「僕は、本を最初から読むのではなく瞬間的に開いた頁から読むこともあります。
現代の脳科学では、学習は必ずしも秩序立てて行う必要はないと考えられています。断片的なインプットを継続して行うことが大切なのです」(茂木健一郎 『「読む、書く、話す」脳活用術―日本語・英語学習法』 PHP研究所 56頁)
私も本をパラパラとめくって気になったところから読み始めることがあります。
ある時は後ろの方から読み始めるときもあります。
変則的な読み方をしてもさほど問題もなく、よく分からない箇所は前の部分を前提としているところであることが多く、その場合は少し前にさかのぼって確認してみると合点がいくということもあります。
気になったところから読むというのがいいようですね。
もちろん、最初から読むこともありますが、いろいろな読み方を許容すると幅がきくでしょう。
つい秩序立ててと考えてしまいますが、茂木さんによると別に秩序立てなくてもよいようです。
肝心なところは続けるということのようですね。
「一冊の本を読んでそこから得られる具体的な情報よりも、むしろ二、三年経ってから思い出すような「無意識に蓄積された影響」こそが、真にその人にとっての貴重な読書体験の成果なのかもしれません」(同書 62頁)
10年以上も前のことになりますが、私がソローの『森の生活』を読んでいたところ、友人が「そんなもの読んでなんになる。何にも変わらない」と言い出したことがあります。
私は、「確かにすぐに何かが変わるということはないだろう。しかし、読んでから10年ぐらい経ったころに何ともいえないものが滲み出るのを期待することはできるだろう」といったことを言いました。
所謂、古典を読むことの効用は、すぐに表れるのではなく、時間をかけて表れてくるように思われます。
私は10年単位で考えていたのですが、茂木さんは2、3年単位で考えているようですね。
ソローの『森の生活』を一読した後、所々、読み返しておりますが、やはり、名著ですね。
その都度、感動があります。10年以上経って、それなりに効用があったように思います。
これみよがしの効用ではなく、しみじみとした効用ですね。
友人が考えていたのは、これみよがしの効用だったのかもしれません。
その観点からすれば、「何にも変わらない」ように見えるでしょう。
しかし、古典とは、単なるハウツーではないわけですから、これみよがしでは意味がないでしょう。
しみじみとした滲み出るものを期待するべきでしょう。
友人がそのことに気付いているのか、今となっては分かりませんが、教養、修練といったものを大切にしない人は、最終的にみすぼらしくなるものです。
ちょっとした心掛けなのですが、努力するのが嫌なのでしょうね。
いずれにしても、気になるところからどんどん読み始め、古典にも挑戦しながら、自分自身の格を確固としたものにしていきたいですね。