「初期の仏教で五障三従の身ゆえ往生できないとされた女性の往生は、鎌倉仏教の祖師たちによって積極的にはかられている。すなわち法然は女性が阿弥陀如来の名号をとなえると、その功徳によって死亡後男性に姿をかえたうえで成仏しうるとしている。なおこの変成男子による往生は親鸞にも継承されている。一方、道元は仏法の前には男女の差別がないことを力説し、日蓮は法華経を信じ題目をとなえれば女性も成仏できるとしている」(宮家準『宗教民俗学入門』丸善 146頁)
ここで「五障三従」が出てきます。
まず、「五障」とは、女性が、@梵天王、A帝釈、B魔王、C転輪聖王、D仏身、の五種になれないことをいいます。
重要なのは、仏身になれないというところですね。
つまり、成仏できないということです。
「三従」の方は、日蓮の「女人成仏抄」から確認してみましょう。
「三従とは少くしては父母に従ひ盛にしては夫に従ひ老いては子に従ふ」(『日蓮大聖人御書全集』 472頁)
女性は生まれてから死ぬまで、人生の主人公になれないということですね。
「五障三従」では、女性にとって、あまりにも酷です。
インドには女性差別の思想があり、その思想が仏教に入り込んでいるため、「五障三従」ということが言われているようですね。
そこで、鎌倉仏教の始祖たちは、女人往生、女人成仏を説きます。
インドの女性差別思想を日本の鎌倉時代において克服するわけです。
これは、なかなか画期的なことですね。
法然、親鸞では、女人そのままでの成仏ではなく、一旦、男になったうえでの成仏です。
やや、女人成仏が徹底されていない感がありますが、結論として成仏に至りますので、一歩前進というところでしょうか。
しかし、道元、日蓮になると、女人が女人のまま成仏するという態度ですね。
道元は、法華経を重要な経典とみなしていたこともあり、法華経に基づく女人成仏の観念がしっかりしています。
当然、日蓮も法華経を重要視し「竜女・畜生道の衆生として戒緩の姿を改めずして即身成仏せし事は不思議なり(中略)鬼道の女人たる十羅刹女も成仏す」(同書 473頁)と言っています。
また、「妙法経力即身成仏と伝教大師も釈せられて候、心は法華経の力にてはくちなはの竜女も即身成仏したりと申す事なり」(同書 1403頁)とも言っています。
日本の鎌倉時代において、女人往生、女人成仏が確立します。
インドで仏教が廃れ、日本において仏教が興隆したのには、女人成仏があるかどうかがポイントなのかもしれませんね。
人間の半分は女性であり、その女性の信仰を集めることができない宗教に未来はないでしょう。
また、女性を大切にしない国に未来はありません。
日本が発展しているのは、女性を大切にしてきたからかもしれませんね。
もちろん、日本において、まだまだ女性差別的なところがあるにしても、インドほどではありません。
現在でもインドでは女性差別がきついですからね。
いくらインドが仏教発祥の地とはいえ、女人成仏を認めたがらない女性差別思想が蔓延っているようでは、話にならないですね。
インドもこれからというところでしょう。
いずれにしても、女人成仏があるかどうかで宗教を選ぶことですね。
女性に対して慈悲のある宗教は男性に対しても慈悲があります。
まずは、成仏の可能性を理論的であっても確立している宗教がいいですね。
ただし、実際に成仏するかどうかは、その人の信仰次第ですから、あとは信仰者の責任ということです。
とにかく、精進することですね。