「先臨終の事を習て後に他事を習べし」(『日蓮聖人遺文』第2巻 1535頁)
との言葉があります。
文字通り、まず、自分の死をどのように迎えるべきなのかをしっかりと把握し、それから、その他のことに進むべきということですね。
目先のことに捉われて、右往左往している場合ではありませんよというメッセージが聞こえてきそうです。
「死」という一番大事な事柄は、何となく生きていると忘れてしまいがちです。
しかし、「死」の問題に真摯に向き合うことなくして、価値のある人生が送れるとは思えません。
やはり、「死」について、しっかりとした自分自身の哲学が必要でしょう。
ただ、将来、必ず訪れる「死」だけでなく、見方を変えれば、違った「死」もあるのではないかと考えるようになりました。
過去の自分は、もう死んでいるのでは、という感覚です。
現在の我々は生きているわけですが、過ぎ去ってしまった自分、過去の自分はどこへ行ったのでしょうか。
ある意味、過去の自分とは、もう死んでしまった存在と捉えることができるような気がしてきました。
戻ることもできませんしね。
確かに現在においては、我々は死んでおらず、生命を保持したまま生きています。
過去から現在に時間が経過するたびに、過去の自分は死に、現在の自分が生きてくるという流れの中に我々は存在しているともいえます。
つまり、時間の経過とは、死んでは生きて、死んでは生きての繰り返しの流れといえます。
そのことを前提に日蓮の言葉を改めて読んでみると、死んでしまった過去の自分の集積をしっかりと把握し、自分はどのような人生を歩んできたかを確認することが大事であるとのメッセージを読み取ることができます。
自分自身の過去を思い返した時に、あまり努力してこなかった人生であったり、いい人に巡り会わなかったという不運な人生であったりという場合、そのことに目をそらさず、直視しなければならないということですね。
その上で、過去における自分の人生の延長線上にしか、今後の自分の人生が切り開かれないわけですから、単なる夢想、単なる妄想、単なる願望といったことは慎むべきであるということが見えてきます。
過去の自分と現在の自分とは、死と生とによってつながっているわけですから、過去の自分が至らぬ存在の場合、相当の努力や運がなければ、今後の人生に展望は開けず、心してかからないといけないということを日蓮の言葉から感じ取ることが重要と思われます。
今までの自分を適正に把握して、それから、将来の展望を描くということですね。
特に、努力してこなかった人、不運であった人にとっては、心を入れ替え、努力しながら、運を勝ち取るといった姿勢が求められます。
そのような姿勢を得ることができたならば、「先臨終の事を習て後に他事を習べし」との言葉を身に付けることができたといえるでしょう。
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