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2012年08月21日

国民のレベルが国のレベル

ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』に次の文章が出てきます。

The worth of a State, in the long run, is the worth of the individuals composing it.

では、翻訳を確認してみましょう。

「国の価値は長期的にみて、国を構成する個々人の価値によって決まる」(『自由論』山岡洋一訳 日経BPクラシックス 245頁)

一読したところ、特段、変わったことを言っているわけでもなく、至って当たり前のことを言っているように受け取れます。

しかし、ひとたび、国の政治、経済、社会等々の状態が悪い場合に、あなたの責任ですよと問いかけられると、瞬間的に「違う!」と言ってしまう人が多いのではないでしょうか。

やれ、悪いのは政治家だ、経営者だ、あいつだこいつだと言ってしまうのではないでしょうか。

私は悪くないという言葉が次々と出てきそうです。

ミルの言葉は、当たり前すぎるようですが、極めて辛辣な言葉のように思われます。

ミルの言葉を真に理解するのは難しいようです。

国の状態に対して自分自身が責任を持つという覚悟が必要だからです。

お気楽に人の悪口を言っているようでは、何らの成長も見込めず、社会に害悪、毒素をまき散らすだけでしょう。

真剣に国のこと、社会のことを考えるならば、少なくとも選挙の際、まともな投票行動をするべきでしょう。

そろそろ、あっちフラフラ、こっちフラフラといった投票行動を是正しなければなりません。

長期的に見て、然るべき人間を国会、地方議会に送ることですね。

間違っても、邪悪な人間を送ってはなりません。

所詮は、国民のレベルが国のレベルということですから、自身のレベルを上げながら、注意深く代表者を選ぶことができるようにしておきたいですね。

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posted by lawful at 20:03| 英語

2012年08月20日

奪命者、奪功徳者

特別に悪いことをしているわけでもなく、さりげなく近づいてきながら、人に害悪をまき散らす人がいます。

一見するところ、親しげにしていますが、人の幸せが大嫌いで、人の不幸が大好物という人です。

見た目が極悪人であれば、こちらとしても対応が可能なのですが、本当の悪人は、極悪人の姿とは全く違うものです。

よって、いつの間にか、やられているということがあります。

日蓮は次のように言っています。
「鬼入て人の命をうばふ。鬼をば奪命者といふ。魔入て功徳をうばふ。魔をば奪功徳者といふ」(「木絵二像開眼之事」)

「奪命者」と「奪功徳者」という言葉が出てきました。

さりげない悪人のことをうまく表現しています。

人の命を奪うといっても、殺されるということだけを意味しているのではないと思います。

生命力を減退させられるということも含まれているでしょう。

気分を害されることや、嫌な気持ちにさせられるのも、奪命者の仕業とみてよいでしょう。

また、人の功徳を奪うのもさりげない悪人の得意技です。

「功徳」の意味を、一部分ですが、『岩波仏教辞典第二版』で確認してみましょう。
「善行をなすことにより人に備わった徳性、さらにまた善行の結果として報われた果報や利益の意」

奪功徳者は、善行をなして徳性を得ている人が嫌いなようで、徳性、尊いもの、麗しいものを奪いたくて仕方がないようです。

また、人の果報や利益も気に入らないのでしょう。

さりげない悪人は、どうにかして、この果報と利益を奪おうとして必死です。

「奪命者」と「奪功徳者」というキーワードに接してから、あらゆることが見えてきたように感じられます。

そうか、あの人は「奪命者」であったのか、といった具合です。

さりげない悪人は、どう悪いのかについて言葉で説明するのが難しかったのですが、「奪命者」、「奪功徳者」という言葉を使うとそれなりに正体が明らかになります。

これからは、「奪命者」、「奪功徳者」に気を付けておきたいものですね。

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posted by lawful at 21:51| 御書

2012年08月19日

ピーター・ドラッカー『経営者の条件』強みを生かす

ピーター・ドラッカー『経営者の条件』第4章「強みを生かせ」に重要な言葉があります。まずは、原文で確認してみましょう。

The task of an executive is not to change human beings. Rather, as the Bible tells us in the parable of the Talents, the task is to multiply performance capacity of the whole by putting to use whatever strength, whatever health, whatever aspiration there is in individuals.

続いて翻訳を見てみましょう。

「エグゼクティブの任務は、人間を変えることではない。エグゼクティブの任務は、聖書がタラントのたとえでいっているように、個人のもつあらゆる強み、活力、意欲を動員することによって、全体の能力を増加させることでなければならない」(『経営者の条件』上田惇生訳 ダイヤモンド社 1995年)

昔の翻訳も見てみましょう。

「経営者の任務は、人間を変えることではない。むしろ、聖書が「マタイ伝」二十五章の有名な比喩で人間の天賦の才能浪費をわれわれに戒めてくれているように、われわれの任務は、個人のもっている強みや、健康や、希求を効果的に活用することによって全体の業績達成の能力を生かすことでなければならないのである」(『経営者の条件』野田一夫・川村欣也訳 ダイヤモンド社 1966年)

つい、人間は、他人を変えようとします。

また、変わってくれればよいと夢想します。

しかし、他人は変わらない。

まず、この大事な点を指摘しているところがドラッカーの慧眼といえます。

自分が変われば、相手が変わるということも言われますが、私の観察するところ、他人は変わりませんね。

自分が変われば、相手が変わるということは、以下のことのように思われます。

自分をAとして、相手をBとします。

自分Aが変わった場合、相手がCに代わるということでしょう。

Bが変わるのではなく、BがCに代わるということですね。

自分が変わるとくだらない人間から解放され、然るべき素晴らしい人間との付き合いがはじまるということであり、環境が変わるといってもいいかもしれません。

ともあれ、他人は変わらないわけですが、ドラッカーからすれば、別に変わらなくてよいのですね。

どのような人間であれ、強みがあるだろうとの前提のもと、その強みを生かすのがエグゼクティブの仕事と指摘しています。

ただ、強みがあるのだろうかと疑われる程のとんでもない部下を抱えたエグゼクティブの場合、ドラッカーの言うとおりに事がうまく運びません。

その場合は、自分が変わり、とんでもない部下と決別し、優秀な部下と仕事ができるようにすることでしょうね。

いずれにしても、自分自身を含め、他人の強みを生かすことをドラッカーは勧めています。

まずは、他人に対して、変われ変われと念じるのではなく、強みだけを頂くように工夫しなければなりませんね。

これがビジネスなのでしょう。
posted by lawful at 22:23| 英語

直観の大切さ

今までの人生を振り返った時に、つまらない人、邪悪な人と友達付き合いをしていたと反省することがあります。

若いときは、人を見る目もなく、友達だからなどという浮ついた気持ちですから、まんまと邪悪な人間にまとわりつかれてしまったのでしょう。

ただ、初対面の時の第一印象や直観をよくよく思い返してみれば、この人は胡散臭いなあと感じていたことに思い当たります。

実は、直観では分かっていたのですね。

ただ、直観を押し殺し、この人が胡散臭いと思うことがよくないなどと思っていたのでしょう。

「よそ行きの顔しか見せない人と何時間も過ごすより、プライベートな空間をかいま見ただけのほうが、たくさんのことがわかる場合もあるのだ」(マルコム・クラッドウェル『第一感 「最初の2秒」の「なんとなく」が正しい』 沢田博・阿部尚美訳 光文社 42頁)

この指摘は、重要です。

確かに、学識がある様に法螺を吹いていた人の部屋に行ったことを思い出しますと、貧弱な本棚でした。

あまりの貧弱さにあきれ果てたものです。

量だけでなく質も大したことがありませんでした。

当初は分からなかったものの、途中から気付きはじめ、部屋を見れば、完全に分かるということですね。

また、部屋が汚く、整理整頓がなされていない部屋の人は、やはり、そのような人でしたね。

外面(そとづら)はどうにかごまかせても、プライベートな空間である自宅の部屋はごまかしがききません。

いつも他人のプライベートな空間をかいま見ることはできませんから、直観を頼りに人を見る目を養っていきたいですね。

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posted by lawful at 21:23| 雑感

英語習得のための時間は、3000時間?

ネットでいろいろ検索してみますと実用的な英語をマスターするための時間としては、3000時間が必要だそうです。

「外国語学習に必要な最低限の時間は、週平均10〜12時間なのです」(ロンブ・カトー『わたしの外国語学習法』米原万里訳 ちくま学芸文庫 68頁)といわれていることから、1日の学習時間として2時間は欲しいところです。

そうしますと、3000時間の学習時間に到達するためには、約4年かかります。

約4年いうことですから、1日2時間の濃密な英語学習を続けた場合、次のリオデジャネイロオリンピック開催までには英語が習得できるという計算が成り立ちます。

この3000時間に中学・高校・大学での英語の授業時間を含めることもできるでしょうが、英語の授業が濃密な時間であったかというと、決してそうではなく、ダラダラしたものであったように記憶しております。

また、真剣に授業を受けたときもあったにしても、ボーっとしている時間も多かったことでしょう。

今までの英語学習の時間が仮に500時間から1000時間あったとしても、この時間は勘定に入れず、地ならし、アイドリング程度に考えておくのがよいでしょう。

これからの英語学習で3000時間を目指すのがすっきりした態度のように思われます。

それも濃密な学習で3000時間という点が重要でしょうね。

英語を学習するに際して、英語そのものの習得だけでなく、英語を習得する中で日本語を客観視する視点、相対的に見る視点を得て、より一層、日本語に磨きをかけるという意識を持っておきたいですね。

英語を学習することにより、日本語の力をも付けていくことが重要でしょう。

また、全く違う言語体系を身に付けることにより、全く違う思考回路ができてくるでしょうから、新たな自分自身を発見することも期待できます。

視野が広がると言い換えてもいいかもしれません。

ただ単に英語ができるという点だけであるならば、3000時間はあまりにも長く、そして、辛いものです。

しかし、普段は母国語であるため意識にのぼることがほとんどない日本語を意識し、改めて日本語を学び直すという視点や、物事を観る幅を広げる契機として英語学習を活用していくならば、価値があるでしょうし、そもそも楽しくなると思います。

やはり、3000時間の英語学習は大変ですが、何かを身に付けるには然るべき時間が必要ですから、しっかりと精進したいものです。

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posted by lawful at 20:37| 英語学習

精進

努力することを別の言葉で精進すると表現することがあります。

精進の意味として、「ひたすら努力すること」(『使い方の分かる類語例解辞典』小学館)と説明されているところからもそれはうかがえます。

精進をするにあたって、ただ単に努力すればよいというわけではないと思います。

努力がピントはずれであったり、方向性が間違っていたり、意味のない価値のない努力をしてしまったりと問題点も多くある様に思われます。

精進、努力をしても、なかなかうまくいかないという場合、根本的な間違いがあるといえるでしょう。

では、精進とは何なのか。智(天台大師)の言葉(「摩訶止観」)から探ってみましょう。

「二辺を雑へざるを精と為し、任運に流入するを進と為す」(『国訳一切経 (和漢撰述部 諸宗部 3)』大東出版社 149頁)

精進の「精」と「進」との字について、それぞれの意義を明らかにしています。

まず、「精」ですが、あっちこっちとフラフラするのではなく、一点に集中することを「精」としています。

焦点を定めると言い換えてもいいかもしれません。

「進」は、運の流れに入っていくこととしています。

ここでいう運とは当然のことながら福運や運があるというときの運ですね。

努力そのものがすべて意味のある価値のある方向に進むということですね。

まとめると、為すべきことに焦点をしっかりと定めて、エネルギーを集中させながら、努力がそのまま福運のある方向に進み無駄がないというのが本来的な精進の意味といえるでしょう。

進む方向が運のある方向というのがポイントですね。

人生において、努力も重要だが、所詮は運次第という側面がありますが、智の解釈からすれば、努力、精進と運とはつながっていたのですね。

別々のものと捉えることがそもそもの間違いといえるでしょう。

運のある人生を切り開くために努力、精進があるのであり、運のある人生を切り開けない努力、精進とは、偽物の努力、精進にしか過ぎないということですね。

本物の精進をして自身の運のある人生を切り開いてきたいものです。

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posted by lawful at 15:45| 摩訶止観

1万時間

何事においてもトップクラスの実力を付けるには、それなりの時間が必要です。

では、少なくとも何時間が必要なのでしょうか。

「頂点に立つ人物は他の人より少しか、ときどき熱心に取り組んできたのではない。圧倒的にたくさんの努力を重ねている。
複雑な仕事をうまくこなすためには最低限の練習量が必要だという考えは、専門家の調査に繰り返し現れる。それどころか専門家たちは、世界に通用する人間に共通する“魔法の数字”があるという意見で一致している。つまり一万時間である」(マルコム・クラッドウェル『天才!成功する人々の法則』勝間和代訳 講談社 47頁)

「1万時間」という数字が出てきました。

先達てのロンドンオリンピックから考えてみても、オリンピックでメダルを獲得する選手たちの累計練習時間は、当然の如く、1万時間を超えているでしょう。

もっと言えば、オリンピックに出場する選手はすべて1万時間以上の練習をした人々であり、その中でメダルを競っているということでしょうから、オリンピックとはとんでもない世界ですね。

感服します。

いずれにしてもひとかどの人間になるためには「1万時間」が必要ということは、はっきりしました。

あとは行動、実践あるのみですが、これがなかなか難しい。

そもそも「1万時間」は、24時間で割った場合、何日になるのか計算したところ、約417日となります。

大雑把に言えば、1年2ヶ月ですね。

もちろん、実際の練習や研鑽に関しては、1日でできる時間は限られますから、仮に1日3時間の練習や研鑽を毎日続けた場合、「1万時間」に到達するには9年から10年かかります。

実の濃い3時間の練習や研鑽を9年から10年行うことは大変なことですね。

「一万時間とは途方もなく膨大な量の時間だ。一〇代の後半までに、自分だけの力で一万時間をクリアすることは、ほぼ無理である。両親の励ましや支えが必要になる。貧しい家庭では難しい。家計を助けるためにアルバイトをしていれば、練習時間が十分に取れないからだ。事実、たいていの人が一万時間に達するためには、特別なプロジェクトに恵まれた場合(代表チームに選ばれるなど)か、並外れた好機に恵まれた場合に限られる」(同書 49頁)

10代の後半までに1万時間に達するには、上記の指摘のように恵まれた環境が必要です。

オリンピック選手など上記の指摘の通りですね。

普通の人、市井の人であり、とっくの昔に成人している我々としては、オリンピック選手の1万時間を超える練習量、努力に学びながら、自分なりの1万時間の練習なり研鑽を積む必要があるでしょう。

仮に1日3時間と考えた場合、10年単位でのプロジェクトとなります。

幸い、年を取ってからの10年などあっという間です。

ただただ、オリンピック選手の如く、黙々と研鑽することですね。

「1万時間」という数字には、安易な考えを吹き飛ばす力がありますね。

為すべきことを為す、ということが大切ですね。

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posted by lawful at 04:01| 雑感

2012年07月23日

ハマトンの『知的生活』に学ぶ

『知的生活』の著者であるハマトンは、not so much ( ...) as ... という構文を使って文章を紡ぐのが好きなようですね。

(…)ではなくてむしろ… という意味です。

まえがきにある文章を確認してみましょう。

So that, however circumstances may help us or hinder us, the intellectual life is always a contest or discipline, and the art or skill of living intellectually does not so much consist in surrounding ourselves with what is reputed to be advantageous as in compelling every circumstance and condition of our lives to yield us some tribute of intellectual benefit and force.

日本語訳を確認しましょう。
「つまり境遇というものがいかにわれわれの助けとなれ、あるいは妨げになろうとも、知的生活というのは常に一種の戦い、あるいは訓練なのであって、知的に生活する技術というのは身近に有利な環境を整えることと言うよりは、むしろ日々の暮らしにまつわる諸々の事情や制約にすべて打ち克ち、そうすることによって知性を豊かにし、強靱にすることだということです」(『知的生活』渡部昇一・下谷和幸訳 講談社 1979年 8頁)

知的生活というと物静かなイメージがありますが、ハマトンの言う「知的生活」は、動的な、ダイナミックな、躍動した感じを与えます。

書斎があってゆっくりとくつろぐというよりは、どのような困難な境遇であれ、知的に生きていくために労力を惜しまないといった力強さが感じられます。

「戦い」「訓練」「打ち克つ」というどちらかというと荒々しい言葉で「知的生活」を語っています。

その上で、知性を豊かにし、強靱にするということですから、ほとんど、肉体的な事柄を言っているとみてもよいでしょう。

知性は肉体的でなければありえないということと理解してよいと思います。

知性の捉え方が変わる力強い文章ですね。

続いて次の文章もあります。

Intellectual living is not so much an accomplishment as a state or condition of the mind in which it seeks earnestly for the highest and purest truth.

「知的に生きるということは、なにかを成し遂げることであるよりは、むしろ、最も高邁でかつ純粋な真理を熱烈に求めることなのです」(同書 9頁)

知的に生きていく中で、何かを成し遂げ、有名になりたい、偉そうにしたい、尊敬されたい等々、さまざまな感情や虚栄心が出てくると思われますが、ハマトンによりますと、そのようなことは知的に生きることとは全く関係なく、ただただ真理を求めるのが知的な生き方と教えています。

求道心と言い換えてもいいかもしれません。

知的な生活とは、豊潤で強靱な肉体的側面を外しては存在し得ず、また、真理を求める心そのものの中に存在するということですね。

ハマトンから知的な生活を学び、自らの知性を鍛えてきたいと思います。

なお、書籍は手に入れやすい文庫版をご紹介します。以下のとおりです。

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posted by lawful at 20:58| 英語

2012年07月04日

ヨゼフ・ルクル・フロマートカ『神学入門』

「私が聖書を読んで文法的、言語学的に理解しても、文字の裏にある現実はまだ理解していない」(ヨゼフ・ルクル・フロマートカ『神学入門』平野清美訳 新教出版社 177頁)

聖書を読んで、文字の上で理解することは可能であり、それほど難しいことではないといえます。

日本の場合、重要な書籍のほとんどは日本語に翻訳されており、また、翻訳も数種類あるという豊富さです。

聖書の翻訳もたくさんあります。

しかし、宗教書となると、言葉や文法といった次元を超えた何ものかがありますので、何がしらのものを掴もうと思えば、言葉の背後にあるもの、言葉の底にあるものを体感する必要があります。

「あなたは論理的、釈義的、文法的に完璧な形で聖書を知ることはできるが、それでいて、聖霊の内的証言(testimonium Spiritus sancti internum)が加わらない限り、実際の現実は遠のいたままなのである」(同書 178頁)

フロマートカは、「聖霊の内的証言」がなければ何事も把握できないと言っています。

人智を超えたものが必要ということですね。

宗教書だけでなく、宗教以外の分野の書籍にしても、書かれた言葉の背後にあるもの、底にあるものを捉える癖を付けておいたほうがよさそうですね。

何となく分かるという次元を超え、確実に分かるという次元に至ることが重要と思われます。

また、自らの体で実感し、生命全体で対象と一体化するということも肝要でしょう。

人との会話、対話においても、その人の言っている言葉だけに囚われるのではなく、その人の真意を把握する必要があります。

もっと言えばその人が意識的には考えていないけれども、その人の無意識の次元で存在している真意を把握できるほどの鋭さを具えておきたいですね。

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2012年07月01日

鳩摩羅什訳の「妙法蓮華経」

法華経の漢訳において、最高の評価を得ているのが鳩摩羅什訳の「妙法蓮華経」です。

鳩摩羅什ひとりで翻訳したのではなく、多くの僧や士大夫の協力の上で成立しているようです。

「音韻の面からも十二分に検討がなされた上で、鳩摩羅什を訳主として、中国の多くの僧・士大夫等がその訳場に参集し、梵語あるいは亀茲語で記されていたという『妙法蓮華経』を、推敲に推敲を重ねて漢語に訳出したであろうことが、想像されるのである」(伊藤丈『仏教漢文入門』大蔵出版 164頁)

読誦することも念頭に置きながら、翻訳されていたようですね。

経典は内容もさることながら、音声においても心地よくなければ人々に親しまれることはないでしょう。

その意味から、「妙法蓮華経」は見事な翻訳といえます。

中国においても天台智は、「妙法蓮華経」を基に「法華文句」「法華玄義」「摩訶止観」を講義し、日本においても、平安時代から「妙法蓮華経」は親しまれていました。

鎌倉時代に至っては、日蓮により「妙法蓮華経」が最高の経典であることが強調され、現在に至るまで法華宗、日蓮宗により、「妙法蓮華経」は大切にされています。

伝統仏教教団だけでなく、新宗教の教団においても、法華系が大きな勢力となっており、「妙法蓮華経」は多くの人々に影響を与え続けています。

日本を再認識する際、「妙法蓮華経」を外すわけにはいかないといえるでしょう。

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posted by lawful at 17:24| 法華経並開結

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