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2012年01月07日

トニー・ブレア「私の履歴書」 リーダー選び

「私は指導者のポストはなにがしかの気迫を持って獲得しなければならないと感じていた。機が熟したときではなくつかみとるのだ。年功序列のリーダー選びは最悪だ」(トニー・ブレア「私の履歴書」E 日本経済新聞 平成24年1月7日付)

この発言の通り、トニー・ブレアは、43歳でイギリス首相になっています。

順番を待つのではなく、自ら獲得するという姿勢です。

特に、国のリーダーには、トニー・ブレアのような姿勢が求められます。

マキァヴェッリが「他人に勢力を得させる原因を作る者は自ら滅びる」(『君主論』佐々木毅訳 講談社学術文庫 第3章)と厳しく言うように、自分自身が責任を持って勢力なりポストを得ていかなければなりません。

人任せでは自分の出番が来る前に排除されてしまいます。

トニー・ブレアがこのマキァヴェッリの言葉を意識していたかどうかは分かりませんが、いずれにしても、トニー・ブレアの行動は、マキァヴェッリが注意した点を忠実に守っています。

政治の世界は、子供の遊びではないわけですから、マキァヴェッリのような冷徹な視点及び冷静な行動は絶対に必要です。

年功序列でリーダーを選んでよい組織であれば、それでよいでしょうが、国家レベルの政治の世界においては、外国との壮絶な交渉もあり、年功序列のリーダー選びで良いリーダーを選ぶのは無理があるように思えます。

その時に応じたリーダーを選ぶという姿勢でなければなりません。

このことは、若ければよいということを意味せず、場合によっては年配者にリーダーを任せるという選択肢を残しています。

いろいろなリーダーのパターンを許容する国民であれば、時機に適ったリーダーを得ることができるでしょう。

あまり短絡的にならず、政治を観察していきたいものです。

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2012年01月05日

岡本太郎 『川崎市岡本太郎美術館所蔵作品集 TARO』

岡本太郎の作品には、油彩、版画・ドローイング、彫刻、陶磁・レリーフ、インダストリアルデザイン、写真、どれをとっても圧倒的な存在感があります。

原色の鮮やかさ、造形の美しさ、作品から放たれる臨場感、他の芸術家とは違う力強さがあります。

「太陽の塔」は、あまりにも有名ですが、大阪に行かない限り実物を観ることはできません。

子供のころ観たことがありますが、それぎりです。

展覧会に展示されているのは模型ですが、模型であっても存在感は抜群です。

見事な造形にも驚かされ見入ってしまいます。

なかなかその場から離れることができず、作品そのものに磁力があるようです。

「午後の日」は、かわいらしい作品であり、ほっとさせてくれる作品です。

愛らしさが感じられます。他の作品では激しさが強調されていますが、「午後の日」に関しては、岡本太郎の優しさを感じることができます。

「かつて、すぐれた美術品、芸術作品といえば極めて稀なものであり、だからこそ尊いと考えられた。そのような希少価値としての芸術は当然、少数者の専用物であり、嫉妬ぶかく秘められることによって、なおさら非本質的に貴重視されていたのである。だがこれからの芸術はシネマ、ラジオ、テレビジョンに見られる如く、却って極めて大量に生産され、ひろく一般の身近にふれるものこそ価値がある」(『川崎市岡本太郎美術館所蔵作品集 TARO』二玄社 85頁)

この岡本太郎の指摘には、ハッとさせられます。

確かに、少ないから貴重というのは、その通りですが、いたずらに貴重視することと芸術の価値そのものとは、実のところ、何の関わりもありません。

量が多かろうが少なかろうが価値ある芸術は価値があると判断すればよいですし、岡本太郎の言うように、多くの人々に提供される芸術こそ価値があるとの視点は重要です。

希少価値をありがたがるのは経済の側面からすれば、その通りですが、芸術の側面からすれば非本質的であり、どうでもよいことです。

岡本太郎は、芸術作品だけでなく、多くの文章、言葉も残しています。

作品そのもの及び言葉により、本質的な芸術とは何かを教えてくれる人です。

言葉にも価値がある画家、書道家、彫刻家、陶芸家、デザイナー、写真家は、ほとんどいないと思われます。

その点、岡本太郎は、作品及び言葉を含め、存在そのものが芸術でありながら、また、その芸術すらも超越している本来的な人間を体現している人ともいえるでしょう。

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ルイス・ロックウッド『ベートーヴェン』

ベートーヴェンの交響曲第9番は、現在では名曲であるとの評価も定まり、人々に親しまれている曲ですが、当初から現在のよう評価を得ているわけではなかったようです。

評価される場合もあり、また、評価されない場合もあったようです。

私にとっても、合唱に参加した時は、第九を何度も聞いて親しんでおりましたが、ほどなくして、聴かなくなりました。

何か重々しい感じがし始めたからです。

また、あまりにも人々に親しまれており俗っぽく感じてしまったこともあります。

しかし、最近、さまざまな第九を聴くにつれ、単なる重々しさを感じることもなくなり、俗っぽい雰囲気を感じることもなくなり、第九を純粋に楽しめるようになりました。

第九がどうのこうのというよりも、私自身が変わったということでしょう。

第九は、いろいろな評価を受けることがやむを得ないほどの大きな作品といえます。

「この交響曲は幾多の解釈に対して開かれており、称賛と非難に共に等しく堪えうる強さをもっているように思われる」(ルイス・ロックウッド『ベートーヴェン』春秋社 647頁)

第九は、強い作品であると共に、大きく深い作品です。そこが人々の心を引き付けるのでしょう。

「この作品の崇高な、精神を高揚させるような象徴性が包含しているのは、百万の人々それ自体にとどまらず、すべての個々人の命運が大事であるように百万の命運も大事であるような世界への信頼なのである」(同書 648頁)

人々の繋がりを謳い上げ、理想的な世界への憧憬もあります。

未来に開かれているといった感じを受けます。

聴けば聴くほど引き込まれるいい曲です。

多くの人々に親しまれているのは、それなりの理由があるからであり、単に俗っぽく感じる方が俗っぽいのですね。

いいものはいいと素直に感じ取ればよいと思います。

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2012年01月04日

フジ子・ヘミング『ブジ子・ヘミング 魂のピアニスト』

「わたしは数え切れないぐらい何人もの音楽家に会ってきたが、世間一般がいうところの、表の名声とは違って、人間としてあまり尊敬できない音楽家がずいぶん多いように思う。だからといって、一流ではないとは限らない。でも、わたしの思う一流の音楽家、演奏家は、こころが広く、教養があり、人間性があって、音楽に対して偏見も差別もない純粋性のある人のこと。その意味でも、バーンスタインはとても誠実で、わたしの尊敬できる唯一の一流の音楽家なのだ」(フジ子・ヘミング『フジ子・ヘミング 魂のピアニスト』求龍堂 97頁)

単に、演奏会やCDにて音楽を聴いているだけですと、音楽家、演奏家の表の名声しか知り得ません。

直接、音楽家、演奏家との接点があるフジ子・ヘミングさんが体験したことを通して、音楽家、演奏家の表の部分だけでない違った一面を知るに至ります。

フジ子・ヘミングさんによると、ほとんどの音楽家、演奏家は、人間性に深みがないようです。

やはり、自分の音楽で精一杯という現状があるのでしょう。

また、音楽家、演奏家は、他の人との関わりというよりも音楽そのものとの関わりにほとんどの精力を注ぎこむため、人間関係、人間性を陶冶する機会がほとんどないのかもしれません。

仏教の知見を援用すると、縁覚界の限界といえるでしょう。

しかし、レナード・バーンスタインは、音楽家として一流であるだけでなく、人間性においても一流であったようです。

アメリカという国の大らかさ、フレンドリーなところを体現している人だったのでしょう。

「カラヤンは人間的には深みがない面が多すぎたけれど、オーケストラから素晴らしい音を引き出す天才だった」(同書 86頁)

フジ子・ヘミングさんのカラヤン評は、人間性に関しては辛辣、音楽に関しては抜群との評です。

ヨーロッパの人は、階級社会の伝統の中で生きているからか、差別する癖が抜けないのかもしれません。

それが、人間性に悪影響を及ぼしているともいえます。

反面、アメリカの人の方は、自由の国らしく、自由で気さくでフレンドリーという感じがします。

日本は、階級社会の伝統もある国といえるでしょうが、現代になってからは、特にアメリカの影響を強く受け、自由気ままな感じも見受けられます。

差別が根強くありながら、差別をしない生き方をさりげなくできる人々も多いという印象を受けます。

日本は、ヨーロッパ的であると共にアメリカ的でもあるという特殊な国といえるでしょう。

フジ子・ヘミングさんの言うように人間的にも尊敬できる音楽家が理想ですが、そのような人はほとんどいないというのが現状でしょうから、音楽家には特別に人間性を求めるというのではなく、音楽そのもので評価して楽しむのがよいでしょう。

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2012年01月02日

長唄 芳村伊十郎 京鹿子娘道成寺

歌舞伎舞踊の人気演目の「京鹿子娘道成寺」は、道行で竹本が入り、その後、長唄が入ります。

舞踊に関しては、変化舞踊の面白さもあり舞踊そのものの素晴らしさもあるのですが、長唄の素晴らしさもあり、その相乗効果で、より一層、面白い舞台になるのだと思われます。

芳村伊十郎(1901〜1973)は、昭和31年に重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された名人であり、この芳村伊十郎の「京鹿子娘道成寺」は、見事な出来栄えです。

何度聴いても全く飽きがきません。

すんなり耳に入ってくるといった感じです。

名曲、大曲といわれるだけのことはあります。

他の長唄も聴いたことがあるのですが、特別に邦楽好みというわけでもありませんので、「京鹿子娘道成寺」以外の長唄は、さほど良いとは思えませんし、好きにもなれません。

まあ、趣味の問題といえます。

その意味から、この「京鹿子娘道成寺」は完成度が高い作品なのでしょう。

クラシック音楽で例えるならばベートーヴェンの「第九」といったところでしょうか。

歌舞伎舞踊だけでなく、長唄だけの「京鹿子娘道成寺」も楽しんでいきたいと思います。

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能の上演時間

能を拝見して感じるのは、謡いの時間、演じる時間があまりにも長いということです。

せっかく素晴らしい詞章(謡曲の文章。能のおける脚本のようなもの)であるのに、間延びした感じで表現されてしまうと、ほとんど言葉として把握することができませんし、詞章の持っている美しさも引き立ちません。

なぜ、ゆっくりしすぎる謡い方、演じ方をするのかと不思議に思っていたところ、以下の文章を読み、疑問が解けました。

「能は信光の出た十六世紀前半を過ぎると、ほとんど新作は生まれなくなり、もっぱら芸の練磨伝承、芸統の保存という面に傾くようになった。江戸時代に入るとこの傾向は一層強く、式楽化されて荘重を旨とするようになったため、上演時間も当初の倍ぐらいに延びた。現在の能もその延長上にある」(河竹登志夫『演劇概論』東京大学出版会 203頁)

現在のようにゆっくりした謡い方、演じ方をするようになったのは、江戸時代からのようです。

倍近くも延びたとは延びすぎですね。

正直なところ、演劇としての面白さが消えてしまっています。

豊臣秀吉も能を舞ったということですが、秀吉の時代では、まだ、本来の上演時間であったのでしょう。

まさか、秀吉が現在の能のようにあまりにもゆっくり舞っていたとは考えられません。

現在の能の上演時間の半分ぐらいであれば、詞章を言葉として把握することもできますし、詞章の美しさを感じることができます。

能の舞台にもいい緊張感が出てくるでしょうし、演劇としての面白さも出てくるでしょう。

そうはいっても、現在の能が当初の能のように上演時間を半分ぐらいにするとも思えず、これからも現在の能の形式で拝見することになりますが、能が成立した当時の上演時間で謡い演じていただければと期待しています。

江戸時代からの伝統ではなく、室町時代からの伝統を大切にした方が、能にとってはよいのではと思われます。

もちろん観客にとってもよいと思われます。

その点、歌舞伎は、観客の要望を感じ取っているのか、能の演目を歌舞伎化して上演する際、台詞の言い回しの速度、演じ方の速度がちょうど良い速度になっています。

ここが歌舞伎の柔軟性のあるところであり、観客からの支持を得ている秘訣でしょう。

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2012年01月01日

トニー・ブレア「私の履歴書」

「たとえ政府が正しくても、いったん世論が機嫌を損ねると、政府が正しいかどうかはどうでもよくなってしまうのである」(トニー・ブレア「私の履歴書」日本経済新聞 平成24年1月1日付)

世論とは民衆のことと思いますが、トニー・ブレアは、民衆の絶大なる権力に気付いている有能な政治家だったようですね。

首相という最高権力者であっても、民衆の機嫌を損ねると自分が正しくても為す術がないということです。

これは、現代だけの話ではなく、マキァヴェッリが「結論として述べておきたいのは、ただ一つ、君主は民衆を味方につけなければならない」(『君主論』池田廉訳 中公文庫 第9章)と言うように、中世の時ですら、民衆には絶大な権力があったということですね。

民衆に絶大な権力があるということは、いいことのようにも思えますが、危なっかしいともいえます。

トニー・ブレアの指摘のように、民衆が正しい正しくないではなく、機嫌がいいか悪いかで物事を判断していては、結局、民衆にとっても得るところはないでしょう。

中世と違い、現代は、より一層、民衆の権力の影響力が強い時代です。

民衆がいつまでもレベルの低い状態では、為政者は何もできないと共に、民衆の中から為政者になろうとする志のある人間も出てこないでしょう。

民衆ひとりひとりの地道な努力が善き政治を生むと思います。

政治に何かをしてもらうのではなく、政治に何かを与えるほどの民衆でありたいものです。

間違っても、政治にたかるようなみっともないことはしてはいけません。

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自我得仏来

法華経の如来寿量品に「自我得仏来」との言葉があります。

読み下しとしては、「我、仏を得てより来」となります。

「私が悟りを得てから」という意味です。

「我」とは、法華経ですから「釈尊」です。

この「自我得仏来」を、日蓮は御義口伝において、より実践的に読み込もうとします。

過去の釈尊のお話として法華経を捉えるのではなく、我々の生き方に活かす捉え方をしようとします。

我を法身如来、仏を報身如来、来を応身如来と捉え、この三身の我仏来は自得なりと言います。

悟り、智慧の境地は、自得するものであるとの指摘です。

自分で得ていく、自分で獲得していくということです。

それも、「自ずから得たり」というように、元々自分自身の中にあるということです。

教えられてどうにかなるものでもなく、助けてもらえるということでもなく、自分から、あらゆる物事を得ていくという姿勢が必要であることを、この「自我得仏来」の言葉から学ぶことができます。

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「開眼」という言葉の意味

「開眼」(かいげん)という言葉の意味を「岩波 仏教辞典」で調べてみますと、「新たに作られた仏像・仏画などを堂宇に安置し、魂を請じ入れること」との説明があります。

所謂、「開眼」と聞くと、大仏開眼ということもあり、この意味を連想することが多いと思います。

今回、注目したいのは、「智慧の眼を開き、仏教の真理に目覚めることをも〈開眼〉という」との説明です。

確かに、仏像・仏画に魂を入れることも重要でしょうが、一番重要なのは自分自身が智慧を持ち、自分の人生に対し本来的に目覚めることでしょう。

自分の外に目覚めを求めるのではなく、自分の中に目覚めを求めていきたいものです。

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「新生」という言葉の意味

「新生」という言葉の意味を「岩波 国語辞典」で確認してみたいと思います。

しんせい【新生】
@ 新しく生まれ出ること。
A 生まれ変わった気持で人生に再出発すること。特に、信仰によって心が一変した状態。

字の通り、新たな人生を切り開くという意味があります。

毎日が新生であるように生きていきたいものです。

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