの兄弟』が大作であることをあげ、続いて以下の理由をあげられています。
言わずと知れた世界文学史上に燦然と輝く大作家、ドストエフスキー。彼は帝政ロシア時代の革新派で、逮捕されて死刑宣告を受けたあと、シベリアへ流刑となった。結局獄中で殺されることはなかったが、銃殺刑寸前まで追いつめられたこともあるという。そんな彼の処刑を前にした心の動きというのはもの凄いものがあって、思想を、神を、人生の矛盾を、愛を、世界のことを考え抜いた大作家の知見がつまった本を2週間かけて読むと、ドストエフスキーが一生かけて学んだ膨大な知識と、喜怒哀楽など、彼の人生の追体験ができることになる。
そうすれば、今自分が悩んでいることがいかに小さいか、人生とはなんと深いものかということが理解できる。
同書 37−38頁
流刑に遭い、処刑寸前のこともあった人物の書を読むことにより、膨大な知識と喜怒哀楽に触れることができ、自分の悩みがいかに小さく、人生の深さを理解することができるといいます。
確かに、『カラマーゾフの兄弟』は気になる小説であり、傑作で大作であろうとは思いますが、以前のこともあり、読む価値があるのだろうかと訝しく思えます。
なぜ、このように思うのかといいますと、実は、ドストエフスキー以上の強烈な人物の書を読んでいるからですね。
その人は、日蓮なのですが、まさに、日蓮は、流刑に遭い、それも2回です。もうこの点でドストエフスキーを超えています。
また、竜口の頚の座があり、処刑寸前という経験もしています。
松葉ケ谷の法難について分かりやすく言うと、これは放火ですから、命の危険に遭っており、小松原の法難は、所謂、テロに遭ったようなもので、殺されそうになっています。
命の危険という観点からすると、3回も殺されそうなことに遭っているのですね。これまた、ドストエフスキーを超えています。
日蓮は、比叡山に修行に行っていますので、一代聖教を読み、各種仏教書を読み込んで膨大な知識を得た人物です。
日蓮の書を読めば分かりますが、これほど喜怒哀楽を文章で表現し得る仏教者はいないだろうという程の人であり、多作の人でありました。
日蓮の人生からすると、我々の人生はあまりにも小さい。
日蓮の書を読むと、そのことを痛感します。
別に、ロシアの人でなくとも、日本に然るべき人がいるではないか、と思えるのですね。
100年前の人でなく、700年も前の人がいるではないか、ということです。
キリスト教を土台とした西洋文学よりも、日本人であるならば、日本の仏教者の書を読むべきだろうと思います。私の場合、日蓮ですが、その他にも仏教者はいますし、重要な書を探すのに苦労することはないでしょう。
日本の伝統を知らずして、どうするのかというところです。
自らの依って立つべきところを固めた上で、キリスト教を土台とした西洋の書を読むことは重要だろうとは思いますが、まずは、日本の先人に学ぶことでしょう。
自分自身を形作っている日本の伝統を知った上で、西洋の書を読むのがよいですね。
あと、宗教的なことを言うと、日蓮を読むことは、即、私の信仰に関わってきます。読んだ瞬間に私の信仰と響きあうのですね。
これがドストエフスキーであった場合、なるほど、西洋のものの考え方、神とは、愛とは、ということを知り得ますが、知識としてそれらを得るだけであって、私そのものに響くかといいますと、そう響かないと思われます。
それは、私の信仰が仏教であるからでしょう。やはり、宗教は重要なファクターですね。
クリスチャンであるならば、逆の結果になるでしょう。
何を信仰しているかで、その人の方向性は、ある程度、決まるものですね。
私の場合、日蓮仏法を基軸に方向性が決まるというわけです。よって、日蓮の書が根本になるということです。
ドストエフスキー程の人であっても、私にとっては、さほど重要な人ではないのですね。
私の場合、「とにかく日蓮の書(御書)を読め」「そうすれば仏が開かれるから」となりますでしょうか。
根本となる書は、一度読んでおしまいではなく、何度も読み返すことによって味わいが出てくるものです。
人生の時間が有限である以上、あれもこれもという態度では、時間が足りません。自分自身にとって必要な書に焦点を定めることが大切です。
そして、その書を何度も読むことです。これが本当の読書といえるでしょう。