「譬えば高原の陸地は蓮華を生ぜず、卑湿の淤泥は乃ち此の華を生ずるが如し。是くの如く無為法を見て正位に入れる者は、終に復、能く仏法を生ぜず、煩悩の泥中に乃ち衆生有りて仏法を起こすのみ」
(梵漢和対照・現代語訳『維摩経』 岩波書店 350頁)
蓮華という美しい花は、高原という高いところに咲くのではなく、泥のある湿っぽい水辺という低いところで咲くように、仏の法(ブッダの特質)も正しい行いができている人(高位の人)に生じるのではなく、欲望にまみれている人(低位の人)にこそ生じる、と言っています。
仏という尊いものを生じるためには、欲望のような卑しいものを排除しなければと考えてしましますが、そうではないようです。
全く逆の発想をするのですね。
もちろん、欲望がそのままでよいという趣旨ではなく、欲望があるからこそ、仏の法を実現することができるという趣旨ですね。
ほとんどの人間は、家柄が何百年、何千年と続く名門、貴族の出ではありません。
言葉は悪いですが、卑しい身ともいえます。
しかし、維摩経は、いつまでも卑しく欲望まみれというのではなく、その卑しさ、欲望をよく分かっているがゆえに、常に向上し精進しながら、尊い存在になっていける側面があることを教えています。
虚心に自分自身を振り返ってみるならば、今までの人生、恥ずかしいことばかり、うまくいかないことだらけといってよいでしょう。
ただし、維摩経の考え方からいえば、そのような恥ずかしい人間だからこそ、また、うまくいかない人生を経験しているからこそ、心掛け次第で、素晴らしい特質を生じさせていくことができます。
ちょっと勇気を与えてくれる経典ですね。
確かに、我々は、煩悩の泥中に存在しているかもしれませんが、よりよい人生を歩むための素地と考えれば、いたずらに自己を卑下することなく、変に嘆き落ち込むこともなく、リラックスして生きていけそうですね。
大変なことがあっても、その大変なことがあるおかげで一段と成長できるということですね。
困難を避けるのが上手な生き方という風潮もあるでしょうが、すべての困難を避けることはできず、困難があればあったで、潔く立ち向かっていきたいですね。