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2014年02月27日
女人往生、女人成仏
「初期の仏教で五障三従の身ゆえ往生できないとされた女性の往生は、鎌倉仏教の祖師たちによって積極的にはかられている。すなわち法然は女性が阿弥陀如来の名号をとなえると、その功徳によって死亡後男性に姿をかえたうえで成仏しうるとしている。なおこの変成男子による往生は親鸞にも継承されている。一方、道元は仏法の前には男女の差別がないことを力説し、日蓮は法華経を信じ題目をとなえれば女性も成仏できるとしている」(宮家準『宗教民俗学入門』丸善 146頁)
ここで「五障三従」が出てきます。
まず、「五障」とは、女性が、@梵天王、A帝釈、B魔王、C転輪聖王、D仏身、の五種になれないことをいいます。
重要なのは、仏身になれないというところですね。
つまり、成仏できないということです。
「三従」の方は、日蓮の「女人成仏抄」から確認してみましょう。
「三従とは少くしては父母に従ひ盛にしては夫に従ひ老いては子に従ふ」(『日蓮大聖人御書全集』 472頁)
女性は生まれてから死ぬまで、人生の主人公になれないということですね。
「五障三従」では、女性にとって、あまりにも酷です。
インドには女性差別の思想があり、その思想が仏教に入り込んでいるため、「五障三従」ということが言われているようですね。
そこで、鎌倉仏教の始祖たちは、女人往生、女人成仏を説きます。
インドの女性差別思想を日本の鎌倉時代において克服するわけです。
これは、なかなか画期的なことですね。
法然、親鸞では、女人そのままでの成仏ではなく、一旦、男になったうえでの成仏です。
やや、女人成仏が徹底されていない感がありますが、結論として成仏に至りますので、一歩前進というところでしょうか。
しかし、道元、日蓮になると、女人が女人のまま成仏するという態度ですね。
道元は、法華経を重要な経典とみなしていたこともあり、法華経に基づく女人成仏の観念がしっかりしています。
当然、日蓮も法華経を重要視し「竜女・畜生道の衆生として戒緩の姿を改めずして即身成仏せし事は不思議なり(中略)鬼道の女人たる十羅刹女も成仏す」(同書 473頁)と言っています。
また、「妙法経力即身成仏と伝教大師も釈せられて候、心は法華経の力にてはくちなはの竜女も即身成仏したりと申す事なり」(同書 1403頁)とも言っています。
日本の鎌倉時代において、女人往生、女人成仏が確立します。
インドで仏教が廃れ、日本において仏教が興隆したのには、女人成仏があるかどうかがポイントなのかもしれませんね。
人間の半分は女性であり、その女性の信仰を集めることができない宗教に未来はないでしょう。
また、女性を大切にしない国に未来はありません。
日本が発展しているのは、女性を大切にしてきたからかもしれませんね。
もちろん、日本において、まだまだ女性差別的なところがあるにしても、インドほどではありません。
現在でもインドでは女性差別がきついですからね。
いくらインドが仏教発祥の地とはいえ、女人成仏を認めたがらない女性差別思想が蔓延っているようでは、話にならないですね。
インドもこれからというところでしょう。
いずれにしても、女人成仏があるかどうかで宗教を選ぶことですね。
女性に対して慈悲のある宗教は男性に対しても慈悲があります。
まずは、成仏の可能性を理論的であっても確立している宗教がいいですね。
ただし、実際に成仏するかどうかは、その人の信仰次第ですから、あとは信仰者の責任ということです。
とにかく、精進することですね。
ここで「五障三従」が出てきます。
まず、「五障」とは、女性が、@梵天王、A帝釈、B魔王、C転輪聖王、D仏身、の五種になれないことをいいます。
重要なのは、仏身になれないというところですね。
つまり、成仏できないということです。
「三従」の方は、日蓮の「女人成仏抄」から確認してみましょう。
「三従とは少くしては父母に従ひ盛にしては夫に従ひ老いては子に従ふ」(『日蓮大聖人御書全集』 472頁)
女性は生まれてから死ぬまで、人生の主人公になれないということですね。
「五障三従」では、女性にとって、あまりにも酷です。
インドには女性差別の思想があり、その思想が仏教に入り込んでいるため、「五障三従」ということが言われているようですね。
そこで、鎌倉仏教の始祖たちは、女人往生、女人成仏を説きます。
インドの女性差別思想を日本の鎌倉時代において克服するわけです。
これは、なかなか画期的なことですね。
法然、親鸞では、女人そのままでの成仏ではなく、一旦、男になったうえでの成仏です。
やや、女人成仏が徹底されていない感がありますが、結論として成仏に至りますので、一歩前進というところでしょうか。
しかし、道元、日蓮になると、女人が女人のまま成仏するという態度ですね。
道元は、法華経を重要な経典とみなしていたこともあり、法華経に基づく女人成仏の観念がしっかりしています。
当然、日蓮も法華経を重要視し「竜女・畜生道の衆生として戒緩の姿を改めずして即身成仏せし事は不思議なり(中略)鬼道の女人たる十羅刹女も成仏す」(同書 473頁)と言っています。
また、「妙法経力即身成仏と伝教大師も釈せられて候、心は法華経の力にてはくちなはの竜女も即身成仏したりと申す事なり」(同書 1403頁)とも言っています。
日本の鎌倉時代において、女人往生、女人成仏が確立します。
インドで仏教が廃れ、日本において仏教が興隆したのには、女人成仏があるかどうかがポイントなのかもしれませんね。
人間の半分は女性であり、その女性の信仰を集めることができない宗教に未来はないでしょう。
また、女性を大切にしない国に未来はありません。
日本が発展しているのは、女性を大切にしてきたからかもしれませんね。
もちろん、日本において、まだまだ女性差別的なところがあるにしても、インドほどではありません。
現在でもインドでは女性差別がきついですからね。
いくらインドが仏教発祥の地とはいえ、女人成仏を認めたがらない女性差別思想が蔓延っているようでは、話にならないですね。
インドもこれからというところでしょう。
いずれにしても、女人成仏があるかどうかで宗教を選ぶことですね。
女性に対して慈悲のある宗教は男性に対しても慈悲があります。
まずは、成仏の可能性を理論的であっても確立している宗教がいいですね。
ただし、実際に成仏するかどうかは、その人の信仰次第ですから、あとは信仰者の責任ということです。
とにかく、精進することですね。
2013年12月28日
『思想としての仏教入門』末木文美士
「日本人であれば、インド仏教よりも、空海、親鸞、道元など、日本の仏教者のことを中心に知りたいという方も多いであろう。その場合でも、彼らは仏教の教学を前提としてその思想を展開しているのであるから、少なくともその基本的な枠組を知っておくことは不可欠である」(末木文美士『思想としての仏教入門』トランスビュー 203頁)
私の場合、日蓮を知りたいと思っているわけですが、上記の指摘はその通りと感じますね。
日蓮を知るには、その日蓮が比叡山や各寺院で学んだ仏教の教学を知る必要があります。
日蓮が前提としていた仏教の教学をこちらも把握しておくということですね。
ただし、仏教全体の教学というと膨大な量ですから、一生のうちに学ぶことは無理ですね。
よって、末木文美士氏が言うように「基本的な枠組」を学ぶのがよいですね。
その「基本的な枠組」を示しているのが本書『思想としての仏教入門』といえます。
仏教全体を見渡している割には一冊の本にまとまっています。
インド、中国、日本の仏教について解説され、東南アジア、チベットの仏教にも触れられており、バランスがいいですね。
特に、「思想」の面から検討を加えていますので、「仏教思想」そのものを学びたい向きには適切な入門書といえましょう。
また、現代の問題を解決する上での仏教の役割について、随時、検討されており、現代に生きる仏教という面からも学ぶことができます。
仏教といいますと、発祥がインドですから、インドの仏教というイメージがあり、入門書をみると、インドの仏教を中心にして解説がなされています。
それは当然のことだと思うのですが、正直なところ、日本に住んで、鎌倉仏教の影響を十二分に受けている我々にとっては、日本の仏教が身近であり、大切であり、関心のあるところです。
インドの話をされてもという感じですね。
しかし、全く、インドを無視するのも、日本の仏教を理解する上で根本的な欠陥といえますから、インド、中国、日本の仏教についてバランスのとれた概説書が求められます。
この要望に応えてくれているのが『思想としての仏教入門』というわけですね。
私としては、日蓮以外の空海、法然、親鸞、道元といった仏教者の思想も知りたいと思っていましたので、その点からも本書は有益でありました。
私の場合、日蓮を知りたいと思っているわけですが、上記の指摘はその通りと感じますね。
日蓮を知るには、その日蓮が比叡山や各寺院で学んだ仏教の教学を知る必要があります。
日蓮が前提としていた仏教の教学をこちらも把握しておくということですね。
ただし、仏教全体の教学というと膨大な量ですから、一生のうちに学ぶことは無理ですね。
よって、末木文美士氏が言うように「基本的な枠組」を学ぶのがよいですね。
その「基本的な枠組」を示しているのが本書『思想としての仏教入門』といえます。
仏教全体を見渡している割には一冊の本にまとまっています。
インド、中国、日本の仏教について解説され、東南アジア、チベットの仏教にも触れられており、バランスがいいですね。
特に、「思想」の面から検討を加えていますので、「仏教思想」そのものを学びたい向きには適切な入門書といえましょう。
また、現代の問題を解決する上での仏教の役割について、随時、検討されており、現代に生きる仏教という面からも学ぶことができます。
仏教といいますと、発祥がインドですから、インドの仏教というイメージがあり、入門書をみると、インドの仏教を中心にして解説がなされています。
それは当然のことだと思うのですが、正直なところ、日本に住んで、鎌倉仏教の影響を十二分に受けている我々にとっては、日本の仏教が身近であり、大切であり、関心のあるところです。
インドの話をされてもという感じですね。
しかし、全く、インドを無視するのも、日本の仏教を理解する上で根本的な欠陥といえますから、インド、中国、日本の仏教についてバランスのとれた概説書が求められます。
この要望に応えてくれているのが『思想としての仏教入門』というわけですね。
私としては、日蓮以外の空海、法然、親鸞、道元といった仏教者の思想も知りたいと思っていましたので、その点からも本書は有益でありました。
2013年12月14日
『大乗起信論』における「折伏」という語の使用例
「若し出家者なばら、煩悩を折伏せんが為の故に」(『大乗起信論』宇井伯寿・高崎直道訳注 岩波文庫 93頁)とあり、そのあとに少欲知足等々であるべきとの言葉が続きます。
現代語訳では、「出家の場合には、さらに、煩悩を克服するために」(同書 271頁)となっています。「折伏」を「克服」と訳しています。
ここでは、「折伏」する対象が自分自身の「煩悩」になっています。
通常、「折伏」という語は、相手の邪義、邪法を破折するという形で使います。
ただし、『大乗起信論』では、「折伏」という語を、相手ではなく、自分自身の「煩悩」に対して使っています。
「折伏」という語をこのように使っているのは初見です。
非常に興味深いですね。
現代語訳では、「出家の場合には、さらに、煩悩を克服するために」(同書 271頁)となっています。「折伏」を「克服」と訳しています。
ここでは、「折伏」する対象が自分自身の「煩悩」になっています。
通常、「折伏」という語は、相手の邪義、邪法を破折するという形で使います。
ただし、『大乗起信論』では、「折伏」という語を、相手ではなく、自分自身の「煩悩」に対して使っています。
「折伏」という語をこのように使っているのは初見です。
非常に興味深いですね。
2013年08月31日
仏教者(法華経に関連して)
法華経に関連する仏教者をまとめてみました。
日蓮の御書を読む中で、よく出てくる人物をまとめておくと、それなりに便利ではないかと思います。
龍樹(生没年不明、150年〜250年頃)南インドの大乗論師。付法蔵第14祖。
「大智度論」…般若経の注釈であり、法華経等の思想を包含している。
「中論」…般若思想を中心にしている。
世親(生没年不明、4〜5世紀頃)インドの学僧。天親ともいう。
「法華論」…法華経の注釈。
鳩摩羅什(344年〜409年)訳経僧。羅什三蔵ともいう。
「妙法蓮華経」8巻、「中論」4巻等を翻訳する。
南岳(515年〜577年)天台の師。
「法華経安楽行儀」…法華経安楽行品の四安楽行について述べた書。
天台(538年〜597年)中国天台宗の開祖。
「法華文句」…法華経の文々句々について解釈した書。
「法華玄義」…法華経の題号である妙法蓮華経の玄義を明かした書。
「摩訶止観」…法華経の根本義である一心三観・一念三千の法門を説いた書。
妙楽(711年〜782年)中国・唐代の天台宗中興の祖。
「法華文句記」…天台の「法華文句」の注釈書。
「法華玄義釈籤」…天台の「法華玄義」の注釈書。
「止観輔行伝弘決」…天台の「摩訶止観」の注釈書。
「金錍論」…草木成仏を論じ、一切衆生皆成仏道を説いた書。
伝教(767年〜822年)日本天台宗の開祖。
「守護国界章」…法華一乗平等を明かしている。
「法華秀句」…「法華経を讃すと雖も還って法華の心を死す」の出典の書。
日蓮の御書を読む中で、よく出てくる人物をまとめておくと、それなりに便利ではないかと思います。
龍樹(生没年不明、150年〜250年頃)南インドの大乗論師。付法蔵第14祖。
「大智度論」…般若経の注釈であり、法華経等の思想を包含している。
「中論」…般若思想を中心にしている。
世親(生没年不明、4〜5世紀頃)インドの学僧。天親ともいう。
「法華論」…法華経の注釈。
鳩摩羅什(344年〜409年)訳経僧。羅什三蔵ともいう。
「妙法蓮華経」8巻、「中論」4巻等を翻訳する。
南岳(515年〜577年)天台の師。
「法華経安楽行儀」…法華経安楽行品の四安楽行について述べた書。
天台(538年〜597年)中国天台宗の開祖。
「法華文句」…法華経の文々句々について解釈した書。
「法華玄義」…法華経の題号である妙法蓮華経の玄義を明かした書。
「摩訶止観」…法華経の根本義である一心三観・一念三千の法門を説いた書。
妙楽(711年〜782年)中国・唐代の天台宗中興の祖。
「法華文句記」…天台の「法華文句」の注釈書。
「法華玄義釈籤」…天台の「法華玄義」の注釈書。
「止観輔行伝弘決」…天台の「摩訶止観」の注釈書。
「金錍論」…草木成仏を論じ、一切衆生皆成仏道を説いた書。
伝教(767年〜822年)日本天台宗の開祖。
「守護国界章」…法華一乗平等を明かしている。
「法華秀句」…「法華経を讃すと雖も還って法華の心を死す」の出典の書。
2013年06月16日
『脳科学からみた「祈り」』を読む
「信仰」や「祈り」は、宗教的な事柄であるために、神秘的なこととして考えられることが多いようです。
確かに、神秘的な側面が強いですが、違う側面から見てみることも重要でしょう。
脳科学といった分野から、「信仰」「祈り」を再認識することは、興味深いことと思われます。
「信仰者にとって、祈るための時間は、本来なら一日のうちで最も厳粛で大切なひとときであることでしょう。にもかかわらず、「ルーティン化」という脳の性質によって、祈りの時間が「惰性で行う、ただの習慣」に堕してしまいがちなのです。そして、歯磨きのようなたんなる習慣になってしまった祈りは、たいした変化を脳に及ぼすこともなく、願いも漫然として、「叶う」という状態からは程遠くなってしまうのではないでしょうか」(中野信子『脳科学からみた「祈り」』潮出版社 61頁〜62頁)
信仰をはじめた時は、新鮮な気持ちで「祈り」がなされるでしょうが、慣れてくると新鮮さがなくなり、ダラダラした「祈り」になるようです。
こうなってしまうのは、脳の性質のようですね。「ルーティン化」する性質が関係しているようです。
そうなってしまうものと考えておけばよいですね。
脳の性質がそうであるからといって、惰性で叶いもしない祈りをしても仕方がありませんから、脳の性質を理解した上で、さまざまな工夫をしなければなりません。
とりあえず信仰しておけばよいというものではありませんね。
何かにつけて工夫もなく「信心、信心」といっている単なる信仰は、信仰ですらなくなるということですね。
日々、新しいものを取り入れるという姿勢で「信仰」「祈り」を行うべきでしょう。
変化がないと脳は反応しないようですから、時折、自分の「信仰」「祈り」を見つめ直すという癖をつけておきたいですね。
自分自身の「信仰」「祈り」が惰性になっていないかどうか、単なる習慣になっていないかどうか、どこに変化を入れればよいかどうか等々、自分で練り直しをするしかないですね。
「信仰」「祈り」をすることによって、境涯が上がっていくという側面がありますが、そもそも、「信仰」「祈り」をする前の境涯が決定的に重要ですね。
どうにか、惰性の「祈り」を脱し、然るべき「祈り」を為すことができれば、然るべき宗教的境地が得られます。
この宗教的な境地について、アメリカの大学で研究があったようですね。
「ペンシルベニア大のアンドリュー・ニューバーグのグループの研究に、「仏教徒が瞑想や祈りの行為によって深い宗教的境地に達する前後で、どのように脳の働きが違うのか」を調べた実験があります。
実験では、被験者の脳の「方向定位連合野」という部分の活動が抑えられることがわかりました。方向定位連合野は「自分」と「他者」の境界を認識する部分です。
興味深いことに、この宗教的境地について、被験者は「自己と他者の境界がなくなるような感覚」であることを実際に報告しています。具体的には「自分が孤立したものではなく、万物と分かちがたく結ばれている直感」「時間を超越し、無限がひらけてくるような感じ」という表現で、その感覚の説明を試みています」(同書 73頁〜74頁)
まさに法華経的な境地ですね。
繋がっている感覚、包まれている感覚、広がっていく感覚、一体感といったものがあるようです。
法華経は、宇宙大の広がりを感じさせる経典であり、広がりを強調しながら、分断ではなく、結合を志向しているようです。
法華経を読むと分かりますが、時間にしても空間にしても膨大な単位の数字を出し、結局、数えることが不可能であることを表現しています。
時間といっても、始まりもなければ終わりもないという永遠性で表現し、空間といっても、果てがない、突き当りがない、どこまでも広がっていくような感じで表現しています。
法華経は、区切りや分断を拒否しているかのようです。
自他との境がなく、自分という存在は、有情である他者と繋がっているだけでなく、世界、宇宙という非情とも繋がっていることを目指しているようです。
よって、法華経を信仰する人は、このような法華経的感覚を感じ取るのでしょうね。
妙楽大師の言葉に「当に知るべし身土一念の三千なり故に成道の時此の本理に称うて一身一念法界に遍し」という言葉がありますが、この言葉など、自分が宇宙大の広がりの中で存在していることを適切に表現しています。
また、「祈り」といっても、何を祈るの?というところが重要でしょう。
何を祈っているかでその人の境涯が分かるわけですが、何に注目しているかどうかは、「運」とも関係しているようです。
「京都大学の藤井聡教授が、心理学的アプローチから「運」の正体に迫った「他人に配慮できる人は運がよい」という論文を発表しました。これは、「認知的焦点化理論」というものを用いた研究です。
「認知的焦点化理論」とは、かんたんに言えば、「人が心の奥底で何に焦点を当てているか?」によって、その人の運のよし悪しまでが決まってくる、という考え方です。
藤井教授の研究で、「利己的な傾向を持つ人々の方が、そうでない人々よりも、主観的な幸福感が低い」ということが明らかになりました。利己的な人ほど、自分は幸福ではないと思ったり、周囲の人々に比べて不幸だと思う傾向が強い、という結果が示されたのです」(同書 93頁〜94頁)
先程、触れたように、自分と他者とが繋がっているとの感覚、世界、宇宙との一体感という観点からすれば、利己的という態度は、ありえない態度といえるでしょう。
なぜ、区切りを設け、分断して、そして、自分だけ良ければよいと考えるのか。
法華経の次元からすると不可思議に思えますね。
利己的で自分だけ良ければよいと考え、その通り行動し、それなりに幸福感を得れば、それはそれでいいのでしょうが、実際の研究では、幸福感が低く、それだけでなく、不幸感が強いということです。
やはり、この世の中は法華経が説くような世の中であり、法華経通りでない場合、それなりの境涯になってしまうようですね。
法華経を何度も確認しながら、法華経通りの所作をもって、「運」のある人生を生きていきたいものですね。
確かに、神秘的な側面が強いですが、違う側面から見てみることも重要でしょう。
脳科学といった分野から、「信仰」「祈り」を再認識することは、興味深いことと思われます。
「信仰者にとって、祈るための時間は、本来なら一日のうちで最も厳粛で大切なひとときであることでしょう。にもかかわらず、「ルーティン化」という脳の性質によって、祈りの時間が「惰性で行う、ただの習慣」に堕してしまいがちなのです。そして、歯磨きのようなたんなる習慣になってしまった祈りは、たいした変化を脳に及ぼすこともなく、願いも漫然として、「叶う」という状態からは程遠くなってしまうのではないでしょうか」(中野信子『脳科学からみた「祈り」』潮出版社 61頁〜62頁)
信仰をはじめた時は、新鮮な気持ちで「祈り」がなされるでしょうが、慣れてくると新鮮さがなくなり、ダラダラした「祈り」になるようです。
こうなってしまうのは、脳の性質のようですね。「ルーティン化」する性質が関係しているようです。
そうなってしまうものと考えておけばよいですね。
脳の性質がそうであるからといって、惰性で叶いもしない祈りをしても仕方がありませんから、脳の性質を理解した上で、さまざまな工夫をしなければなりません。
とりあえず信仰しておけばよいというものではありませんね。
何かにつけて工夫もなく「信心、信心」といっている単なる信仰は、信仰ですらなくなるということですね。
日々、新しいものを取り入れるという姿勢で「信仰」「祈り」を行うべきでしょう。
変化がないと脳は反応しないようですから、時折、自分の「信仰」「祈り」を見つめ直すという癖をつけておきたいですね。
自分自身の「信仰」「祈り」が惰性になっていないかどうか、単なる習慣になっていないかどうか、どこに変化を入れればよいかどうか等々、自分で練り直しをするしかないですね。
「信仰」「祈り」をすることによって、境涯が上がっていくという側面がありますが、そもそも、「信仰」「祈り」をする前の境涯が決定的に重要ですね。
どうにか、惰性の「祈り」を脱し、然るべき「祈り」を為すことができれば、然るべき宗教的境地が得られます。
この宗教的な境地について、アメリカの大学で研究があったようですね。
「ペンシルベニア大のアンドリュー・ニューバーグのグループの研究に、「仏教徒が瞑想や祈りの行為によって深い宗教的境地に達する前後で、どのように脳の働きが違うのか」を調べた実験があります。
実験では、被験者の脳の「方向定位連合野」という部分の活動が抑えられることがわかりました。方向定位連合野は「自分」と「他者」の境界を認識する部分です。
興味深いことに、この宗教的境地について、被験者は「自己と他者の境界がなくなるような感覚」であることを実際に報告しています。具体的には「自分が孤立したものではなく、万物と分かちがたく結ばれている直感」「時間を超越し、無限がひらけてくるような感じ」という表現で、その感覚の説明を試みています」(同書 73頁〜74頁)
まさに法華経的な境地ですね。
繋がっている感覚、包まれている感覚、広がっていく感覚、一体感といったものがあるようです。
法華経は、宇宙大の広がりを感じさせる経典であり、広がりを強調しながら、分断ではなく、結合を志向しているようです。
法華経を読むと分かりますが、時間にしても空間にしても膨大な単位の数字を出し、結局、数えることが不可能であることを表現しています。
時間といっても、始まりもなければ終わりもないという永遠性で表現し、空間といっても、果てがない、突き当りがない、どこまでも広がっていくような感じで表現しています。
法華経は、区切りや分断を拒否しているかのようです。
自他との境がなく、自分という存在は、有情である他者と繋がっているだけでなく、世界、宇宙という非情とも繋がっていることを目指しているようです。
よって、法華経を信仰する人は、このような法華経的感覚を感じ取るのでしょうね。
妙楽大師の言葉に「当に知るべし身土一念の三千なり故に成道の時此の本理に称うて一身一念法界に遍し」という言葉がありますが、この言葉など、自分が宇宙大の広がりの中で存在していることを適切に表現しています。
また、「祈り」といっても、何を祈るの?というところが重要でしょう。
何を祈っているかでその人の境涯が分かるわけですが、何に注目しているかどうかは、「運」とも関係しているようです。
「京都大学の藤井聡教授が、心理学的アプローチから「運」の正体に迫った「他人に配慮できる人は運がよい」という論文を発表しました。これは、「認知的焦点化理論」というものを用いた研究です。
「認知的焦点化理論」とは、かんたんに言えば、「人が心の奥底で何に焦点を当てているか?」によって、その人の運のよし悪しまでが決まってくる、という考え方です。
藤井教授の研究で、「利己的な傾向を持つ人々の方が、そうでない人々よりも、主観的な幸福感が低い」ということが明らかになりました。利己的な人ほど、自分は幸福ではないと思ったり、周囲の人々に比べて不幸だと思う傾向が強い、という結果が示されたのです」(同書 93頁〜94頁)
先程、触れたように、自分と他者とが繋がっているとの感覚、世界、宇宙との一体感という観点からすれば、利己的という態度は、ありえない態度といえるでしょう。
なぜ、区切りを設け、分断して、そして、自分だけ良ければよいと考えるのか。
法華経の次元からすると不可思議に思えますね。
利己的で自分だけ良ければよいと考え、その通り行動し、それなりに幸福感を得れば、それはそれでいいのでしょうが、実際の研究では、幸福感が低く、それだけでなく、不幸感が強いということです。
やはり、この世の中は法華経が説くような世の中であり、法華経通りでない場合、それなりの境涯になってしまうようですね。
法華経を何度も確認しながら、法華経通りの所作をもって、「運」のある人生を生きていきたいものですね。
2012年01月01日
「開眼」という言葉の意味
「開眼」(かいげん)という言葉の意味を「岩波 仏教辞典」で調べてみますと、「新たに作られた仏像・仏画などを堂宇に安置し、魂を請じ入れること」との説明があります。
所謂、「開眼」と聞くと、大仏開眼ということもあり、この意味を連想することが多いと思います。
今回、注目したいのは、「智慧の眼を開き、仏教の真理に目覚めることをも〈開眼〉という」との説明です。
確かに、仏像・仏画に魂を入れることも重要でしょうが、一番重要なのは自分自身が智慧を持ち、自分の人生に対し本来的に目覚めることでしょう。
自分の外に目覚めを求めるのではなく、自分の中に目覚めを求めていきたいものです。
所謂、「開眼」と聞くと、大仏開眼ということもあり、この意味を連想することが多いと思います。
今回、注目したいのは、「智慧の眼を開き、仏教の真理に目覚めることをも〈開眼〉という」との説明です。
確かに、仏像・仏画に魂を入れることも重要でしょうが、一番重要なのは自分自身が智慧を持ち、自分の人生に対し本来的に目覚めることでしょう。
自分の外に目覚めを求めるのではなく、自分の中に目覚めを求めていきたいものです。
2011年11月04日
維摩経
「譬えば高原の陸地は蓮華を生ぜず、卑湿の淤泥は乃ち此の華を生ずるが如し。是くの如く無為法を見て正位に入れる者は、終に復、能く仏法を生ぜず、煩悩の泥中に乃ち衆生有りて仏法を起こすのみ」
(梵漢和対照・現代語訳『維摩経』 岩波書店 350頁)
蓮華という美しい花は、高原という高いところに咲くのではなく、泥のある湿っぽい水辺という低いところで咲くように、仏の法(ブッダの特質)も正しい行いができている人(高位の人)に生じるのではなく、欲望にまみれている人(低位の人)にこそ生じる、と言っています。
仏という尊いものを生じるためには、欲望のような卑しいものを排除しなければと考えてしましますが、そうではないようです。
全く逆の発想をするのですね。
もちろん、欲望がそのままでよいという趣旨ではなく、欲望があるからこそ、仏の法を実現することができるという趣旨ですね。
ほとんどの人間は、家柄が何百年、何千年と続く名門、貴族の出ではありません。
言葉は悪いですが、卑しい身ともいえます。
しかし、維摩経は、いつまでも卑しく欲望まみれというのではなく、その卑しさ、欲望をよく分かっているがゆえに、常に向上し精進しながら、尊い存在になっていける側面があることを教えています。
虚心に自分自身を振り返ってみるならば、今までの人生、恥ずかしいことばかり、うまくいかないことだらけといってよいでしょう。
ただし、維摩経の考え方からいえば、そのような恥ずかしい人間だからこそ、また、うまくいかない人生を経験しているからこそ、心掛け次第で、素晴らしい特質を生じさせていくことができます。
ちょっと勇気を与えてくれる経典ですね。
確かに、我々は、煩悩の泥中に存在しているかもしれませんが、よりよい人生を歩むための素地と考えれば、いたずらに自己を卑下することなく、変に嘆き落ち込むこともなく、リラックスして生きていけそうですね。
大変なことがあっても、その大変なことがあるおかげで一段と成長できるということですね。
困難を避けるのが上手な生き方という風潮もあるでしょうが、すべての困難を避けることはできず、困難があればあったで、潔く立ち向かっていきたいですね。
(梵漢和対照・現代語訳『維摩経』 岩波書店 350頁)
蓮華という美しい花は、高原という高いところに咲くのではなく、泥のある湿っぽい水辺という低いところで咲くように、仏の法(ブッダの特質)も正しい行いができている人(高位の人)に生じるのではなく、欲望にまみれている人(低位の人)にこそ生じる、と言っています。
仏という尊いものを生じるためには、欲望のような卑しいものを排除しなければと考えてしましますが、そうではないようです。
全く逆の発想をするのですね。
もちろん、欲望がそのままでよいという趣旨ではなく、欲望があるからこそ、仏の法を実現することができるという趣旨ですね。
ほとんどの人間は、家柄が何百年、何千年と続く名門、貴族の出ではありません。
言葉は悪いですが、卑しい身ともいえます。
しかし、維摩経は、いつまでも卑しく欲望まみれというのではなく、その卑しさ、欲望をよく分かっているがゆえに、常に向上し精進しながら、尊い存在になっていける側面があることを教えています。
虚心に自分自身を振り返ってみるならば、今までの人生、恥ずかしいことばかり、うまくいかないことだらけといってよいでしょう。
ただし、維摩経の考え方からいえば、そのような恥ずかしい人間だからこそ、また、うまくいかない人生を経験しているからこそ、心掛け次第で、素晴らしい特質を生じさせていくことができます。
ちょっと勇気を与えてくれる経典ですね。
確かに、我々は、煩悩の泥中に存在しているかもしれませんが、よりよい人生を歩むための素地と考えれば、いたずらに自己を卑下することなく、変に嘆き落ち込むこともなく、リラックスして生きていけそうですね。
大変なことがあっても、その大変なことがあるおかげで一段と成長できるということですね。
困難を避けるのが上手な生き方という風潮もあるでしょうが、すべての困難を避けることはできず、困難があればあったで、潔く立ち向かっていきたいですね。