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2012年10月12日

善因楽果・悪因苦果

日蓮は、「開目抄」において、以下の経典を引用しています。

心地観経に曰く「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」(『日蓮大聖人御書全集』231頁)

前段では、過去において自分がどのような因を積んできたかを知るには現在の果を見つめればよろしいと言っています。

現在の状態を見つめたところ、あまりパッとしない状態、苦しみの状態であることに気付くことがあります。

その結果から過去の因をさかのぼったところ、ターニングポイントとなる過去のある時点に思い至ります。

人それぞれ、人生の岐路がありますが、その時に、してはならない判断ミスをしたために、現在の状態があるということに気付きます。

そう、あの時のあの判断が間違っていたために、それ以降の人生が下降線を辿ったというターニングポイントがあるのですね。

現在の結果をみれば、ごまかしようがありません。

確かに、あの時の判断ミスを未だに引きずっているということがあります。悪因苦果ですね。

しかし、いつまでも人生が下降線では、情けない。

日蓮が引用する心地観経の後段では、未来の結果がどのようなものになるかは、現在の行いによると言っています。

つまり、新たな因、善因を積むことにより、楽しい結果を招来することができます。

善因楽果ですね。

どのような因を積むかによって、結果が変わってきます。

当たり前のことですが、実際に善因を積むとなると、これがなかなか難しい。

しかし、苦果ばかりではつまらないので、心して善因を積む必要があります。

過去は過去としてしっかりと見つめながら、その失敗を糧として、現在の行いを律し、判断ミスをしないよう十分に注意しておきたいですね。

慌てず、焦らず、冷静に物事を判断すべきです。

過去のことを思い出すと、若いときは、慌てて、焦って、混乱状態の中で重大な判断をしていたことがあります。

その判断は、もちろん、間違った判断となっており、苦しみの原因となっておりました。

反省すべきは反省し、楽しい人生を迎えるために、善なる行いとなる努力、精進、訓練、修練を行うことですね。

過去、現在、未来と時間が流れていきますが、ある意味、常に現在を生きているといえます。

心地観経を注意深く読むと「現在を見よ」とのメッセージが読み取れます。

過去がどうだ、未来がどうだといったところで、所詮は、現在次第ですよということですね。

現在の果を確認しながら、過去の因を検証し、未来の楽果のために、現在の善因を積むように努めるという姿勢が大切ですね。

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2012年10月10日

過去の自分は、もう死んでいる!?

日蓮の「妙法尼御前御返事」には、

「先臨終の事を習て後に他事を習べし」(『日蓮聖人遺文』第2巻 1535頁)

との言葉があります。

文字通り、まず、自分の死をどのように迎えるべきなのかをしっかりと把握し、それから、その他のことに進むべきということですね。

目先のことに捉われて、右往左往している場合ではありませんよというメッセージが聞こえてきそうです。

「死」という一番大事な事柄は、何となく生きていると忘れてしまいがちです。

しかし、「死」の問題に真摯に向き合うことなくして、価値のある人生が送れるとは思えません。

やはり、「死」について、しっかりとした自分自身の哲学が必要でしょう。

ただ、将来、必ず訪れる「死」だけでなく、見方を変えれば、違った「死」もあるのではないかと考えるようになりました。

過去の自分は、もう死んでいるのでは、という感覚です。

現在の我々は生きているわけですが、過ぎ去ってしまった自分、過去の自分はどこへ行ったのでしょうか。

ある意味、過去の自分とは、もう死んでしまった存在と捉えることができるような気がしてきました。

戻ることもできませんしね。

確かに現在においては、我々は死んでおらず、生命を保持したまま生きています。

過去から現在に時間が経過するたびに、過去の自分は死に、現在の自分が生きてくるという流れの中に我々は存在しているともいえます。

つまり、時間の経過とは、死んでは生きて、死んでは生きての繰り返しの流れといえます。

そのことを前提に日蓮の言葉を改めて読んでみると、死んでしまった過去の自分の集積をしっかりと把握し、自分はどのような人生を歩んできたかを確認することが大事であるとのメッセージを読み取ることができます。

自分自身の過去を思い返した時に、あまり努力してこなかった人生であったり、いい人に巡り会わなかったという不運な人生であったりという場合、そのことに目をそらさず、直視しなければならないということですね。

その上で、過去における自分の人生の延長線上にしか、今後の自分の人生が切り開かれないわけですから、単なる夢想、単なる妄想、単なる願望といったことは慎むべきであるということが見えてきます。

過去の自分と現在の自分とは、死と生とによってつながっているわけですから、過去の自分が至らぬ存在の場合、相当の努力や運がなければ、今後の人生に展望は開けず、心してかからないといけないということを日蓮の言葉から感じ取ることが重要と思われます。

今までの自分を適正に把握して、それから、将来の展望を描くということですね。

特に、努力してこなかった人、不運であった人にとっては、心を入れ替え、努力しながら、運を勝ち取るといった姿勢が求められます。

そのような姿勢を得ることができたならば、「先臨終の事を習て後に他事を習べし」との言葉を身に付けることができたといえるでしょう。

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2012年09月24日

本の読み方・読書の効用

「僕は、本を最初から読むのではなく瞬間的に開いた頁から読むこともあります。
 現代の脳科学では、学習は必ずしも秩序立てて行う必要はないと考えられています。断片的なインプットを継続して行うことが大切なのです」(茂木健一郎 『「読む、書く、話す」脳活用術―日本語・英語学習法』 PHP研究所 56頁)

私も本をパラパラとめくって気になったところから読み始めることがあります。

ある時は後ろの方から読み始めるときもあります。

変則的な読み方をしてもさほど問題もなく、よく分からない箇所は前の部分を前提としているところであることが多く、その場合は少し前にさかのぼって確認してみると合点がいくということもあります。

気になったところから読むというのがいいようですね。

もちろん、最初から読むこともありますが、いろいろな読み方を許容すると幅がきくでしょう。

つい秩序立ててと考えてしまいますが、茂木さんによると別に秩序立てなくてもよいようです。

肝心なところは続けるということのようですね。

「一冊の本を読んでそこから得られる具体的な情報よりも、むしろ二、三年経ってから思い出すような「無意識に蓄積された影響」こそが、真にその人にとっての貴重な読書体験の成果なのかもしれません」(同書 62頁)

10年以上も前のことになりますが、私がソローの『森の生活』を読んでいたところ、友人が「そんなもの読んでなんになる。何にも変わらない」と言い出したことがあります。

私は、「確かにすぐに何かが変わるということはないだろう。しかし、読んでから10年ぐらい経ったころに何ともいえないものが滲み出るのを期待することはできるだろう」といったことを言いました。

所謂、古典を読むことの効用は、すぐに表れるのではなく、時間をかけて表れてくるように思われます。

私は10年単位で考えていたのですが、茂木さんは2、3年単位で考えているようですね。

ソローの『森の生活』を一読した後、所々、読み返しておりますが、やはり、名著ですね。

その都度、感動があります。10年以上経って、それなりに効用があったように思います。

これみよがしの効用ではなく、しみじみとした効用ですね。

友人が考えていたのは、これみよがしの効用だったのかもしれません。

その観点からすれば、「何にも変わらない」ように見えるでしょう。

しかし、古典とは、単なるハウツーではないわけですから、これみよがしでは意味がないでしょう。

しみじみとした滲み出るものを期待するべきでしょう。

友人がそのことに気付いているのか、今となっては分かりませんが、教養、修練といったものを大切にしない人は、最終的にみすぼらしくなるものです。

ちょっとした心掛けなのですが、努力するのが嫌なのでしょうね。

いずれにしても、気になるところからどんどん読み始め、古典にも挑戦しながら、自分自身の格を確固としたものにしていきたいですね。

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2012年09月15日

相手にしないこと、関わり合わないこと

日々の生活の中で、また、ビジネスの中で、どうでもいいトラブルや、ただ単に絡んでくるだけの人々に苛まされることがあります。

自分自身が引き受けるべき困難や、然るべき難事であれば、立ち向かうべきですし、その困難、難事を乗り越えることによって、人間としての成長も望めます。

しかし、人間としての成長とは何らの関係もないトラブルや人々を相手にしたり、関わり合ったりすると、時間とエネルギーとを奪い取られてしまうだけでなく、自分自身の福徳といったものまで失うことになります。

奪命者、奪功徳者といった悪い影響を及ぼす人々とは、一定の距離感をもって警戒しておく必要があります。

ここで日蓮の言葉を参考にしてみましょう。

「ただ、世間の留難来るとも・とりあへ給うべからず、賢人・聖人も此の事はのがれず」(『日蓮大聖人御書全集』 1143頁)

いろいろな困難、難事があるにしても、いちいち相手にしないで、関わり合わないことであると指摘しています。

また、賢人・聖人といわれるほどの特別な人であっても、世間の留難から逃れられないと言っています。

ましてや、市井の人である我々としては、当然のことながら、日々、トラブルや困った人々に苛まされます。

いちいち相手にして、関わり合っていたならば、自分自身の人生を生き抜く前に寿命が来てしまいます。

奪命者、奪功徳者からすれば、それが目的ですから、毎度、毎度、我々の人生に邪魔を入れてきます。

我々には、つい、相手にしてしまい、関わり合ってしまうという問題点があるように思われます。

苛立たしい気持ちになるわけですから、そのせいで、いちいち反応してしまうのですね。

しかし、この苛立たしい気持ちにさせるのが奪命者、奪功徳者の手口ですね。

ここを見極める必要があります。

このような場合は、冷静に対処するしかありません。

いちいち反応するのではなく、ひと呼吸おいて、一旦、相手との距離を取ることですね。

そして、上手に、相手にしないように物事をもっていくこと、また、関わり合わなくてもよいような流れを作ることですね。

相手にしたり、関わり合ったりしたならば、貴重な時間とエネルギーとがなくなってしまいます。

今まで、何度、時間とエネルギーとを取られたことか、深く反省することが多々あります。

今後は、日蓮の「とりあへ給うべからず」との言葉をしみじみと感じ取りながら、注意深く生きていきたいと考えています。

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2012年09月06日

「諸余怨敵・皆悉摧滅」(法華経 薬王菩薩本事品第二十三)

法華経の薬王菩薩本事品に「諸余怨敵・皆悉摧滅」との言葉があります。諸々の、その余の怨敵を皆悉く摧いて滅した、という意味です。怨敵を全滅させたということですね。

「諸余怨敵・皆悉摧滅」の前後の文章を確認してみましょう。

「善き哉、善き哉、善男子よ、汝は能く釈迦牟尼仏の法の中に於いて、是の経を受持し、読誦し、思惟し、他人の為に説けり。

所得の福徳無量無辺なり。

火も焼くこと能わず、水も漂わすこと能わじ。

汝の功徳は、千仏共に説きたもうとも尽くさしむること能わじ。

汝今已に能く諸の魔賊を破し、生死の軍を壊し、諸余の怨敵皆悉く摧滅せり

善男子よ、百千の諸仏、神通力を以て、共に汝を守護したもう。

一切世間の天・人の中に於いて、汝に如く者無し。

唯如来を除いて、其の諸の声聞、辟支仏、乃至菩薩の智慧、禅定も、汝と等しき者有ること無けん」(梵漢和対照・現代語訳『法華経』下 岩波書店 448頁)

まず、釈迦牟尼仏の法の中ということですから、仏教の中においてと考えればよいでしょう。

その仏教の中において、是の経、つまり、法華経がポイントとなります。

法華経に関して、「受持」、「読誦」、「思惟」、「説く」という四つの行いをする人には、表現不能なほどの福徳、功徳があるといいます。

そのような福徳、功徳により、魔賊を打ち破ることができ、苦悩を克服すると共に、「諸余怨敵・皆悉摧滅」との言葉通り、その他多くのさまざまな怨敵をもすべて粉砕することができるといいます。

このような人には、百千という多くの仏が「神通力」をもって守護にあたってくれるというのですから、心強い限りです。

そして、十界論と関わってきますが、このような人は、人、天、という次元を超え、また、声聞、辟支仏(縁覚)、菩薩を超えるほどの「智慧」と「禅定」があるといいます。

もちろん、如来(仏)を除いてということです。

つまり、法華経と一体化した人格は、仏と同格であり、別格の存在たり得ると読むことができます。

仏法は、声聞や辟支仏や菩薩といった次元に満足するような法ではないのですね。

その名の通り、仏の法ですから、仏、如来の次元を我が身に開いていくことが肝要です。

人生行路は、魔賊、怨敵だらけといってもよいでしょう。

嫌なこと、苦しいこと、辛いことがあった際は、自らの信仰が透徹していることが前提ですが、すかさず、「諸余怨敵・皆悉摧滅」と口にするなり、念ずるなりして、澱んだ雰囲気を一掃することですね。

嫌な気分を長引かせるのは得策ではありません。

せっかく法華経を信仰しているならば、このようなテクニックを駆使しなければなりません。

その上で、百千の仏による「神通力」で守護されているのだという確信を持てば、恐いものなしです。

ある意味、自分の力には限界があります。

多くの仏の生命による守護をいただくという発想は、よいことだと思われます。

そして、仏の生命を湧現させていけば、「諸余怨敵・皆悉摧滅」の前後を含むこの法華経の文を自分のものにしたことになります。

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posted by lawful at 21:46| 法華経並開結

2012年09月05日

「佇まい」「醸し出す」「滲み出る」ということ

志村喬、笠智衆という二人の名優について、高倉健さんは、以下のように綴られています。

「志村さんも笠さんも、お二人とも実際にお会いして、名優の佇まいを肌で感じ取ることができた。個性的な風情と品格をお持ちだった。名優というのは表面的な演技ではなく、生き方から醸し出される深み、渋み、哀しみが画面に滲み出る方のことだと感銘を受けた」(『高倉健 想〜sou〜 俳優生活五〇年』集英社 124頁)

「佇まい」という言葉には、何とも言えない雰囲気が感じられます。

そこに存在するだけで、もう、それでよい、という感じを与えます。

存在そのものが素晴らしく、尊く、価値があるといった感じです。

そして、スマートさをも感じさせます。

名優だけでなく、人間は、「佇まい」を持つべきだろうと思います。

もちろん、一朝一夕にどうにかなるものではありませんが、生涯をかけて、この「佇まい」を体現したいものです。

その上で、「佇まい」に基づいて、何とも言えないものを醸し出し、何とも言えないものが滲み出るという人間になりたいものです。

ある意味、名優の仕事とは、我々に「佇まい」「醸し出す」「滲み出る」というものを明らかに示すことなのかもしれません。

役というのは、ひとつのモデルケースであり、役を演じながら、具体的に「佇まい」というものを見せてくれているのでしょうね。

確かに、「佇まい」といっても、言葉だけでは分かりにくいものです。

そこを名優は自分自身の姿をもって観客に示すのですね。

なかなか大変な仕事です。

天から選ばれた人しかできないことともいえましょう。

高倉健さんは、若いころ、巨匠の内田吐夢監督から

「時間があったら活字(本)を読め。活字を読まないと顔が成長しない。顔を見れば、そいつが活字を読んでいるかどうか分かる」(同書 108頁)

とのアドバイスを受けたそうです。

厳しいアドバイスですね。

顔に出るならごまかしようがありません。

「佇まい」を体現するためには、読書も欠かせません。

いくら「佇まい」といっても、顔がへんてこりんでは、話になりませんものね。

読書から得たものが、醸し出され、滲み出る、そのような人間になりたいですし、なるべきですね。

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posted by lawful at 20:59| 生き方

御義口伝の研鑽(本尊とは何か)

日蓮の御義口伝には、本尊について、以下のように述べられています。

「本尊者法華経行者一身当体也」(『日蓮聖人遺文』第3巻 2672頁)

本尊は、どこか遠くにあり、自分自身と関係ないものと思いがちですが、日蓮の言葉からすると、そのような考え方は大きな誤りということになります。

本尊とは法華経の行者の一身の当体であるということですから、法華経の行者といえるほどの人は、その身そのままが本尊の当体ということになります。

人と本尊とは一体となっているということですね。

法華経の行者ほどの人間であるかどうかがポイントとなります。

ただ単に自分自身が本尊というわけにはいきません。

然るべき精進があって、その上で、法華経の行者にならなければなりません。

自分自身を磨いていく中で、法華経の行者になり、自らが根本的に尊い本尊の当体になることが大事ですね。

自分が本尊ということになれば、特別にパワースポットに行く必要もなければ(もちろん行ってもいいわけですが)、特別な場所で修行しなければならないということもありません(もちろん、してもいいわけですが)。

なんといっても、自分が本尊なのですから、どこに移動しようと、自分のいる場所が尊い場所、浄土になります。

このような仏法でなければ、信仰する意味はないでしょう。

どこそこに行かなければ、功徳がないなどという宗教や、お金ばかり要求する宗教は、そもそも偽物です。

法華経の行者の第一人者とは誰なのかと考えてみると、やはり、日蓮をあげることができます。

この点から、日蓮はその身に本尊を体現した人物です。

その日蓮の言葉を研鑽しながら、自らの信仰を透徹させ、自らも本尊を体現するという姿勢でありたいものです。

間違っても、おすがり信仰になってはいけません。

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2012年09月04日

重須殿女房御返事(十字御書)の研鑽

日蓮の「重須殿女房御返事」(別名:十字御書)を拝してみたいと思います。

「抑地獄と仏とはいづれの所に候ぞとたづね候へば、(中略)我等が五尺の身の内に候とみへて候」(『日蓮聖人遺文』第2巻 1856頁)

よく一般的にも地獄という言葉を使いますが、地獄は自分自身の中にあるということですね。

それと同時に仏も自分自身の中にあると言います。

地獄も仏もどこか遠くにあるのではなく、自分と別の所にあるのではなく、あくまでも自分自身の中にあるというところがポイントですね。

地獄など関係ないなどと思いたくても、そうはいかないようです。

ただ、仏が自分自身の中にあるという側面に着目すれば、元気が出てくるというものです。

仏という生命との縁がないと感じる人もいるでしょうが、それは、気付いていないというだけのことです。

まずは、気付くということが大切です。

「仏と申事も我等心の内にをはします」(同書同頁)との言葉をかみしめたいと思います。

「わざわいは口より出でゝ身をやぶる。さいわいは心よりいでゝ我をかざる」(同書同頁)

口はわざわいのもと、と言いますが、まさにその通りですね。

世の中のトラブルのほとんどが口から発生しているといってもいかもしれません。

悪口等々、口から変なものを発するがために、自分の身を滅ぼすことが多いものです。

注意しすぎても注意しすぎることはありません。

しかし、つい、口から変なものが出てしまう。どうにかしたいものです。

いきなり口から変なものが出てくるのではなく、その人の生命の状態によって、変なものが出てきます。

まずは、仏の生命を自分自身の中に築いておきたいですね。

それ故、心が麗しい人には幸いが舞い込み、自分自身が輝いてくるのですね。

日蓮の言葉は、何気ない言葉のように思われますが、非常に重要なことをさらっと述べています。

ちょっとした手紙でこのようなことが書けるとは、見事なものです。

より深く、研鑽していきたいものです。

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2012年09月03日

日蓮に学ぶ

日々の生活の中で、嫌なこと、腹立たしいこと、気が悪くなること等々、煩わしいことが多いものです。

いつも、怒った状態では身が持ちません。

しかし、怒ってしまう。

さて、どのように対処すればよいのでしょうか。

日蓮の「兄弟鈔」からヒントを得たいと思います。

「設ひいかなるわづらはしき事ありとも夢になして、只法華経の事のみさはぐらせ給べし」(『日蓮聖人遺文』第1巻 933頁)

確かに、鬱陶しいことは多いのですが、鬱陶しくても、面倒なこと、不機嫌になることがあっても、いちいち、思い悩むのではなく、夢にしてしまい、気にしないことだと言っています。

また、鬱陶しいことは気にしなくても、人生にとって重要なこと、就中、法華経のことを気にかけ、思索していきなさいと言います。

法華経とは、経典ではあるわけですが、ただただ、経典を崇めるというのではなく、法華経の内容である自身の中に仏があるということに思いを馳せ、その仏の生命を磨くことが「法華経の事のみさはぐらせ給べし」なのだと思われます。

経典そのものが大事であるにしても、もっと大事なのは、その経典の内容、本質ですからね。

鬱陶しいこととは、実のところ、どうでもいいことの集積です。

そのようなことに時間を使うのではなく、一番の重要事である自分自身の生命を大切にしながら、その生命を磨くことに専念することですね。

この観点からすれば、どうでもいいことに時間を使う愚に気付かされます。

日蓮の生涯には、煩わしいことがたくさん起こりました。

しかし、日蓮は、法華経第一の信念が揺らぐことなく、専一に自身の生命を磨いた人物です。

我々も、及ばずながら、日蓮の如く、精進していきたいものです。

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2012年09月02日

『決断力』 羽生善治

「実は、将棋では、勝ったケースのほとんどは相手のミスによる勝ちである。本当のことだ。拾い勝ちという感じなのだ」(羽生善治『決断力』角川書店 98頁)

勝負事は、勝った方の力が優れているから勝つと考えがちですが、ある一定の水準を超えた者同士の場合、双方の力に差はなく、ミスをした者が負けるようですね。

圧倒的に強い者が勝負をする場合は、相手のミスを待つことなく、強さで捻じ伏せればよいだけです。

しかし、圧倒的に強い者は、世の中に数えるほどしかおらず、そもそも、格が違うわけですから、庶民、市井の人にはあまり参考になりません。

羽生氏の『決断力』によると、トップ棋士同士に実力の差を認めることはできないようで、横一線ということです。

それこそ、しのぎを削っているわけですね。

その中で、熾烈な戦いを行うわけですが、熾烈な割には、相手のミスで勝つというのですから、あっさりした感じを受けます。

そんなものなのですね。

ある意味、ビジネスの世界であっても、人間関係においても、同じようなものなのかもしれません。

人と人との差など大してなく、どんぐりの背比べですから、ミスをした者、失敗した者が負けていくのですね。

では、ミスをしないためには、どうすればよいのでしょうか。

トップ棋士もそうでしょうが、日々の鍛練、精進を行うことでしょうね。

その中で、相手がミスをするより前に自分がミスをしないという粘り強さを身に付けることが大切になってくるでしょう。

ミスをしないとは、自分自身が行わなければならないことを継続して行うことといえるでしょう。

ミスとは、継続して行ってきたことが停止した状態ともいえるわけで、とにかく、継続するということがポイントですね。

そのために、鍛錬、精進、努力、練習を行うのですね。

先日のロンドンオリンピックにしても、よくよく観てみると、ミスをした者が負けていましたね。

ほとんどの競技がそうであったと言ってもいいかもしれません。

もちろん、一部には、圧倒的に強いアスリートがいて、文句なしの金メダリストがいましたが、このような人は、ほんの一握りでした。

常に一定水準のレベルを保つということが大切です。

その水準がその人の格となっていきます。

また、その水準をさりげなく上向きにしていくということですね。

そして、自分自身の格を上げていく必要があるでしょう。

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posted by lawful at 21:32| 雑感

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