常に、片付け力であったり、断捨離であったり、整理整頓であったりと、さまざまなメディアで特集が組まれていますが、一向に終る気配がありません。
つまり、誰も片付けていないということでしょう。
若しくは、すでに片付けている人が、より一層、片付け力に磨きをかけるために、これらの特集を熟読しているのでしょう。
「聖教新聞」には、PR版というものがあるそうで、それを見たところ「片付け力」についての記事がありました。参考になりましたので、確認してみましょう。
まず、「要る・要らない」5つの判断基準を示されています。
@ 5年以上使用していない
A 何年も使用してデザインや機能が古い
B 修理すれば使えるけれど費用が掛かる
C 存在すら忘れていた
D 未練や物語のない思い出の品
阿部絢子 「聖教新聞」平成27年 PR版夏季号 6面
5年以上という縛りがありますが、これは、人によっては、1年、2年と設定し直してもいいかもしれませんね。
時代は常に変化していますが、人間は現状維持を好むものです。よって、古臭くなったデザインや機能に固執する場合があります。
一旦、捨ててしまえば、何のこともないのですが、所有している時には現状維持傾向があるために、捨てきれないのですね。
しかし、捨ててしまえばよいのですね。そうしませんと、片付きませんから。
よく、修理をして長く使うのがよいという考え方が流布されており、それはそれで結構であり、修理してまで使うべきものならば、修理すべきでしょう。
しかし、ほとんどの人にとって、修理してまで使う程のものがあるでしょうか。言葉は悪いですが、ほとんどゴミでしょう。
ゴミを修理してもゴミ。よって、捨てておくのがよいですね。
存在すら忘れているものは、まさに、事実上、存在していないわけで、捨てるのに躊躇する必要はありません。
思い出の品ですが、ほとんどのものは、なくても困りません。思い出は心の中にあればよいと思いますね。
品物はいらないですね。いろいろと意見はあるようですが、私の場合、卒業アルバムはすべて捨てています。なぜか。要らないからです。
もっと言えば、なぜ、このようなものを買わされたのかと、憤りすら感じています。まさに、卒業アルバム詐欺ではないかと思うのですね。
よって、大学時代には、卒業アルバムのようなものがあったかどうか、あやふやですが、要りますかと聞かれたときに、要りませんと答えたような気もします。いずれにしても、大学時代の卒業アルバムを買ったり、所持したりしたことはありません。
小学校、中学校、高等学校の時の卒業アルバムは持っていましたので、買わされたのでしょう。未成年に対して、卒業アルバムなどという要らないものを売りつけるとは、学校という存在は困った存在ですね。
小中高の卒業アルバムを捨てた時、清々しい気持ちになったことを思い出します。要らないものを捨てるのは、精神衛生上も好ましいといえるでしょう。
ただ、阿部絢子氏によると、上記5つの判断基準の一つでも該当すれば捨ててよいとは言わないのですね。
このうち二つ以上が該当したら不要とします。
同紙 同面
二つ以上が該当したらという条件を付けています。確かに、このような基準を設けるのも見識とは思いますが、私としては、一つでも該当すれば捨ててよいと考えます。
片付けに必要なのは、決断力です。「要る・要らない」を即断で決めていかないと、なかなか終わりません。
同紙 同面
いずれにしても、捨てるのは自分であり、決断するのも自分です。自分基準がしっかりしていないと片付けはできませんね。
基本的に、モノは要らない、という考え方でよいでしょう。
では、何が要るのか。
よりよく暮らすために必要なモノ、無いと困るモノは何か――「時間とお金と空間」
同紙 同面
そうですね。時間、お金、空間、この三つはいくらあっても困りません。
しかし、この世の中でこの三つほど足りないものはありません。
モノを捨てるとは、すなわち、時間、お金、空間を得るためということですね。
私の場合、モノは要りませんが、時間、お金、空間は要りますね。
片付け力とは、時間、お金、空間の獲得力と言い換えると実践者が増えるかもしれませんね。