「『大乗涅槃経』では山川草木に仏性はないと説いていたにもかかわらず、中国仏教や日本仏教では山川草木悉有仏性が説かれ、さらには山川草木悉皆成仏が説かれた」(田上太秀『『涅槃経』を読む』講談社学術文庫 140頁)
「涅槃経」は仏性を説いた経典ということで、てっきり、草木成仏についても言及しているものと思っていましたが、草木成仏を言っていなかったのですね。
草木成仏を言い出したのは、中国の仏教者からということです。
その中には、湛然(妙楽大師)がいます。
また、日本の仏教者では、最澄、空海、親鸞、日蓮が草木成仏に言及しています。
確かに、日蓮は「観心本尊抄」で妙楽大師の言葉を引いており、草木成仏が中国仏教から日本仏教へとつながっていることが感じ取れます。
仏教は、経典に基づくわけですが、その経典を受容した中国及び日本の仏教者の悟りも重要と思われます。
仏教は、インドにはじまり、中国を経て、日本に伝わりましたが、その伝播の中で仏教が豊かになっていったと考えるのがよいでしょう。
インド仏教、インド哲学を専門にしている人からすると、日本の仏教はインド仏教をズタズタにした異物と見えるようです。
インド仏教を至高と考える人からすると、「涅槃経」に草木成仏が説かれていないのに草木成仏を言う中国仏教や日本仏教はけしからんということになるでしょう。
インド仏教を至高とすれば、そうなるでしょうが、私からすると、インドにおいて仏教は原石であり、中国において磨かれ、日本において輝くまで磨かれるものと考えています。
原石のインド仏教は、磨かない限り意味がないと思っています。
また、磨いたにしても輝くまで磨かなければならないと考えています。
よって、現在も、仏教は完成しているわけではなく、信仰者ひとりひとりが常に磨いていくものであると思っているわけです。
その観点からすると、妙楽大師が草木成仏を言い出しても、それは、仏教の発展であって逸脱ではないということです。
つまり、磨かれているということです。
ただ、原石に傷をつけるようなことをしてはいけません。
簡単に言うと、草木だけでなく、人間においても成仏できないなどと言うならば、それは、単に原石に傷をつけていることであり、原石を割っていることにもなるでしょう。
仏教の根本義を外すことなく、発展せしめるべく磨いていくのが仏教信仰者の役割ですね。