「研究者はおしなべて、自身が実験まで行っている分野しか「専門である」とは言及しない。単に知識として知っている程度では専門とは言いがたいのである」(村松秀『論文捏造』中公新書ラクレ 287頁)
これは、理系の学問分野について述べられた文章ですが、仏教の分野においても同様に考えてよいでしょう。
理系の学問もそれぞれ細分化されていますが、仏教でも、日蓮系、浄土系、真言系、禅系等々、さまざまな宗派があります。
その中で、私の場合、日蓮仏法を選んでいるわけですが、その日蓮仏法の法門を単に知識として知っているだけでは、専門家とは言えないという視点は重要ですね。
理系の学問でいう実験が必要になります。
日蓮仏法でいえば、勤行、唱題、化他行を通して、仏の境涯を得ようと修行していることになるでしょう。
理系の学問でも知識として知っているだけでなく、実験してはじめて専門と言えることからすると、単なる仏教学の一分野として日蓮仏法を学んでいるだけでは専門とは言えません。
仏の境涯を得るための実験、所謂、修行をしてこそ、日蓮仏法の専門家と言えましょう。
そう考えますと仏教は、文系の学問より理系の学問に近いような気がしますね。
理系の学問においては実験が成功しなければ何にもならないわけで、仏教においては成仏できなければ何にもならないわけです。
結局、信仰者しか仏教の専門家になれないということですね。
そして、本当に専門家になるためには、仏の境涯に至る必要があります。
日々の信仰は、理系の学問でいうところの実験というわけですね。